世界史講義録
  

第53回  西欧各国の王権

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王権の拡大と教皇権の衰退
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 フランスやイギリスでは荘園制が解体し諸侯が没落するのとは反対に、王の力がどんどん強くなっていった。
 商業が発展するにつれて、都市に特権を与えている王は税収が増えた。経済力がつくにしたがって権力も強化されてきます。

 ヨーロッパで王以上に大きな権威を持ってきたのがローマ教会でした。カノッサの屈辱ではドイツ皇帝が雪の中で三日三晩詫びつづけてようやくローマ教皇の許しをえたという話を以前しましたね。

 ところが、十字軍の失敗以降教皇の権威はどんどん落ちて、王が教皇をとらえたりする事件が起きます。

 「教皇のバビロン捕囚」(1309~77)は、フランス王が教皇をローマからフランス国内のアヴィニヨンに移してロボット同然に操った時代をいいます。その後も複数の教皇が同時に出現して、諸勢力の傀儡になる時代がつづきます。「教会大分裂」という(14世紀後半)。

 こうなってくると教会の権威も形無しで、こんな教会などは無くたってかまわない、という考えも出てくる。イギリスのウィクリフ(14世紀)はそういう立場から教会を徹底的に批判した僧侶です。ベーメンのフスもウィクリフの影響を受けて教会批判をした。

 教会の混乱を解決するために1414年から18年までコンスタンツの公会議が開かれ、ようやく教会は統一を取り戻すのですが、フスはこの会議に呼び出され、火あぶりで処刑されてしまった。ローマ教会は力づくで何とか権威を取り戻そうとしたのです。

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フランスの王権伸張
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 王の権力がどのように強くなっていったか具体的に見てみよう。まずは、フランスから。

 フランスはカール大帝のカロリング朝が途絶えたあと、選挙でカペー家がフランスの王位につきます。カペー家はパリ周辺の地域にしか権力の及ばない、名目だけのフランス王と言ってよいものだった。フランス国内には、ナントカ公国とか、ナントカ伯領といった事実上の独立国がたくさんあった。これはドイツも同じですけれど。

 この弱かったカペー朝を大きくしていく最初の王がフィリップ2世(位1180~1223)。当時フランスの北岸にはノルマンディー公国があった。ここの支配者は同時にイギリス王でしたね。つまり、フランス国内にあるノルマンディー公国はイギリスの領土だったわけだ。
 フィリップ2世の時のイギリス王がジョン(位1199~1216)。フィリップ2世は、ジョンと戦争をして、ノルマンディー公国をフランスの支配下に入れた。王権が及ぶ範囲をグッと広げたわけです。

 このイギリス王ジョンは、歴代イギリス王の中でも評判が悪い。失政が多くて、以後イギリス王室はジョンという名前を王子につけていません。ヨーロッパ人というのは名前のパターンが少ないので、ナントカ何世と、ナンバーをつけて個人を区別するのですが、ジョンは2世がいない。

 さらにフィリップ2世は「アルビジョワ十字軍」をおこなった。当時フランス南部にはまったくと言ってよいほど国王の力は及んでいなかった。諸侯の独立状態です。その南部フランスで流行していたのがアルビジョワ派というキリスト教の一派でした。これがローマ=カトリックとは異なる異端ということで、アルビジョワ派弾圧のための軍隊を送る。これがアルビジョワ十字軍。
 十字軍といいながら、実態は南部の地域にフランス王の権力を浸透させるための戦いでした。
 つまり、ジョンとの戦争で北部、アルビジョワ十字軍で南部にフランス王の支配権を拡大した。

 次に大事なのがフィリップ4世(位1285~1314)。この王は国内の教会への課税問題をきっかけにローマ教皇とケンカをする。ついには教皇ボニファティウス8世を捕らえて監禁する事件を起こした。アナーニ事件(1303)といいます。
 ついでに教皇をアヴィニヨンに移して、フランス王の傀儡にした。これが、先ほどの「教皇のバビロン捕囚」です。

 フィリップ4世はローマ教皇と事を構えるときに三部会という会議を開催している。国内の貴族、僧侶、平民、平民と言っても都市の裕福な商人ですが、この三つの身分の代表者を集めたので三部会というのです。フィリップ4世としては、教皇と対立するのに国内の支持がほしいわけですね。以前、叙任権闘争でドイツのハインリヒ4世が教皇と対立したときに国内の諸侯にそむかれて「カノッサの屈辱」が起こりました。国内をまとめておかなければ教皇との争いは不利になるかもしれないからね。三部会で国民の国王の方針への賛成を求めた上で教皇とケンカをしているのです。この三部会が、後の時代の国会のもとになっていきます。ちょっと記憶に留めておいて下さい。

 フランスの王権を発展させたフィリップ4世ですが、死後は三人の息子が順繰りに即位して、そのあと血筋が途絶えてしまった。カペー朝の断絶です。

 このあとヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位しヴァロワ朝が始まります。この人はフィリップ4世の甥にあたる。ヴァロワ家はカペー家の分家です。

 このヴァロワ家の即位に反対したのがイギリス王エドワード3世。この人の母親がフィリプ4世の娘。イギリス王家に輿入れしたんだ。だから、エドワード3世はフィリップ4世の孫にあたる。孫の自分にフランス王位継承権がある、そう言ってフランスとフィリップ6世の王位に反対しフランスに進軍、百年戦争(1339~1453)が始まりました。

 戦争の原因はもうひとつあって、フランドル地方の領有問題です。フランドル地方は毛織物工業の中心地帯で、イギリス王はここを欲しかった。フランス王国は王の力が強くなってきたといってもまだまだ諸侯の力が強く、各所領の領有関係は複雑だったから、充分イギリス王にも付け入るチャンスはあったのです。

 百年戦争は正確には百年以上あるのですが、大ざっぱに百年戦争といっていますね。戦場はフランス国内です。百年間ずっと両国が戦火を交えていたわけではなくて、大きな戦いのあとは長い休戦期間が続きます。
 両国とも傭兵が兵力の中心なので、資金がないと戦争ができないのです。兵隊を雇えないからね。決戦が終わったあとは、また次の戦闘のための資金、物資調達のためにしばらく戦争はお休みになる。そういう意味ではのんびりしている。

 ただ、一般の民衆にとっては戦争がないときのほうが、被害が激しいのです。傭兵たちは戦争がないときは、一般民衆を略奪して生計を立てますからね。

 この戦争は、イギリス側の優勢のうちに進みます。フランスは諸侯間の対立が激しくて、必ずしも国王のもとに一致協力していない。フランス王の叔父である大諸侯がイギリス側についたりして、フランス北部はほぼイギリスに占領されていきます。

 クレシーの戦いの絵がありますね。イギリス側が大勝した戦いです。左側がイギリス軍。右側がフランス軍です。武器に注目してください。
 フランス側の歩兵が持っている弓。これはイシユミといって、機械仕掛けの弓です。ハンドルを回して弦を張ります。そこに矢をつがえて引き金を引いて発射する。貫通力はあるのですが、一本の矢を射るのに時間がかかる。騎士の厚い鎧を貫くためにはこのような弓が有効だったんですが、発射準備に時間がかかる。騎士が戦いの主力だった時代の歩兵の武器でした。
 それに対してイギリス側は長弓という武器を持っていますね。これは、普通の弓です。ただ少し長くて飛距離と貫通力に優れている。何よりも機械仕掛けではないので簡単に射ることができる。長弓は一分間に10~12、イシユミは2回、というのが発射回数です。この差がイギリス軍の優勢をもたらしたともいわれている。

 戦争のさなかにペストは大流行しますし、北部では農民反乱「ジャックリーの乱」がおきたりして、もうフランスは滅茶苦茶です。

 フランス側が劣勢のうちに、フランス王は発狂してしまう。フランス諸侯もまとまりがないままに、やがてはイギリス王が正式にフランス王位につくまでになるんです。発狂した王の息子シャルルはフランス南西部にわずかに勢力を保って戦いつづけますが、いかにも劣勢でフランスはイギリスによって併合される寸前までいく。

 ここに登場するのがジャンヌ=ダルクです。ドン=レミ村という田舎の村の平凡な農家の娘です。ジャンヌの生まれた家が今も残っていて、どちらかというと大きな家でわりと豊かだったようです。
 信仰心の厚い娘だったようです。ジャンヌは13歳頃から時々神の声を聴くようになる。18歳の時にまた、声が聞こえた。「王のもとへ行け。フランスを救え。」と。1429年2月のことです。

 抗戦をつづけるフランス王子シャルルのもとに出向いて、一軍を自分に授けるように願い出ます。シャルルは彼女に一軍を任せて出陣させるんですな。
 ここのところが、不可思議で釈然としないんです。いきなり田舎の娘が王子に面会できるのも不可解、素人の18歳の女の子に軍隊を授けるのも不可思議ですね。
 ジャンヌは自分の村の近所に駐屯していた部隊の隊長を通じて王のもとにおもむいたらしいのですが、それにしても唐突な登場の仕方です。負けそうなフランス軍の士気を高めるために広告塔として、いたいけな女の子を使おうとした策士がどこかにいたのかもしれませんね。

 さて、ジャンヌはオルレアンという町に向かいます。この町はフランス側の拠点なのですが、当時イギリス軍に包囲されて陥落寸前だった。フランス軍はジャンヌの活躍によってこの町を解放するのに成功します。一躍オルレアンの少女ジャンヌ=ダルクの名前は両軍に知れ渡ることになった。以後、ジャンヌは各地を転戦して回ります。必ずしも常に勝利したわけではありませんが。また、戦場で彼女がどんな役割をしたのかもよくわかりません。戦場で負傷したこともありますが、実際には旗を振り回して「がんばれー!負けるなー!神の御加護がフランス軍にはあるんだよー!」と応援していただけかもしれない。
 兵士はむさ苦しい野蛮な男たち、その中に女性が現れて兵士たちも頑張ってしまったのかもしれない。

 これ以後、フランス側は劣勢を挽回して逆にイギリス勢力を追いつめていきます。シャルルは自信を持って正式に即位しシャルル7世となります。

 さて、ある程度フランスの優勢を確保すると、シャルルは外交交渉でイギリスを撤退させようと考え始めます。ところが、ジャンヌは戦いに自信を持ってしまって、外交交渉にはしるシャルルを責め立てるのです。もっと戦え、私に軍隊をよこせってね。シャルルはだんだんジャンヌが邪魔になる。劣勢を挽回するには功績があったけれど、しょせん田舎娘で政治の駆け引きなどはわからぬ奴、というわけです。

 このあと戦闘で敗れたジャンヌはイギリス軍の捕虜となる。当時捕虜は殺してはいけないことになっていた。普通は身代金を取って釈放するのですが、イギリス側は何としても殺したいので、裁判にかけました。
 彼女がかけられたのが宗教裁判です。ローマ教会が教えに背いた異端や魔女を裁いて処刑する権利を持っていた。この裁判に彼女はかけられた。この裁判記録が残されていてジャンヌの人となりが多少ともわかるのです。

 ジャンヌは敬虔な信者で自分を魔女とか異端とか思っていない。ただ、神の声が聞こえて、その声に導かれて行動しただけです。教会としては、勝手に神の声が聞こえてもらっては困る。あくまでもローマ教会を通じて信者は神と結びつくべきなのですからね。そういう意味でも、ジャンヌは裁かれざるをえなかった。

 しかし、裁判の過程で彼女が異端の信仰を持っているとか、魔女だとかいう証拠は出てこない。最後に彼女は火あぶりで処刑されるのですが、罪状は男装をしていたということでした。聖書に女性が男装をするのを禁じているらしい。しかしジャンヌは男装をしていた、という罪です。戦場に行くのに女性がスカートというわけにはいきませんよね。しかし、そんな罪状で死刑が決定したのです。

 処刑されるときには大勢が見物に来ていた。彼女を縛りつけた杭の下で火が焚かれるのですが、ある程度時間がたって彼女の服が焼け落ちたところで、一旦火が遠ざけられます。それで、集まった見物人に彼女が確かに女であることを確認させました。ひょっとして男だったら罪になりませんから。
 こんなふうに彼女は処刑された。シャルル7世は彼女を見殺しにしたのです。

 戦争が終結して、フランスがイギリス軍を追い出したあと、ジャンヌと一緒に戦った人たちはふと考え出す。いったいあの少女は何ものだったのか。彼女の故郷を訪ねて幼い頃の彼女を知る人から証言を集めたりする人もいました。

 やがて、だんだんと彼女はフランスを救った英雄だったと見直されていくことになるのです。大々的に人々が彼女を讃えるようになるのは19世紀の半ば以降のことでした。一年そこそこの彼女の活動は何となく神秘的な所があるので、物語として世界中に知られるようになった。
 彼女を処刑したローマ教会も今では聖女と認めていますが、正式に名誉回復させたのは20世紀に入ってからです。

 ジャンヌの話は百年戦争を彩るエピソードとして知っておけばいいです。

 さて、シャルル7世は百年戦争に勝利し、カレーという町を除いてイギリス勢力を完全にフランスから追い出しました。この戦争の過程でフランス国内の諸侯の勢力も弱まって、結果的にフランスの王権は強固になった。シャルル7世はその後大商人の力を借りながら中央集権化を進めていきました。

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イギリス
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 百年戦争の前からイギリスでは比較的王権が強かった。もともとノルマン征服でできた王家ですから。

 ノルマン朝が途絶えたあとはプランタジネット朝が成立します。この王家もフランス出身で、フランスに領土を持っていたので、イギリス王の領地がフランス国内で広大になった時期。

 この王家のジョン王がフランスと戦争して領土を失ったという話は先ほどしましたが、このジョン王に関してはもうひとつ覚えることがある。

 マグナ=カルタ(大憲章)です(1215)。ジョンはフランスとの戦争のために国内の領主や都市からどんどん税金を取ろうとした。それに対して諸侯、都市が勝手に課税しないように、従来の自分たちの権利を尊重するように王にせまって約束させた文書です。

 一応イギリス議会政治発展の第一歩といわれています。

 このあとも王は諸侯や都市を無視した行動が多かったのでシモン=ド=モンフォールという貴族を中心に身分制議会が召集されました(1265)。各身分の代表者が集まるので身分制議会という。フランスの三部会と似たようなものです。

 その後も議会を招集して王と貴族たちとが意見調整することがイギリスでは続いていく。14世紀中頃には「模範議会」と呼ばれるようになる。身分制議会が貴族院、庶民院という形を取るようになるのです。

 さて、百年戦争に敗北したあと、イギリス国内では王家の責任問題になる。長年多額の戦費や人材を投入した戦争に敗れたのですから、責任追及が起きるのは当然だね。これが王位をめぐる争いに発展して「ばら戦争」(1455~1485)が始まります。

 ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって戦う。ランカスター家の紋章が赤ばら、ヨーク家の紋章が白ばら。ばら同士の戦争だから「ばら戦争」とロマンチックな名前が付けられています。名前とは裏腹にこの戦争はイギリス中の貴族が二派に分かれた熾烈な内戦になります。
 泥沼の戦争はランカスター家、ヨーク家の両方の血を引くチューダー家出身のヘンリ7世が即位してようやく終結しました。
 これがチューダー朝。ばら戦争で有力貴族は衰退して、国王は中央集権化を強く進めていくことになった。

 まとめておきます。
 イギリス、フランスとも百年戦争、ばら戦争を通じて王権が強化された。

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ドイツ
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 イギリス、フランスとは反対にドイツでは諸侯の権力が強まります。ドイツは神聖ローマ帝国ですね。皇帝は選挙で選ばれるので、もともと強大ではない。それに、ローマ皇帝という名前に引きずられてイタリア方面の支配に勢力を注いでドイツがお留守になることが多かった。その結果、ドイツの諸侯はのびのびやる。
 1256~1273年には皇帝がいない状態にまでなります。これを大空位時代という。諸侯の力はますます強まる。

 神聖ローマ皇帝を決めるにはローマ教皇の権威が必要だったのですが、14世紀にはローマ教皇がフランス王のロボットになった。教皇のバビロン捕囚でした。これに対して新しい神聖ローマ皇帝の選び方を決める必要ができた。それを定めたのが「金印勅書」(1356)。ドイツ国内の有力7諸侯が皇帝を選挙する仕組みを決めたものです。これ以後、神聖ローマ皇帝は名誉職のようなものになりました。諸侯の領土はそれぞれ独立国のような形になる。ドイツ国内の諸侯の国を特に領邦といいます。

 15世紀後半からはハプスブルグ家が神聖ローマ帝国皇帝に連続して選出され、事実上帝位を世襲するようになります。やがてはヨーロッパの名門中の名門となる。フランス革命で有名なマリー=アントワネットはこの家出身のお姫様です。ハプスブルグ家の子孫は今でも健在でヨーロッパ連合の議員などをやっているようです。

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イタリア
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 イタリアもドイツと同じで分裂状態がつづく。。特に北部は都市の力が強く、いくつかの有力都市国家に分裂しています。中部はローマ教皇の領土となっている。イタリア半島全体を統一する中央集権国家は登場する余地がありませんでした。

 まとめておきます。
 イギリス、フランスは戦争の末、15世紀末には中央集権国家へと変化を始めるが、ドイツ、イタリアは分裂状態がますます固定化されていく。

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英仏百年戦争 (集英社新書) 佐藤 賢一著。
中世フランスを舞台に、エンターテイメント小説を次々と発表している作者が、百年戦争をわかりやすく解説した本です。戦争の解説そのものよりも、イングランドという国が、フランス諸侯の辺境領土に過ぎなかったことを、あからさまに解説してくれているところがこの本の魅力。イングランド王が、フランス語を話しフランスに住んでいたのがいつごろまでだったかわかるだけでも目から鱗。

第53回 西欧各国の王権 おわり

こんな話を授業でした

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