世界史講義録
  

第66回  プロイセンとオーストリア

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プロイセン
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 三十年戦争の結果、バラバラになってしまったドイツの中にプロイセンという国がありました。1618年、ブランデンブルグ選帝侯領とドイツ騎士団領という諸侯の領土が合体してできた国です。支配者はホーエンツォレルン家という。宗教は新教。プロイセンは飛び地になっていて、大きく東と西に分かれています。東側の領土はポーランドの中にあり、西の領土は神聖ローマ帝国の中にあるというややこしい国です。まあ、領土が飛び地になっているというのは、当時は珍しくはないんですが。
 で、プロイセンが出来たときの正式国名はプロイセン公国といった。公国というのは王国よりもワンランク下です。その後、プロイセンは国力をつけてきて、スペイン継承戦争の時にオーストリアを支援しました。その見返りとして、1701年、王国に昇格した。プロイセン「王国」になったわけだ。オーストリアは神聖ローマ帝国皇帝として、ランク付けできるのです。

 これ以後、プロイセン王国はさらに発展していく。最初に発展の基礎をつくったのがフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713~40)です。あだ名が「兵隊王」。軍隊を強化して軍国主義的国家建設をすすめた。とにかくプロイセン軍を強大にすることに熱中しました。宮殿の庭園をつぶして練兵場にしたくらいです。かれは常備軍をつくるのですが、傭兵は金がかかるし、質も悪いから、徴兵制で農民を集めて軍隊を作り上げた。それでも兵士が足りないので誘拐もやった。徴兵係がずうっと農村を廻って、体格の立派な若い農夫がいたら無理矢理さらってくる。さらわれて気がついたら兵隊にさせられているのです。
 こんなふうにして8万人の常備軍を作り上げた。当時のプロイセンの人口が200万人程度ですから、すごい割合ですよ。人口の4%ですからね。今の日本だったら400万人以上になる。

 無理矢理集められた兵士ですが、彼らを命令に従わせるために、プロイセン軍は厳罰主義をとります。たとえば、命令拒否は銃殺です。死にたくないから上官の言うことに従いますわな。誘拐されてきた兵士たちは、脱走してふるさとに帰りたいとおもう。脱走の罰が、また厳しい。「列間鞭打ち」というのをやった。脱走した兵士は、裸にされて走らされる。どこを走るかというと、自分の部隊の兵士たちが二列に並んでいる真ん中を駆け抜ける。部隊の兵士たちは、おのおの鞭を持っていて、裸で走ってくる脱走兵を打つのです。
 仲間に打たれる方もつらいけど、仲間を鞭打つのもつらいよ。走り終えたら、身体はずたずたで虫の息です。こういうスパルタ式軍国主義をプロイセンはおこなった。この時期、イギリスやフランスでは兵士に対する鞭打ちは禁止されていたといいます。そういう意味では遅れた国だったのです。
 また、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、とくに背の高い兵士を集めて「巨人軍」というのを作り、閲兵して楽しんだという。兵隊が好きで仕方がなかったのです。
 とにかく、国力的にはかなり無理をしながらも軍隊を大きくして、プロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げようとしたのです。

 フリードリヒ=ヴィルヘルム1世のあとを継いだのが息子のフリードリヒ2世(位1740~86)。プロイセンを絶対主義国家として完成させた。フリードリヒ大王と呼ばれることもあります。生存中からすでに伝説となったような大王です。

 かれは小さい頃から父親の兵隊王とうまくいかなかった。とにかく父親は、軍隊を強くすることに異常な情熱を燃やす男です。一言で言ったら乱暴で粗野。お妃でも皇太子でも気にくわなかったらぶん殴ったり、鞭で打ったりするのは当たり前の男。
 息子のフリードリヒ2世はそんな父親が嫌いで、正反対の趣味を持つようになっていったんだ。フランスから詩集や小説を取り寄せて読んだり、音楽が好きでフルートを自分で演奏したりする。そうすると、父親は将来の王がこんな軟弱なことでどうする、といって殴ったり、文学書を取り上げたりする。少年フリードリヒはますます自分の世界に逃げ込む。父と息子はお互いに理解できないのですね。
 18歳のある日、とうとうフリードリヒ2世は家出を決意した。フランスに逃げようとします。このときにカッテという友人も家出に誘う。カッテ君はフリードリヒに同情して、一緒に逃げてくれた。息子が逃げたことを知ると、父の兵隊王は滅茶苦茶に怒った。この人は、とにかく何事も軍隊を規準に考える。家出は軍隊でいえば、脱走と同じです。絶対に許すことは出来ないというわけで、追っ手を差し向けて、逃亡中の二人を捕まえた。
 ベルリンに連れ戻された二人は牢獄に入れられて、カッテは見せしめとしてフリードリヒ2世の目の前で処刑されてしまった。むごいことをしますね。
 さすがに皇太子のフリードリヒ2世は処刑はされませんでしたが、この事件をきっかけに、引きこもりがちな陰鬱な人間になります。いくら逃げようとしても、結局、自分が父親のあとを継いでプロイセンの王にならなければいけない。だとすれば、自分はどんな王になるのか。父親とは違ったどんな政治をすべきなのか。そんなことをフリードリヒ2世は考えていたはずです。
 やがて、父親が亡くなり、かれがプロイセン王となったときには、それまでのヨーロッパにないタイプの王になっていた。

 「啓蒙専制君主」というのがそれです。フリードリヒ2世は、若い頃からフランスの本をたくさん読んでいたから、プロイセンがフランスと比べて、制度や文化の面でずいぶん遅れていることを知っていました。だから、フランスの先進思想を積極的に取り入れたのです。
 当時、フランスでは絶対主義の絶頂期ですが、絶対主義に批判的な思想も生まれていました。迷信や偏見を打ち破り、合理的、理性的に社会を改革しようという啓蒙思想です。
 本来、啓蒙思想は絶対主義を批判するもので、両立しない思想なのですが、フリードリヒ2世は二つとも一緒に取り入れてしまった。だから、「啓蒙専制君主」といいます。専制的に絶対主義的な政治をするのだけれど、その中で不合理なものをどんどん排除していく。プロイセンがフランスなどの先進国に追いつくにはそういう方法が一番有効だと考えたのでしょう。
 当時ヨーロッパの思想界で一番もてはやされていたフランスの啓蒙思想家にヴォルテールという人がいて、フリードリヒ2世は、かれと文通するのですが、それだけでは我慢できなくなって、最後はヴォルテールをベルリンに呼び寄せて宮殿に一緒に住まわせてもいます。結局は喧嘩してヴォルテールは出ていくんですが。

 フリードリヒ2世の言葉として有名なのが「朕は国家第一の僕(しもべ)である」。ルイ14世の「朕は国家である」と比べると、へりくだった表現をしていますね。ここが、啓蒙思想の影響している部分だね。ただ、啓蒙思想に理解はありますが、ぶっちゃけていえば、実際にやっていることは専制君主なんですよ。

 さて、フリードリヒ2世は二度の戦争でプロイセンをヨーロッパの一流国に押し上げることに成功しました。
 その一つがオーストリア継承戦争(1740~48)です。この年、オーストリア王にマリア=テレジアが即位した。この人は女性です。前のオーストリア王カール6世は、男の子がいなかったので、前々から娘のマリア=テレジアに位を譲るつもりでした。しかし、オーストリアのハプスブルク家で、これまで女性の王はいなかった。しかもオーストリア王は同時に神聖ローマ帝国皇帝の称号を兼ねます。実体のない称号といえども、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対があることは当然予想できた。そこで、カール6世は前もって各領邦国家の君主に根回しをして、マリア=テレジアが即位しても、反対しないという約束を取り付けていました。
 そういうなかで、いよいよマリア=テレジアが即位したのです。
 そこで、すかさずフリードリヒ2世は反対した。かれも、事前には「女でもかまいませんよ」と約束していたのに、です。フリードリヒ2世の本音では、別に男でも女でも構わない。オーストリアに戦争をふっかける名目さえあればよかったのです。親父が作り上げた強大な軍隊を利用して領土を拡大するチャンスです。
 これが、オーストリア継承戦争。マリア=テレジアは有能な人物で、即位したばかりなのに多民族国家のオーストリアをよくまとめて戦いました。最終的に「アーヘンの和約」が結ばれて戦争は終結した。
 結論としては、マリア=テレジアはオーストリアの相続を認められた。しかし、代償としてシュレジエン地方をプロイセンに割譲する、ということになった。シュレジエン地方は当時は工業の発達した地域で、人口も100万人いました。それまでのプロイセンの人口が200万をこえる程度ですから、単純に言って、プロイセンの国力は一気に1.5倍になったわけだ。

 悔しいのはマリア=テレジア。もともと、自分の即位は了解済みだったはずなのに、あとからイチャモンをつけてきたプロイセンに大事な領土を奪われて、何とも許しがたい。そこで、シュレジエン地方を取り返すための復讐戦を仕掛けました。これが七年戦争(1756~63)。
 マリア=テレジアはオーストリア継承戦争の経験から、単独でプロイセンに勝つのは無理だと考えた。そこで、軍事同盟を結ぶのですが、その相手国がフランスとロシアです。フランスは伝統的にオーストリア・ハプスブルク家とライバル関係で、常に敵対していた。三十年戦争でも、同じ旧教国でありながら、フランスは新教側で参加していましたね。それを、外交交渉を通じてオーストリアはフランスを味方につけたのです。
 プロイセンのフリードリヒ2世は、オーストリアの軍事力については高をくくっていて、負けるはずがないと考えていた。フランスが敵にまわったらかなり危険だが、伝統的にフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が組むはずがないと考えていましたから、両国の同盟を知ってかなりショックだった。このフランスがオーストリアと手を組んだ事件を「外交革命」といっています。現代的にはほとんど無意味な、細かい知識ですが、受験で世界史をとる人は覚えておいた方がいい。

 さて、七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍に押されて、さすがのプロイセンも苦戦します。ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んでくるまでなります。フリードリヒ2世も、もはやこれまでか、と覚悟をしたらしい。側近の家来が、「陛下、もうダメです」と声をかけたら、「わかっている、覚悟は出来ているよ」と言って、胸に下げているロケットを開いて見せた。中には毒薬が入っていたといいます。
 死を覚悟するまで追いつめられたのですが、ここでプロイセンにとって奇跡が起きる。ロシア皇帝エリザヴェータが突然死んだのです。あとを継いで即位したのがピョートル3世。この新ロシア皇帝はフリードリヒ2世の崇拝者だった。「啓蒙専制君主」としてのかれの政治姿勢は、結構人気があったのです。で、ピョートル3世は自分の崇拝するフリードリヒ2世と戦争する気は全然ない。講和を結んで、ロシア軍を撤退させてしまった。
 こんなふうに、土壇場で助かったプロイセンはその後、盛り返して最後は逆転勝ち。結局、シュレジエン地方はプロイセンの領土として確定し、オーストリアのマリア=テレジアはなにも得るものがなかったのです。
 ちなみに、こうして勝ったフリードリヒ2世は、後々まで伝説の大王として語り継がれていった。余談ですが、第二次世界大戦末期、ナチス・ドイツの指導者ヒトラーは、自分の執務室にフリードリヒ2世の肖像画をかかげて、七年戦争の奇跡をもう一度、と願っていたという。で、実際にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが死ぬんですね。ヒトラーは、奇跡だ、と喜んだけれど、結局はドイツは負けてヒトラーは自殺したのでした。

 二度の戦争を通じて、プロイセンはドイツの領邦国家の中ではオーストリアに次ぐ大国の地位を確立しました。また、かれの「啓蒙専制君主」という政治スタイルは東ヨーロッパに流行することになる。ロシアのピョートル3世みたいに、かれの崇拝者もたくさんいたのでした。

 プロイセンの経済ですが、基本的には農業国です。穀物を安く生産して、先進地域である西ヨーロッパ、オランダ、イギリスなどに輸出する。そういう輸出穀物生産が経済を支えていました。そして、安い穀物を生産するために、封建的な地主制度がつづいていきます。封建制度が崩れていくイギリスとは、正反対の方向に向かうわけです。
 国の指導者層も、地主貴族が中心です。プロイセンの地主貴族のことを「ユンカー」と言う。この用語は覚えておくこと。

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オーストリア
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 ドイツの中で最大の領邦国家、オーストリアについて見ておきます。
 何度も言っていますが、オーストリアを支配しているのはハプスブルク家。神聖ローマ帝国皇帝の称号を、事実上世襲しています。ヨーロッパの名門中の名門です。
 ハプスブルク家は、巧みな婚姻戦略で領土を広げてきたので、その領土はあちこちに散らばっています。飛び地が多い。だから、イギリスやフランスのような中央集権化が物理的にしにくい。これは、不利ですね。
 さらに、広い領土の中には、ドイツ民族以外が住んでいる地域もあった。代表的なのが、ハンガリーとチェコ(ベーメン)です。ハンガリーはマジャール人、チェコはチェク人。オーストリアは多民族国家だったのです。いまは、これらはオーストリアとは全然別の国になっているわけで、こういう地域を一つの国家としてまとめ上げるのは大変だった。

 外交面では、16世紀以来、オーストリアの脅威になっていたのは、オスマン帝国です。オスマン帝国は、たびたびオーストリアに攻撃を仕掛けています。首都ウィーンは二度オスマン軍に包囲されている。しかし、1683年の第二次ウィーン包囲のあとは、力関係が逆転して、オーストリアが逆にオスマン帝国を攻めるようになる。
 1699年にはオスマン帝国との間にカルロヴィッツ条約を結び、オスマン帝国支配下にあったハンガリーの中央部と東部を獲得した。こうして、オーストリアは中央ヨーロッパの大国に発展します。ただし、繰り返しますが、フランス・イギリスのような中央集権化は進んでいません。領土がでっかいだけです。

 そういう流れの中で、マリア=テレジア(位1740~80)が即位するわけですね。彼女の即位にプロイセンが反対して、オーストリア継承戦争が起きた話はしました。つづく七年戦争も負けてしまったので、マリア=テレジアはダメな王様だ、とは思わないように。
 オーストリアのおかれた条件が複雑すぎて、プロイセンのようにすっきり近代的な国づくりができなかったのが根本原因です。マリア=テレジアはその中で、大きな国をよくまとめて統治したと言える。しかも、彼女は女性ですからね。女性だからダメだという意味で言っているのではなくて、彼女はちゃんと結婚して子供もたくさん生んでいる。何人子供を産んだと思いますか。16人ですよ。16人。妊娠可能期間中はずっと妊娠している感じですね。妊娠しているからって、産休はありませんからね。女王なんですから。
 しかも、この人の偉いのは、産まれた子供を全員自分の手で育てているところです。どういうことかというと、だいたい、当時の上流貴族たちは子供ができたら、どこかの誰かに預けてしまって、自分では面倒を見ないというのが普通です。昔から、上流階級というのは親子肉親の情が薄いと言われる。実際に、生みっぱなしでたまに会うだけですから、あまり親愛の情はわかないらしい。だけど、マリア=テレジアは子供たちを手元に置いて成長を見守った。16人ですよ。
 子育てをちゃんと自分でやりながら、しかも王として国家経営をきっちりこなした。プロイセンに負けたとはいえ。そういう意味では大した人物です。
 ちなみに、彼女の娘の一人がのちにフランス王ルイ16世に嫁ぎます。外交革命で、フランスと友好関係を結んだ証としての政略結婚ですが、その娘がマリー=アントワネットです。有名な王妃ですから、名前を聞いたことある人も多いんじゃないですか。フランス革命で処刑されてしまいますが。まあ、それは、あとのお話です。

 マリア=テレジアの長男がヨーゼフ2世。将来はオーストリア王・神聖ローマ皇帝ですから、彼女は息子を大事に育てるし、息子も母親を愛し尊敬していた。マリア=テレジアは1765年、共同統治者として、かれを神聖ローマ皇帝に即位させて、自分と二人で国政をみることにした。
 この親子は仲がよいのですが、マリア=テレジアとしては一つだけ我慢できないことがあった。息子ヨーゼフはプロイセン国王フリードリヒ2世のファン。崇拝しているんです。短期間でプロイセンを一流国に押し上げたフリードリヒ2世の政治手法を学びたい、少しでも近づきたいと考えていた。しかし、マリア=テレジアからすれば、オーストリアから領土を奪った憎い敵。それを息子が崇拝しているというのは、何とも困ったものですね。

 ヨーゼフ2世は、マリア=テレジアの死後、啓蒙主義的な内政改革を次々に実施します。だから、ヨーゼフ2世も「啓蒙専制君主」といわれる。改革の内容は、農奴解放令・農民保護のための土地税制改革・貴族の特権排除・商工業の育成など。いちいち覚える必要はありません。フランスなどの先進国に追いつくために、改革をやったということです。
 しかし、これらの改革はほとんど失敗に終わります。ヨーゼフ2世の改革は、理想を追ってばかりで、オーストリアという複雑な国の実状にあっていなかった。それから、まわりの貴族たちの理解を得なかったことなどが、失敗の理由です。


第66回 プロイセンとオーストリア おわり

こんな話を授業でした

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