というわけで、ヨーロッパとイスラム世界の間の遠隔地貿易が十字軍をきっかけとして活発になる。イスラム世界から奢侈品を購入するんですが、ヨーロッパからは何を輸出するのか。
ちょうどこの頃から、フランドル地方と北イタリアで毛織物業が発展してくる。この毛織物が、いわばヨーロッパの特産品ですね。
フランドル地方というのは今でいうと、ベルギーからフランスにかけての地方です。
北イタリアの毛織物業の伝統は今もつづいているね。ミラノ・コレクションとか知っていますか?今でもイタリアは世界のファッションの発信地ですね。この当時の毛織物業の伝統が、そういう形でつづいているのです。
ヨーロッパとイスラム世界の交易が活発になってくると、ヨーロッパの内部でも交易圏ができてきました。そして、商業都市が発展します。
どんな交易圏ができたか。
ひとつは、地中海交易圏。北イタリアの都市を中心とするイスラム世界との交易圏です。
ヴェネツィア、ジェノバ、ピサが代表的な都市。
有名なマルコ=ポーロはヴェネツィアの商人。アメリカにいくことになるコロンブスはジェノヴァ出身の船乗りです。
この地域はイスラム世界から香辛料、絹織物、綿織物などを輸入する。香辛料は特に記憶に留めておいてください。
輸出品は、毛織物と南ドイツでとれる銀が中心でした。
もうひとつがバルト海・北海交易圏。中心はフランドル地方の毛織物輸出地であるブリュージュ。そのほかハンブルグ、リューベック等の北ドイツの都市が有名です。
ここでは、ポーランド、ロシア方面の木材、海産物、毛皮などが毛織物とともに取り引きされます。
北の北海・バルト海交易圏と、南の地中海交易圏をつなぐ場所、フランスのシャンパーニュ地方、南ドイツのアウグスブルグも発展しました。
商業が発展し、都市が繁栄し豊かになってくると、諸侯はここから利益を引き出そうとします。
封建時代のヨーロッパは弱肉強食、戦国時代みたいなものですから、都市も自衛しなければいけない。そこで、諸侯の略奪や圧迫に対抗して、都市同士が同盟を組むことがあった。
有名なのが、北イタリアのロンバルディア同盟、北ドイツのハンザ同盟。ハンザ同盟はヨーロッパ各地の都市に出張所をおいて自分たちの利益を守ります。軍隊まで持っていた。
ルフト=ハンザというの、知ってますか。ドイツの航空会社。ハンザ同盟が名前だけですが残っているのです。
都市はまた、自分たちの利益を守るために自治権を獲得していきます。諸侯と対抗し自治権を確保するために、都市は国王や皇帝と結びつく。国王や皇帝は都市に自治を認める特許状を発効してやるんです。これで、都市は大手を振って諸侯の支配を排除します。
ただし、都市は自治の代わりに国王や皇帝に商業税を納めます。これが馬鹿にならない。フランス国王ルイ9世の収入の40%、ドイツ皇帝フリードリヒ2世の収入の80%は都市からの収入だったといいます。
だから、王や皇帝は都市を保護する。都市が繁栄すればするほど自分も儲かりますからね。
やがて、都市から税金を取れない諸侯と国王との力の差がやがてどんどんついていくことになります。
ヨーロッパのこういう自治都市と同じようなものが日本にもありました。戦国時代です。有名なのが堺。ここでは海外貿易をおこなう豪商たちが戦国大名の支配をはねのけて自治をおこなっていました。今でも少し残っていますが町の周囲には堀をめぐらし、自分たちで武士を雇って外部勢力から都市を守った。合戦で敗れた武士が堺に逃げ込んだら、追っ手もそれ以上手を出すことはできなかった。敵味方が堺の町中で出会っても刀を抜きあうことはなかった、といわれます。
ヨーロッパの自治都市とすごく似ています。ただ、日本には自治都市に特権を与えるような勢力がありませんでしたから、堺の場合は信長に屈服して自治権を失いました。
有名な千利休、茶道の御師匠さんとして日本史の教科書に載っていますが、そもそもは堺の豪商ですね。堺が自治権を失ってしまうので、最後には秀吉のお側衆になってしまいますが。要するに堺は貿易都市として経済的に重要だったので信長も秀吉も堺の者を身近においているんです。
話がそれてしまいましたが、ヨーロッパの自治都市でも有力商人たちが町の政治を運営しました。都市の中では商人、職人の親方、徒弟など、いろいろな身分があるんですが、諸侯の支配下の農奴から見ればそこは自由な世界でした。荘園から農奴が都市に逃げ込んで一年間捕まらなければ自由な身分になれる、という法もありました。
それをあらわした「都市の空気は自由にする」という言葉が有名です。
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農民の前進と荘園制の解体
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農村にも変化があらわれます。
イギリス、フランスでは、農奴身分から独立自営農民と呼ばれる自作農民に上昇するものがあらわれてきます。
身分が上昇する原因は大きく二つある。
一つは商業の発展と関連がある。商業が発展するにつれて、貨幣経済が農村にも浸透してくる。貨幣経済に巻き込まれて贅沢を覚えてしまった領主はお金が欲しい。そのために労働地代や現物地代に代わって貨幣地代を導入するようになります。領主の館や直営地で働くことが減ってくるわけだ。
そうすると、領主の農奴に対する人格的な束縛がゆるくなってドライな地主・小作関係に近くなってくる。それから、農業技術も発展して収穫が多くなってきていますから、農奴も一所懸命に働いて年貢を納めた残りを貯めることが可能になります。お金を蓄えた農民はその地位を向上させていきます。自営農民として成長してくる。
それ以前の時代には、現物経済中心で農村にはお金そのものがなかったので、お金を貯めることすらできなかったのですから、ものすごい進歩です。
農民の地位が向上したもう一つの理由はペストの流行です。
14世紀から、ヨーロッパでペストの大流行が繰り返し起こります。アジアで流行していたペストが東西交易ルートに乗って西に進んできて、ヨーロッパでは1348年にイタリアで最初に発生しました。貿易船によって運び込まれたネズミに寄生するノミにペスト菌はついていた。
その後はヨーロッパ全土に広がった。当時、急発展していたヨーロッパの都市は人口急増のため衛生状態がよくなかったので、爆発的にペストは広がったようです。
ペストは飛沫感染で広がっていって、感染すると紫色の斑点ができる。肌が黒く変色したように見えるので、黒死病と呼ばれた。感染して一週間くらいであっという間に死んでしまうので、非常におそれられました。一つの村が全滅するとかいうことも珍しくなかったようで、ヨーロッパの人口の四分の一、または三分の一がペストで死んだといわれています。
ペストの原因も治療法も全然わからないわけで、当時の人々にはものすごい恐怖だった。「死を想え」という僧侶の説教が流行したり、ゾンビが「お前もやがて俺みたいになるぞー」と生きている人を誘っている絵が流行ったり、ペストを神罰と思う人たちが自分の体を鞭で打ちながら町から町へ遍歴したり。鞭打ち苦行者の持っている鞭というのは先っぽに釘が仕込んであって、それで自分の背中を打つから血がだらだら流れる。これを集団で、町の広場で一般の人たちが見ている前でやるんだね。不気味でおどろおどろしい風俗ですが、当時の人達の恐れを伝えています。
しかし、死んだ人はかわいそうだが、何とか生き延びた農民たちにはいいことがあった。
人が死んでも、荘園の農地が減るわけではないので、どこの荘園でも人手不足、農民不足になります。領主たちは、ほかの荘園よりもいい条件で農民を集める。本来農奴には移動の自由はありませんが、逃亡先の領主がかくまってくれれば何もこわくはない。領主間の農奴の引き抜き合戦が始まる。その結果、農奴の地位や待遇はどんどんよくなっていくわけです。
いったん地位が向上し、自信を持ちはじめた農民は、もう昔のように領主の言いなりになったりはしない。これに対して、領主層が再び農民を押さえ込もうとする動きも出てきます。こういう状況の中で、先進的な地域のフランスとイギリスで大規模な農民反乱が起こります。
北フランスで起きたのがジャックリーの乱(1358)。
当時、イギリスとフランスは百年戦争という戦争をしていた。北フランスは戦場になってさんざん略奪されていた。ところが領主達は自分の荘園の農民を守りもしないで、重税をかけてくる。とうとうたまりかねた農民たちが大反乱を起こしたのです。ジャックリーというのは貴族たちが農民を馬鹿にして言う呼び方で、人名ではありません。
反乱は鎮圧されますが、農民の力が領主をも脅かすようになっていることを証明しました。
イギリスで起きたのがワット=タイラーの乱(1381)。ワット=タイラーは指導者の名前です。これも百年戦争中のことで、農民たちは重税で怒り爆発。この農民反乱はロンドンを占領する。大成功だね。国王は反乱の代表者と会って、農民の要求を聞いた。農民の要求がすごいです。農奴制の廃止。
国王はいったんは減税を約束してこの要求を受け入れるふりをしましたが、後でワット=タイラーと会見した際に、だまし討ちで殺してしまった。それ以後、反乱は鎮圧されていきました。
この反乱の指導者の一人にジョン=ボールという僧侶がいます。この人の残した言葉は非常に有名なので覚えておくこと。
「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったか?」
身分制度そのものを強烈に批判していたのです。
第52回 ヨーロッパ中世世界の解体 おわり
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