世界史講義録
  



第71回  サファヴィー朝・ムガル帝国



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サファヴィー朝
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 オスマン帝国とほぼ同時期に、イランに栄えていた王朝がサファヴィー朝(1501~1736)です。ティムール帝国が崩壊した後のイランに建国します。
 建国者はイスマイール1世。この人は名門の出身で、第四代正統カリフ、アリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル=バーヌーの血をひくという。本当かどうかは怪しいですが、とにかく、イスラム教創始者とペルシア王家ですから、イスラム教徒のペルシア人にとってこれ以上の高貴な血筋はない。
 さらに、イスマイール1世の家は、サファヴィー神秘主義教団というイスラムの宗派の教祖さんをやっていて、かなりの信者を集めていた。
 イスマイール1世は、名門としての人気と、教団の指導者としての影響力を利用して、サファヴィー朝建国に成功したわけです。

 サファヴィー朝の特色
 イスラムの中でもシーア派を国教とします。伝統的にイラン人はシーア派が多いですし、西の大国オスマン朝がスンナ派ですから、これと対抗するという意味もある。
 皇帝の称号には、シャーという呼称を使った。これは、イランの伝統的な王号です。イスラム教国ではあるけれど、イランの民族国家という意識もあったということです。

 最盛期の皇帝がアッバース1世(位1588~1629)。オスマン朝からイランの一部とアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大した。さらに、ホルムズ海峡に要塞を築いていたポルトガル人を追放する。
 新たに首都イスファハーンを造営する。

 アッバース1世の死後、サファヴィー朝は衰退していきます。イランの話はこれでおしまい。

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内陸アジア(ティムール帝国衰退後)
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 ティムール帝国衰退後の、中央アジアはどうなっていたのか。

 ウズベク人。
 カスピ海、アラル海の北にカザフ草原という所がある。ここでは、15世紀以降、キプチャク=ハン国に属していたトルコ人と、トルコ化したモンゴル人の集団がひとつになって、ウズベク人という民族ができていた。彼らが、ティムール帝国崩壊後に、東トルキスタン地方に南下してくる。アラル海に注ぐシル川、アム川流域のオアシス地帯です。ここに、ウズベク人が建国したのが、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国。あわせて、三ハン国という。19世紀後半に、ロシアに併合されるまでつづきました。現在、ウズベキスタンという国になっていますね。

 カザーフ人
 キプチャク=ハン国に属していた遊牧部族が、ウズベク人が南下したあとのカザフ草原で、いろいろな遊牧集団を吸収してできた民族です。トルコ系。16世紀頃には、中央アジアで大きな勢力に成長しますが、18世紀にはロシアの支配下に入った。

 ウイグル人。
 唐の時代から、モンゴル高原にいたトルコ系の民族です。もともとは遊牧生活でしたが、この時期には東トルキスタンのオアシスに定住して交易に従事している。東トルキスタンというのはパミール高原の東側の中央アジア。トルコ系のウイグル人が定住してからトルキスタンという地名が生まれたのです。14世紀以降にイスラム化していきました。
 政治的には、大きな勢力に服属をつづけた。チャガタイ=ハン国、モンゴル系遊牧国家ジュンガル、中国の清朝などの支配下に入ります。

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ムガル帝国の発展
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 オスマン朝、サファヴィー朝と同時期にインドでもイスラムの大国ができます。これが、ムガル帝国(1526~1858)です。

 建国者はバーブル(位1526~30)。この人は、ティムール帝国の王族の血を引くひとで、もともと中央アジアの都市サマルカンド本拠地にしてフェルガナ地方を支配していた。ところが、ウズベク人の南下で、本拠地を追われてしまった。一族を率いて各地を転戦して、なんとかアフガニスタンのカーブルに根拠地を移し、サマルカンド奪還をめざした。ウズベク人の勢力と何度か戦うのですが、結局失敗。
 とうとう中央アジアで、国を再建するのをあきらめて、180度方向転換して、インドに侵入した。
 1526年、デリーを本拠地にしていたロディー朝を、パーニパットの戦いで破る。これ以後、本拠地をデリーに移して、インドの王朝として発展します。これが、ムガル帝国のはじまりです。
 ムガルという国名ですが、モンゴルがなまったものです。民族的には、トルコ化していますが、バーブルはティムールの子孫で、ティムールはチンギス=ハンの血を引いてことになっているからね。ティムール帝国、さらにはモンゴル帝国の復活を夢見ていたのです。

 インドに建国したバーブルですが、本心はサマルカンドで建国したかった。涼しい中央アジアが大好き。インドは実は好きではない。食事のデザートにマスクメロンが出てくると、サマルカンドを恋しがって涙を流したという。マスクメロンは中央アジアのオアシスで作られるからです。
 武人としても政治家としても有能だったバーブルは、文学の才能もあって、かれの「バーブル詩集」は、トルコ文学の傑作とされている。
 「バーブル詩集」の冒頭です。
  「わが心よりほかに頼るべき友なし
   わが魂よりほかに信ずべき朋なし」

 バーブルの跡ををついだのが、息子のフマーユーン。じつは、フマーユーンが大病にかかって、心配したバーブルは息子のベッドのまわりをクルクル回りながら、自分が身代わりになるからどうか息子の命を助けてくれと、神に祈ったという。フマーユーンの病気が回復した直後、本当にバーブルは死んでしまった。48歳でした。
 ムガル帝国はまだインド全域を支配しているわけではなく、北インドにも敵対勢力がたくさんあった。フマーユーンは、他の勢力に負けて、一時イランのサファヴィー朝に亡命します。そのご、サファヴィー朝の兵力を借りながら勢力を盛り返し、再びデリーを奪還しますが、宮廷の図書館の階段から落ちて、あっけなく死んでしまった。

 かわって即位したのが、まだ13歳だったアクバル(1556~1605)。このあと50年間位にあって、ムガル帝国を大帝国に発展させた。重要な皇帝です。
 成人してからのアクバルは、軍事、政治ともに才能を発揮して、まだ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させた。領土としては、現在のアフガニスタンから北インドにかけて統一します。首都はアグラ。

 アクバルたちムガル帝国の支配者一族はトルコ系民族であって、インド人ではない。しかも宗教はイスラム教です。インド人の大多数の宗教はヒンドゥー教です。
 だから、ムガル帝国が、インドをしっかり統治するには、インド人たちに受け入れられる必要がある。アクバルは、インド人に対して融和的支配をします。具体的には、ヒンドゥー教徒へのジズヤを廃止した。ジズヤというのは人頭税。イスラム教の支配下にある非イスラム教徒が支払わなければならないものでした。これを廃止するということは、伝統的なイスラムから、はずれることなのですが、それをあえてする。
 アクバルは、最終的には、イスラムでもヒンドゥーでもない新しい宗教をつくって、インドを統合しようと考えていたようです。柔軟な発想の持ち主だったのですね。
 もう一つは、積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結んだ。ラージプート族というのは、非常に好戦的で、ムガル帝国としても手を焼いた相手だったのです。でも、これを内側に取り込む。
 このような政策で、インド人の反発を招かないようにして、ムガル帝国の最盛期を現出した。ただ、インド全体を支配しているのではありませんから、注意してください。インド南部にはヴィジャヤナガル王国が繁栄しています。

 五代目の皇帝がシャー=ジャハーン(位1628~58)。この人で覚えることはひとつだけ。タージ=マハルの建設です。非常に美しいこの建物、皆さんも一度はみたことがあるでしょう。ドームの曲線と、まわりの尖塔とのバランス、壁の白さと青空の対比。どれをとっても素晴らしい。
 タージ=マハルは、皇帝シャー=ジャハーンが愛妻ムムターズの死を悲しんで、彼女を祭るために造営した廟です。ムムターズは17歳でシャー=ジャハーンと結婚して、36歳で産褥死している。18年間の結婚生活の間に、なんと14人の子供を産んだという。いつも妊娠している勘定ですね。ムガルの皇帝たちは、ちんまり玉座に座っていることはあまりない。頻繁に一族や有力諸侯の反乱がおきたり、国境で戦闘がおこなわれますから、皇帝みずから軍隊を指揮して、あちこちを転戦する。ムガルの一族はもともとは遊牧民族ですから、各地を転戦するときには家族を引き連れていった。ムムターズは大きいお腹をして、シャー=ジャハーンに付き従って、旅から旅の生活をしていたのですね。だから、シャー=ジャハーンの愛もひとしおだったのだろう。
 タージ=マハルのすぐ後ろにはジャムナ川という川が流れている。伝説では、シャー=ジャハーンは、川の対岸に黒い石でタージ=マハルと同じ形の自分の廟を建てて、川に橋を架けて二人の廟をつなごうと考えていたという。ロマンチックですね。
 だけれども、シャー=ジャハーンは、晩年帝位を息子に奪われて、アグラの宮殿に監禁されてしまった。死ぬまでの8年間は監禁された部屋の窓から、タージ=マハルを眺めて泣いて暮らしていたといいます。

 父親を監禁して帝位についたのがアウラングゼーブ(位1658~1707)。ムガル帝国が繁栄していた最後の時代の皇帝。
 アウラングゼーブは南インドのデカン高原を平定して、ムガル帝国の領域を最大にした。
 一方で、アウラングゼーブは非常に敬虔なイスラム教徒で、インド人に妥協してイスラムの教えを曲げることを嫌いました。そのため、アクバル以来廃止されていたヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を復活した。また、ヒンドゥー教徒やシク教徒を弾圧した。
 これは、当然インド人の反発を招く。非イスラム教徒の離反、反乱があいつぐようになり、アウラングゼーブは反乱鎮圧のため転戦につぐ転戦です。
 アウラングゼーブの様子を伝えるイギリス外交官の報告書があります。

 「ムガル軍のキャンプは不潔このうえない泥土の中にあり、兵士たちの給料は一年以上滞っている。宮廷人は腐敗の極みにあり、何一つするにしても賄賂を要求する。だが老皇帝一人だけは、なおかなりの威厳を持ち純白の衣裳で前線を回る。多くの兵が皇帝を見ようと群れる。だが皇帝は彼らのほうを見ずただ手中の本のみに目をこらす。その本はコーランだった。」(1699、イギリス使節報告)

 コーランをたよりにひとりでムガル帝国を支えているアウラングゼーブの孤高の姿を伝えている。アウラングゼーブは軍人としては有能だったので、かれが生きていた間は、ムガル帝国はなんとか、かつての栄光を保ちますが、アウラングゼーブの死後、各地の勢力がムガル帝国から自立していって、ムガル帝国は急速に衰退する。デリー周辺を領土に持つだけの、一地方政権になっていきました。

 かわって、勢力を拡大してきた政権が、パンジャブ地方のシク教国。ラージプート諸侯国、マラータ同盟など。シク教というのは、ヒンドゥー教とイスラム教を融合した宗教で、シク教国はかれらの国です。マラータ同盟はマラータ族諸侯の連合政権。

 また、やがてインドを支配することになるイギリスが、マドラス、ボンベイ、カルカッタに商館を築いたのが、時期的にはアウラングゼーブの時代に重なります。
 ほぼ同時期にフランスもシャンデルナゴル、ポンディシェリに商館をひらいていましたね。

第71回 サファヴィー朝・ムガル帝国 おわり

こんな話を授業でした

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