世界史講義録
  
第45回  イスラムの発展


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正統カリフ時代
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 ムハンマドが死んでからの時代を正統カリフ時代(632~661)といいます。

 ムハンマドが死んだ時点で、イスラムはアラビア半島を統一して大勢力になっていましたね。この大きな集団を誰が統率するかということが当然問題になる。まず、ムハンマドには跡取りとなる男の子がいなかった。またムハンマドは「最後にして最大の預言者」ですから、かれ以上の宗教指導者は理論上現れることはない。結局、残された信者たちは選挙で自分たちの中から指導者を選ぶことにしました。このようにして選ばれた信者の指導者を「カリフ」といいます。カリフは「預言者の代理人」という意味です。

 ムハンマド死後選挙で選ばれたカリフのことを「正統カリフ」といいます。正しい手続きで選ばれたカリフということです。正統カリフは四人つづき、イスラム共同体を指導したこの時代を「正統カリフ時代」というわけです。

 最初の正統カリフがアブー=バクル、二代目がウマル、三代目がウスマーン、四代目最後の正統カリフがアリーです。最後のアリーだけはしっかり覚えておいてください。

 さて、この正統カリフ時代はアラブ人の大発展が始まります。それまで、部族対立でバラバラだったアラブ人がイスラムによって一つにまとまる。これは非常に大きな政治的勢力になって、アラブ人のエネルギーがアラビア半島の外に向かって爆発する。

 アラビア半島の北、メソポタミア地方からシリア方面はどういう情勢だったかというと、長く東ローマ帝国とササン朝ペルシアが対立抗争して両者とも疲弊していた。そこにイスラム=アラブ人がなだれ込んでくる。
 642年、ニハーヴァンドの戦いでイスラムはササン朝ペルシアを破る。この後、ササン朝は急速に衰えて651年には滅亡してその領土はイスラムの支配下に入ります。
 また、イスラム勢力は東ローマ帝国とも争い、シリア、エジプトを奪いました。

 この段階で、イスラム教徒はほとんどアラブ人ですから、イスラムの発展は、イコール、アラブ人の発展です。
 このようにして、イスラム教の支配地が急速に広がる。イスラム教徒たちは征服地にミスルと呼ばれる軍事都市を建設します。新領土の拠点となるところにミスルを建設して、ここにアラブ人が移住します。

 アラビア半島から出てきたアラブ人の戦士たちは各地のミスルに住んで周辺の住民を支配するわけですね。
 支配された被征服諸民族はジズヤと呼ばれる人頭税、ハラージュと呼ばれる土地税の支払いを義務づけられました。イスラム教徒は非イスラム教徒に改宗を強制はしなかったようです。ジズヤとハラージュさえ払ってくれればそれで満足です。

 集められた税金はミスルに移住したイスラム=アラブ人戦士たちに年金として支払われました。この年金をアターといいます。また、イスラム教徒は免税特権を持っていた。

 正統カリフ時代には、イスラム教徒=アラブ人は支配者階級であり、特権階級としてエジプトからシリア、イラク方面を支配したのだということですね。

 こうなってくると、カリフは単なる信者の指導者としてだけでなく、この広大な支配地の支配者として強大な権力と富を手にすることができるようになってきます。正統カリフに選ばれた人たちは、みなムハンマドが布教を開始した頃からの古い信者で、質素で素朴な信仰生活をおくっていた人たちなのですが、それでも三代目のウスマーンは王侯のような贅沢な生活をした。指導者層の間にも、俗な欲望を持つ者もあらわれてくる。イスラム共同体=ウンマがだんだん変質して、共同体が理念だけになってくるのです。

 ウスマーンは、その贅沢ぶりに反感を持つ信者グループに暗殺され、次の第四代の正統カリフになったのがアリーです。
 アリーは現在でもイスラム教徒の中では人気の高い人です。武人として剛胆、信仰も堅固、性格は実直。しかも、ムハンマドのいとこ、かつ、娘婿でもあった。ムハンマドの娘ファーティマと結婚していて、二人の間には息子もいます。この子供はムハンマドの孫にもあたるわけですね。血縁の点でアリーは特別な人だったのです。

 が、実際の政治的能力はそれほどでもなかったようで、イスラムの中で生まれかけていた派閥対立をうまく調整することができなかった。
 シリア総督だったムアーウィヤがアリーのカリフ位に反対したのです。

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ウマイヤ朝
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 ムアーウィヤは第三代正統カリフ、ウスマーンと同じウマイヤ家出身でした。自分こそがカリフになるべきだと考えて、アリーと合戦をします。これは勝負がつかないのですが、そのあとも両者は対立を続けた。やがて661年に、両者の対立に反対するグループにアリーが暗殺されると、ムアーウィヤは選挙ではなく実力でカリフになります。かれは、信者の選挙という形でカリフにならなかったので正統カリフとは呼ばれません。
 さらに、かれは自分の子孫にカリフの地位を世襲させていきます。こうなると、イスラム共同体とは名目だけで、実質的には王朝です。
 そこで、ムアーウィヤがカリフになって以降をウマイヤ朝(661~750)といいます。
 首都はダマスカス。シリアの中心都市です。ムアーウィヤが総督として地盤を築いていたところをそのまま首都にした。アラビア半島の外に首都を置いたのがイスラムの発展ぶりを物語っていますね。

 こんなふうに教団上層部ではごたごたあるのですが、対外的にはイスラム教は領土的な発展をつづけます。
 東は中央アジアからパミール高原、西は北アフリカ沿岸を西進して、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島までを支配下に置いた。さらに、イスラム軍はピレネー山脈をこえて現在のフランスにまで進撃します。当時ここにはゲルマン人の一派であるフランク人が建てたフランク王国というのがあった。フランクはイスラム軍を撃退します。これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732)。この戦いに敗れたイスラム勢力はこれ以上ヨーロッパには広がりませんでした。

 ウマイヤ朝の政治の特徴について。
 ウマイヤ朝はアラブ人至上主義をとります。領土が拡大して多くの民族が支配下に入りますが、支配者はあくまでも、イスラム教徒であるアラブ人だということです。そういう意味でウマイヤ朝はアラブ帝国と呼ばれることもある。

 ところが、イスラムは宗教ですからアラブ人以外にも入信する者がぼちぼちでてきます。民族が違っていても信者は平等です。アッラーの前ではみんな同じ。イスラム共同体、ウンマの一員なんですね。しかし、現実の政治ではウマイヤ朝はアラブ人だけに特権を認めて他民族のイスラム教徒を対等に扱わない。
 そこで、非アラブ人のイスラム教徒による反ウマイヤ運動が起こってきます。

 また、シーア派という宗派が生まれました。暗殺されたアリーの子孫こそが正統なカリフであるという信仰を持つグループです。当然ムアーウィヤがカリフになったことを認めずウマイヤ朝の正統性を否定します。

 このシーア派は、ウマイヤ朝が滅んだあとも、アリーの子孫を教主と仰いでつづく。アリーの子孫は一二代目で途絶えましたが、シーア派はいろいろな分派に分かれながらも現在まで大きな勢力としてつづいている。たとえば、現在のイランはシーア派を国教にしています。ムハンマドよりアリーを偉いと考える人たちもいるくらいですね。

 話を戻しますが、シーア派が誕生してウマイヤ朝の正統性を問題にするのですが、大多数のイスラム教徒は「ムアーウィヤがカリフになってもいいじゃないの」と考えていて、これらウマイヤ朝を認める人たちはスンナ派と呼ばれました。
 スンナ派は現在でもイスラムの多数派です。

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アッバース朝
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 預言者ムハンマドの近親者でアブル=アッバースという男がいた。この人はムハンマドの叔父さんの家系でイスラム教の指導者層の一人なわけだ。だから、自分もカリフになる資格があると思っていて、機会を狙っていた。
 かれはイラン人シーア派の反ウマイヤ運動を利用して反乱を起こしウマイヤ朝を倒すのに成功した(750)。この新王朝をアッバース朝という。首都はバグダードです。

 アッバース朝はアラブ人至上主義を批判する勢力の協力で建てられたので、民族差別をやめる。すべてイスラム教徒は同じ扱いにします。

 具体的にはアラブ人の特権を廃止して、それまで払わなくてもよかった土地税を課税する。政府の要職にイラン人を登用する。イラン人とはペルシア人のことです。かれらはアケメネス朝、ササン朝という大帝国を作ってきた民族でしょ。行政手腕を含めて、非常に高い文化を持っているわけです。
 かれらイラン人の力も加わってアッバース朝は中央集権化、官僚制度の整備をおこなっていきました。

 アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝と対比してアッバース朝のことをイスラム帝国ということもあります。アラブ人の国からイスラム教徒の国になったというニュアンスです。
 正統カリフ時代、ウマイヤ朝と発展してきたイスラムの総まとめの国です。アッバース朝以後現代までイスラムの国は無数にあるのですが、イスラム世界がほぼ一つにまとまっていた最後の時代です。
 アッバース朝以後、イスラム世界は政治的に多様化していくのです。
 ムハンマドが無くなって百数十年、ムハンマドを直接知る人はいなくなったけれど、イスラム共同体=ウンマの理念が実体として感じられた最後の時代だと思います。

 最盛期は8世紀後半、第五代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代です。
 アッバース朝は10世紀以降は衰退して、名目だけの存在になるのですがアッバース朝のカリフは、宗教的な権威としてイスラム教徒の中で特別な存在でありつづけるのです。


 個別受験用暗記項目です。
 首都バグダードを建設したのは第二代カリフ、マンスール。
 バグダードには「知恵の館」という総合学術機関が作られて、イスラム世界の学問芸術の中心となった。
 対外関係として751年のタラス河畔の戦い。中央アジアでアッバース朝が唐の軍隊を破った。この時の中国人捕虜から製紙法が西アジアに伝わった。

 アッバース朝は軍事力として中央アジアのトルコ系遊牧民を導入した。かれらは騎馬戦術に優れていて兵士として有能だったのですね。
 8世紀くらいから中国でもトルコ系軍人は大活躍で、安史の乱の安禄山もトルコ系ですし、それを鎮圧したウイグル人もトルコ系、五代十国時代の皇帝や軍人の中にもトルコ系の人がかなりいる。
 アッバース朝は奴隷としてトルコ系遊牧民を買って軍人としました。この、奴隷軍人のことをマムルークという。身分は奴隷ですが、功績があれば富も軍人としての地位も手に入れることができる。古代ローマの奴隷のように鞭でびしびし打たれている人たちではありません。
 これ以降、マムルークはイスラムの歴史の中でどんどん活躍するからしっかり覚えておいてください。

 アッバース朝は領土が広すぎたので、10世紀以降は地方の総督、軍人や周辺民族などが自立して王朝としての実体はなくなっていきますが、宗教的権威だけで生き延びる。このアッバース朝を最終的に滅ぼすのがカリフの宗教的権威に全然無頓着なモンゴルのフラグでした(1258)。


【参考図書】
清水和裕 著『 軍事奴隷・官僚・民衆―アッバース朝解体期のイラク社会 (山川歴史モノグラフ) 』※現在古本でも手に入りにくいようです。

第45回 イスラム教の特徴 おわり

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