世界史講義録
  
第35回 安史の乱と唐の変質

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安史の乱
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 755年、安史の乱(あんしのらん)が勃発します。
 反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前をつないで安史の乱とよばれます。

 安禄山は現在の北京の北方を守備する節度使(せつどし)の長官でした。

 ここで、節度使の説明をしておきましょう。唐の兵制は府兵制だったのですが、玄宗の時代くらいからこれがうまく機能しなくなってくる。均田制そのものが形骸化してきたのだろうと思われます。そうなると兵士も集められなくなるのです。羈縻政策もうまくいかなくなってきました。
 そこで辺境防衛のために新たにつくられたのが節度使という軍団です。兵士は府兵制のような徴兵ではなくて募兵です。お金で雇った傭兵ですね。そして、軍団の司令官は管轄地域の民政もおこないます。自衛隊の地方駐屯隊の司令官が県知事を兼ねるようなものです。国境を守るためにはこの方が機敏に対応できるのですね。ちなみに節度使の長官のことも節度使といいますから注意。
 玄宗の時代には北方の国境地域を中心に十の節度使が設けられていました。

 安禄山という男は父親がソグド人、母親は突厥人だという。ソグド人というのは中央アジアを中心に活動していたイラン系の商業民族です。
 そういう育ちもあってか安禄山は六カ国語が自由に操れた。若いときから現在の北京方面にあった節度使の部下になって通訳として勤務していたらしい。辺境地域ですからいろいろな民族と接触する機会が多かったのだろう。
 安禄山という名前は「アレクサンドロス」の音を漢字にしたという説もあります。これは、多分こじつけですが面白いので紹介しておきます。

 この安禄山、すごく機転がきいて人の心をつかむのが上手だった。それで軍団の中でどんどん出世していくのです。唐は人種、民族関係なしですからね。

 出世するために何をしたのかというと楊貴妃に取り入ったのです。最初は贈り物を届けたりしたのでしょうが、やがて楊貴妃の部屋に入り込んだりする。すっかり気に入られて養子気取りです。楊貴妃に気に入られれば当然玄宗皇帝に取り立ててもらえます。
 ついには玄宗にも気に入られる。

 安禄山はものすごく太っていた。ところが運動神経は抜群で玄宗の前で軽快なステップを踏んでクルクル回って踊ったりする。その体型と踊りのアンバランスがいかにもおかしかったらしい。玄宗に大うけ。ご機嫌の玄宗が「お前のそのでっかい腹の中には何が入っているのか」ときくと、安禄山は「この腹の中は陛下への真心でいっぱいでございます」なんて答えるのですな。

 そんなこんなで最終的には、北方の三つの節度使の長官を兼ねるまでになる。

 そこまで出世してなぜ反乱をおこしたのか。

 実は同じように楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物がいた。
 楊国忠です。名前からもわかると思うけど、この人は楊貴妃の「またいとこ」です。幼なじみですからね。こちらもスピード出世して宰相になります。
 安禄山はこの楊国忠と滅茶苦茶仲が悪い。二人とも実力ではなくおべっかで出世しているわけで、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転がり落ちる運命。玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。

 楊国忠は宰相として常に皇帝のそばにいる。ところが、安禄山はいつも玄宗や楊貴妃のそばにいてご機嫌伺いをしているわけにはいかない。勤務地は辺境ですから。節度使の仕事もしなければね。
 都を離れると安禄山は気が気ではない。自分がいないあいだに楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。

 心配しているうちに安禄山は気がついた。自分は三節度使を兼任して唐帝国全兵力の三分の一を握っている。玄宗に嫌われるのをビクビク恐れる必要なんか全くない。この兵力をもってすれば自分自身が皇帝になることだってできる、と。

 そんな事情で挙兵するのです。玄宗皇帝の情実に流された人材登用のつけが一気に爆発した感じです。
 そもそも節度使は辺境防衛のためにおかれた軍団です。その軍から国を守る軍があるはずがない。反乱軍は無人の野を行くように進撃をつづけた。率いる軍勢は15万。
 すぐに洛陽を占領、翌年には長安も占領しました。

 玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れます。四川省に向けて落ちのびるのですが、逃避行の途中でかれらを護衛する親衛隊が反抗する。安禄山の反乱は楊貴妃のせいだ、と言うのです。この女に皇帝が溺れて政務をないがしろにしたからこんなことになった。この女を殺せ、と兵士たちは玄宗に迫った。
 兵士の協力がなければ逃げのびるどころか自分も殺されるかもしれません。玄宗は田舎のまちのお寺に楊貴妃を連れ込んで因果を含めて絞め殺させるのです。愛しているのですが、泣く泣く殺す。ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛のクライマックス。

 このあと玄宗は反乱勃発の責任をとって退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。

 唐政府は安史の乱を鎮圧するためウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきた遊牧民族です。国内には安史の乱を鎮圧できる軍事力がなかったんですね。

 一方の安禄山ですが、長安を占領して新政府を建てて皇帝に即位するのですが、その直後に失明する。太っていたから糖尿病だったのかもしれない。おまけに全身皮膚病にかかった。もともと理想や理念があってはじめた反乱ではありません。皇帝になっても政治運営なんかできない。そこへ失明と皮膚病でやけっぱちになる。絵に描いたような暴虐な人間になってしまって、息子に殺されてしまう。その息子は武将の一人史思明に殺されて、以後は史思明が反乱軍のリーダーになりますが、かれも暴れまわるのだけが取り柄の男で、これもその息子に殺される。史思明の息子は反乱軍をとりまとめるだけの力量がなくて、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763)。

 9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。
 安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるようなでっかい石臼を運ぶ部隊です。反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には死体がたくさん転がっている。そこに石臼部隊がゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。
 もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために反乱をつづけているような状態になっているのです。

 華北の荒廃とはこういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。

 反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが都はすっかり変わり果てていたのです。
 唐の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という作品があります。非常に有名な詩なので紹介します。

  国破れて 山河あり
  城春にして 草木深し
  時に感じては 花にも涙をそそぎ
  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす
  烽火 三月に連なり
  家書 万金に抵(あた)る
  白頭 掻(か)けば更に短く
  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

 杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉されます。戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩です。「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、といっているのですよ。戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。そんな意味です。

 大学時代に中国からの留学生と飲む機会があった。日本の高校では国語の時間に漢詩を習うんですよと、とりあえず少し覚えていたこの春望のことを話したら、ワンさん、中国語で朗々と歌うように朗読してくれた。中国語で読むと韻が踏んであるのがよくわかる。耳に心地よいですよ。日本で百人一首を暗記させられるように中国の国語の時間にこういう詩を暗唱するのかもしれませんね。

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唐の政治・社会の変質
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 安史の乱後、唐の政治も社会も大きく変化します。

 まず、唐王朝の力がすっかり衰えてしまった。均田制を維持することができません。
 均田農民は政府の援助が得られずに没落して、小作農になっていきます。小作農のことを佃戸(でんこ)という。
 佃戸が働く農地の所有者が新興地主階級です。かれらは貴族とは何のつながりもない。混乱をチャンスに変えて成長してきた新興層です。

 均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れる。
 かわりに実施された税制が両税法。夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集める。一年二回の徴税なので両税法といいます。
 両税法の献策者が楊炎(ようえん)。受験的にはわりときかれます。
 これ以外にも塩の専売制を強化して国家財政を補いました。

 府兵制が解体して、募兵制に切り替わります。傭兵部隊です。傭兵というのは西洋でも東洋でも質が悪い。中国では良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならないという諺があって、兵士になる奴にろくな奴はいない。まじめに働くことのできないならず者が最後にたどりつく仕事だと考えられていたのです。
 府兵制の兵士は違うんですよ。これは徴兵ですからね、均田農民が兵士になる。農民というのは元来まじめで黙々といわれたとおりによく働く。これを兵士にした府兵は質がいいんです。募兵制の傭兵になってから兵士の質がグンと落ちる。略奪・暴行なんかなんとも思っていない。

 そして、この募兵を率いるのが節度使です。唐朝は安史の乱後、国内にも節度使を置くようになります。節度使が反乱したら別の節度使に鎮圧させるためです。
 国内に多数設置された節度使に任命されたのが、なんと、安史の乱で暴れまわった反乱軍の武将たちなんです。反乱鎮圧後、唐朝は反乱軍の将兵の扱いに困るのです。政府につなぎ止めておかないと、また何をしでかすかわかりませんから。そこで、官職をあたえて各地の節度使やその武将、兵士にした、というわけです。
 こんな節度使ですから、頭から唐の政府なんてなめているわけ。すぐに各地で自立化していって唐の政府の命令は無視するし、税金だって送ってこない。

 ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は比較的唐の政府に対して従順できちんと税金を送ってきた。そのルートが大運河です。唐朝にとって大運河と江南地方が生命線になります。やがてここが唐朝のコントロールから外れる時が唐の滅亡の時となります。

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唐の滅亡
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 安史の乱後、それまでとはまったく異なった税制・兵制で国家の中身はすっかり以前とは違ったものになりましたが、あと100年ほど唐は何とか存続します。

 この唐朝に最後の打撃を与えたのが黄巣の乱(こうそうのらん)(875~84)です。

 黄巣は塩の密売人でした。安史の乱後、塩の専売制は唐の大きな収入源だったので、塩の値段はどんどん上げられていきました。塩は生活必需品ですから誰もが買わざるをえない。庶民の生活を圧迫する。だから塩の値段が高すぎれば当然密売人が現れて、政府価格より安く売って莫大な利益を得るのです。政府としては密売をほっておくと収入減になりますから、必死に取り締まりをします。密売人側もそれに対抗して、各地の密売組織が連絡をとりあって政府の裏をかく。
 最後に唐政府は軍を投入して取り締まりを強化してきた。追いつめられた密売人がおこした反乱が黄巣の乱です。

 黄巣の反乱軍は次から次へと都市を占領して略奪します。一つの都市を食い散らかすと次の都市に向かう。こういうのを流賊というんですが、神出鬼没でどこにあらわれるかわからない。安史の乱では無傷だった中国南部も大きな被害を受けました。全国を荒らしまわって最後は数十万の勢力に成長して長安を占領しました。
 このときに黄巣軍は長安にいた南北朝以来の貴族たちをことごとく黄河に放り込んで殺しています。貴族階級に対する庶民の恨みは強かったんですね。これで貴族は全滅したということです。
 黄巣は長安で皇帝に即位します。しかし、そのあとすぐに反乱軍自体が内部分裂で解体していく。

 唐朝は軍事的にはこれを押さえられないので、黄巣の武将たちに寝返って唐側につくように誘います。寝返ったら節度使にしてやるよ、黄巣の部下をやっていても将来はないよ、ってね。「帰順」をうながす、という。
 これが、うまくいって有力武将たちが寝返ってくるのです。黄巣は即位後には何をしたらいいかわからなくなるし、部下は寝返るし、敗戦がつづき最後は故郷に逃げ帰って自殺して反乱は終わりました。

 しかし、乱後、唐の政府はまったく形だけのものになります。中国全土に節度使が自立して軍閥化している。
 大運河と黄河の合流点、開封という都市があります。ここの節度使に任命されたのが黄巣の反乱軍から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)という男。907年、朱全忠は唐を滅ぼして皇帝に即位しました。都は開封。国名は後梁(こうりょう)。
 後梁は中国全土を支配するだけの力はありません。黄河流域をかろうじて勢力範囲にしただけでした。
 それ以外の地域にはそれぞれの節度使が自立・建国して中国は再び分裂時代に突入します。

第35回 安史の乱と唐の変質 おわり

こんな話を授業でした

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