世界史講義録
  
第38回 東アジア世界の変動

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高麗
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 唐の滅亡という大変化は当然、周辺の諸民族にも影響を与えます。

 朝鮮半島では新羅が滅んで918年、高麗が成立します(918~1392)。建国者は王建。
 この王朝は文化面で高い成果を残しています。

 まず金属活字を世界で初めて発明した。印刷にもコンピュータが普及している現在では活字というのは死語になりつつありますが、一つひとつの字のハンコを組み合わせてページを印刷する手法です。

 のちにドイツでも発明されてこれが現在の印刷術につながります。一方、高麗で発明された金属活字はやがて消滅します。漢字はヨーロッパの言語と違って字数が多く活字を揃えるのに莫大な費用がかかったため高麗政府の援助がなくなるとともに消えてしまったと考えられます。

 高麗政府は高麗版大蔵経の出版にも力を入れます。大蔵経というのは中国に伝わっていたお経の全集と思ってください。すべてのお経を集めたものです。これは、非常に質が高くて日本の室町時代の守護大名たちが争って買い求めたりしている。
 この大蔵経の版木が今も残っていて、韓国では国宝です。

 高麗青磁という磁器も有名な文物です。

 高麗は中国にならって科挙をおこないました。文官の試験と武官の試験のふたつがあったのでこれに合格した官僚を「両班(やんぱん)」といいました。ただ、この両班は中国とは異なり特権階級化していきました。貴族になるのですね。

 高麗の話はこれだけ。

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契丹
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 現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるのですが、遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。かれらは、唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立する。916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てました。
 建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)という人。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。へんてこな名前でしょ。でも耶律阿保機という名前を見るたびに、私は坂上田村麻呂とか、木下藤吉郞とかの日本の名前も中国から見たら同じようにへんてこなんだろうな、と思います。

 遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げました。そして、しばしば中国北辺に侵入します。

 五代十国時代には中国の燕雲十六州という土地を獲得しています。

 燕雲十六州というのは現在の北京を中心とする地域です。燕とか雲とかいうのは州の名前です。十六の州があったのでまとめて燕雲十六州というのです。ここを遼が獲得した事情を簡単に説明しておきます。

 五代の二番目に後唐という王朝がありました。これを倒したのが後晋ですが、後晋の建国者が石敬塘(せきけいとう、注:「とう」のヘンは王が正しい。文字がでないので土ヘンで代用しています)。かれは後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。
 この時、石敬塘は軍事力が足りなかったので遼に援助を求めたんです。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州です。
 結局、石敬塘は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側です。つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民です。

 これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下あります。

 北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったのですが、それまでの北方民族はすべて、中国の文化に同化していきました。北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは覚えていますね。
 五代の後唐の支配者も突厥系つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちですし、後晋の石敬塘もやはりトルコ系ですが、かれら自身がそのことを意識して行動している節はありません。完全に中国化しているように見える。

 ところが、遼の契丹族はそうではなかった。中国文化に同化することを極力避けようとします。民族の独自性を保とうとする。

 そのためには燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまって、いつの間にか同化してしまうということがありえますからね。そこで、遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離して、両者が混じり合わないようにしたのです。

 遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。
 漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて、州県制によって支配しました。

 このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。
 契丹族は漢字を使うのを避けて、わざわざ民族独自の文字を作った。これが、契丹文字です。字形を見てもらったらわかりますが、漢字の影響を強く受けている。

 日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。

 唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったと言えそうです。

 話を元に戻しましょう。
 燕雲十六州は中国から見れば本来は自分たちの土地です。宋は中国の統一をしたのち、、燕雲十六州を取り返そうと、しばしは遼軍と対決しますが勝てない。
 1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。

 この和平条約を「セン淵(せんえん)の盟」という。

 この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄,遼を弟とすること、両国国境は現状維持、と決められました。

 宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉い、という形ですが、お兄さんの宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならないし、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめる、ということですから、実質的に遼の勝利です。

 これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれました。

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西夏
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 もうひとつ10世紀末から力を伸ばしてきた民族にタングート族がいます。ティベット系の民族です。かれらは牧畜農耕を中心の生活をしていたのですが、唐末から東西交易路を押さえ、勢力を増大させます。中国から中央アジアに至るルート上に建国します。

 かれらの建てた国が西夏(せいか)です。建国者は李元昊(りげんこう)。中国風の名前ですが、タングート族です。きっと別の民族名も持っていたのでしょう。

 西夏は宋と長年に渡って戦争をつづけます。貿易上の利害関係で争うのですが、最終的には1044年、両国の間に和義が成立しました。

 このときに決められた西夏と宋の関係は、宋が君主で西夏が臣下の「宋君西夏臣」関係。
遼との「宋兄遼弟」関係に比べれば宋が大分と偉い。
 だけれども宋が西夏に対して年毎に金品を送ることは遼との場合と同じです。実質的には西夏に軍事力で勝つことをあきらめた宋がお金を払って国境地帯の平和を買っているわけです。

 この西夏のタングート族も独自の文化を発展させようと考えて西夏文字を制定しています。この文字も、やはり漢字をモデルにしているようです。非常に複雑な字形ですね。現在すべて読めるわけではありませんが徐々に解読が進んでいます。

 こうして、宋は契丹族の遼にもタングート族の西夏にも軍事的には勝つことができず、金品を払って平和を維持するという外交政策をとるようになりました。
 もともと宋は文治主義を基本政策として、軍隊を強大化させないという方針でしたから、当然の結果ともいえます。ただ、宋は、軍事的には弱体でも経済的には非常に繁栄していました。だから、平和を金で買う、ということが出来たのです。

第38回 東アジア世界の変動 おわり

こんな話を授業でした

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