世界史講義録
  

第59回  宗教改革(1)

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ルターの宗教改革
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 ルネサンスと同時期に起きた思想上の大事件が宗教改革です。これはやがてヨーロッパ政治の枠組みも大きく変えていきます。
 宗教改革をはじめた人物がドイツ人のルター(1483~1546)です。ルターはドイツ中東部のヴィッテンベルグ大学で神学の教授をしていた人です。

 この段階で西ヨーロッパの宗教はローマ=カトリックだけです。ルターは大学時代に宗教に目覚めて修道士になる。そのまま、神学の勉強をつづけて大学で教授になっていましたが、ローマ教会の方針に対して疑問を抱くことが多かった。

 特にルターが問題にしていたのが免罪符の問題です。

 免罪符は贖宥状ともいうのですが字も難しいから免罪符で覚えたらよいです。これは何かというと簡単に言えば「お守り」。わたしたちがお寺や神社で「おふだ」をもらう、あれと同じです。
ルター

 当時ローマ教皇はレオ10世。フィレンツェのメディチ家出身です。前に詩を紹介したロレンツォ=デ=メディチの次男。ルネサンス文化の理解者にして保護者です。ローマ教皇は選挙で選ばれる。フィレンツェ一の実力者の家柄で政治力も資金も豊富にありますから、そんな背景をバックにして教皇になったんでしょう。ちょうどこのとき、ローマ教会はサン=ピエトロ大聖堂の改築工事をおこなっていた。この改築工事が大がかりで、しかもレオ10世は芸術に造詣が深いから、装飾にもこる。ラファエロがこのとき改築を担当したりもするんです。

 改築には資金が必要になる。莫大な改築費用を捻出するためにはじめたのが免罪符の販売です。お守りを売って儲けようというわけ。日本人はお守りに別に疑問を感じない。普通にやっているからね。ところが、キリスト教の思想から考えるとおかしいんですね。神に深く帰依し信仰心を厚くもち善いおこないを積んで救われるというのならわかるが、お金でお守りを買えば救われるということは、「お金=救いの条件」ということになってしまう。イエスは「金持ちが天国にいくのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」といっている。これと考え合わせるとおかしいわけです。

 ローマ教会は免罪符販売部隊を作って、これをドイツに送り込みます。なぜ、ドイツかというと、当時のドイツは皇帝がいるものの内部は諸侯の対立が激しくて分裂状態に近かった。ローマ教会にとってはそのほうが免罪符の販売がしやすかったのです。
 どういうことかというと、国王・領主などの支配者にとってみると、自分の領地で免罪符を販売されたら困るのです。領民が免罪符を買う、払った代金はローマに持っていかれてサン=ピエトロ大聖堂の建築費に充てられる。自分の領地からお金がローマに移動するわけだ。今風にいえば完全に貿易赤字です。
 だから、フランスなどは自分の国内に免罪符販売部隊を入れない。販売を許さない。その点、ドイツは国内がバラバラだから入り込むことが簡単だったんです。当時のドイツは「ローマの乳牛」と呼ばれるくらいにローマ教会の資金供給源になっていたのです。

 この絵は免罪符の販売の様子を描いた絵です。絵の中央にはローマ教皇が描かれていますが、これは想像。実際に販売に立ち会っているわけではありません。
 販売部隊がやってきて、村々に免罪符の販売を触れまわります。やってきたおじいさんが係りのお坊さんに何か言っている。どんな罪を犯したかとか、誰を救いたいのかとか申告する。それを聞いて担当者がおふだを作ってくれる。真ん中にある箱には代金を入れる。金貨を入れるとチャリーンと音がする。こう言って売っていた。
 「おかねが箱の中でチャリンと鳴るやいなや、霊魂は煉獄から飛んで出る。」

 ルターはこういうことに疑問を感じて、1517年、「95カ条の論題」というローマ教会に対する質問状をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼りつけた。95の問題点を指摘しているのですが、主な主張は次の3つ。
 1,ローマ教会による免罪符販売を批判。お金を払えば救われるという免罪符の考え方を批判した。
 2,では、人は何によって救われるのか。ルターは言う。「人は信仰によってのみ義とされる」。これを「信仰義認説」と言います。ローマ教会によってではなく、信仰によって救われるのです。信者が救われるようにローマ教皇が神さまに「とりなし」をする必要はないことになる。
 3,では、どのように信仰すればよいのか。それまでは、ローマ教会の教えるままにしていることが信仰でした。ローマ教皇がお金をだして免罪符を買えば救われる、と教えるならばその通りにすればよかった。
 しかし、ルターはそうではないと言う。聖書に書いてあるとおりにすることが信仰だ、と主張した。これを「聖書第一主義」という。この段階でルターはローマ教会を否定していません。ローマ教会の教えでもおかしいと思う点があるなら、聖書と照らし合わせて考えよう、聖書に反しているならローマ教皇の教えでも間違っているんだ、ということです。

 以上3点がルターの主張の要点。これが発表されると、すぐにヨーロッパを二分する大論争に発展しました。当時発明されたばかりの印刷術を使ってルターの「95カ条の論題」はたくさんのパンフレットに印刷されてヨーロッパ中に出回ったのです。

 ローマ教会としては公然と批判するルターを放って置くわけにはいかないので、ルターと公開討論をしたり、批判をしてかれに自説を撤回させようとします。ところがルターは頑固なところがあって、論争を通じてどんどんローマ教会に対する批判が過激化するんだ。
 1520年、ついにルターはローマ教会と教皇の権威を公然と否定しました。
 これに対してローマ教皇はルターに破門状を送った。破門は前にも説明しましたね。破門されると、教皇は神さまに「とりなし」をしてくれないので天国へいけないはずなんですね。ところが、ルターはそんなことは聖書のどこにも書いていない、教皇の「とりなし」なんて不要だ、と叫ぶ。学生を集めてみんなの前で教皇の破門状を破いて燃やしてしまった。学生たちも大いに盛り上がって、ローマ教会の出版物をどんどん炎の中に放り込んで気勢をあげた。両者の亀裂は決定的です。

 この時期にドイツに出向いたローマの使節が教皇に状況報告しているのですが、こう伝えた。「ドイツ人の9割が『ルター』と、残りの1割が『教皇を死刑にしろ』と叫んでいます。」
 ドイツの圧倒的多数がルターを応援しているわけだ。これは、かれの考えに賛成していたというよりも、ドイツを食い物にしているローマに対する怒りと考えたほうがよいようですが。

 ローマ教会としてはこのままルターを放置できません。政治的な圧力で屈服させようとした。当時のドイツ皇帝、正式名称は神聖ローマ皇帝、はカール5世という人。この人の名前はしっかり覚えること。ハプスブルグ家出身。相続関係でスペイン王を継承して、さらに神聖ローマ皇帝選挙に立候補して即位したばかりです。まだ二十歳の若さ。
 ドイツ皇帝は名目上イタリアの支配者でもありますから、ローマ教皇との関係は重要で、即位したばかりのカール5世はローマ教会と協力関係にあった。だから、カール5世は政治的にルターを何とか改心させようと考えました。

 ドイツ人の圧倒的多数がルターを応援しているのに、ローマ教会の肩を持つのは政治的には不利な行動でしょ。自分の立場を悪くするだけ。なのにカール5世がローマ教会側に立って行動したのには経済的な事情があった。
 当時南ドイツのアウグスブルグという町にフッガー家という大富豪がいました。銅山の採掘販売などでヨーロッパをまたにかけて商売をしていた。カール5世が神聖ローマ皇帝選挙に出馬したとき、選挙資金をこのフッガー家に借りていたのです。いつの時代にも選挙には金がかかるんですね。選挙資金85万グルデンのうち54万グルデンをフッガー家から借りていた。だから、当選後もカール5世はフッガー家には頭が上がらない。
 このフッガー家はローマ教会の有力者にも金を貸している。ローマ教会の取引銀行でもあった。ローマ教会が免罪符を販売するときに、その売上代金のローマへの送金を引き受けていたのがフッガー家。しかも、免罪符の売上代金の一部は教会からフッガー家への借金返済にも充てられていた。
 教皇も皇帝もフッガー家のお金でつながっていたのですね。

 それはそれとして。

 1521年、カール5世は国会を開いてルターを召喚した。証人喚問みたいなものです。この国会を「ウォルムスの帝国議会」といいます。ウォルムスは議会が開かれた町の名前。
 ここに呼び出されたルターは皇帝から自説の撤回を迫られる。ルターも緊張する。「95カ条の論題」を出したときはこんなことになるとは夢にも思わなかったに違いない。ローマ教会から破門され、今度は皇帝から圧力をかけられる。ビビッたに違いない。しかし、自分が到達した信仰上の立場を捨てることもできない。追いつめられたルターの心情です。 「私はここに立つ。これ以外にどうすることもできない。神よ救いたまえ、アーメン」

 結局ルターは説を曲げなかったので、皇帝はかれを法の保護の外に置くことにした。「いっさいの権利を奪われる刑」です。これは誰かがルターの肉体を傷つけたり殺したりしても罪に問われないということです。ローマ教会を敵にまわしたルターに恨みを持っている者は必ずいるからね。かなり危険な状態です。ルターには学生たちがボディガードとしてついているのですが、帝国議会が終わってヴィッテンベルグに帰る途中、ルターはさっそく襲われた。森の中で覆面をつけた騎士が数騎ルター一行を襲って、ルターはかれらにさらわれてしまったのです。

 ルターをさらったのはザクセン侯フリードリヒという諸侯でした。実はかれはルターを支持しているのです。そこでルターを守りたいと思ったのですが法の保護の外にあると皇帝に宣告されたルターを堂々と守ることもできないので、誘拐という手段をとったのでした。このあとのルターはザクセン侯の城にかくまわれて、世間から姿を隠して聖書のドイツ語訳をする。
 聖書第一主義とか言いながら、この時代までドイツ語の聖書はなかった。みんなラテン語。ドイツ語で読むことができなければ、ドイツ人はどういう信仰をもったらよいかわからないでしょ。そのためにはドイツ語訳聖書が是非とも必要だったのです。
 このときのルターの翻訳は名訳で、現在のドイツ標準語の規準となったということです。

 ところで、宗教改革と活版印刷の関係を少し話しておきます。ルターの宗教改革がヨーロッパ中の話題となったのには急速に普及し始めた印刷物の活用抜きには語れません。
 ルター自身が大量にパンフレットを発行します。1519年ドイツ全国の出版物が約110冊、そのうち約50冊がルターの書いたものです。翌1520年、ドイツ出版総数200冊。そのうちルターが133冊。すごいですね。
 また、宗教論争が激しい中で両派が少しでも味方を増やそうとパンフレットやチラシのたぐいを大量に印刷配布します。

 プリントにあるのが「神の水車」というチラシです。ほとんどの農民は字が読めませんから、そういう人でもわかるようにマンガになっている。これは、収穫した麦から小麦粉を作る過程です。中央後ろで棒(からさお)を振り回しているのが農民。これは脱穀をしているところ。
 脱穀した小麦をかついで水車小屋のホッパーに入れているのがイエスです。後光がさしているでしょ。ヨーロッパでは水車小屋で小麦を引いて粉にするのが普通です。水車小屋の上に浮かんでいるのが神様です。神が水を流して水車小屋の水車が回っているのです。だから、神の水車。神が流す水で回転する水車に、イエスが小麦を入れている。
 小麦が挽かれて出てきた粉をショベルですくっているのがエラスムスです。前にも出てきたルネサンス最大の人文主義者。ローマ教会も一目置く大学者です。エラスムスは最終的にはルターと喧嘩をするのですが、はじめの頃はそれなりに親密でした。
 そしてエラスムスの集めた小麦粉をこねるのがルター。エラスムスと背中合わせで袖まくりをしているの人物です。要するにこの絵一枚で、農民もイエスも神もエラスムスもルターの味方だよ、と訴えているのですね。ルターが練り上げた小麦粉が何になるかというとパンになるわけですが、絵ではパンが聖書の形に描かれます。ルターの左側にいる人が出来上がった聖書を右側の人たちに差し出していますが、この人たちがローマ教皇などローマ教会の主だった人たちです。かれらは聖書を受け取るのを拒否していて、聖書はパラパラと地面に落ちていきます。
 全体として何を訴えているのかは明らかですね。

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ドイツの混乱
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 このあとルターはローマ教会とは完全に別の宗派を建てることになる。ルター派教会という。日本では現在ルーテル教会という名前で活動をしています。昔「ルーテル・アワー」というラジオ番組を聞いたことがあります。今も放送しているかもしれない。

 当然ですが、ローマに反感を持っていたドイツ人はルター派の信者になっていく。しかし、ローマ教会の信者のままの人もいるわけ。皇帝はローマ教会だし、諸侯の中にもローマ教会側の者はいる。それどころか大諸侯の中には司教というローマ教会の聖職者である者もいるわけです。

 ルターの教えというのはローマ教会を批判しこれと違う教会をつくるところまで進むわけですね。これは、ある意味では社会改革です。ルターを支持したものたちの中にはルターの教えの中身よりも、社会改革を押し進めることに魅力を感じていた者もたくさんいたのです。現状に不満を感じている人たちです。
 当時のドイツで現状に不満を感じていた階級や身分の人たちがルターの教えをきっかけにして政治的な運動を活発に始めるようになった。そのためドイツは政治的に混乱状態になります。

 まず、騎士戦争(1522~23)。騎士というのは領主階級の中でも一番規模の小さいものでしたね。かれらは、都市と商業の発展の中で没落しかけていた。かつての地位を取り戻そうと団結して、ローマ教会側の諸侯の領地を奪い取るための戦争をした。かれらは弱いので負けてしまいますが。この騎士たちは熱烈にルターを支持していた。だからローマ教会側の諸侯を攻める大義名分も持つことができたわけですね。どの宗派を支持するかはかなり政治的な判断もあっただろうということが想像できる。

 つづいて、ドイツ農民戦争(1524~25)と呼ばれる大農民反乱がおこります。ルターの宗教改革以前から大きな農民反乱はぼちぼちおきていたのですが、これもルターの教えをバネにして「戦争」と呼ばれるくらいの大規模な反乱になります。
 指導者がミュンツァーという僧侶。この名前は覚えること。ミュンツァーはルターの教えをさらに急進的にして、農民を組織した。かれらは聖書の言葉しか権威を認めない。領主の支配に対して抵抗しました。農奴制の廃止を訴えた農民グループもいました。
 しかし、反乱を起こした農民グループ同士の団結がなかったので、領主側に鎮圧されました。
 ルター自身は、農民戦争がはじまった頃は農民を応援しているのですが、かれらの要求が急進的なことを知ると積極的に農民の弾圧を応援します。奴らを木に吊るせ!なんて過激なことを言うようになる。
 ルターが政治的には諸侯、封建領主の側に立つことがはっきりします。

 やがてドイツの諸侯もローマ教会支持の諸侯と、ルター派の諸侯に分かれてきます。
 何度も言いますが、ドイツは事実上分裂状態で諸侯たちは隙があれば隣の諸侯の領地を奪おうとしている。大義名分があれば奪いたい。宗教対立は大義名分としては申し分ないわけです。皇帝カール5世は1526年、ルター派を禁止しますから、ローマ教会側に残った諸侯は堂々とルター派諸侯の領地に攻め込むことができる。ルター派諸侯ももうローマ教会の破門なんか怖くありませんから、逆にローマ教会側諸侯を攻めても宗教上の恐怖はない。

 こういうわけでドイツ中騒然となる。皇帝はルター派諸侯をつぶすだけの圧倒的な実力はない。かといってローマ教会との関係は大事なのでルター派を認めるわけにもいかない、という状況です。

 ところが、ローマ教会のご機嫌をとっているわけにもいかない事件がおきた。
 ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が神聖ローマ帝国に攻め込みウィーンを包囲したのです。これを第一次ウィーン包囲という(1529)。ウィーンはドイツ皇帝ハプスブルグ家の本拠地です。
 オスマン帝国はイスラム教ですからね。ドイツの諸侯同士がルター派だ、ローマ教会だと争っていても、しょせんどちらもキリスト教なわけで、イスラムによってドイツが占領されたら元も子もない。ドイツ人が団結しなければオスマン帝国にウィーンが攻め落とされてしまう。そこで、カール5世はルター派諸侯の救援をえるためにルター派の信仰を認めたのです。

 このあと、オスマン帝国はウィーンを攻めきれずに撤退するのですが、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」で、カール5世は再びルター派を禁止してしまった。
 これに対してルター派諸侯が抗議した。かれらは抗議する人という意味で「プロテスタント」と呼ばれました。この呼び方が定着して、現在ではルター以後の新しい宗派を一括してプロテスタントといいます。日本語訳は「新教」。これに対してローマ教会は、カトリックとか「旧教」と呼びます。これは、常識として覚えておくこと。

 このあとルター派諸侯はシュマルカルデン同盟という組織をつくって皇帝に対して反乱をします。1546年から47年までのシュマルカルデン戦争です。戦争は一応皇帝の勝利に終わりますが、ごたごたがつづいてカール5世は退位。
 そのあと即位したカール5世の弟は、1555年にルター派の諸侯と都市に信仰の自由を認めます。これを「アウグスブルグの宗教和議」という。これで、とりあえずドイツ国内の宗教対立は落ち着きました。
 ただし、このアウグスブルグの宗教和議で認められた信仰の自由は個人の信仰の自由ではありません。諸侯と都市の信仰の自由ですから間違えないように。ある諸侯がルター派を選択したらその領地の住民はみんなルター派を信仰しなければいけないのです。ローマ教会がいいと思う市民も、住んでいる都市がルター派教会を選択したらローマ教会を信じてはいけない。そういう中身です。
 だから、このあと60年後に再び宗教問題でドイツには大きな戦争が起こります。

第59回 宗教改革1 おわり

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