世界史講義録
  
第37回 五代から宋へ


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五代から宋へ
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 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

 華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。
 後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。

 それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立。

 この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。各政権の皇帝や王はみな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。その過渡期の混乱。

 新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

 また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。
 しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。
 黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。すべて人民は、同じ身分。

 日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。中国では10世紀にはすでに貴族が消滅している。こういう面で中国はものすごく進んでいる社会です。

 五代最後の後周が宋に替わるのが960年。
 宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封です。

 宋が成立したときにはすでに統一に向けた機運は生まれつつあった。

 宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいました。この人は非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていた。ところが三十代の若さで病死します。代わって即位したのが幼い息子。
 みんなガックリする。また、混乱がつづくのか、というわけだね。唐末以来の長い混乱で情勢は煮詰まっている。平和な世の中をみんなが望んでいる。幼い皇帝ではこういう期待に応えられない。
 軍人たちも無能な皇帝に仕えていてろくな事はないですから、幼い皇帝を喜ばない。

 趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もありますが、新皇帝のもとで親衛隊長をしていた。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。
 都の北方で宿営していたらかれのもとに部下の将校たちが押しかけてきて迫った。
「幼い現皇帝では混乱が起きる。あなたが皇帝になってください。」
 趙匡胤は親衛隊長として反乱なんてできないと断るのですが、部下たちは強引で断りつづけたら自分は殺されるかもしれない。そういう雰囲気だった。そこで、やむなく皇帝になると約束しました。部下たちは喜んで黄色の服を持ってきて趙匡胤に着せた。黄色は皇帝の象徴なのです。

 そんなわけで、趙匡胤はいやいやながら皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪いました。こうして宋は建国された。

 これは、宋の成立したあとに作られた記録だから、本当に趙匡胤がいやいや皇帝になったかどうかはわからないんですが。はじめからそういう段取りを部下たちとつけていたのかもしれない。
 しかし、それにしてもそういう芝居なら人民が納得する状況だったのです。

 これはおまけの話ですが、宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。宋の時代に後周皇帝家はずっとつづいている。「水滸伝」には豪傑の一人として後周皇帝の末裔が出てくるんですよ。
 後周以外にも、宋が全国統一するときにすすんで降伏してきた十国の君主たちも同じように丁重な扱いを受けます。
 戦乱を終わらせる、余分な血を流さない、という民衆の願いを、宋の支配者は自覚しているようですね。

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宋の基本政策
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 趙匡胤は宋の太祖ともいいます。かれの時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝の時です(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)です。こちらは宋の太宗と呼ばれるほうが多い。

 この兄弟が宋の基礎を固めた。

 宋の政治方針は漢字四文字で覚える。「文治主義」です。

 「文」の反対語は何かわかりますか。この場合は「武」です。文治というのは武力ではなく「文の力」で治めることです。

 具体的には、節度使の権限をどんどん削っていく。地方の軍も弱体化させる。兵士を急に減らすと、失業兵士が賊になってしまうかもしれませんから、急には減らさない。そのかわり新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとってお爺さんになるわけだ。これでは戦力としては役に立たないのですが、政府はかれらに地方都市の城壁の修理とか橋や堤防工事などをさせる。こんなふうに地方軍を骨抜きにしていきます。

 かわりに皇帝直属の軍、「禁軍」というのですが、これを強化します。

 軍人の力を削って、かわりに文人官僚による行政機構を整備します。多くの文人官僚を採用するために科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験がおこなわれた。
 「選挙」という名で隋の時代からはじまって、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。
 なぜかわかりますね。この時代に貴族階級がいなくなっているからです。すべての官僚が科挙によって選ばれるのですから。

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科挙
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 宋代の科挙を簡単に見ておきます。
 科挙は誰でも受験することができます。年齢、出身地関係なし。女性はダメですけれどね。
 試験は三年に一回。
 三段階の試験があります。最初が郷試、これは地方試験。合格したら都で二次試験を受けることができる。これを会試という。
 会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試。これは宋代からはじまった。皇帝自身による面接試験です。宮殿でおこなうから殿試だ。

 官僚になれば一族みんなが潤うような財産と権力とが手に入る。一番で合格すれば将来の大臣は約束されたようなもの。

 一旗揚げようという血気盛んな者達は、腕力にものをいわせるんではなくて机に向かって勉強するようになる。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚になってしまったほうが話が早い。

 そういう意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝します。これは科挙を受けるように勧める歌です。

 「金持ちになるに良田を買う要はない。
  本のなかから自然に千石の米がでてくる。
  安楽な住居に高殿をたてる要はない。
  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。
  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。
  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。
  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。
  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。
  男児たるものひとかどの人物になりたくば、
  経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」
         宮崎市定「科挙」中公新書より

 窓口に向かって、というのは、昔だから、照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから暗くなっても勉強しろ、ということですね。

 この歌は太宗趙匤義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だったわけです。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は必死に受験勉強させます。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合っていい先生のところに入門させて科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのだから、プレッシャーも大きい。現在の受験勉強とは比較にならないでしょうね。
 優秀な人だと十代で合格する場合もあるし、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいました。

 合格率はどれくらいかというと、これは17世紀はじめくらい明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、それに対して殿試合格定員が300人程度です。すごい高倍率。

 どんな試験をするのか。
 論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて論述です。
 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか。 儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなんです。詩を書かせるのは文化人としての教養をみることです。
 つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強いように思われます。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがある。
 だから、字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書くんですよ。しかも、清書用紙を墨で汚したりしたらまず不合格だ。緊張します。

 しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験します。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのです。資料集には想像図がありますね。
 なかには、緊張にたえきれずに発狂する受験者もいたようです。

 合格するためにカンニングをする者もでるんだ。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書くときにそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするのかというところが勝負所です。
 だから、合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが採点する担当者を買収することです。高い点数をつけてもらう。
 政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。
 まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官がだれの答案かわからないように。

 みなさん、高校受験の時、答案用紙に名前を書いたかどうか覚えていますか。書かなかったでしょ。受験番号だけだったね。教師のなかには受験生のことを知っている人もいる。ついつい、甘くなったりするかもしれない。そんなの困りますからね。名前を書いてはいけないことになっている。

 ついでに言うと、わたしたち教員が試験が終わったらすぐに採点をするんですが、採点するときには、受験番号も見えないようにくくってあるんですよ。当然ながら全教員が一室に集まって一斉に採点する。必ず複数で答案をみる。また、答案をその部屋から持ち出すことはできません。間違っても教師が不正しないように、ですね。

 高校入試ですらこうですから、国家の指導層を選ぶ科挙ではさらに不正対策がとられている。
 受験者の名前を隠すだけでは足りません。受験者の筆跡で誰かわかる場合がある。何しろ筆で答案書くんですから個性がハッキリでがちです。筆跡をわからなくするために受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写すの。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。
 ここまでやると、不正はできないと思うでしょう。ところが、まだある。

 どんな手段があるかというと、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておくのです。といっても、どんな問題がでるかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。
 これはもう防ぎようがない。しかし、あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいりますよね。

 そんなこんなの不正をたくらむ輩はいたかもしれませんが、科挙はおおむね公正におこなわれていきます。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて王朝が変わってもずっとつづけられ、20世紀1904年まで科挙はおこなわれたんです。

 宋の時代には科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ、特権を得ました。徭役を免除など簡単にいったら減税ですね。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 宋はこの科挙に象徴されるように文治主義の政治体制をつくりあげていきました。

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科挙―中国の試験地獄中公文庫
宮崎市定著。
科挙に関しては、定番中の定番、古典中の古典。これを読んでいないと、中国ファンとは言えない。世界史の教師としては、ちょっと恥ずかしいかも、というぐらいの本。古本屋へ行けば、絶対にあります。
馮道―乱世の宰相中公文庫 砺波 護 著。五代の時代を生き抜いた宰相、馮道の伝記。日本では無名の人だが、彼の生涯を通じて、一般にはわかりにくい五代の政治史がよく理解できる。

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