世界史講義録
  

第61回  スペインの繁栄とオランダの繁栄

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主権国家
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 ルネサンスや地理上の発見、宗教改革の話をしてきましたが、これらのことはほとんど同時に起きています。ちょうど同じ時期に、イタリアを舞台に戦争がある。これをイタリア戦争(1494~1559)といいます。だらだらつづいた戦争で、何が目的か現在から見たらよくわからないくらいですが、簡単に言ったら、分裂状態だったイタリアの支配権をめぐってドイツ皇帝、フランス王、スペイン王が争ったものです。複雑な国際関係というものが、すでにヨーロッパには誕生しているのですよ、という意味で教科書では太字で出てきます。でも、ほんとに大事なのはイタリア戦争ではなくて、「国際関係」の方です。国際関係があるということは、国があるということで、これはあたりまえのことなんですが、ヨーロッパにこの時期になって国というのができてきましたよ、と言っているわけです。正確に言えば「主権国家」というやつです。


 それまでは、主権国家がなかったのかというと、はっきり言ってなかった。何しろイギリス国王がノルマンディー公としてはフランス王の家臣、ということが平気である世界ですから。どこからどこまでがフランスで、どこからどこまでがドイツなのか、誰にもわからない。王の権力が及ぶ範囲がはっきりしない、そういう世界が中世ヨーロッパです。そういうなかで、商工業で経済力をつけてきた市民階級を味方にした王が政治の中心として飛びぬけた地位を得るようになる。そういう王たちが主人公として争いあったのがイタリア戦争ですよ、ということです。
 今までだって、王様の話をいっぱいしてきたじゃないかって?それはそうなんですが、実は十字軍にしても、百年戦争にしても、王たちとまったく同格でナントカ伯とか、ナントカ公なんていうのが活躍していたのです。主権国家という国家のとらえかたは、誕生してまだ500年しか経っていないということです。アジアや古代の国ぐには主権国家ではないのかというと、主権国家というより「王朝」国家と考えた方がぴったり来るのです。
 はい、以上は教科書の解説でした。理解できなかったら、流してください。

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スペインの繁栄
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 コロンブスをアメリカに送り出したスペインは、16世紀になって絶頂期を迎えます。重要な王様はふたり。まず最初が、カルロス1世(位1516~56)です。母親がスペイン王女だったので16歳でスペイン王位につきますが、父方の祖父がハプスブルク家神聖ローマ皇帝だったので、この人はハプスブルク家出身ということになります。スペインだけでなく、ハプスブルク家の領地も相続するので、カルロス1世の領土は膨大な広さになった。スペインはもちろん、ネーデルラント、オーストリア、南イタリアなど、そしてアメリカ大陸のほとんどの部分もかれの領土です。
 さらに、1519年には神聖ローマ皇帝に選ばれた。この時の話はルターの宗教改革の時に少ししましたね。神聖ローマ皇帝としての名前がカール5世。皇帝としては、困難な問題に直面した。宗教改革とそれにともなう内乱、イスラムの大帝国オスマン朝によるウィーン包囲など、大事件が続発しました。
 結局、宗教改革で起きた混乱はアウグルブルグの宗教和議(1555)でおさまりますが、この時にカール5世は引退します。オーストリアの領地と神聖ローマ皇帝の地位を弟フェルディナントに譲り、スペイン、南イタリア、ネーデルラント、アメリカ植民地を息子フェリペに譲りました。この結果、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれることになります。
 カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世としての活動の方が重要だし、スペイン王としての影は薄い。カルロス1世はスペイン王といっても、生まれも育ちもフランドル地方。今のフランス北部からベルギーにかけての土地です。だから、スペイン語がどれだけできたかも疑問です。

 スペイン王としては息子のフェリペ2世(位1556~98)の方が重要。この王の時がスペインの最盛期です。
 かれが相続した領土は先ほど述べました。ネーデルラントは特に重要です。
 宗教的にはバリバリのローマ=カトリックです。対抗宗教改革の中心となって、新教諸派を弾圧します。ローマ教会としては頼もしい味方ですね。
 1571年には、レパントの海戦でオスマン帝国海軍をやぶります。オスマン帝国は陸軍も海軍も、向かうところ敵なしで地中海を制覇しようとしていた。ヨーロッパの軍隊は負けてばかりだったので、この勝利はスペインに大きな自信をあたえます。この海戦でオスマン海軍を破ったスペイン艦隊は「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれるようになります。『ドン=キホーテ』を書いた文豪セルバンテスがこの海戦に参加して片腕を失ったという話はしましたね。
 1581年には、ポルトガル王位も兼ねる。これは、フェリペ2世の母親がポルトガル王家出身だったため、王位が転がり込んできたのです。ポルトガルはアジア方面に多くの商館を建設していましたから、これもすべてフェリペ2世の支配下にはいるわけです。全世界にスペインの領土があるといってよい。そこでこの時代のスペインを「太陽の沈まない帝国」といいます。世界中に領土があるから24時間いつでもスペインには昼の場所があるということですね。これがスペインの黄金時代です。

 経済的には、アメリカ大陸から黄金がどんどんスペインに運ばれてくる。また、ネーデルラントはヨーロッパでも商工業が発展した豊かな地域でしたから、ここからあがってくる税金も多い。フェリペ2世は、この有利な条件を利用して、上手に国家経営をおこなうこともできたのですが、これに失敗します。フェリペ2世の時代から400年たった現在、スペインはかつての黄金時代の面影はないですね。ヨーロッパ諸国の中では貧しい国になってしまっています。

 フェリペ2世は、どこをどう間違えたのか。フェリペ2世は、左うちわで遊んでいても、収入は途絶えることがないわけです。で、この莫大な富を何に使ったか。戦争と奢侈に浪費したのです。体面を繕い、見栄を張るために、使ってしまったのです。ここがポイントです。

 みんなは、もし宝くじで3億円当たったらどうしますか。何かほしいものを買って、残りは貯金しておく?大事にとっておいて、ちびちび使って一生遊んで暮らす?3億円で一生遊んで暮らせるかな?
 何を買うにしろ、3億円で自分のほしいものを買って使ってしまうのはフェリペ2世のタイプです。没落します。
 賢いお金の使い方は、投資することです。例えばトヨタの車がほしかったら、車を買わずにトヨタの株を買うのです。新車は5年すればポンコツになるけれど、株は5年後に3倍になっているかもしれない。物を買えばお金はなくなるけれど、投資すればお金は増えるのですよ。成功すればの話ですけどね。株じゃなくてもいいよ。喫茶店をはじめるとか、土地を買うとか、こういうのも投資です。
 フェリペ2世の置かれた立場というのは、宝くじで大金が当たったみたいなもので、かれが努力したわけではなく、たまたま相続関係などで莫大な収入を得ることができたわけ。ところが、フェリペ2世はその収入を投資せずに使ってしまった。国土の開発、産業の振興など、国を発展させるためのお金の使い方があったはずなんですが、そういうことはしなかった。無尽蔵に運ばれ来るアメリカ大陸の金銀もやがて枯渇します。重税にあえぐネーデルラントの人々がスペインからの独立戦争を始める。こうなると、スペイン、フェリペ2世の手元には何も残っていないのですね。

 かれの治世にドル箱のネーデルラントが独立戦争を開始します。また、スペイン自慢の無敵艦隊もイギリスに敗れる、という事件が起こる。フェリペ2世の晩年からスペインは急速に衰えていきます。

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オランダの繁栄と独立
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 さて、フェリペ2世の時代にスペインの領土だったネーデルラントは、現在のベルギー、オランダです。ここは古くから商工業が発達して経済的に繁栄していた。地理的には東ヨーロッパと西ヨーロッパ、イギリスを結ぶ交通の要地にあって、ハンザ同盟に加わり繁栄した都市があったし、毛織物工業も盛ん。百年戦争の原因の一つはこの地域の帰属問題でした。
 ネーデルラントでは豊かな商工業者の発言力が強く、かれらがこの地域のオピニオンリーダーだった。宗教はカルヴァン派が多数です。前にも触れましたがカルヴァン派は蓄財を認めますから、商工業者に信者が多かった。ネーデルラントの人たちは経済的な利害をともにしていて、団結力もある。いくつか絵を見てみましょう。
 これは、レンブラントの『夜警』という絵。市民の自警団が町を守っているところなんですが、ここに描かれているのはアムステルダムの実在の商人たちです。商人たちが自分たちでお金を出し合ってレンブラントを雇ってこの絵を描かせた。要するに現代で言えば集合記念写真みたいなものです。こちらは同じくレンブラントの『織物検査役人』という作品。これも同様で、織物組合の人たちの集合肖像画。組合の本部に飾られていたものだそうです。
 飛び抜けた英雄や指導者がいるわけではないけれど、市民たち一人ひとりが協力してネーデルラントを発展させてきたという、そういう気風が伝わってきます。

 ネーデルラントの人々からすると、自分たちの住む「くに」は、封建領主の結婚で所有者が代わっていって、たまたまスペイン、フェリペ2世の領土になっているだけです。スペインに対して忠誠心なんか全然ない。
 ところが、何を勘違いしたかフェリペ2世は、いきなりネーデルラントの都市に重税をかける。それだけでなく、宗教もローマ=カトリックを強制しようとした。

 これが原因で、1568年、ネーデルラントの人々は独立戦争を始めました。
 指導者はネーデルラントの名門貴族オラニエ公ウィレム。名目的な指導者ですがこの名前は覚えてください。

 フェリペ2世はスペインから軍隊を送り込んで、ネーデルラント側との戦いが始まりますが、スペインも強国ですから、なかなか簡単には独立できそうにない。そういう中でネーデルラントの南部10州が独立戦争から脱落します。南部はローマ=カトリックの信者が比較的多かったのも脱落の原因です。
 これに対して、北部の7州は、あくまでたたかいぬく覚悟を固めて、1579年ユトレヒト同盟という対スペイン軍事同盟を結成します。ネーデルラントはもともと国になっていないので都市や州という地域ごとに団結を確認しながらスペインと戦っているのです。ユトレヒト同盟の中心だった州がホラント州です。オランダ船がはじめて日本に来たときに、応接した役人が「おまえたちは、スペイン人やポルトガル人とは違うようだが、どこから来たのじゃ。」と尋ねた。オランダの船乗りはホラント州出身だったので「ホラントから来た。」と答えたんだって。このときホラントを国名と勘違いしてしまったため、以後日本ではこの国のことをホラントがなまったオランダという名前で呼ぶことになります。だから、オランダというのは日本でだけの呼び方です。外国人にオランダと言っても通じないから。本当はネーデルラントだからね。

 それはともかく、ユトレヒト同盟は1581年には独立を宣言して、ここにネーデルラント連邦共和国が成立しました。ただし、スペインはあきらめたわけでなく、この後も戦争は続いて、1609年、スペインと休戦条約が結ばれてようやく事実上の独立を達成しました。
 脱落した南部10州はのちにベルギーとなります。

 ちなみにネーデルラントの独立戦争をイギリスが援助していますので、これは頭に入れておいてください。当時のイギリス王が、エリザベス1世ですね。フェリペ2世のプロポーズを受け入れるようなそぶりを見せて結局ふってしまった因縁の関係です。このあたりについては、次回にお話しします。

 ネーデルラントの商人たちはスペインとの戦争をしながらも、したたかに海外貿易を繰り広げていました。当時、海外貿易に利用できる大型帆船がヨーロッパ全体で2万、そのうちネーデルラントの船が1万6千だった、という数字もあるくらいです。17世紀前半のネーデルラントは、最先端の造船技術を持っていたこと、また、フランスなどから新教徒の商工業者がネーデルラントに移住してきたことなどにより、ヨーロッパの中で飛び抜けた経済的な地位を獲得し、アムステルダムは国際商業・金融の中心として繁栄しました。
 貿易の中心をになったのが1602年に設立されたオランダ東インド会社です。東インドというのは、アジアのことです。コロンブスがアメリカ大陸をインドだと思いこんでしまった影響で、アメリカをインドと呼ぶ慣習があって、本とのインドと区別するためにアメリカを西インド、本当のインドおよびアジアを東インドと呼ぶ習わしがあったのです。
 衰えていくスペインに取って代わって、アジア・アメリカ貿易を握っていくことになります。

 このスペインからネーデルラントへの貿易の主役交替は、日本の歴史をみていてもはっきりわかります。
 戦国時代、さかんに日本に来航していたのは南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルでした。オランダ船がはじめて日本に来たのが1600年。リーフデ号という船で、実はこの船は二年前の1598年にオランダを出航している。コショウを買い付けるためにインドネシア方面に行くはずだったのですが、嵐に巻き込まれて漂流して、現在の大分県の海岸にたどり着いたというものです。だから、意識して日本に来たわけではない。出航時110名いた船員のほとんどはすでに死んでいて、生存者はわずか24名というから、海外貿易は命がけですね。
 当時は関ヶ原の戦いの直前です。徳川家康は世界情勢も気になりますから、リーフデ号の乗組員のオランダ人たちから情報収集した。その後かれらはオランダに帰るのですが、徳川家康に気に入られてそのまま日本に残ったのが2名いる。そのひとりがヤン=ヨーステン。この人の屋敷が江戸にあたえられて、その屋敷跡が八重洲という地名に残っている。東京駅に八重洲口というのがあるのですが、それです。もうひとりがウィリアム=アダムス。実はこの人はオランダ人ではない。イギリス人です。イギリスがネーデルラントの独立を支援していたという外交関係が浮かんできますね。かれはパイロットです。日本語でいうと水先案内人。羅針盤を見ながら船の航路を決めていく役割です。ウィリアム=アダムスは徳川家康の外交顧問になります。三浦半島に領地をあたえられたかれの日本名が三浦按針(みうらあんじん)。按針とは羅針盤の針を点検するという意味です。
 これ以後、オランダ、イギリスの商船が日本に来航するようになるのですが、オランダは、「キリスト教の布教はしません、純粋に商売だけをさしてもらいます」と家康に売り込んで、イエズス会の宣教師と一体になってやってくるスペインを追い落とし、やがては日本貿易を独占します。ヨーロッパでの両国の力関係の変化が、そのまま日本との貿易にも反映されているから、おもしろい。

 おまけですが、リーフデ号の船首には、ネーデルラントが生んだルネサンス最大の人文学者エラスムスの像が飾られていました。このエラスムス像は現在でも残っていて、東京の国立博物館にあるそうです。これが見たくて、以前東京に行ったときに、探したのですが見つかりませんでした。収蔵されているだけで非公開なのかもしれません。

 

第61回 スペインの繁栄とオランダの繁栄 おわり

こんな話を授業でした

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