世界史講義録
  

第48回  東ヨーロッパ世界の形成

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ビザンツ帝国の盛衰
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 ローマ帝国が東西に分裂した(395)あと西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で滅び、ゲルマン人の国家が建設されます。
 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス帝(位527~565)はこれらゲルマン民族国家を滅ぼし、旧西ローマ帝国の領土をある程度回復します。これが、古代ローマ帝国の最後の輝きです。
 ユスティニアヌス帝はトリボ二アヌスに命じてローマ法を集大成した「ローマ法大全」を編纂させたことでも有名です。

 ユスティニアヌス帝の死後、一時拡大した領土はまた縮小していきます。イタリアはランゴバルト族に奪われ、東方ではササン朝ペルシアとの抗争がつづきます。また、北部国境は、黒海の西からブルガール人が侵入してくる。

 東ローマ帝国はこれらの外敵に対して基本的に守勢一方。都がローマにあるわけでもないのにローマ帝国というのもおかしいですから、ユスティニアヌス帝以後、この国をビザンツ帝国と呼ぶのが一般的です。ビザンツとは首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからついた呼び名です。

 イスラム勢力にエジプト、シリアを奪われてからのビザンツ帝国の領土はバルカン半島と小アジアだけになり、実質的にはローマ人の国というよりギリシア人の国ですね。ただし、ローマ帝国の理念だけは引き継がれている。
 かつてのローマ市は「パンとサーカスの都」といわれましたが、コンスタンティノープルでも市民への食糧の配給はおこなわれていました。これはイスラム勢力によって穀倉地帯エジプトが奪われる618年までつづいた。ユスティニアヌス帝時代はこの意味でもローマ帝国らしい最後の時代だったのです。

 ただ、あとの時代になってもコンスタンティノープルの競馬場で戦車レースは盛んにおこなわれていた。貴族や市民がつめかけておおいに熱狂した。もちろん皇帝も観戦。古代ローマをみんなで演じていたみたいです。

 ヘラクレイオス1世(位610~641)の時代にイスラム勢力が急速に領土を拡大してきます。首都での食糧無料配給をやめたのがかれの時代です。
 この時期に、イスラムとの戦争のための新しい制度が生まれる。軍管区制と屯田兵制です。
 軍管区制はテマ制ともいう。地方の軍司令官に行政権もゆだねる制度です。行政の臨戦態勢ですね。地方軍団の兵士は農民です。農民たちは租税を免除されるかわりに戦争になったら武器自弁で戦った。負けて領土を奪われたら自分たちの土地が無くなるわけですから必死になって戦った。侵略戦争には向きませんが、防衛戦争には力を発揮する。これが屯田兵制です。

 宗教は、皇帝教皇主義です。皇帝がキリスト教会のトップの地位にあることをいう。

 ビザンツ帝国は常にイスラム勢力と境を接して争っているので、宗教面でも対抗心が旺盛です。イスラムとの関係で8世紀の皇帝レオン3世がだした法律が「聖像崇拝禁止令」。イエスやマリアの像を拝むことを禁止する。それまでは日常的に聖像崇拝がおこなわれていたのですが、イスラム教が偶像崇拝を厳しく禁止しているのに刺激されて偶像崇拝を禁止したのですね。偶像も聖像も同じことです。
 前にも説明しましたが、キリスト教もイスラム教も同じ神を信じていますから、厳格なイスラムに比べキリスト教は堕落しているように思われたのでしょうね。

 ところが、この聖像崇拝禁止令がローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生んだ。ローマ帝国時代に各地に五本山と呼ばれる大きな教会ができるのですが、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの二つです。どちらが偉いということはないけれど、以前から二つの教会は高い権威をもって張り合っていた。
 ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだあとは、ビザンツ帝国と協力関係にあるのですが、イタリア半島はビザンツ帝国の領土からはずれているから、実際にはビザンツ帝国は頼りにならない。そこで、ローマ教会は生き延びるためにゲルマン人たちに一所懸命布教して、教会の存続をはかっています。で、ローマ教会はゲルマン人に布教するときにイエスやマリアの像を使っていたんだね。多分、十字架磔のイエスの画像なんかを見せて「お前たちの罪を償うためにイエス様はこのように死なれたのだ!」とか言って布教していたんでしょう。ゲルマン人はまだまだ文明度は低いですから、そんな絵を見て何とかキリスト教を理解できたのかもしれない。
 だから、ローマ教会にとって聖像を使用できなくなるというのは死活問題だった。そこで、ローマ教会はビザンツ皇帝の方針に反対します。もともと、ローマ教会は皇帝教皇主義にも不満だったので、ここで両教会はケンカ別れをしていくことになった。

 ローマ教会はローマ=カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるようになっていきます。
 両教会の分裂を生んだという意味で、聖像崇拝禁止令は大事です。

 余談になりますが、聖像崇拝禁止令が出た直後の時期には、ビザンツ帝国では聖像は破壊されましたが、のちに復活します。現在、ギリシア正教では聖像のことをイコンといい、信仰上重要な意味づけがなされていて非常に大事にしている。今でも修道院などで盛んに作っています。資料集にも載っていますが、決して上手な絵ではなくて、わざとへたくそに描いているようでもある。制作者はサインをせず、個性を押さえて描くのが基本だそうです。

 軍管区制のもとで、やがて地方の軍司令官が皇帝に対して反乱を起こすようになるのですが、9世紀には軍司令官たちの権力を削り弱体化させ、皇帝権力が強化される。この時期がビザンツ帝国の最盛期といわれている。
 この時期には皇帝の妃を選ぶために全国美人コンテストがおこなわれた。身分は一切関係なし。全国から美女がコンスタンティノープルに集められて、もっとも美しい娘に皇帝が黄金のリンゴを手渡すのです。リンゴをもらった娘が妃となる。この黄金のリンゴはトロヤ戦争の発端になったギリシア神話に基づいています。以前に話しましたね。

 何とも風雅なことをやっていますね。でも、神話的な香りがするこの美人コンテストが帝国の中央集権化を維持する重要な儀式だったのです。

 11世紀になると大土地所有者である貴族の勢力が強まってきて、プロノイア制というものがはじまる。これは、貴族に地方の徴税権を与えるものです。イスラムのイクター制と似たものです。

 また、この時期にはセルジューク朝が小アジア地方に領土を拡大してビザンツ帝国を圧迫する。
 危機感を持ったビザンツ皇帝は西方のローマ教会に救援を求めます。これに応じてヨーロッパ諸国の王や諸侯がビザンツ帝国経由でシリアに遠征します。これが第一回十字軍。このあと約200年間にわたって前後7回の十字軍が西ヨーロッパからイスラム世界に遠征することになります。

 ところで、領土が小さくなっても、首都コンスタンティノープルはアジアとヨーロッパ、黒海と地中海を結ぶ交通の中心地で、商業でおおいに栄えている。地中海貿易で当時一番勢力があったのがイタリアのヴェネチア商人です。コンスタンティノープルにも駐在員を置いておおいに儲けていた。
 ビザンツ帝国とヴェネチア商人は持ちつ持たれつの関係だったのですが、両者の関係が一時期こじれます。その結果、第四回十字軍はヴェネチア商人の誘導でビザンツ帝国を攻撃してコンスタンティノープルを占領してしまった。滅茶苦茶ですね。
 コンスタンティノープルを乗っ取った十字軍の兵士たちはここにラテン帝国という国を建てる。ビザンツ帝国の貴族たちは地方に亡命政権を立てます。これをニケーア帝国という。

 その後ニケーア帝国はラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国は復活するのですが、もう以前のような繁栄はもどらない。バルカン半島の領土も新興のオスマン帝国にどんどんとられて、事実上コンスタンティノープルとその周辺だけにしか領土がない都市国家になる。ただ、貿易の利益と千年以上の年月をかけて造り上げてきた何重もの城壁に守られて、もう少し生き延びます。

 しかし1453年、ついにオスマン帝国によってコンスタンティノープルは陥落し、ローマ帝国から数えれば二千年以上つづいたビザンツ帝国は滅びました。

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ビザンツ帝国の経済と文化
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 ビザンツ帝国の経済はひとえにコンスタンティノープルの交易上の立地条件の良さに支えられていました。
 また、ローマ帝国時代から受け継がれてきた工業も盛んで、特に絹織物、宝石細工、武具など輸出用工芸品の製造業が発展していた。
 ビザンツ金貨も広い範囲で流通していたということです。

 文化的にはギリシア・ローマ文化を継承し、それをイスラム世界や西ヨーロッパ世界に伝えたという点で世界史的な意義がある。
 また、ギリシア正教を東ヨーロッパに布教した。布教に際してスラブ諸語を書き記すためにビザンツのお坊さんが考案したのがキリル文字です。いま、ロシアで使っている、ローマ字がひっくり返ったようなあれ。

 ビザンツ建築。ドーム、モザイク画が特徴。代表的な建築物が聖ソフィア寺院。

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東欧世界
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 ビザンツ帝国の北方はどんな様子だったか。現在の東ヨーロッパにあたる地域です。

 ここには中央アジアと直結していますから、アジア系遊牧民族がいます。

 マジャール人。9世紀頃現在のハンガリーの地域に移住してきて先住のスラブ人と同化し、10世紀頃にはハンガリー王国を形成します。宗教はカトリック。
 ハンガリーのハンは、その前に来ていたフン族のことです。ハンガリー人というのは、今でも髪も瞳も黒く、目の細い人が多いですね。名前も姓が先にきていて、われわれと同じです。

 トルコ系のブルガール族が建てたのがブルガリア王国。ただ、ブルガール族は大多数のスラブ人に同化されていきます。ブルガリア王国は7世紀に建てられ、いったん滅んだあと12世紀に復活します。宗教はギリシア正教。

 東欧地域の主人公がスラブ民族。広く分布しているので、代表的な国だけみておきましょう。

 ロシア方面では、9世紀にノヴォゴロド国とキエフ公国が成立。キエフ公国では10世紀にウラディミル1世がギリシア正教を国教化しています。
 その後13世紀にはモンゴルのキプチャク=ハン国ができてロシアのスラブ人の国はその支配下にはいりました。15世紀末になってモスクワ大公国がキプチャク=ハン国から独立して現在のロシアのもとになった。

 ポーランドも10世紀に国家建設。14世紀にはリトアニア=ポーランド王国を形成して東欧に大きな勢力を持つ。宗教はカトリックです。

 東欧でも一番西よりにいたのがチェック人。かれらは9世紀にモラヴィア王国を形成しますが、マジャール人の攻撃で衰退。その後、ローマ=カトリックを受け入れてドイツに臣従します。ドイツにできた神聖ローマ帝国のなかで12世紀にはベーメン王国を建てた。これが現在のチェコのもとです。

 以上、受験知識でした。

第48回 東ヨーロッパ世界の形成 おわり

こんな話を授業でした

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