世界史講義録
  

第55回  大航海時代2

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大西洋をこえて
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 ポルトガルはアフリカ大陸を南下してインド航路を開拓していたのですが、このときスペインはどうしていたか。実は、ポルトガルにおくれをとってインド航路開拓をできない状態だった。

 バルトロメウ=ディアスが喜望峰に到達した段階(1488)で、ポルトガルが直接インドにいけることはすでにほぼ確実です。ポルトガルとしては苦労して開拓してきた航路を独占したいと思うのは当然で、他国の船団がアフリカ西岸を南下しないように早い段階で手を打っている。
 「ギニア海岸に接近した外国船はたちどころに撃沈または捕獲さるべきこと。とらえられた船の士官と乗組員は、この方面に棲息するサメ群のなかへなげこまれるであろう」



 これはポルトガル王ジョアン二世が1481年に出した布告です。すでに喜望峰到達以前から航路独占を考えているのがわかる。そして、1491年にはベニン湾のエル・ミナという所に大規模な要塞と倉庫の建設を始めています。

 だから、スペインがアフリカを廻ってインドをめざすのはすでに非常に難しい状態です。
こういうときにあらわれるのがコロンブスです。
 コロンブスはイタリアのジェノバ出身の船乗り。商売をしているうちにポルトガルの有力者の娘と結婚してアフリカ沿岸の航海もしています。このころからコロンブスは地理書などを研究して西廻りインド航路について研究を始める。ちょうどイタリアの地理学者トスカネリという人が「地球球体説」を唱えていて、コロンブスは西廻りでインドに到達する可能性を問い合わせて賛成意見をもらったりしている。
 コロンブスはアラビアの地理書とかマルコ=ポーロの『世界の記述』とか、とにかくいろいろ情報を集めて大西洋を渡ればインドに到着できると確信して、自分の計画をポルトガル国王に売り込む。ですがアフリカ廻りのインド航路開拓が着々と進んでいましたからポルトガルはかれの計画を受け入れなかった。

 そこで、コロンブスは自分の計画をスペイン、イギリス、フランスなどポルトガルに遅れをとっている大西洋岸の国々に売り込む。だけど、どこでも取り合ってもらえないのですね。なぜかというと、一つは成功するかどうかわからない。失敗してもいちかばちかやってみればと思うけど、遠洋航海というのは当時莫大な費用が要った。
 たとえば、こんな数字があります。16世紀初めにポルトガルがインドに船団を送るための費用です。これが、1年で22万クルザード必要だった。ところがポルトガル王室はそのうち5万クルザードしか用意できていないのです。残りの資金はジェノバ、南ドイツの商人などから借りている。大船団をインドまで送るのに王室の財源だけではまかなえないほど多くの資金が必要だったということだね。

 だから、当然コロンブスの計画を実行しようとすれば莫大な資金が必要。しかも、成功するかどうかいっさい保障はない。どこの国でも躊躇します。

 ところが、1492年、スペインがグラナダを陥落させてレコンキスタが終了した。余裕ができたスペインはコロンブスの計画を受け入れる決定をします。このときのスペインの女王がイザベラという。覚えること。

 今から8年前、1992年はコロンブスの航海成功の500周年ということで世界中でいろいろな催しがあった。映画も私が知っているだけで2本作られている。そのうち『1492コロンブス』という題名だったと思うのですが、これはそれなりに史実に忠実らしいので興味があったら見てみてください。この映画では、イザベラ女王が異性としてコロンブスに惹かれてかれの計画に許可を与えたという設定になっていたけどね。
 『エイリアン』のシガニー・ウィバーがイザベラ女王をやっている。コロンブスはフランス映画に必ず出てくるジェラール・ド・パルデュー。知らないか。

 コロンブスは、スペイン政府に対してきっちり成功報酬も要求している。紹介しておきましょう。
 インドで発見した宝の10分の1を自分のものとすること。発見した土地の総督と副王の地位。大洋提督の称号。スペイン貴族に列する事、などです。かなりの強欲。しかし、コロンブスにとっても命がけだからね。確実にスペインに富をもたらすのだからそのくらい自分の取り分を要求しても当然だと考えたのだろう。


 コロンブスは、1492年8月3日パロス港を出発した。コロンブスが乗るのがサンタ・マリア号。復元写真が資料集に載っていますね。積載能力150トン、全長23メートル、幅7.5メートル。三本マストの当時としてはごく普通の船だそうです。だいたい教室三つ分くらいですね。
 残りの二隻はピンタ号とニーニャ号。こちらはサンタ・マリア号の約半分の大きさです。
 乗組員は、なかなか集まらない。何しろだれも行ったことのない西廻り航路です。インドに着くどころか、途中で世界の端っこの大きな滝に落ちて死ぬかもしれない。そこで囚人も頭数あわせで船に乗せましたから、未熟練者が多かった。

 約二ヶ月間陸地を見ることなく、西へ西へと航海はつづきます。なかなか陸地が見えないので乗員の不安が高まり反乱が起きそうになったりもしますが、コロンブスは成功時の報酬をつりあげたり、脅したりしながら航海をつづける。
 ついに、10月12日に現地ではグアナハニと呼ばれた島を発見して上陸しました。これが、現在のサン・サルバドル島です。バハマ国の領土になっています。大きな地図でないと確認できないような小さな島です。

 昔はこの事件をコロンブスの「新大陸発見」と言っていました。しかし、アメリカ大陸には数万年前から人類が住んでいるのであって、この言い方はヨーロッパ人にとっての「新大陸」「発見」でしかない。今ではヨーロッパ中心の偏った表現として意識的に避けられています。「大航海時代」と呼ぶのが今では一般的です。
 もう一つ言っておくと、この航海でコロンブスは西インド諸島の島々を探検しましたが、アメリカ大陸そのものには到達していません。現在のわたしたちは世界地図をもっていて、アメリカ大陸の地形がどうなっているのか知っていますから、コロンブスの航路を見ると何をカリブ海でチョロチョロしているんだと感じてしまいますが、コロンブスたちにとっては初めての世界でちょっとずつ確認しながら航海しているからこうなるんですね。

 とにかく、サン・サルバドル島に上陸したコロンブス一行はここをスペインの領土と宣言します。
 コロンブスの計算では、ここはジパング周辺の島に間違いない。そこで、原住民と接触して情報を得ようとする。原住民は装身具に金をつけていた。ジパングは黄金の国ですから、なかなかそれらしい。
 ところが香辛料がないのですね。インドなら香辛料があるはずなので、まだインドからは遠い。そこで、その後約三ヶ月間コロンブスは周辺の海域や島々を探索してインドへの入り口を探します。そんなものは見つかるはずはないのですが、コロンブスはここをインドの一部ないしは周辺と信じて疑っていません。

 この間にも事件は起きていて、11月にピンタ号が行方不明になっている。理由はわかりません。抜け駆けしてスペインに帰ろうとしたのかもしれない。12月にはサンタ・マリア号がハイチで座礁してしまう。残りはニーニャ号一隻だけ。全員が乗れないので、サンタ・マリア号の材木を利用して砦をつくってここに39名を残して1月、コロンブスは帰路につきました。

 香辛料は発見できなかったけれど、とにかくインド周辺まで行って帰ってきたので、コロンブスの航海は大成功として受け取られました。コロンブスはイザベラ女王の前で報告会をひらく。コロンブスは持ち帰った金を女王に献上し、連れ帰った7人の原住民に賛美歌を歌わせた。なかば誘拐してきて無理矢理覚えさせたんだろうね。

コロンブスの考えた地形

 早速1493年には、コロンブスは第二回目の航海に出発します。今度は17隻の大船団、総勢1500人の探検隊。黄金と香辛料を是非とも探そうというわけだ。ハイチの砦に戻ってみると残していった船員は原住民の襲撃をうけて全滅していた。
 その後いくら探しても香辛料は発見できない。期待は一気に不満に変化していきます。
 結局コロンブスは合計4回航海をするのですが、到達した場所がインドの一部という証拠を見つけることができなかった。コロンブスが到達したのはインドやアジアではないといわれだして、コロンブスは失意の晩年をおくりました。
 ただ、子孫は約束どおり海軍提督の地位が与えられた。8年前の500周年のテレビ番組見ていたら、コロンブスの子孫が出てきました。ちゃんとスペイン海軍提督の服を着てね。

 コロンブス以後、多くの探検家がアメリカに向かいました。
 代表的な人物だけ紹介しておきます。
 まず、カブラル。この人はポルトガルの船乗りです。ヴァスコ=ダ=ガマが1498年第一回目のインド航海から帰ったあと、ポルトガル政府からインドに派遣されたのがカブラル。ところがアフリカの西を南下している途中で嵐に流され、大西洋を横断してしまった。着いたのが現在のブラジルです。ブラジル、と言う名前は「カブラル」からきたものです。(注:この部分は、誤りです。ブラジルの国名は、インド・マレーシアでブラジルとよばれていた木の原種が1540年に発見されたことに由来しているようです)
 コロンブス以来アメリカ方面は基本的にスペインの勢力範囲になっていたのですが、カブラルのおかげでブラジルだけはポルトガル領になりました。現在でも、中南米諸国はスペイン語を話しますが、ブラジルだけはポルトガル語ですね。
 カブラルが全然帰ってこないので、しびれを切らしたポルトガル王は、再度ガマにインド航海を命じます。これが、ガマ二回目のインド航海。この話は前回したね。

 次は、イタリア生まれのアメリゴ=ヴェスプッチ。この人はアメリカへ行った航海者たちの記録を検証して、アメリカがアジアではないことを論証した。アメリカという呼び名はアメリゴに由来します。

 アメリカがアジアとは全然別の土地ならば、インドはさらにアメリカの向こう側ということになる。当時の地理的知識は不十分だから、アメリカ大陸のかたちがどうなっているかも判らないわけで、多くの探検家がアメリカ大陸の向こう側に抜けようと探索をします。

 アメリカ大陸で東西が一番細くなっているところがパナマ地峡です。ここを横断して太平洋をはじめて見たのがスペインのバルボア。かれは黄金を求めて探検していてたまたまパナマ地峡を横断した(1513)。特にアジアにつながる海を探していたわけではありません。

 はじめて船に乗ってアメリカ大陸の反対側に出たのがマゼランです。そのままかれは世界周航を成し遂げた(1519~22)。
 マゼランはもともとポルトガルの船乗りで、インドやマラッカに航海した経験もあった。ですが、待遇問題でポルトガルに不満を感じてスペインに移ります。ポルトガルはインド航路で収益をあげていますから、スペインとしても早く西廻り航路でインドにたどり着きたい。マゼランは、この実現を期待されて1519年、5隻の船に約250人の船員を乗せて出発しました。
 南米大陸南端の海峡、のちにマゼラン海峡と名付けられるのですが、ここを通過して太平洋に出たのは有名です。

 マゼラン以前にもアメリカ大陸を抜ける海峡を探した船乗りはたくさんいた。たとえば、ラプラタ川というでっかい川がある。河口は100キロ以上あって、とても川とは思われない。大陸を抜ける海峡だと思って何日も航海していくとどうも様子がおかしい。試しに海の水を飲んでみると塩辛くないので、はじめて川だとわかって引き返す。ほかにはミシシッピー川とかね、こういうことがしょっちゅうあった。

 マゼラン海峡は潮流が速く風も強いところで、現在でも航路としてはあまり使われないといいます。ここを水深を測りながら少しずつ、文字通り手探りで進みます。浅くなっていれば引き返す。しかも非常に狭い海峡だから、少し操船を間違えればすぐに座礁してしまう。地図をみているとこんな所を抜けることができたのは奇跡に近いと思う。
 こんな航海をつづけて無事インドにいけるなんて普通は思えませんね。実際、マゼラン海峡通過以前に5隻の船団のうち1隻は難破、1隻は逃亡します。

 マゼラン海峡を抜けてアメリカ大陸の西側に出たマゼランはしばらく北上します。太平洋を広い海とは思っていなくて、北に進めばすぐにインドに着くと考えていたらしい。ところがどこまでも海がつづくので、思い切って進路を西に取ります。
 もともと、西廻りインド航路開拓が目的だったとはいえ、すごいと思う。今地図を見ても太平洋というのはめちゃくちゃ広い。何日間陸地を見ずに航海するかわからないんですよ、マゼランにとっては。自殺行為に近いと思う。

 マゼラン一行は太平洋に出ると98日間陸を見ることなく航海をすることになった。食糧は当然尽きてしまって、船の中に巣くっているネズミやアブラムシを捕まえて食べた。それも食べつくすと、今度は船材のおがくず、革、帆、こういうものも食べた。
 1521年3月、ようやくたどり着いた陸地がグアム島です。偶然に任せて航海してグアムみたいな小さな島に着くなんて、これ運がいいです。
 さらに西へ向かって、4月には現在のフィリピンに着く。マゼランはポルトガル時代にアジアに来たことがありますから、フィリピンの言葉を聞いてアジアに着いたことを確信します。インドは近いです。マゼランはここで現地の人々を征服してスペインの領土にしたいと考えたらしい。セブ島やマクタン島でマゼランたちは島民とトラブルを起こして、戦闘になる。マクタン島ではマゼラン自身が戦闘で死んでしまった。殺したのが現地の部族の指導者ラプラプ王です。
 マゼランはかわいそうですが、現地の人たちから見れば征服者を撃退したラプラプは英雄。資料集では「マクタン島での戦勝記念祭」の写真がある。ラプラプがマゼランを倒す野外劇をやっていますね。

 戦闘で船員も減ってしまったので、残された一行108人は2隻のうち1隻をここで捨ててさらに西へ向かう。
 11月にモルッカ諸島に着いた。こここそが、別名香料諸島。香辛料の原産地です。一行はここで香料を入手しますが、すでにポルトガルの勢力圏なので、もしポルトガル船に見つかれば撃沈される。船はすでにボロボロ。ポルトガル船に見つからずに無事にスペインに帰りつけるかどうか非常に微妙。というわけで残留希望者が多く出て、スペインに向けて出発したのはわずか47名でした。指揮官はセバスティアン=デル=カーノという人物。指揮する船はヴィクトリア号。マゼラン艦隊最後の一隻です。
 ヴィクトリア号の航路を地図で確認すると面白いよ。モルッカ諸島からヴィクトリア号は南下する。極端に南に進路を取っているのがわかります。インドネシア、インド、アフリカの沿岸に近づいてポルトガル船に発見されるのを恐れたのです。

 ヴィクトリア号が香辛料を満載してスペインに帰り着いたのは1522年9月。モルッカ諸島を出てからさらに10カ月後のことでした。帰還者は18名。たった18名ですよ。
 かれらは命を賭けて地球が丸いことを実証したのですが、その名前は教科書にはありません。あるのは途中で死んだマゼランだけです。

 まとめておきます。
 大航海時代の人物として覚えておくのは、ポルトガルのエンリケ航海王子、バルトロメウ=ディアス、ヴァスコ=ダ=ガマ、カブラル。スペインではコロンブス、アメリゴ=ヴェスプッチ、バルボア、マゼラン。たったこれだけ。
 大航海時代に冒険航海をした人はたくさんいるんですよ。たとえばイギリスやフランスなんかは北東廻りでインドにいけないか探っている。ロシアの北を通るわけだ。北極海に氷がなければ理論的には可能ですが。あと北アメリカ沿岸を探検したりする。ハドソン湾から太平洋に抜けられないかとかね。
 そういう沢山の失敗のなかで、大胆な実行力と勇気、そして幸運に恵まれた一握りの者が歴史に名前を残したんだね。

 最後にコロンブスの評価について。
 最初にアメリカに到達したコロンブスは長い間英雄として扱われてきました。8年前の500周年の時も、そういう評価を基礎にした特集番組がテレビでも多く流されました。
 しかし、一方アメリカ先住民からはそういう評価に対して多くの疑問の声が挙げられました。コロンブス以後ヨーロッパ人が続々とアメリカに渡ります。その結果、アメリカの先住民の暮らしは徹底的に破壊されて現在まできています。そのことは、頭の中に叩き込んでおいてください。

 北米先住民スー族の人の言葉です。
 「インディアンという名前はわれわれのものではない。道に迷ってインドに上陸したと思いこんだある間抜けな白人がくれたものだ。」

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コロンブス (岩波新書 黄版 93) 増田義郎 著
講演をおこしたものがもとになっているので、非常に読みやすい。
コロンブスの航海の出資者であるジェノヴァ商人や改宗ユダヤ人とスペイン王室の関係、フランシスコ修道会とコロンブス、イザベラ女王の関係など、興味深い時代背景が説かれていて興味深い。
ポルトガル王室がコロンブス出発以前に大西洋横断航海をおこなっていた(失敗したが)というのは、初めて知って驚きました。

第55回 大航海時代2 おわり

こんな話を授業でした

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