世界史講義録
  

第67回  ロシアの台頭


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モスクワ大公国
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 ロシア人はモンゴル帝国以来、キプチャク=ハン国の支配下にありました。キプチャク=ハン国が衰えると、1480年にモスクワ大公国が独立した。これが、現在のロシアの始まりです。
 このときのモスクワ大公国の支配者がイヴァン3世(位1462~1505)。この人は、ビザンツ帝国、つまり東ローマ帝国の最後の皇帝の姪と結婚していた。その関係で1453年にビザンツ帝国が滅びると、イヴァン3世は「ツァーリ」という称号を使いはじめました。ツァーリというのはカエサルのロシア訛りです。だから、この称号を使うということは、ビザンツ帝国のあとを引き継ぐという象徴的な意味あいがある。ツァーリを日本語に訳すときは皇帝と訳しています。

 モスクワ大公国をさらに発展させたのがイヴァン4世(位1533~84)。イヴァン雷帝ともいわれる。この人は、大貴族を抑圧し、中央集権化をすすめます。また、農奴制を強化している。それから、ツァーリを正式な称号として採用した。
 激情型の性格で、ユニークなキャラクターだったらしい。ロシアでは非常に有名な王様で、小説や映画の題材に取り上げられています。有名なのが資料集に載っている絵のエピソードですね。ある時、イヴァン雷帝は長男の嫁を身なりがだらしないといって殴った。そうしたら、長男が怒った。そりゃ、怒ります。奥さんを親父に殴られたらね。長男と言い争いになった雷帝は、カッとなって持っていた杖で長男の頭を打った。そうしたら、長男の頭がパックリ割れて倒れた。殺してしまったんだね。我にかえった雷帝が息子を抱きかかえて泣き叫んでいる、そのシーンを描いたものです。
 この短気で凶暴な性格で、自分に逆らう大貴族たちの領地を取り上げて中央集権化をすすめていった。しかし、貴族たちの反発も大きかったようで、雷帝は六回結婚しているのですが、妃のうち五人は大貴族に毒殺されたという。六人目の奥さんを捜していて、イギリスのエリザベス一世の姪が候補にのぼった。婚約までいったのですが、彼女の方が、あんな野蛮な国に嫁に行きたくないと、泣いていやがるので、とうとう破談になってしまった。イギリスから見て、ロシア、モスクワ大公国がどんなに野蛮で辺境の土地だったかということです。
 まだまだモンゴル系の勢力も強くて、イヴァン雷帝は、モンゴル王家の血を引く貴族からツァーリの称号を譲られる、という形式をとって即位しています。ロシアがアジアかヨーロッパかもはっきりしない時代なんですね。19世紀末のロシアの文豪トルストイに『戦争と平和』という小説があります。ナポレオン戦争を題材にしているんですが、その中で、ナポレオン軍がロシアに攻め込む。モスクワの街並みを目前にして、ナポレオンが「アジアの都だ」というシーンがある。モスクワはフランス人からすればアジアなんだと、トルストイが考えていたというのは、なかなか興味深いです。

 話をもどします。イヴァン4世のやったことで、もう一つ覚えておくのは、シベリア進出です。コサック隊長のイェルマークという人物にシビル=ハン国遠征をさせた。シビル=ハン国というのはウラル山脈の東にあったモンゴル系の遊牧国家です。こうして、シベリア方面へ進出するきっかけを作った。シビル=ハンはシベリアという地名の語源です。
 コサックというのは南ロシア・ウクライナの辺境地帯に住んでいた人たちで、逃亡してきたロシア人の農奴が中心になってできた集団です。どこの国の領土でもない平原地帯で誰にも支配されずに共同体を作っていた。住んでいるところによって、ドン・コサックとかウラル・コサックとか、いろいろあります。男たちは、はじめは略奪などで生計を立てていた。だから、騎馬兵として優秀。ロシアはコサックたちに自治を認めるかわりに彼らを騎馬兵として利用した。20世紀の日露戦争でも騎馬軍団として登場していますよ。

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ロシアの発展
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 イヴァン4世が死んだあとは、ロシアは大混乱する。王家の血筋が絶え、偽皇帝が出現したり、農民反乱、ポーランド軍やスウェーデン軍の侵入などがあった。こういう混乱のなか1613年に、貴族たちの会議でミハイル=ロマノフが皇帝に選ばれて、ロマノフ朝が始まります。

 その後も政治は安定せず、1667年から71年まではステンカ=ラージンの乱という大農民反乱が起きています。これは、名前だけでいいので覚えておくこと。

 ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)。かれの時代から正式にロシア帝国という国名になる。
 ピョートル1世は、なんとかロシアをヨーロッパ風の国に仕立てあげて、近代化したいと考えた。イギリスはすでに名誉革命で絶対主義が終わっているし、フランスはルイ14世が絶対主義の絶頂期。ロシアはというと、絶対主義以前の状態です。文化的にも非常に遅れている。ピョートルが貴族たちにエチケットについて注文を付けているので紹介しておきましょう。
人前でつばをはかないこと
音を立てて鼻をかまないこと
指で鼻くそをほじくらないこと
食後に手で口をぬぐわないこと
ナイフで歯の掃除をしないこと
食事中に豚のように口をならさないこと
笑うでしょ。これが、ロシア貴族に対する皇帝の要望。ただ、当のピョートル1世もそんなに礼儀正しい方ではなかったらしい。大酒のみでどんちゃん騒ぎが大好きだった。お気に入りの酒飲み仲間を、陸軍大臣や公爵にしたり、おちゃらけで「酔っぱらい省」という役所を作って、酔っぱらい大臣を任命して、暇があればみんなで酔っぱらい会議を開いたという。正式なパーティの時に将棋に熱中して、貴族や貴婦人たちをほったらかしにすることもあった。情熱的で、思いこんだら突っ走るところがあったようです。

 さて、ピョートル1世ですが、ヨーロッパ風の国造りのためにはヨーロッパ諸国の研究をしなければいけない、と考えて、1697年、総勢250名の大使節団をヨーロッパ諸国に派遣した。ヨーロッパの文物、制度を輸入しようというわけです。このとき、じっとしていられない性格のピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、身分を隠して使節団に加わります。お忍び旅行ですね。
 各国を視察してまわるのですが、オランダでピョートル1世は造船所がすっかり気に入る。なんと、一職工として就職してしまった。身分を隠して働きはじめるのですが、すぐばれる。あの、背の高い男はロシアの皇帝らしいぜ、と噂が広まり、見物人が増えて仕事にならなくなって、やめてしまうのですが、船造りがすっかり好きになる。ちなみにピョートルはものすごい大男です。2メートル13センチ。
 イギリス滞在を終わったときには、宿舎の家主から莫大な損害賠償を要求されたという。毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会で家の中が滅茶苦茶に壊されていたんですって。いかにもピョートル1世らしいですね。

 17世紀の終わりから18世紀のはじめにかけて、西ヨーロッパの先進国がとっていた経済政策は重商主義です。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立して、アジア貿易にどんどんのりだしている。
 ピョートル1世も、ロシアのとるべき進路は重商主義と考えた。海外貿易を活発化しなければならないわけだね。ところが、当時のロシアは今と違って、内陸国です。港はあるにはあるがアルハンゲリスクという、ほとんど北極圏にある北の港。スカンディナヴィア半島の北側をクルッとまわらないと到達できない辺境の地。しかも一年の大半は凍っている。
 これでは、ダメなわけで、もっとよい港が欲しい。当時バルト海沿岸を領有していたのはスウェーデン。そこで、良港を得るためにピョートル1世はスウェーデンと戦争をした。
 これが、北方戦争(1700~21)です。
 この戦争に勝利して、獲得した小さな漁村に建設したのがペテルスブルクです。湿地帯で都市建設には不向きな場所だったのですが、10年間で4万人の農奴と5千人の職人を動員して港と都市を建設する。そして、ここを新首都として貴族を強制的に移住させました。

 ピョートル1世はペテルスブルクの宮殿では半日政務を執ったあとは、造船所に出かけて船を造っていたそうです。ただの船マニアではなくて、趣味と重商主義政策を兼ねていたんでしょうね。かれのあだ名は「ハンマーをふるう帝王」。

 ピョートル1世の時代のロシアは東にも領土を広げて中国北方まで到達しています。中国は清朝の絶頂期。その清との間で国境線の確定をおこなっています。これがネルチンスク条約(1689)。この条約はロシアと清朝が対等です。この時点では、アジアの国もヨーロッパに劣らず繁栄しているということです。
 ところで、この条約を結ぶときに何語で書類を作成したと思いますか。ロシア語と中国語、接点ないでしょ。
 実は条約の原本はラテン語で書かれています。清朝宮廷にイエズス会の宣教師が仕えているんですね。かれらが、交渉で活躍したそうです。

 ピョートル1世の死後は短命な皇帝がつづき、ロシアの政治は少々混乱します。プロイセンとオーストリアの七年戦争に参加したのもこの時期。七年戦争の時の皇帝はピョートル1世の娘のエリザベータ。彼女が死んで、甥のピョートル3世が即位した。フリードリヒ2世の崇拝者で、七年戦争から撤退したという話は前回しました。ピョートル3世のフリードリヒ2世に対する崇拝ぶりは徹底していて、肖像画にひざまづいたり、胸像に接吻したりする。近衛隊の兵士たちにすると、こういうのはイヤなんです。自分の仕えている皇帝が、敵国の王にひざまずくなんて屈辱的でしょ。ピョートル3世はそういう兵士たちの心理がわからない。かれは少々知能が低かったとも言われている。近衛隊に徹底的に嫌われて、ついには殺されてしまった。近衛隊は、かわりにピョートル3世の妻を皇帝にした。これが、ピョートル1世と並び称されるエカチェリーナ2世(位1762~96)です。

 エカチェリーナ2世は、ピョートル1世の政策を引き継いだ皇帝です。また、当時東ヨーロッパで流行していた啓蒙専制君主でもあります。
 実は、エカチェリーナ2世はドイツ人なのです。ピョートル3世はお妃を求めて、ドイツでめぼしいお姫様をさがすのですが、ロシアは辺境の野蛮国、おまけにピョートル3世は少々頭が弱いらしい。となれば、王家や一流貴族の令嬢は行きたがらない。結局、ドイツ貴族のなかでは一流でもなく、ものすごい美人でもないエカチェリーナが、因果を含められて嫁ぐことになった。
 教養ある賢い人だったらしい。ロシアに嫁いでからは夫や宮廷の人々ともうまくつきあって、親衛隊からも人気が高かった。だから、夫の死後、皇帝に擁立されたわけです。

 ドイツ出身の彼女が、啓蒙専制君主になるのは、当然ですね。ロシアの社会を見て、遅れているなと感じるところがたくさんあったのでしょう。
 彼女が残している「訓示」というのがあるので見てみます。
君主は絶対である…。
君主政治の真の目的は…人民からその自然の自由を奪うことではなく最高善に達するため、彼らの行為を正すことである。
ひとつめは、まさに絶対主義。ふたつめは啓蒙主義ですね。啓蒙専制君主の典型です。

 彼女の言っていることは立派ですが、1773年にプガチョフの乱という大規模な農民反乱があって、これを鎮圧したあと、農奴制は強化されています。当時のロシアの新聞に農奴の売り出し広告が載っている。一応、農奴というのは移動と職業選択の自由はないけれど、売買はされない身分のはずなんですが、これでは奴隷と変わらない。
 1789年にはフランスで革命がおきています。そういう時代状況のなかで、彼女の政治は、ますます反動的になったのでしょう。

 領土は拡大します。プロイセン、オーストリアと共同でポーランドの領土を分けあった。ポーランド分割という。その結果、1793年にポーランドは滅亡します。
 もう一つが南方への発展で、オスマン帝国からクリミア半島を奪います。クリミア半島は、黒海に面した半島。ここから地中海へ抜けて、大西洋にでることができる。そういう意味では、重要な場所です。

 東アジアにも関心を持ちます。1792年には日本にラクスマンを使節として派遣しています。これは日本人の商人大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という人が大きく関わっている。
 大黒屋光太夫は現在の三重県伊勢の商人でした。米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かう途中で難破する。アリューシャン列島のアムチトカという島に漂着したのが1783年。
一行は17人。そこに来ていたロシア人の毛皮商人に助けられて、ロシアに渡ることになる。光太夫たちは日本に帰りたいのですが、日本は鎖国中。仕方ないので、かれらはロシア人商人に連れられて、ロシア本土に渡ります。1789年にはイルクーツクに来ますが、そのときには光太夫の一行は5人に減っている。厳しい環境や病気で死んでいくのですね。イルクーツクで光太夫は学者で企業経営をしているラクスマンというロシア人と知り合って、そのつてで1791年、皇帝エカチェリーナ2世に謁見することができました。ペテルブルクまで行っているんですからね。当時の日本人としてはけた外れの大旅行です。
 光太夫がエカチェリーナ2世に謁見した目的はただ一つ。日本に帰りたい、と訴えたのです。ちょうど、エカチェリーナ2世も、日本貿易に関心があったので、漂着民大黒屋光太夫を日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送った。使節に選ばれたのが光太夫たちの面倒をみたラクスマンの息子です。
 5人になっていた日本人のうち二人はロシアに残ることを選びました。ロシア人と結婚したりして、生活基盤ができてしまった人たちです。結局、光太夫を含めて三人が日本に向かうのですが、そのうち一人は根室で死んでいます。

 1792年、ロシア使節ラクスマンは北海道根室に着きました。幕府は、漂着民は受け取りますが、外交交渉は長崎でしかおこなわない、としてラクスマンに長崎への入港許可書を与えて追い返しました。日本との貿易交渉は事実上失敗ですね。
 日本側に引き渡された光太夫たちは北海道から江戸に護送されます。鎖国の日本から外国へ行っただけで罪人扱いです。
 江戸では幕府の役人から取り調べを受けた。光太夫は貴重な海外の情報をたくさん持っています。ロシア皇帝と会っているくらいですから、ロシアの上流階級と幅広い付き合いもあって、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解しているわけです。こういう人物を、大事にすれば日本にとって、ものすごいプラスだったと思うのですが、幕府にはそういう発想はなかった。幕府から見れば、光太夫は、世界を知ってしまった危険な人物です。一般庶民と混じわらせることはできない。せっかく帰ってきたのに、光太夫は江戸に家を与えられ死ぬまで軟禁生活を送った。鎖国政策の被害者ですね。日本に帰ってきた漂流民が、海外知識を利用して活躍するようになるのは幕末のジョン万次郎以後のことです。(追記・授業では、このように教えましたが、その後に読んだ本によれば、自由に出歩いたり人にあったりも出来たようです。授業での語りとは逆に、幕府が外国問題のアドバイザー的な存在として、江戸に留め置いたと考えられるようです。2013/08/28)

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ポーランド
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 ドイツとロシアにはさまれた国がポーランド。ここは、16世紀後半にヤゲロー朝が断絶してから、貴族の選挙によって王を決めていた。選挙王政という。もともと貴族の力が強かったし、王は強大な権力を持つことができなかった。だから、ヨーロッパの潮流になっていた絶対主義による中央集権的国家建設ができませんでした。
 強力な中央政府を持たないポーランドは、隣国によって分割されて消滅してしまった。ポーランド分割です。
 ポーランド分割は三回あって、第一回が1772年。ロシア、プロイセン、オーストリアによって、領土を奪われる。このときのロシア皇帝がエカチェリーナ2世、プロイセン王がフリードリヒ2世、オーストリア皇帝がマリア=テレジア。この段階では、ポーランドは領土が縮小しましたが、まだ存続しています。
 第二回が1793年。ロシア、プロイセンによって、さらに領土が奪われた。
 第三回が1795年。ロシア、プロイセン、オーストリア三国によって、まだ残されていた領土も完全に分割されて、地図上からポーランドが消滅した。このときにロシア軍に対してコシューシコという愛国者が抵抗運動をしています。この人はアメリカ独立戦争に義勇兵として参加していることでも有名。現在ポーランドでは英雄です。
(20020228校正)

第67回 ロシアの台頭 おわり

こんな話を授業でした

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