世界史講義録
  

第49回  西ヨーロッパ世界の形成

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ゲルマン大移動
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 ローマ帝国が絶頂期を迎えている頃、黒海からバルト海にかけて広く分布していたのがゲルマン民族です。カエサルの『ガリア戦記』や一世紀のタキトゥスの『ゲルマニア』に、当時のゲルマン人の暮らしぶりが描かれている。タキトゥスはローマ人が失ってしまった素朴さ、質実な暮らしぶりをゲルマン人にみているようです。ゲルマン人もローマ人も広い意味で同じインド=ヨーロッパ語族に属していますから、文化の根っこの部分で似たところがあるのでしょう。
 ゲルマン人は多くの部族に分かれて、狩猟・牧畜、ローマ人との接触の多い地域では初歩的な農業もおこなっていた。やがて、人口増加にともなって、集団ごとにローマ領内に移住してくるものもあらわれてきました。中には、コロヌスになったり、ローマ軍の傭兵になるものもでてくる。

 また、有力部族長の子弟が、なかば人質としてローマ帝国で青年時代を暮らしローマ風の文化を身につけて成人してから部族に帰る、ということもおこなわれていた。だから、一部ではかなりローマ化していた部族もあったのです。

 ゲルマン人はたくさんの部族に別れていますが、この時期に活躍する部族としては、東ゴート、西ゴート、ヴァンダル、ランゴバルド、フランクを覚えておけばよいでしょう。

 375年、東方から移動してきた遊牧騎馬民族フン族が黒海北岸にいた東ゴート族を征服します。その西にいたのが西ゴート族。フン族を怖れて民族移動を開始します。これがゲルマン民族大移動の始まりです。

 西ゴート族はフン族から逃れて西に移動しますが、そこにはローマ帝国がある。ドナウ川が国境で、ローマ軍が国境を守っている。だから、入れてもらえない。西ゴートの人々は「手を振り、泣きながら、船橋を架けて渡して欲しいと哀願を繰り返した」というから、必死で逃げてきている、まさに難民ですね。

 西ゴート族はさらに西に移動し5世紀はじめには西ローマ領内に侵入する。当時西ローマ帝国を実質的に支えていたのがスティリコ将軍。実はこの人はゲルマン人です。ローマ帝国を支える将軍も大臣もゲルマン人出身のものが非常に多くなっているのが面白いね。ローマ帝国がゲルマン人なしでは成り立たなくなっているのです。守も攻めるもゲルマン人。
 スティリコ将軍は西ローマ帝国のために必死に戦っているのですが、ゲルマン人に偏見を持つ人たちの讒言で、皇帝に殺されてしまいます。これが、408年。その2年後、410年には、西ゴート族がローマを占領して略奪しまくる。永遠の都ローマが蛮族に蹂躙されたわけで、この事件はローマ世界に非常なショックを与えた。教父アウグスティヌスは、ローマも所詮は地上の国よ、神の国が大切なのさ、と『神の国』を書く。

 ところで、西ゴート族はローマを略奪したときに西ローマ皇帝の妹を人質としてさらっていきます。ガラ・プラキディアという女性。西ゴート族はこのあと現在のフランス南部からイベリア半島にかけて移動していきますが、彼女はそのまま連れられていき、414年には西ゴート族の王様の妃になる。妃にされた、と言った方がいいのかな。で、彼女は夫である西ゴート王にローマ帝国を守ることを説いたのです。その影響もあって、西ゴート王はローマ帝国をゴート人の武力で再興する、などという演説をしたりする。

 西ゴート族も、好きこのんで戦争しながら移動しているわけではなくて、安住の地が欲しいのです。女子供、老人も引きつれての民族移動です。
 結局西ローマ領内で安定した生活を実現しようと思ったらローマ人の協力がなければダメなんですね。だって、人口としては圧倒的にローマ人が多いんですよ。西ゴート人なんてほんの少数です。ただ、「蛮族」で武力が強いだけですから。

 ガラ・プラキディアの夫はすぐに死んでしまうのですが、このあと西ローマ皇帝は西ゴート族と同盟を結び、かれらが西ローマ領内に西ゴート王国を建国することを認めました。かれらを潰すだけの力がないですから、認めてしまって逆に西ゴートの軍事力を利用して新たな部族の領土内への侵入をくい止めようとしたのです。ガラ・プラキディアはこのあと西ローマ側にかえされ再婚して子供を生みます。この子がのちに西ローマ皇帝になるから面白いですね。
 西ゴート族のあと、次々に移動してくるゲルマン諸部族はローマ領内に王国を建て、西ローマ帝国はこれを追認するしかなく、皇帝の直轄地は小さくなる一方でした。

 一番長い距離を移動したのがヴァンダル族。ジブラルタル海峡を渡り北アフリカ、カルタゴがあった地方ですが、ここにヴァンダル王国を建てる。ここは、西ローマ帝国の穀倉地帯だったのです。

 476年、西ローマの傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ西ローマ帝国は滅んだ。ただ、この時点で実質的には西ローマ帝国は名前だけになっていてあちこちにゲルマンの部族国家があったので、当時としては大したニュースでもなかったらしいです。
 面白いのはオドアケルは自分は帝位につかず、西ローマ皇帝の冠を東ローマ皇帝に返却するのです。で、東ローマ皇帝からローマ帝国の官位をもらってイタリアを支配します。ローマ帝国から権威を与えられたかったのです。西ローマ領内にあったゲルマン部族国家も東ローマ皇帝から官職を与えてもらいます。かれらは、自分の王国でゲルマン人に対しては王として、ローマ人住民に対してはローマの官職を使って支配をおこなう。二重統治体制をやった。

 オドアケルのイタリアに侵入したのが東ゴート族。かれらはここに東ゴート王国を建国(493)。ローマ人貴族の協力をえながらイタリア半島を支配し、東ローマ帝国もこれを認めますが、やがてユスティニアヌス帝に滅ばされた。
 そのあとイタリア半島にやって来たのがランゴバルド族。東ローマの勢力を退けてランゴバルド王国を建国(568)。この国は774年までつづきますが、この間にランゴバルド人はローマ人と混血して同化してしまった。ローマ人も自分たちをランゴバルド人と意識するようになっていたといいます。要するに両者が融合した、ということですね。
 東ローマ帝国もビザンツ帝国に変質し、旧西ローマ領に対して影響力を無くしていきますから、当然の成りゆき。

 これらは、西ローマ帝国の中心地にはいっていった部族ですが、周辺地域を移動したグループもある。その代表がフランク族。これは、今のドイツ北部からフランス北部に移動し、フランク王国をつくる。移動距離が比較的短かったので、部族としてのまとまりがあまり崩れなかった。東・西ゴート族やヴァンダル族は移動する途中でかなり雑多な人々を吸収して部族そのものが変質しているのです。

 ユトラント半島から海を越えてブリタニア、今のイギリスに渡ったのがアングル族・サクソン族。今でもイギリス人やアメリカ人のことをアングロサクソンと呼ぶのはここから来ている。

 あと、現在のスイスあたりに来たのがブルグント族。ブルグント王国を建てる。
 覚えておくのはこれくらいでよいでしょう。

 4世紀、西ゴート族の移動からはじまったゲルマン人の大移動は7世紀ころまでの約300年間つづいた。
 その後もゲルマン部族国家同士の争いはつづきますから、長い期間政治的に西ヨーロッパは不安定ですね。

 繰り返しますが、かれらが移住したのは旧西ローマ帝国の領域の中です。そこにはローマ人が住んでいる。ゲルマン人の人口は全人口の5%くらい。ローマ人の有力者の協力をいかに得ることができるかが、ゲルマン部族国家が発展できるかどうかの鍵です。だから、西ゴート王も東ゴート王も東ローマ皇帝から官職をもらって、支配者としてのお墨付きをもらおうとしたんです。

 ヴァンダル王国は534年、東ローマのユスティニアヌス帝によって滅ぼされます。西ゴート王国は711年、イスラムのウマイヤ朝によって滅亡。
 ブルグント王国は534年、ランゴバルト王国は774年にフランク王国によって滅ぼされた。

 多くのゲルマン国家が滅んでいくのに、フランク王国は他のゲルマン人国家を征服してやがて西ヨーロッパを統一します。なぜか。

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フランク王国の発展
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 フランク族は、さらに小さな支族集団に分かれていました。移動後、小集団がそれぞれ小さな国を建てるのですが、この小国家を統一してフランク王国を建てたのがメロヴィング家のクローヴィス(位481~511)。これをメロヴィング朝という。
 これがフランク王国発展の基礎を作るのですが、その秘訣は宗教なのです。

 ゲルマン人はキリスト教を信じているのですが、アリウス派という宗派です。これは、325年のニケーア公会議で異端とされた宗派で、ローマ帝国内で布教できないのでゲルマン人に信者を広げていたのです。
 ローマ人は何を信じているかというと、同じキリスト教でもアタナシウス派。つまりローマ教会の信者です。

 クローヴィスも他のゲルマン人と同じでアリウス派だったのですが、アタナシウス派に改宗するの。
 ローマ人にとってローマ帝国が無くなったあと、頼りになったのはローマの行政区ごとに作られた教会だった。元老院議員をだしたような有力な家柄のものが教会の聖職者としてローマ人の指導者的立場にあったりするわけだ。
 フランクの王がその同じ教会の信者になるというのは、ローマ人にとっては「おおっ!」という頼もしさ。この王様を助けましょう、と思う。というわけで、ガリア地方、今のフランスにあたる地域ですが、のローマ人たちはクローヴィスを支持した。また、教会はローマ帝国時代から引き継いでいる行政上のいろいろなテクニック、学問、技術をもっているからフランク王国はこれらのものを手に入れることもできたわけだ。
 こういうわけで、フランク王国は他のゲルマン国家と違い安定して発展することができたのです。

 フランク族は分割相続の習慣があって、王国はクローヴィスの息子たちにわけられて、それぞれで内紛や貴族の権力闘争で王たちは次第に力を失っていきました。かわりに、フランク族のまとめ役になったのが宮宰(きゅうさい)。総理大臣みたいなものと思ってください。行政の最高職です。
 この宮宰職について強大な権力を握ったのがカロリング家のカール=マルテル。かれは、全分国の宮宰となってフランク王国の実権を握った。かれを有名にしたのが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦い。ピレネー山脈を越えて進撃してきたイスラム軍を撃退した。実際に戦いの様子がどんなだったかは情報不足でわからないのですが、とにかくこの戦い以後、イスラム軍の進撃がとまった。この結果、カール=マルテルの評判はうなぎ登りです。名声を確立した。

 その息子がピピン3世。宮宰職をつぐのですが、かれは父親が残した実績と名声をひきつぎ、メロヴィング家の王を追い、751年に王位についた。これがカロリング朝の始まりです。
 ピピン3世が即位するにあたっては、ローマ教皇がかれの王位を認めました。宗教的権威をもって認めるので、教会の信者にとっては正統性を持つことになるわけだ。ピピン3世は、かわりにランゴバルド王国の領土を奪って教皇に寄進した。これを「ピピンの寄進」という。教皇領のはじまりです。これ以後ローマ教会は信者から領地を寄進されて大きな教皇領を持つようになるのです。
 これ以後フランク王国とローマ教会は一層緊密な関係になります。

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カトリック教会と西欧のキリスト教化
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 ローマ教会のことを再確認しておきます。
 ローマ教会はコンスタンティノープル教会やその他の教会と同じようにローマ帝国の中で発展してきましたが、西ローマ帝国滅亡によって国家の保護がなくなる。ただ、東ローマ帝国との連絡はあって、皇帝の指導下にあります。ユスティニアヌス帝が東ゴート族からイタリアを奪還したときにはローマ教皇はローマ地域の行政長官に任命されていて、ランゴバルド族の侵入で東ローマ帝国が撤退したあとも、ローマ周辺の統治権を握っていた。そういう意味では単なる宗教指導者ではなかったわけです。
 だから、ビザンツ皇帝の皇帝教皇主義には反対した。ローマ教会の独立性を主張する。そのためにも、ランゴバルド王国の北方で勢力を拡大しつつあったフランク王国と協力関係を結んでいって、政治上の庇護者にしようとしたのです。

 726年、ビザンツ皇帝レオン3世による聖像崇拝禁止令は、ローマ教会とビザンツ帝国の対立をうみ、東のコンスタンティノープル教会とローマ教会はその後分裂して発展していきます。
 コンスタンティノープル教会がギリシア正教会に、ローマ教会がローマ=カトリック教会として別々の宗派になっていきます。

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カール大帝
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 ピピン3世の子がカール大帝(位795~813)。カール大帝の時代にフランク帝国は大発展して、西ヨーロッパ全域を統一した。領土の大きさではビザンツ帝国に匹敵する大帝国です。
 このカール大帝にローマ教皇がローマ皇帝の冠を授けたのが800年。この時のローマ教皇の名前がレオ3世。聖像崇拝禁止令のビザンツ皇帝とは別人ですから注意してください。フランク王をローマ帝国皇帝と名乗らせることによって、西ヨーロッパはビザンツ帝国と対等だ、とローマ教会は主張したかったのです。この事件を「カールの戴冠」という。
 カール大帝がローマ人の血を引いているわけでも、フランク王国の首都がローマにあるわけでもないのですが、文明世界の代表、偉大なローマ帝国の理念が西ヨーロッパに復活したという意味で、大きな事件です。フランク王国自体も大きな権威を持つようになる。

 カール大帝の政策
 広い領土を支配するために各地に伯という長官を配置した。さらに伯の地方行政を監査するため巡察使を派遣しました。
 また積極的にキリスト教会を新たに領土になった地域に建設していきます。
 ローマ教会に属する修道院が各地にあるのですが、ローマ帝国が滅んだあと修道院は多くの書物や学問文化が伝えられているほとんど唯一の場所だった。そして修道士はインテリです。カール大帝はそういう学者でもある修道士を宮廷に集めて学芸を奨励した。これを「カロリング・ルネサンス」といいます。アルクインという学者が有名です。

 経済
 この時代のフランク王国の経済はどんなものかというと、自給自足の農業経済です。生産性は低くて小麦は播いた分の4倍しか収穫できなかった。穀物だけでは食糧不足だから豚などの家畜も必ず多数飼っていた。牧畜中心の農業です。
 古代ローマ時代のような地中海を中心とする遠隔地交易はほとんど潰れていて、フランク王国内でも商業は沈滞しています。流通も未発達。カール大帝の宮廷は一カ所に留まらずに常に国内を移動しています。なぜかというと、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がない。だからある地方の資源を消費し尽くすと、カールたちの宮廷は次の場所に移動してそこにあるものを食べる。食べ尽くすとまた移動する。「移動する宮廷」です。
 領域の広さや戦争の強さではビザンツ帝国と対等だったかもしれませんが、フランク王国は経済的には完全に辺境です。

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フランク王国の分裂
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 カール大帝の死後、フランク王国はその子孫たちのあいだで分割相続されます。843年のヴェルダン条約で、フランク王国は西フランク、中部フランク、東フランクに三分割されます。その後870年のメルセン条約で中部フランクの一部が西と東のフランク王国に分割されました。
 分裂した三つのフランク王国について簡単にみておきます。

 中部フランク王国は現在のイタリアになります。ここでは、早くにカロリング家が断絶し国家的な統一はなくなります。北部には諸侯や都市が自立化して分裂割拠状態。それに乗じて東フランクが支配権を及ぼすようになります。中部にはローマ教皇領があり、その南、イタリア半島南部とシチリア島はイスラム勢力により占領されます。

 東フランク王国はドイツになる。ここでも10世紀はじめにカロリング家が途絶えて、有力諸侯が王位につきます。王は有力諸侯が選挙で選ぶのです。これは日本的な感覚では理解しにくいですね。
 10世紀には東方から遊牧系のマジャール人が盛んに東フランク領内に侵入してきます。これを撃退したのがオットー1世(位936~973)。西ヨーロッパ世界を防衛した功労者ということでローマ教皇はオットー1世にローマ皇帝冠を授けた。これ以後ドイツは別名神聖ローマ帝国と呼ばれる。神聖でもローマでもないのですがね。
 これ以後の歴代のドイツ王は神聖ローマ皇帝をも名乗るようになる。ローマ皇帝という名前をもっていれば、イタリア半島を支配したくなるのですね。歴代ドイツ王はイタリア半島に軍隊を派遣して、ここを支配下に置こうとする。ローマ教皇もイタリアで有利な立場を築くために、ドイツ王の軍事力を利用したりもする。

 西フランク王国はフランスになります。ここでも10世紀後半にカロリング家は途絶えます。9世紀後半からノルマン人がフランスに侵入して略奪を繰り返すのですが、この時にパリ防衛で活躍した諸侯、パリ伯ユーグ=カペーがフランス王になる。これがカペー朝。
 この王家も選挙で選ばれたもので、実際にカペー家が支配していたのはパリ周辺の地域だけです。ほかの地方は有力諸侯たちの支配下にあった。

 まとめ
 フランク王国分裂以後はイタリア、ドイツ、フランスの原型ができるのですが、それぞれの国では諸侯の力が強く、イタリアでは王すらいない。フランス、ドイツでは王はいますが、有力諸侯の中から選挙で選ばれるのであってカール大帝時代のように大きな力は持っていません。ヨーロッパ全体が大小さまざまな諸侯のもとで分裂している。中世、典型的な封建時代の始まりです。

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オーギュスタン・ティエリ著。
著者は19世紀のフランス人。メロヴィング家のクローヴィスの孫の世代の王たちの物語です。ほとんど(いや、全く)授業のネタにはなりませんが、なじみのないフランク王国初期の政治、ゲルマン人とローマ人、キリスト教との関係など、少しイメージが具体的になりました。

第49回 西ヨーロッパ世界の形成 おわり

こんな話を授業でした

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