世界史講義録
  

第58回  ルネサンス(2)

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ルネサンスの人と文化(つづき)
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 レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452~1519)。
 前回も紹介しました、ルネサンスが生んだ最高の芸術家。代表作は『最後の晩餐』、『モナ=リザ』など。

 『最後の晩餐』はミラノにある修道院の食堂に描かれた壁画です。これだね。よく見ると絵の具がボロボロにはげ落ちてかなり痛んでいるのがわかる。ダ=ヴィンチはとにかくいろいろ新しいことをやってみたい性格で、この壁画を描くときも実験的な新しい方法を使った。これが失敗で、完成直後から絵の具がはげ落ちはじめたらしい。そのあと、いろいろな画家が補修のために絵の具を上塗りしつづけた。たしか数年前に補修作業がはじまって、あとから塗られた絵の具を落とし、ほこりやゴミをとったりして今はこの写真よりかなり鮮明になっています。

 この絵はキリスト教を題材にしたもので、どこがルネサンス的かということなんですが、その描き方の切り口にある。
 『最後の晩餐』というのは、イエスが逮捕される前の晩、13人の弟子たちと最後の食事をする、その場面を描いたものです。真ん中にすました顔をしているのがイエス。左右に居流れるのが弟子たちです。布教をつづけるイエスはユダヤ教の指導者に恨まれて逃避行をつづけている。捕まえられたら反逆者として処刑されるかもしれないという緊迫した状況です。その中で弟子を集めて会食したイエスは、突然「あした私はつかまる。これがおまえたちとの最後の食事だ。」と言う。弟子たちが「何を弱気な、わたしたちがついている限り、逮捕されることはありません。」と励ますのですが、イエスは「この中の一人があす私を裏切るのだ。」と答える。
 意外な言葉に弟子たちに衝撃が走る、その瞬間を映像化したのです。だから、弟子たちの姿勢を見ると、前のめりになったりのけぞったり指さしたり、驚きや動揺をそれぞれ示している。「まさか、そんな。」とか「それはいったい誰だ。」「私は絶対イエス様を裏切りませんよ。」とか口々に叫んでいるんでしょう。
 同じ宗教画でも、この絵はイエスの弟子たちを聖人君子ではない普通の人間として心の動きを描いている、ここがそれまでと違うルネサンス的な特徴です。

 あと、技術的にもダ=ヴィンチ独自の工夫がたくさんある。
 まず、この壁画は食堂の奥の壁一面にどーんと描かれていて、入り口を入ると本当に今そこで食事をしているような錯覚をあたえるそうです。
 奥行きを感じさせる構図は、大胆な遠近法を使っていて壁に掛かるタペストリーの上のライン、壁と天井の境のラインをずっと引っ張っていくと、中央に座るイエスの額に遠近法の焦点がある。
 イエスの後ろに窓があって遠くの風景が見えています。遠くの山は水蒸気で暗く見えるのを発見したダ=ヴィンチはそれをここで利用している。山は木の色で緑に描くのがそれまでの常識、それを黒っぽく描いた。そのために絵にさらに奥行きが出ています。
 ダ=ヴィンチの人物描写で目を引くのが手の表情ですね。手に関してはいろいろスケッチも残っています。手の描写でダ=ヴィンチは自分の技術を見せつけているようです。
 特にイエスの右手、ものをつかもうと前に突き出されています。自分の手、指を伸ばして真正面から見てみてください。スケッチしてごらん。これは、ものすごく難しいでしょ。それをダ=ヴィンチはさりげなく描いている。俺の技を見よ!という感じ。

 『モナ=リザ』は誰もが見たことがあると思う。謎の微笑だ、神秘的だと言われていますが、私はこの絵を見るといつも不気味な感じがしていました。とにかく変な感じがするの。この感覚を人は神秘とか謎とか、そういう表現をするんだというのが私の印象。で、この絵を何度も見ているうちに私は気づいた。なぜ、不気味なのか。わかりますか?よく見てください。この女性、眉毛がない。ね、ないでしょ。謎の微笑みの秘密は眉毛にあったのですね。
 この絵のモデルについてはいろいろな研究があって、この人らしいという説はありますが確定していません。だからモデルに眉毛があったかどうかもわからない。ダ=ヴィンチという人は有名な割には実は完成した作品が少ない。途中でやめてしまう例が結構あるのね。『モナ=リザ』の眉毛に着目した研究者はやっぱりいて、眉毛が描いていないからこの作品も未完成ではないかという説もあります。
 ともかくダ=ヴィンチはその人生や一つ一つの絵について、たくさん研究があるから面白いです。

 ミケエランジェロ(1475~1564)。
 代表作は『最後の審判』、『ダヴィデ像』、『モーセ像』。
 この人はダ=ヴィンチに匹敵する力強い作品を残しています。ダ=ヴィンチに対してライバル心もあったようです。彫刻が素晴らしい。『ダヴィデ像』も『モーセ像』も旧約聖書を題材にした彫刻です。特に『ダヴィデ像』は内面の緊張感を表現して傑作といわれている。完全な裸体で、古代ギリシアの彫刻がまさしく復活した感じです。
 『最後の審判』はこれ。大作ですね。ヴァチカン宮殿のシスティナ礼拝堂の天井と壁一面に描かれています。聖書の物語が天井の手前から順番に描いてある。一番手前が天地創造、アダムとイヴの物語。そこから話がずっとはじまって、最後が正面の壁。ここが最後の審判の場面。真ん中に光を背景に描かれるのがイエスです。イエスが復活してあらゆる人を天国行きか地獄行きかに振り分けている、そういうシーンです。
 ただこの絵は迫力はあるんですが、迫力ありすぎで描かれる人物はみんなすごい筋肉モリモリ。特にみんな異様なほどに腹筋が発達している。絶対にこんな体型の人間はいません。ミケランジェロは彫刻が本領ですから、絵でも立体感をだそうとしてこんなふうになってしまったのかもしれない。

 ラファエロ(1483~1520)。
 聖母子像をたくさん描いている。これも同じような絵をどこかで見たことがあると思います。聖母子というのはマリアが赤ん坊のイエスを抱いている図です。これも以前からある構図なんですが、ラファエロの描くマリアは当時のイタリア女性そのものなんですね。『モナ=リザ』みたいな不気味さはなくて、みんな可愛いんです。資料集には「母子親愛の人間的理想像」と書いてあって、それはそうなんだろうとは思いますが、実際には現代のアイドルのポスターかブロマイド的な鑑賞のされ方をしたんではないかと思います。聖母マリアを隣のお姉さんにしたところがルネサンス的。
 このラファエロはダ=ヴィンチを非常に尊敬していて、『アテネの学堂』という絵を描いている。ヴァチカン宮殿の壁画です。ここには古代ギリシア・ヘレニズム時代の哲学者たちが50名以上描かれていますが、その中央に描かれているのがプラトンとアリストテレス。このプラトンの顔がレオナルド=ダ=ヴィンチをモデルに描かれている。この絵の話は以前にしましたね(第12回)。

 ブラマンテ(1444~1514)。
 イタリア・ルネサンス最高の建築家。サン=ピエトロ大聖堂の設計をした、と覚えてください。サン=ピエトロ大聖堂はローマ教会の一番大事な建築物で、昔からあるのですが、その改築を設計する。ただ、あまりにも大規模な改築だったのでブラマンテの時代には完成せず、のちに設計は次々に変更されていきました。ブラマンテの死後はミケランジェロも設計を担当しています。

 マキァヴェリ(1469~1527)。
 政治学者。著書『君主論』。近代政治学の祖といわれている。
 当時のイタリアの政治状況を少し話しておきます。イタリアは全土を統一する政治勢力がなく、ドイツ皇帝やフランス王がイタリアの支配権をめぐって争っていた。しかもイタリアの各都市やローマ教会がそれぞれ外国勢力と結びついて勢力争いを繰り返してた。さらに各都市国家内でも政治的な争いが激しかった。簡単に言ったら戦国時代です。
 イタリアに統一国家を作り上げなければいけない、というのがマキァヴェリの発想です。そうしなければ混乱がつづき、外国に好きなように食い物にされる。では、どうしたら統一国家を作ることができるのか。
 こう考えた末にかれは、狐の賢さとライオンの強さを兼ね備えた権謀術数の君主の登場に期待したんです。『君主論』はそういう君主の心構えを説いた本です。現実の政治はマキァヴェリの期待したような君主によるイタリア統一はできませんでしたが。
 マキァヴェリ自身はフィレンツェの外交官として活躍していたのですが、政争に敗れて亡命生活をした経験もある。ただの評論家ではなく、実践に基ずいた本です。

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ルネサンス期の人と文化(イタリア以外)
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 イタリア以外の人物はその出身地も一緒に覚えてください。まずは、学者文人から。

 エラスムス(1469~1536)。
 著書『愚神礼賛』。ネーデルラント出身。現在のオランダ、ベルギー地方です。この人はヨーロッパ最大の人文主義者と呼ばれる。飛び抜けた学識で当時のヨーロッパでは最高の権威をもっていた。
 著書の『愚神礼賛』は、愚かの女神が人間について批評するという形式の風刺小説です。教会や王侯貴族の不道徳なおこないを批判した。こんな感じです。
 「人は皆、えらそうなこと、もっともらしいことをいっているが、本当のところは本能的な欲望に支配されているに過ぎない。性欲にのぼせてしまうからこそ、結婚という愚劣で辛いことをやってしまう。女だって子を生むという苦難のもとを作り出す行為に夢中になるのも、私達愚神のせいだ。うそ、おせじ、おろかしさ、虚栄、そういったもののおかげで、世の中はうまくいっている。どんな偉い人、たとえば法王様だって、実は私が支配している。」
 しかし、エラスムスの本領は聖書研究です。かれも古代ギリシアの学問研究をするのですが、具体的には聖書の研究をするのです。ローマ教会で使っている聖書はラテン語訳の聖書です。でも新約聖書はもともとギリシア語で書かれているわけ。で、エラスムスは古代ギリシア語のテキスト、さらにはヘブライ語、これはユダヤ人の言葉で旧約聖書はもともとヘブライ語ですね、まで研究してローマ教会の聖書の誤訳を次々に見つけていく。
 エラスムスはローマ教会の腐敗には批判的ですが、教会そのものを否定するつもりはないし、かれの研究は確かなものだから教会も頭が上がらない。ローマ教会も一目置く学者になっていくわけです。

 チョーサー(1340頃~1400)。
 イギリスの作家。作品『カンタベリ物語』。ボッカチオの『デカメロン』のアイデアをそのままにイギリスに移し替えたものです。それだけ。

 トマス=モア(1478~1535)。
 イギリス。著書『ユートピア』。ヘンリー8世という王様に仕えて大法官という秘書長官になっていた聖職者です。王の離婚に反対して処刑されたことでも有名。『ユートピア』は理想郷を描いて社会批判をした本です。

 シェークスピア(1564~1616)。
 イギリス。代表作『ヴェニスの商人』、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』も有名ですね。劇作家です。現代でも上演されたり、映画化されたり、不滅の作品をたくさん残しています。最近シェークスピア自身を主人公にした映画も作られていましたね。『恋に落ちたシェークスピア』というの。面白かったですよ。
 人間の性格や心理を見事に描きわけたことがルネサンス的なんですね。
 たとえばみんなも知っている『ロミオとジュリエット』。ロミオがジュリエットに一目惚れして、ジュリエットもロミオを好きになる。だけど二人の家は長年の仇同士。二人の恋愛はけっして親に認められないのね。それで、二人は悩むわけです。ここのところが重要で、「私たちは結婚したいけど、家はそれを許してくれない」という悩み方はルネサンス以前にはなかった。恋愛と結婚は別物だったのです。誰を好きになろうとそれはそれとして、親が決めた相手と結婚するのが上流階級の常識。自分の感情なんかは二の次で、そんな個人的なことはあきらめるのが当たり前だったんです。好きな相手がいるなら結婚するんではなく愛人にすればよい。
 ところが、この二人は自分の感情と家の方針との板挟みで悩む。結局解決できずに二人とも死んでしまうという結末になるんですが、「家の束縛」と「個人の想い」が同等になっているところが、非常にルネサンス的だと思います。
 ルネサンス以前なら、二人は恋愛しても悩むことなく家が決めた別の相手と結婚するだろうし、これがもし現代なら、二人は親なんか無視してさっさと同棲してしまって物語にはならないね。
 『ハムレット』もそうですが、自分の置かれた立場と心の奥底からわき上がる感情との葛藤というのがシェークスピアの劇の真髄だと思います。

 セルバンテス(1547~1616)。
 スペインの作家。著作『ドン=キホーテ』。
 セルバンテスはスペインの軍人でした。1571年、スペインとオスマン帝国とが地中海の覇権をめぐって海戦をする。レパントの海戦といいますが、セルバンテスはこの戦いに従軍して負傷した。左手をなくしてしまうのです。
 帰国したセルバンテスは国王に年金を請求するのですが、何回も請求してようやく雀の涙のようなわずかな額しかもらえなかった。自分は国王のために戦ってこんな身体になったのに!、とセルバンテスは怒り爆発。といっても、何もできないので田舎にこもって小説を書いた。これが『ドン=キホーテ』です。初老の田舎紳士が少し気が触れて、自分を中世の騎士だと思いこむ。お供をつれて旅にでる。本人は愛しい姫を守るために遍歴の旅をしているつもりなんですが、そんな時代ではないし、かれの言動はおかしいからみんなから笑われるわけ。
 中世の古くさい騎士道を笑いながら、その実、当時のスペインの社会を批判しているという内容です。

 ラブレー(1494頃~1553)
 フランス。著作『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』、普通は『ガルガンチュア物語』で通じます。ガルガンチュアという巨人が主人公。かれの行動を通じて人間の尊厳と社会批判をおこなった。私は読んだことはないので、孫引きですが、第一之書「テレームの僧院」に「一同の遵守すべき法則とは、ただ次の一項目だけだった。欲するところを行え」なんていう一節があるそうです。こういうところがルネサンス的なんでしょう。

 モンテーニュ(1533~92)
 フランス。著作『随想録』。
 「世間のひとびとはつねに正面をみるが、私は内部に曲げる。私は自分だけが相手である。私はたえず自分を考察し、検査し、吟味する。」こんな感じで、自分を見つめたエッセイを書いた。

 次は絵画。

 ファン=アイク兄弟(兄1366頃~1426、弟1380頃~1441)。
 ネーデルラント。油絵画法を完成させた。まあ、実際には油絵ではじめて傑作を描いた画家ということです。

 ブリューゲル(1528~69)。
 ネーデルラントの画家。農民の暮らしを題材に絵を描いているので有名です。村祭りとか、結婚式とか、当時の農民の暮らしぶりがわかって面白い。この祭りの絵は、向こうで踊りが始まっている。こっちから若い夫婦が手をつなぎながら走って祭りの広場にやってきたところ。夫の帽子を見てください。これ、帽子に挿しているのは何かわかりますか。スプーンだ。もう、農民もスプーンを使っているんだなとか、それでも、スプーンのような食器は出かけるときも自分のものを持っていったんだなとか、そんなことがわかるわけ。
 子供たちがたくさん遊んでいる絵もあって、10年くらい前にはやった「ウォーリーを探せ」みたいですね。たくさんの子供たちがみんな別々の遊びをしていて、当時のネーデルラントの遊びの一覧です。

 デューラー(1471~1528)。
 ドイツの画家。画家としてより版画家として覚えたほうがよい。版画を芸術として完成させた人。版画ではありませんが『四使徒像』という絵が有名。

 ホルバイン(1497~1543)。
 これもドイツの画家。ドイツ人ですが活躍したのはイギリスで、トマス=モアや国王ヘンリー8世の肖像画を描いています。肖像画のホルバインと覚えておけばよい。

 エル=グレコ(1541~1614)。
 スペインの画家。ふつうはルネサンスの次に来るバロック芸術に分類されることが多いのですが、教科書にしたがってここであげておきました。宗教画で有名。

 自然科学です。ルネサンス期は、特に天文学が有名。

 コペルニクス(1473~1543)。
 天文学者。ポーランド人。地動説を唱えたことであまりにも有名。
 地動説というのはわかりますね。太陽のまわりを地球がまわっているという考え方。それまでのヨーロッパでは地球が宇宙の中心で太陽などの星ぼしは、地球のまわりをまわるという天動説が信じられていて、キリスト教会もこの説を支持していました。
 コペルニクスは若い頃にイタリアに留学したことがあって、その時にアリスタルコスの地動説を知ったようです。アリスタルコスはヘレニズム時代の学者でしたね。
 そのあとポーランドに帰って、天体観測をしているうちに天動説よりも地動説の方が合理的に天体の運行を説明できると考えた。天動説はアリストテレスが考えてヘレニズム時代のプトレマイオスという学者が発展させた理論が当時信じられていた。実は理論的にはプトレマイオスの天動説でも、天体の運行は説明できるのです。ただ、無茶苦茶にややこしい理論になる。特に火星や金星という惑星の運動は地球の周りをまわる円周上でさらに回転する円運動みたいのなものを考えないと説明できなかった。ところが、コペルニクスが太陽を中心に同心円上に惑星を並べてみたら実にすっきりと説明できるんですね。コペルニクスによって古代のアリスタルコスの地動説が復活したのです。
 ただ、コペルニクスは自分の地動説がローマ教会の教えと違うことはわかっていたし、地動説を発表してややこしい論争に巻き込まれるのを怖れて、親しい友人に自分の論文を読ませるだけだったのですが、皆に勧められて出版を決意します。ただし、晩年。自分の説をまとめた本ができあがったのは死ぬその日だったと伝えられている。
 まだ、個人が教会の権威に反対するというのは大変な時代だったのです。

 コペルニクスの地動説が公にされると、大きな論争を引き起こすのですが、さっきも言ったように、プトレマイオスの天動説でも理論的には天体の運行を説明できるので、コペルニクスの地動説は「理論的な可能性」という受け止められかたをしていたようです。コペルニクス自身も、自分の本には天体の運行を説明する数学的な可能性を述べただけだ、と書いて逃げを打っている。

 ところが観測が進んでくるうちにプトレマイオスの天動説に対して疑問が出されるようになってくる。
 プトレマイオスの考えた宇宙は、球形の透明な膜が地球を覆っている。その膜に月や恒星が貼り付いている、というものです。違う動きをする惑星などは別の膜に貼り付いているわけです。宇宙はまん丸いカプセルです。すべての天体現象はこのカプセルのなかで起こると考えられていた。
 コペルニクスの死後デンマークで生まれた天文学者にチコ=ブラーエ(1546~1601)という人がいる。この人は当時最高の天体観測者で超新星を発見(1572)したり、1577年に現れた彗星の観測をして、どうもこれらは恒星が貼り付いているはずの膜の外側で起きている現象ではないかと考えた。この人は地動説は採用しませんが、プトレマイオスの宇宙論も放棄します。

 イタリア人、ジョルダーノ=ブルーノ(1548~1600)は、彗星を見て、「宇宙は無限だ」と公言した初めての人。当然コペルニクスの地動説に賛成します。異端としてローマ教会に捕らえられて8年間牢屋に放り込まれたあと処刑されてしまった。火あぶりの刑です。「宇宙は無限だ」といい張ったのが死刑の原因でした。
 処刑される直前に「裁かれている私よりも、裁いているあなた方の方が、真理の前におののいているではないか?」 と言った。あまり有名な人ではありませんが、この一言で隠れファンは多いみたいです。

 ケプラー(1571~1630)。
 ドイツの天文学者。惑星運行の法則を発見した。
 先ほど話したチコ=ブラーエの弟子です。チコ=ブラーエは死ぬときに大量の観測データをケプラーに託した。ケプラーは目が悪かったので自分では天体観測をしませんが、数学の才能抜群だったのでデータをいろいろ計算した。
 コペルニクスの地動説でも、プトレマイオスの天動説でも理論的にうまく説明できない問題があった。それが、火星の動き方です。どちらの説でも計算値と実際の動きとがあわないのです。で、ケプラーは観測データを計算して、火星の軌道が楕円であることを発見した。そして太陽は楕円の焦点からすこしずれたところにある。こう考えて計算するとコペルニクスの地動説でピタリと説明できたのです。
 コペルニクスの地動説を理論上実証したわけです。

 ガリレオ=ガリレイ(1564~1642)
 イタリアの科学者。 振り子の等時制の実験や落体の法則発見でも有名。それまで信じられていたアリストテレスの説、重たいものは速く落ち、軽いものはゆっくり落ちるという説なんですが、この間違いを実証した。ピサの斜塔から重さの違うおもりを落として落下時間を測ったという実験は聞いたことがあるかもしれない。この実験そのものは作り話らしいですが。
 物理学方面で実績をあげていたんですが、1608年オランダで望遠鏡が発明されたことを聞いたガリレオは自分でも作ってみた。出来上がったのは倍率三十倍の望遠鏡です。ガリレオは初めて望遠鏡を使った天文学者となります。かれ以前の天文学者は肉眼だけで夜空を観察していたというのはちょっと常識を揺さぶられませんか。
 さて、天体観測をしたガリレオ、なんと木星の衛星、土星の輪、金星の満ち欠け、太陽の黒点を次々に発見した。これを発表してかれは一躍ヨーロッパ注目の学者になりました。ガリレオはケプラーと文通していたりして、もともと地動説に関心があったのですがこれで地動説を確信した。
 ローマ教会は地動説の放棄を命じていたのですが、ガリレオの若いときからの友人がたまたまローマ教皇(ウルバヌス8世)になった。チャンスと思ったんでしょう。1632年『天文対話』という本を出して地動説を全面展開した。ところが、友人でもローマ教皇となれば立場がある。ガリレオは宗教裁判にかけられて地動説の放棄を迫られます。放棄しなかったらジョルダーノ=ブルーノみたいに火あぶりです。結局ガリレオは地動説を放棄するという書類にサインをした。サインをしながら「それでも地球はまわっている。」とつぶやいていたという。
 コペルニクスの地動説発表から約100年経ってからの出来事です。
 ローマ教会が正式にガリレオの名誉を回復したのは1976年でした。

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ルネサンス三大発明
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 ルネサンス三大発明と呼ばれるこの時期の技術を紹介します。発明といっても実は中国、朝鮮で先に発明されているのですけどね。

 なんと言っても一番大事なのが活版印刷術。金属活字はこれより前に高麗で発明されているのですが。ヨーロッパではドイツ人のグーテンベルグが実用化したという。
 それまでに製紙法もヨーロッパに伝わっていたので、大量印刷が可能になりました。活版印刷がおこなわれるまでヨーロッパで本というのは羊皮紙に手書きで書いたものしかなかった。自分の本が欲しかったら書き写すしかない。だいたい本がたくさんあるのは修道院や大学ですが、本は貴重品なので鎖を通して柱にくくりつけ持ち出せないようにしてあったそうです。
 活版印刷によって事情がまったく変わって、ルネサンス期の学者文人たちの作品は大量出版によってヨーロッパ中に広まることになり、学生でも手軽に本が手にはいるようになった。
 この絵はエラスムスがイタリア旅行中に印刷業者のところで自分の本の校正をしているところです。人気の学者だから本もたくさん出版される。本人は印刷業者の所にいる時間が長いとぼやいています。

 次が羅針盤。コンパス、方位磁石ですね。中国で発明されたものがヨーロッパに伝えられ改良されたものです。これを使って多くの船乗りが海へ出かけた。大航海時代は羅針盤なくては考えられない。

 もう一つが火砲。要するに鉄砲、大砲のたぐい。もともと火薬も中国生まれです。元寇のモンゴル軍が九州に上陸して「てっぽう」という武器を使っています。これは大きな音を出して馬をひっくり返らせるもので殺傷力はあまりなかったらしいですがね。今でも中国で火薬といえば、爆竹。お祭りや正月にパンパン派手にならしている。ヨーロッパ人はこれを改良して殺傷能力の高い武器に作り替えた。ルネサンスの一面です。

第58回 ルネサンス2 おわり

こんな話を授業でした

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