世界史講義録
  

第46回  イスラム世界の拡大と多様化

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イスラム帝国の分裂
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 広大な領土を支配したアッバース朝ですが、すぐに分裂が始まります。イスラム共同体が現実の世界で一つだったのはアッバース朝のごく初期までのことでした。

1,後ウマイヤ朝
 アブル=アッバースが反乱に成功して、アッバース朝を建てたときにウマイヤ朝の王族を皆殺しにしました。この時ただ一人ダマスカスから脱出するのに成功した二十歳の王族がいて、かれは追っ手から逃げて逃げて逃げまくる。北アフリカに何年か潜伏したあと、イベリア半島に渡って、この地域に新王朝を建国することに成功します。
 これが後ウマイヤ朝(756~1031)です。首都はコルドバ。


 ひとつであったイスラム世界が分裂する最初です。

2,サーマン朝(874~999)首都ブハラ
 アッバース朝の都はバグダードでしたが、遠い地方にはだんだん統制が及ばなくなる。イスラム化した遠方の民族から自立化が始まります。その最初がサーマン朝。
 サーマン朝はイラン系のイスラム国家です。アッバース朝の領土内で自立したと考えてください。入試的には「初のイラン系イスラム国家は何か」答え「サーマン朝」。それだけでオーケイです。

3,ブワイフ朝(932~1055)
 イラン系シーア派の政権。シーア派という点は覚えておくこと。
 このブワイフ朝はイランで独立政権を建てたあと、勢力圏を拡大して946年にはバグダードを占領した。バグダードにはアッバース朝のカリフがいるのですが、ブワイフ朝の君主はこれを殺さないのです。そのまま生かしておく。カリフは単なる王や皇帝ではなくて、イスラム教のシンボル、ムハンマドの後継者ですから簡単には殺せない。
 逆に生かしておいて、そのカリフから大アミールという称号をもらってイラン、イラク地方を支配することを正当化します。大アミールというのは大将軍というような意味。
 非常に理解しにくいのですが、アッバース朝の中にブワイフ朝がある。二つの王朝が重なり合っているのです。
 実は、これは私たちにはなじみ深いんですよ。天皇と幕府の関係にそっくりなのです。カリフはイスラム教徒には天皇と同じ。ブワイフ朝はさしずめ鎌倉幕府か室町幕府といったところです。天皇もカリフも権力はない。権力はないけれど権威はある。だから実力者にとってはその権威を利用した方が得なのです。

 イクター制という制度もブワイフ朝と結びつけて覚えておく。
 ブワイフ朝は武力があったからアッバース朝を事実上乗っ取ることができましたが、高度な統治技術はありません。中央行政機関と官僚組織を使い支配地から徴税する能力がない。そこで、中央政府としては税金を集めるのをやめてしまった。徴税をしないから軍人に俸給も払えない。だから俸給を払う代わりに、配下の軍人たちに徴税権をあたえた。「お前はこの村から、お前はあの村から税金を取れ。」と、それぞれの軍人が税金を取る農村の割り当てを決めた。これがイクター制です。
 土地そのものを領地として軍人に与えれば封建制ですが、ブワイフ朝が与えたのはあくまでも「徴税権」だけです。
 このやり方は、便利だったらしくこのあともいくつかの王朝で似たような制度が繰り返しおこなわれています。

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トルコ民族の活躍
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1,カラ=ハン朝(940~1132)首都ブハラ
 アッバース朝ではトルコ系の奴隷を軍人として活用したといいました。マムルークと呼ばれるこの奴隷軍人の活躍をきっかけとして、徐々にトルコ民族の間にもイスラム教が浸透していきます。
 マムルークとして、はじめは個人単位で改宗やイスラム世界への移住がおこなわれますが、やがて部族単位でイスラムに改宗して独自の政権を打ち立てるトルコ民族が現れ始めます。その最初がカラ=ハン朝。サーマン朝を滅ぼしています。
 入試的には「中央アジア初のトルコ系王朝」と覚えておけばよい。

2,セルジューク朝(1038~1157)
 これもトルコ系の王朝。アラル海に注ぐシル河河口あたりで建国。トゥグリル=ベグという君主の時にイラク方面に進撃、ブワイフ朝を倒してバグダードに入城しました。
 セルジューク朝もアッバース朝のカリフを残しておいて、かれからスルタンという称号を受けます(1058)。これ以後スルタンという名称はイスラム世界では皇帝とか、大王といった感じでよく使われるようになります。日本風に無理矢理訳せば征夷大将軍ですね。
 セルジューク朝はブワイフ朝からイクター制を受け継いで繁栄しました。
 領土も拡大する。小アジア地方はビザンツ帝国の領土で、まだイスラム勢力が入り込んでいなかったのですが、セルジューク朝はイスラムとして、はじめてこの地域を領土に組み入れたのです。
 びっくりしたのがビザンツ帝国。首都コンスタンティノープルの目と鼻の先までイスラムが進出してきた。ビザンツ帝国というのは東ローマ帝国のなれの果て、領土は小さくなっていますが同じものです。だから、宗教はキリスト教。西ローマ帝国は既に滅んでいますが、西方ではローマ教会が西ヨーロッパ人の信仰の中心になっている。
 そこで、ビザンツ皇帝は同じキリスト教のよしみでローマ教会に助けを求めたのです。これに応えてやがてヨーロッパの王や諸侯の軍隊が何度もイスラム世界に攻め込んでくることになりました。この西ヨーロッパからの遠征軍を十字軍といいます。詳しい話は、ヨーロッパの歴史でお話ししますが、今は一応、「セルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因の一つである」と受験的に覚えてください。

 セルジューク朝で覚えなければいけない人名がニザーム=アルムルク(1018~92)。宰相です。セルジューク朝の最盛期を現出した。各地に「ニザーミア学院」という大学を設立した。これも受験知識。

3,ホラズム朝(?~1221)
 セルジューク朝から任命されたマムルークの地方長官が自立してできた王朝。中央アジアからイランにかけて広い領土を支配して、東西の交通網を押さえて繁栄しました。
 しかし、この王朝は最盛期になるところで東からやってきたモンゴルに滅ぼされました。この話はモンゴルの発展の所で既にやりました。

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エジプト
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 エジプトもやがてアッバース朝から自立します。エジプトにできたイスラム王朝は三つ覚えればよい。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝です。

1,ファーティマ朝(909~1171)首都カイロ
 ファーティマというのはムハンマドの娘の名前です。建国者がファーティマと第四代正統カリフ、アリーの血筋を引いていると自称しているのでこう呼ばれています。
 だからシーア派の王朝です。アッバース朝はスンナ派ですから、対抗上都合がいい。スンナ派のカリフなどは認めませんから、ファーティマ朝の君主はカリフという称号を名乗りました。イスラムは一つという理念があったので、それまでもアッバース朝に対立する政権ができてもアミール(将軍)くらいの称号で満足していた。アッバース朝のカリフがいるのに、カリフを名乗るのはタブーだったんですが、それを平気で破ってしまった。
 日本でいえば天皇家が二つできた南北朝のようなものです。

 しかし、一度タブーが破られてしまったらそのあとはあまり抵抗がないもので、ファーティマ朝の君主がカリフを称したすぐあとに、イベリア半島にあった後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世がカリフを自称しました。
 この時点で、イスラム世界に、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが出現したことになります。

2,アイユーブ朝(1169~1250)首都カイロ
 建国者サラーフ=アッディーンはファーティマ朝の宰相だった。この人はアラブ人でもエジプト人でもなく、クルド人です。クルド人は現在でもトルコ、イラク、イランの国境地帯に住む民族です。イスラム世界というのは人の移動が活発なのですね。
 サラーフ=アッディーンはスンナ派です。この人は十字軍と戦ったことで有名。イスラム教徒を悪く言うのが普通のヨーロッパの武将たちが、かれのことだけは武人の鏡として誉めています。十字軍に参加したヨーロッパ人の兵士たちが、イスラム教徒に対して虐殺行為や裏切りをさんざんやったのに対して、サラーフ=アッディーンはキリスト教徒に対しても正義と公正さを失わず、その立派な態度に多くの十字軍兵士が感銘を受けたようです。
 そのうえ、戦争も上手で十字軍に奪われていた聖地イェルサレムをイスラムの手に取り戻しています(1187)。イスラムのスーパースターです。

3,マムルーク朝(1250~1517)首都カイロ
 アイユーブ朝のマムルーク、奴隷軍団がクーデタを起こして建てたのがマムルーク朝。名前のままです。この王朝ははじめはパッとしないのですが、ちょうどモンゴル軍が西アジアに侵入してくる時期と重なった。フラグの率いるモンゴル軍はアッバース朝を滅ぼして、その勢いでエジプトにも侵入を試みるのです。
 マムルーク朝の軍隊がこれを迎え撃って、たまたま勝ってしまった。この勝利でイスラム世界でのマムルーク朝の権威が一気に高まるのです。また、十字軍の残存勢力をシリアから駆逐した。
 アッバース朝の滅亡によって、イスラムの中心がバグダードからカイロに移動する。カイロが東西交易の中継点となって、マムルーク朝は非常に栄えました。この時期のイスラム国家の代表格と言っていいです。
 イクター制を導入したことも受験的には覚えておくこと。

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北アフリカ西部・イベリア半島
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1,後ウマイヤ朝(756~1031)首都コルドバ
 この王朝に関しては既に話しました。10世紀、カリフを称したアブド=アッラフマーン3世の時が最盛期です。

2,ムラービト朝(1056~1147)
 北アフリカからイベリア半島に領土をもった王朝。エジプトのファーティマ朝と対立関係にあった。スンナ派です。
 この国を建てたのはベルベル人。北アフリカの土着の民族をベルベル人という。ベルベル人のイスラム国家ができたということは、北アフリカでも民族の違いを越えてイスラムが浸透してきたことを現しているわけです。だから、この王朝はベルベル人と結びつけて覚えること。

3,ムワッヒド朝(1130~1269)
 ムラービト朝を滅ぼした、もう一つのベルベル人イスラム王朝。ベルベル人王朝としては領土は最大です。

4,ナスル朝(1230~1492)首都グラナダ
 後ウマイヤ朝以来イベリア半島にはいくつかのイスラム王朝ができるのですが、これは常に北辺のキリスト教の土豪たちと領土争いを繰り返していました。徐々にキリスト教勢力が強くなり、イスラムの支配地域はじりじりと半島の南に追いつめられていくのですが、ナスル朝はイベリア半島最後のイスラム王朝として有名。
 首都グラナダにはかの有名なアルハンブラ宮殿があった。今でも観光地として有名。それよりもギターの名曲「アルハンブラ宮殿の思いで」のほうが有名かもしれませんね。そんな曲知らないという人でも聞けばわかります。
 もう一つ、この国が1492年に滅んで、イベリア半島は完全にキリスト教の地域になるのですが、滅ぼしたのはスペイン。同じ年にスペインが送り出したコロンブスの船団がアメリカに到達しています。この二つの出来事は結びつけて覚えておいてください。

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アフガニスタン・インド
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1,ガズナ朝(962~1186)
 サーマン朝のマムルーク地方軍司令官が自立してできた王朝です。場所は現在のアフガニスタン。

2,ゴール朝(1148~1215)
 アフガニスタン東部にいた地方支配者がガズナ朝から自立して建国した国です。
 この国は盛んにインド北部に侵入します。インドは豊かだからね。略奪目的です。ですが、このことでインドにも徐々にイスラムが広がっていきました。

3,奴隷王朝(1206~1290)首都デリー
 これはインドに侵入したゴール朝の将軍アイバクがアフガニスタンに帰らずに、インドに居座って建てた王朝です。アイバクはマムルークだったので奴隷王朝と呼ばれています。この名称はマムルークに対して誤解を与えやすい呼び方だと思います。マムルークは確かに奴隷身分ではあるけれど、専門の訓練を受けたエリートです。奴隷という言葉から受けるイメージと実態とギャップがありますね。
 インド初のイスラム王朝ということで、しっかり覚えてください。

 奴隷王朝のあともデリーを首都としてイスラム王朝が続きます。
 奴隷、ハルジー、トゥグルク、サイイド、ロディーという王朝ですが、これらをまとめてデリー=スルタン朝と呼んでいます。デリーにあるイスラム王朝という意味です。
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まとめ
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 広い地域にわたって、たくさんの王朝名が出てきてイライラしますね。でも、これは頑張って全部覚えることになっている。

 アッバース朝以後、イスラム世界は分裂して多くの地方政権ができます。このなかで、カラ=ハン朝、セルジューク朝、ホラズム朝、マムルーク朝、ガズナ朝、奴隷王朝などロディー朝以外のデリー=スルタン朝はトルコ系王朝です。トルコ人が軍人としてイスラム世界に急速に広がっていく傾向がわかると思います。こうしてアラブ人に代わりイスラム世界の主人公になっていきます。

 スンナ派、シーア派ということが試験では問題になります。今日の中ではブワイフ朝とファーティマ朝だけがシーア派、あとは全てスンナ派です。



第46回 イスラム世界の拡大と多様化 おわり

こんな話を授業でした

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