世界史講義録
  



第70回  オスマン帝国

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オスマン帝国の隆盛
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 14世紀から20世紀初頭まで、長い間繁栄をつづけたイスラムの大帝国がオスマン帝国です。いろいろな呼び方があって、オスマン朝とも、オスマン=トルコとも言う。19世紀以降は単にトルコと書かれていることも多いです。
 国名の由来は、建国者の一族がトルコ人のオスマン族だったからです。

 トルコ人はもともとはモンゴル高原から中央アジアにかけての草原地帯で遊牧生活をしていた。これが、長い時間をかけて、西に移動してきます。はじめは、イスラムの国々で軍人として重宝された。遊牧民族ですから、騎馬兵としてうってつけだった。だから、マムルーク、つまり奴隷、として西アジアにつれてこられて、活躍するものは古くからいました。やがて、部族ごとにイスラムに改宗して西に移動してくるようになる。以前に出てきたセルジューク=トルコもそうです。

 オスマン族も同じように、東から移動してきて、現在のトルコ共和国のアナトリア地方に国を建てた。これが、1299年のこと。建国者はオスマン=ベイ。都はブルサ。
 はじめは、地方政権のひとつにすぎなかった。アナトリア地方には、同じような小さな勢力がたくさんあったのです。

 オスマン朝の面白いところは、ヨーロッパに向かって領土を拡大した点です。ヨーロッパとアジアを隔てるのがマルマラ海。その一番狭くなっている部分が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡。オスマン朝は、ダーダネルス海峡を渡って、イスラム国家としては、はじめてバルカン半島に領土を獲得した。ムラト1世(位1359~89)の時に、バルカン半島のアドリアノープルに首都を移します。コンスタンティノープルに都をおくビザンツ帝国は、オスマン朝に領土を奪われて、まわりを囲まれる形になります。ただ、コンスタンティノープルは難攻不落。ビザンツ帝国は海上貿易をつづけながら、このあと100年間つづきます。
 ムラト1世の時に、イエニチェリという軍隊がつくられます。これは、新領土となったバルカン半島で、白人キリスト教徒の少年を奴隷として集めてつくった軍隊です。40戸に1戸の割合で、身体強健、眉目秀麗な少年を差し出させる。これが、首都に集められ、イスラムに改宗させられ、共同生活をしながら軍事訓練を受けるのです。マムルークの一種と考えていいとおもう。イエニチェリはオスマン朝を支える軍事力として、他の国からおそれられるようになった。イエニチェリの部隊が移動するときは、軍楽隊つきで演奏に合わせながら行進する。先頭には、軍旗として大きな鍋がかかげられていた。これは、部隊の兵士は同じ釜の飯を食う仲間という、団結のしるしだそうです。バルカン半島各地では、遠くからイエニチェリの軍楽隊の音楽が聞こえてくると、農民は農作業をやめて、家に隠れたという。それくらい怖かったらしい。
 のちに、ヨーロッパ各国も、イエニチェリを真似て、軍楽隊をつくるようになります。

 バヤジット1世(位1389~1402)の時には、ニコポリスの戦い(1396)で北方のハンガリー王ジギスムントと戦って勝利します。
 こうして、バルカン半島で足固めをしたオスマン朝は、つぎに東のアナトリア地方で領土を拡大しようとするのですが、ここにあらわれたのがティムールです。モンゴル帝国の復活を夢見るティムールは中央アジアを統一して、イラン・メソポタミアを領土にくわえて、アナトリア地方にまで進撃してきた。
 オスマン朝が、ティムールを迎え撃ったのがアンカラの戦い(1402)。結果は、ティムールの勝利で、バヤジット1世は捕虜になってしまった。ここで、オスマン朝はいったんは滅亡するのです。バヤジット1世はティムール軍につれまわされたあげく、翌年、病気で死んでしまう。ところが、ティムール自身も1405年には死んでしまって、オスマン朝はその後再興されるのです。

 復活したオスマン朝は、すぐにアンカラの戦い以前の領土を回復し、さらに領土を広げはじめる。
 そして、1453年メフメト2世は、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。これは、大きな事件なので、年代も含めてしっかり覚えておいてください。ビザンツ帝国は古代ローマ帝国からの流れをうけついでいるから、大げさに言えば、1500年つづいたローマ帝国がとうとう滅んだということですね。

 コンスタンティノープルの陥落のようすです。1000年以上もビザンツ帝国の都として栄えてきたコンスタンティノープルの守りは堅くて、三重の城壁に囲まれていた。メフメト2世は10万の大軍でこの都を攻撃するのですが、城壁を破ることができないまま、2カ月が過ぎます。
 ビザンツ最後の皇帝はコンスタンティヌス11世。ビザンツが滅びることは目に見えているので、多くの市民はすでに逃げてしまっていて、皇帝が戦える者を集めたときには、4773人しかいなかったという。しかし、たった四千人で10万の軍勢をしのいでいたんだから、鉄壁の守りだったのです。
 コンスタンティノープルの海に面している部分は守りが弱いので、オスマン海軍は海から攻めたいところですが、ボスポラス海峡は潮流が速くてこれは無理だった。金角湾という入り江があって、ここに入り込めば海上からの攻撃もできる。しかし、ビザンツ側は金角湾の入り口に、大人の腕くらいの太さの鎖を張り巡らして、オスマン海軍が湾に入れないようにしていました。

 これを打ち破るためにメフメト2世がとった作戦が「山越え」というもの。海から金角湾に入れないのなら、船に山を越えさせろと命令した。湾を一山こえた向こうの海岸から艦隊を陸揚げして、70隻の戦艦を山を越えて金角湾に入れたのです。ビザンツ側はびっくりですね。金角湾の向こうの山からどんどん船が降りてくるんですから。
 さらに、城壁を破るために「ばけもの」とよばれる超大型の大砲を建造した。これは、長さ8メートル、砲弾の重さ600キロ。60頭の牛に引かせて、アドリアノープルから運んできます。
 陸と海からの総攻撃で1453年5月29日、ついにコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅びました。最後の皇帝となったコンスタンティヌス11世は、乱戦の中で戦って死んだといわれています。
 オスマン朝のメフメト2世は、23歳の若さでした。

 この後、、オスマン朝は、コンスタンティノープルに首都を移します。コンスタンティノープルはやがて、イスタンブルとよばれるようになります。

 セリム1世(位1512~20)の時には、西に進出して、イランにあったサファヴィー朝を圧迫する。さらに、エジプトに入り、ここにあったマムルーク朝を滅ぼしました(1517)。
 マムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護していたという話がある。セリム1世は、マムルーク朝を滅ぼしたときに、カリフの子孫を見つけて、その「カリフ」という地位を譲り受けたというのです。これは、19世紀頃にオスマン朝の権威づけのために作られた伝説らしいですが、少し前までは事実として語られていました。世俗の王とか皇帝とかいう意味の称号がスルタン。全イスラム信者の指導者としての称号がカリフ。両方を兼ね備えたオスマンの皇帝を「スルタン=カリフ」と19世紀頃から呼ぶようになります。ちょっと覚えておいてください。
 セリム1世の段階で、オスマン朝は、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展しています。これは、ローマ帝国以来の領土の広さです。

 さらに領土を拡大して、オスマン朝の最盛期となったのが、スレイマン1世(位1520~66)の時です。
 1526年、モハーチの戦いでハンガリーを破って、属国とします。さらにドイツ、神聖ローマ帝国に侵入。神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲した。第一次ウィーン包囲(1529)という。イエニチェリ1万5千、スィパーヒーという騎士4万で、ウィーンを攻めた。
 当時ドイツではルターの宗教改革がはじまっていて、ルター派諸侯とカール5世の対立が激しい。カール5世は、オスマン朝の攻撃をしのぐために、このときにルター派の信仰をいったん認めました。ちなみに、ルターは「トルコ人はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っています。

 結局、オスマン軍はウィーンを陥落させることはできずに撤退した。しかし、このころからオスマン朝は、ヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つようになります。とくに、イタリアの支配権をめぐって、ドイツ、スペインのハプスブルク家と対立関係にあったフランスは、オスマン朝に接近して友好関係を結ぶんだ。
 スレイマン1世は、フランス王フランソワ1世に恩恵として、オスマン領内のフランス人に対する治外法権、港湾での通商権、イェルサレムの守護権などの特権を与えた。この保護特権をカピチュレーションと言います。19世紀以後になると、フランスなどヨーロッパ諸国はこの特権を利用して、オスマン朝に圧迫をくわえますが、この時期のカピチュレーションは、オスマン朝からのフランスに対する恩恵です。オスマン朝の立場の方が強かったのです。

 1538年には、プレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィア連合軍を破って、東地中海の制海権を確立。
 さらに、チュニジア、アルジェリアなどアフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土となった。

 絶頂期のスレイマン1世の様子を、オーストリア大使はこう伝えている。
「スルタンは地面から1フィートたらずの、むしろ低い玉座のうえに座っていた。玉座は沢山の見るからに高価な絨毯と精巧な細工をほどこしたクッションにおおわれていた。…スルタンの表情はにこりともせず、むしろその顔には厳しい威厳が満ちあふれていた。われわれが到着した際、式部官は手を取ってスルタンの面前に案内してくれた。スルタンは私が口上を読みあげる間、耳を傾けていた。わが皇帝陛下(カール5世)の要求に対して、見下すような物腰で、言葉少なく「よし、よし」と答えるだけであった。」
(オーストリア駐トルコ大使ビュスベックの書簡)

 スレイマン1世が、神聖ローマ皇帝カール5世宛に出した手紙も紹介しよう。
「朕は、諸スルタンのスルタン、諸君主のあかし、地上における神の影(カリフのこと)、地中海と黒海、ルメリアとアナドルとルームとカラマンとエルズルムとディヤルバクルとクルディスタンとルーリスタンとイランとズルカドゥリエとエジプトとダマスカスとハレプとエルサレムと全アラビアの諸地方とバクダードとバスラとアデンとイェメンの諸国土とタタールとキプチャク平原の諸地域とブダとそれに属する諸地と、そしてまた我らが剣をもって勝ちえた多くの諸国土の大王でありスルタンである、スルタン・セリム・シャー・ハンの子、スルタン・スレイマン・シャーであるぞ。その方、スペインの諸地方の王カールであろう。以下のことを知れ……」
(スレイマン1世から神聖ローマ皇帝カール5世への親書)

 これでもかと、自分の支配する地名を挙げておいて、カール5世はただ「スペイン諸地方の王」だけですからね。格の違いを見せつけているようです。

 スレイマン1世の時の出来事として、スンナ派を国教としたこと、壮大なスレイマン=モスクを建設したことも、付け加えておきます。

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オスマン帝国の統治
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 オスマン帝国の統治の特徴をみておきます。

 バルカン半島と、アナトリア地方、シリアの一部は、皇帝の直轄地で、それ以外のエジプト、アラビア半島などは、在地の有力者に統治を任せて、税金だけを納めさせるという、比較的緩やかな支配の仕方でした。

 軍事封土制
 直轄地では、軍事封土制をおこなった。ティマール制ともいいます。セルジューク朝やマムルーク朝でおこなわれていたイクター制の発展したものです。スィパーヒーと呼ばれる騎士に、一定の地域の徴税権をあたえるかわりに、軍事奉仕を義務づけるものです。

 二聖都の守護者
 オスマン朝の皇帝、スルタンは、「二聖都の守護者」として宗教的権威を持ちます。イスラム教の二大聖地であるメッカとメディナを支配下におさめていたからです。

 トルコ人にこだわらぬ支配層の形成
 オスマン朝は、各地にマドラサと呼ばれるイスラム法学の高等教育機関を設けて、ウラマー(イスラム法学者)を育成します。ウラマーたちは有能な官僚として、民族に関係なく行政や司法、教育を担当しました。
 また、イエニチェリなど奴隷出身のものでも、有能であれば高い地位につくことができた。

 異教徒への寛大な支配
 オスマン帝国の領土には、イスラム教以外の宗教を信じる者もいます。ギリシア正教やユダヤ教などです。オスマン朝は、これらの宗教の信者にミッレトいう共同体を作らせる。それぞれのミッレトに自治と安全保障をあたえます。イスラム法にもとづく生活を強制しないから、自分たちの問題は自分たちで処理しなさい、ということだ。
 外国から商売などでやってくる異教徒には、カピチュレーションという特権をあたえた。

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衰退
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 スレイマン1世以後のオスマン朝は、ゆっくりと衰退していきます。
 1571年には、レパントの海戦で、スペイン艦隊に敗れた。スペイン艦隊が無敵艦隊と呼ばれるようになったのはこれからです。。オスマン朝は、この敗北で一気に地中海の支配権を失ったわけではないのですが、ヨーロッパ人にとっては象徴的な勝利だった。
 この時期くらいから、東西貿易の流れが地中海から大西洋に移っていきます。これは、オスマン朝にとってはダメージでした。

 オーストリアとの戦争は断続的につづいていて、1683年にはオスマン軍がウィーンを再び包囲攻撃します(第二次ウィーン包囲)。これが失敗に終わると、今度は逆にオーストリア側が優位に立つ。劣勢のオスマン朝は、1699年にカルロヴィッツ条約でハンガリーの支配権を放棄しました。ハンガリーはオーストリアの支配下に入ります。

 ロシアも、黒海北岸にあるオスマン朝の領土を徐々に奪っていきました。
 フランスやイギリスもカピチュレーションを逆手にとって、オスマン朝から利権を獲得していく。

 17世紀後半以後は、国内でもスィパーヒーの反乱や、地方総督の自立化傾向が強まり、オスマン朝の弱体化がすすんでいきました。

 余談になりますが、モーツァルトに「トルコ行進曲」という曲がある。モーツァルトは18世紀後半の人。ウィーンで活動していた。ウィーン包囲から百年もあとに、なぜこんな曲を作ったのか。
 第二次ウィーン包囲の時、ウィーンを取り囲んだオスマン軍は、軍楽隊がありますから、ウィーンの市民にプレッシャーをあたえるために、ジャンジャカジャンジャカと演奏をしていたと思う。その音楽の記憶が、人々の間にかすかに残っていたのかなと、私は想像します。ピアノを長く習っている人なら、弾けると思います。ちょっと聞いてみましょう。(CDを流す)
 この曲のどこがトルコ風なのか。音楽の先生に聞いたら、ターン・ターン・タン・タン・タンというリズムがトルコのものだということです。ちなみに、現在のトルコの軍楽隊の演奏を聴いてみましょう。(古い陸軍行進曲「ジェッディン・テデン」をテープで流す)ウィーン包囲時代の音楽そのままではないそうですが、確かにリズムはモーツァルトと同じですね。
 オスマン朝が衰え、トルコ人が恐怖の対象から、異国情緒の対象になってきたということでしょう。

第70回 オスマン帝国 おわり

こんな話を授業でした

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