世界史講義録
  
第41回  モンゴル帝国の成立


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モンゴル帝国の成立
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 契丹族の遼帝国が金の攻撃によって滅んだ12世紀以降、モンゴル高原には、遊牧民の部族が分立、抗争を繰り返していました。そのたくさんある部族の一つにモンゴル族があった。
 モンゴル人とか、モンゴル高原とか、現在使っている言葉ですが、このときにはそんな意味では使われていないですから注意してください。モンゴル族が遊牧諸部族を統一して有名になってからあとで、つけられた民族名であり、地名です。
 当時のモンゴル部族そのものはたくさんある部族の一つに過ぎません。また、特に有力な部族でもない。

 当時のモンゴル人の様子を南宋の人が書き残しているので見てみましょう。

 「金は三年ごとに兵を遣わして北に向かって討伐をする。これを《減丁》という。
今でも中原(黄河下流地方)の人はこのことをよく覚えている。20年前には山東や河北の家ではみなモンゴル人を買って奴碑としたものだった。彼らはみな金軍が捕えてきたものである。」趙垬(「つちへん」ではなく「王」に「共」が本字)「蒙韃備録」1221年

 金の奴隷狩りの対象になっていたのですね。

 この弱小モンゴル部族を統一するのがテムジンです。やがて、かれはほかの諸部族も統一して分裂していたモンゴル高原の諸勢力をまとめ上げた。1206年、クリルタイで大ハーンの地位につきチンギス=ハーンと名乗ることになった。
 クリルタイというのは遊牧諸部族の族長会議です。ハーンというのは王の称号。チンギスという言葉の意味はわかっていません。

 ここにモンゴル高原の写真があります。現在でも遊牧生活をしている人たちがいる。これはその写真です。実に雄大な風景ですね。草原がどこまでも拡がっている。こんな所にゴロンとひっくり返ってみたいですが、実際行った人によると、この草原の草は非常に硬くてチクチクする、ひっくり返れるようなもんではないそうです。
 まあ、そんなことはどうでもいいんですが、馬が群れているこの横に白いテントがあります。これがゲルというモンゴル人の住居。チンギス=ハーンの時代も同じような光景だったと思います。

 遊牧生活というのは「遊」という字が入っているので、牧草を求めてあちこちをさまよっているようなイメージがありますね。でも、実際は遊牧する場所は、夏営地、冬営地と、集団ごとに決まっていて、季節ごとにテントを持って同じ場所を行ったり来たりするのが基本です。

 モンゴル高原といっても、この写真のようなどこまでも緑の草原が続いている場所ばかりではない。岩がごろごろしている場所もあれば、砂漠に近い場所もある。だから、誰もが少しでも条件の良い場所で遊牧がしたいと思う。しかし、いくつもの集団が条件の良い場所に殺到したら牧草はすぐに食べ尽くされてしまいますから、どうしても良い場所は取り合いになる。
 遊牧社会全体を統率する強大な権力者がいる時代は、争いにならないように集団ごとに牧草地を割り振っていきますが、そうでない時代には、諸集団は常に争いあっています。

 テムジンの少年時代はまさにそういう時代でした。戦国時代といってよいです。

 テムジンの父親イェスゲイはモンゴル族の有力貴族の一人でした。モンゴル族そのものが当時はまとまっていない中で、イェスゲイは配下の集団を増やしてモンゴルの族長の地位を目指していました。強くなればそれだけ、良い牧草地をほかの集団から奪うことができますからね。また強いリーダーのもとには多くの遊牧集団が集まってきます。強い奴に付いていれば自分の安全も生活もそれなりに保証されるというわけです。

 ところが、テムジンの父親は敵対するタタール族のものに毒殺されてしまった。テムジンがわずか9歳の時のことです。
 9歳の子供に集団を束ねることなどできるはずはありませんから、イェスゲイのもとに集まっていた遊牧民たちはテムジン一家を見捨てて、次々に去っていく。

 それでも、テムジンは七人兄弟の長男だったので、9歳にして小さい弟たちと母親を率いる家長として行動することになるのですが、瞬く間にテムジン一家は牧草地から追いやられ、遊牧民でありながら遊牧で生活できないようになります。

 かれらは狩猟採集生活をしながら何とか生きていく。河に入って魚を捕まえたりもしたらしい。「それが、なんだ!」と思わないでくださいね。遊牧民というのは誇り高いの。馬にまたがり草原を疾駆するのがかれらの本来の生活。地べたに這いつくばって、河で魚を捕るなんていうのは、最低の人間以下の暮らし、そういう感覚なのです。
 また、ある時は猟をして鹿をしとめるんですが、獲物の分け合いで兄弟喧嘩になる。なんとテムジンは弟二人をそのときに殺しています。食べ物の奪い合いで兄弟を殺すような生活って想像できますか。

 しかし、そういうぎりぎりの生活を生き抜く中で、テムジンは実行力、決断力、冷静さ、悪くいったら残酷ささえ身につけていく。
 成長したのちは、父親の昔の同盟者などを味方に付けながら、徐々に力を蓄え、モンゴル族を統一し、次にはほかのモンゴル高原の遊牧諸部族を配下に従えて、チンギス=ハーンとなったのです。このときの年齢が40代か50代。どうもはっきりしないのですが、もうすでに若いといえる年齢ではない。当時の感覚では老人に近いでしょう。

 これ以後、かれの支配下に入った遊牧諸部族はすべてモンゴルと呼ばれるようになります。

 遼の滅亡後、百年ぶりにモンゴル高原を統一したチンギス=ハーンは、このあとはものすごい勢いで征服活動をすすめて、支配地域を拡大します。遊牧民のエネルギーというのは一つにまとまると強烈です。

 当時のモンゴル人にとって、もっとも欲しかった地域は、東西交易路です。貿易路を押さえれば遠隔商人たちから莫大な税金をとることができるからね。

 チンギス=ハーンが最初に征服したのが西遼です。遼が滅びるときに、王族の一人耶律大石が中央アジアに逃れて建国した国でしたね。まずはこの西遼を滅ぼした(1218年、正確には1211年に西遼を乗っ取ったナイマン部を滅ぼした)。
 1220年にはイランから中央アジアにかけて領土を持っていたホラズム王国を滅ぼした。これはイスラム教の国です。
 この間に東の金に対しても攻撃を加えています。

 さらに1227年、モンゴルからの援軍要請を断った西夏を滅ぼしますが、この時にチンギス=ハーンは亡くなりました。
 かれの死体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬されたらしいですが、副葬品の盗掘を恐れて何も記念物を作らなかったのです。それどころか埋葬したあと騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消してしまった。
 だから、今もチンギス=ハーンの墓所は不明です。もし、発見されたら大ニュースですね。

 かれが滅ぼして領土に加えた国はすべて東西交易路上にある国です。チンギス=ハーンの業績を一言でいえば、交易路を完全に支配下におき、大遊牧国家の建設に成功した、ということですね。
 この段階でモンゴル帝国と呼んで差し支えないと思います。

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モンゴルの強さ
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 チンギス=ハーンの死後もモンゴルの発展は続くのですが、なぜモンゴル軍が戦争に強かったのか見ておこう。

 チンギス=ハーンは「千戸制」という軍団組織を作り上げた。
 資料を見てみよう。

 「人類始まって以来現在に至るまでモンゴル軍のようなものはかつて存在しなかった。彼らは困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である。それは賃金や封土や収入や昇進めあてではない。……出征に際してはその目的のために必要なすべてのものを点検する。……点呼の時には装備の検閲を受け、少しでも欠けたものがあると責任者は処罰される。……軍隊の召集や点呼の制度が完備しているので徴兵薄や徴兵担当官をおく必要がない。すべての兵士は10人の組に分けられ、その1人が長となって他の9人を指揮する。10人の十戸長から1人の百戸長を選び、100人がその指揮下に入る。1000人で千戸、10000人で万戸を作り、万戸の長をテュメンという。」ジュワイ二ー「世界征服者の歴史1」より

 このように組織化された軍団がチンギス=ハーンの意のままに動いたのです。この千戸制は軍制だけでなく、日常の行政組織でもありました。

 千戸制のシステムによって集められた兵士たちはすべて軽騎兵です。機動力が抜群だった。機動力、わかりますね。簡単に言ったらスピードが速いということ。

 モンゴル兵は一人で五・六頭の馬をつれて従軍する。騎馬軍団が遠征に出かけるでしょ。ずうっと同じ馬に乗り続ければ、馬だって疲れて潰れてしまう。そうすると、兵士はその馬を乗り捨てて予備の馬に乗り換える。こんな風にして次々と馬を乗り換えて行軍しますから、敵の不意をつく速さで戦場に到着して攻撃をすることができた。

 ホラズム王国を攻めた時などは、モンゴル軍から包囲攻撃された都市が、別の都市にモンゴルが侵略してきたぞ、防備を固めろ!と危険を知らせます。知らせを受けた都市が防備を固めようと準備をしていると、もう地平線の向こうからモンゴル軍が迫ってくるのね。軍備を調える余裕さえ与えない。

 乗り捨てられた馬たちはどうなるかというと、馬には鳩や犬と同じように帰巣本能というのがある。放っておけば、勝手に故郷に帰るのです。遠征を終わって兵士が家族の元に戻ってみると馬の方が先に帰っている、という寸法です。

 機動力を高めるためには余分な装備は持たず、荷物をできるだけ軽くした方がよい。また、遠征途中で馬に食べさせる牧草が無くては大変です。だから、チンギス=ハーンに限らずモンゴルの皇帝たちは遠征計画が決定すると、遠征実施一年以上前から遠征予定進路上での遊牧を禁止します。モンゴル帝国のどの家族もその土地で遊牧はできない。
 そうやって遠征軍のために牧草をいっぱい生やしておくのです。

 兵士の装備は次のようなものです。

 革製鎧・兜、太刀・短刀・矢、馬(5~6頭)、手斧、やすり・キリ、釣り針・糸、引き綱、鉄鍋、革袋(水入り)、防寒毛皮マント、テント・敷物、干し肉・チーズ

 兵士たちが日用品を自分で補修しながら遠征している感じが伝わってきますね。

 モンゴル兵の強さの理由を続けましょう。
 千戸制、機動力のほかに挙げるとすれば、モンゴル人の純朴さ、素直さというのがあると思う。いまでも、モンゴル共和国で遊牧生活をしている人たちというのは日本人がとっくに忘れてしまった人の良さ、みたいなものを持っているんだって。感動するくらい素朴な人たちらしい。
 チンギス=ハーン時代はなおさらでしょう。
 素朴で素直と言うことは、兵士としては多分一番の適性ですよ。「前進」と命令されれば、何があってもどこまでも前進する。「殺せ」と命令されれば、とことん殺しまくる。

 しかも、こういう兵士たちがチンギス=ハーンに忠誠心を持つのですから、これに太刀打ちできる軍隊はそうそうない。上の資料で「困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である」ということです。

 まだ、チンギス=ハーンが大勢力を築く前、モンゴル高原の統一を目指していた頃ですが、ある戦いでチンギス=ハーンの首に敵の矢が刺さって、ばったり倒れた。戦いが終わってもかれは昏倒したまま目が覚めない。やがて、吹雪になって雪が降ってきます。矢が急所に刺さっているだけに動かすに動かせない。
 そこにひとりの武将が、自分の服を脱いでチンギス=ハーンの身体にさしかけて一昼夜動かない。
 一日経って、チンギス=ハーンは無事に目覚めるのですが、自分の周りにだけ雪が積もっていない。まだその武将は身じろぎもせずに立っていたという。
 こんなふうに忠義を尽くす武将が山ほどいるのがモンゴル軍です。

 さらに初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊して、その住民を殺しまくった。恐怖の軍隊です。また、その残虐さを強調することで宣伝効果をねらったようです。
 ホラズム攻略ではある都市を降伏させるとその住民すべてを奴隷にして、次に攻略する都市まで引き連れていく。そして、その奴隷たちを攻撃の第一陣として使う。または、攻撃のための土木工事に死ぬまで働かせた。抵抗すれば後ろからモンゴル軍に殺されるので、前進して仲間に対して攻撃を仕掛けなければならない。退くも地獄、進むも地獄です。

 残虐さというのは、敵の抵抗を引き起こすもののようですが、モンゴル軍のように徹底的にあっけらかんと残虐だと、抵抗する気もなくなるものなのかもしれません。
 チンギス=ハーンが晩年に将軍たちを集めて宴会をやった。チンギス=ハーンは将軍たちにたずねました。「人生最大の幸せは何か。」
 将軍たちは「草原で家族に囲まれてのんびり遊牧をすることです。」と答える。
 「それは違う。」チンギス=ハーンは言った。「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ。」

 最後がすごいね。悲しむ顔を見ること、だって。成功したから英雄だけれど、とんでもない人ですよ。身近にいたら絶対に知り合いになりたくないね。

 モンゴル族が対立する部族、ナイマンを滅ぼしたときにナイマン王の金印を見つけたチンギス=ハーンは、それがなんだかわからない。この金印を文書に押すだけで王の命令が全国に行き渡るのだ、と教えられて非常に感心したという話がある。
 また、金国の北部を占領したとき、中国の農民を皆殺しにして農地をすべて牧草地にすれば、たくさんの馬が飼えると喜んだ。それを聞いて耶律楚材という遼の王族出身でモンゴルに仕えていた男が、農民というのは生かしておけば一年に一度たっぷりと税金が取れるのですよ、とチンギス=ハーンに進言します。フーンと思ったチンギス=ハーン、一年様子を見ていたら確かに収穫時にどっと税が入って納得したという。
 ひょっとするとモンゴル人を馬鹿にするために中国人が作った話かもしれませんが、それでも当時のモンゴル人の雰囲気を伝えていると思う。

 要するに、初期のモンゴル人の政治的経験は遊牧社会にしか通用しないものだった。領土を拡大するにともなって、いろいろな統治技術が必要になってくる。だから、民族人種に関係なく有能な人材をどんどん政府の中枢部に組み込んでいきます。耶律楚材もその一人です。
 また、チンギス=ハーン時代のモンゴルの人口は十万戸、七十万人程度だそうです。征服地が増えるにしたがって、モンゴルの千戸制に組み込まれる人々も増えます。近代的な民族意識はまだない時代ですから、新たに組織された人々、政府中央で活躍する人々、それらをすべて含み込んでモンゴルと呼ばれる巨大な集団が形成されていったのです。

【参考図書】
世界の歴史〈9〉大モンゴルの時代 (中公文庫) 杉山正明著
興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫) 杉山正明著

第41回 モンゴル帝国の成立 おわり

こんな話を授業でした

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