世界史講義録
  



第72回  明帝国

--------
明の成立
--------
 16世紀以後に繁栄したアジアの王朝をずっとみてきました。最後は中国。明と清です。

 明(1368~1644)。建国者は朱元璋。皇帝としての呼び名が洪武帝(位1368~98)。貧しい農家の四男坊です。
 流行病で親も死に、口減らしのためにお寺の小坊主に出されます。やがて、元朝末期になり、各地に反乱がおこり、政情は不安定。お寺でも食べられなくなって、放浪の乞食坊主になる。三年間ほど、各地を放浪している。まだ十代の朱元璋は、このままの生活では一生うだつがあがらないと思って、いちかばちか、紅巾軍に参加することにした。
 紅巾軍は、白蓮教という宗教結社からおこった元朝末期の反乱軍のひとつです。紅巾軍はたくさんの部隊が各地で活動していた。朱元璋は、その紅巾軍の一部隊に「俺も仲間に入れてくれ」と、志願するのです。ところが、「怪しい坊主だ、敵方のスパイではないか」と疑われて、すんなり参加させてくれない。押し問答しているところに、部隊長がやって来て、朱元璋の顔をじろりと見た。ひとこと「よし、入れてやれ」。
 隊長は朱元璋の顔を一目見て、みどころがあると思ったようです。実は、朱元璋は非常にかわった顔をしていたらしい。資料集をみてください。朱元璋の二つの肖像画がある。皇帝になってから描かせたものです。ひとつは、堂々としていい男。こちらは、ごつごつした顔はアバタだらけで、目はつり上がり、とても同じ人とは思えない。たぶん、こちらのかっこよくない方が、本当の顔に近いとおもう。
 隊長は、人並みはずれた人相に、何かをやる男かもしれないと感じたんだろう。

 そのご、朱元璋は部隊の中で大活躍して、どんどん反乱軍の中で地位を上げていきます。暗殺という手段もつかって、とうとう紅巾軍のリーダーになった。このころ元朝は、北京を中心に中国北部は支配していますが、反乱勢力を鎮圧する力はなくて、中国南部には、いろいろな反乱勢力がそれぞれ支配地域をつくって争っていた。朱元璋は南京を本拠地にしていて、やがて対立する勢力を倒して中国の統一に成功した。これが、明朝です。元朝のモンゴル人は、中国を放棄してモンゴル高原に退去します。

 中国歴代王朝の創始者は、だいたいが名門出身です。何の身分もない、ただの農民が王朝を開いたのは前漢の劉邦と、この朱元璋だけです。無一文の身分から身を起こし、立身出世する歴史上の人物は、普通は人気があるものです。たとえば、日本では豊臣秀吉。中国でも劉邦は人気がある。ところが、この朱元璋は全然人気がない。
 なぜかというと、非常に残虐で猜疑心が強い。皇帝になってから、異常なまでに人をたくさん殺している。それも、自分が皇帝になる前に反乱軍で苦労をともにした部下たちをどんどん殺すのです。
 たとえば胡惟庸(こいよう)の獄(1380)、李善長の獄(1390)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393)という事件がある。それぞれ、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍になったものたちが、謀反の罪で処刑された事件です。事件そのものが、朱元璋によるでっち上げらしいのですが、それぞれの事件で処刑された人数がすごい。胡惟庸の獄が1万5千人、李善長の獄も1万5千人、藍玉の獄が2万人。合計すれば5万人ですよ。一族郎党、関係者、ちょっとででも疑われたもの、みんな殺されてしまった。皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者はみんな殺されたということです。
 乞食坊主だったことは、そうとう朱元璋のコンプレックスになっていたらしい。役人が作成文書に「僧」「禿」とかいう文字があったら、とんでもないことになった。杭州府学という官立学校の教授の文章に「光天の下、天は聖人を生ず」という一節があって、この先生は死刑になったそうです。光という文字が、坊主を連想させたらしい。

 朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后になってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。
 馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。ところが、医者にも診てもらわないし、薬も全然飲もうとしない。朱元璋が心配して差し向ける医者もすべて追い返してしまう。心配した侍女が、「どうして医者に診てもらわないのですか」とたずねたら、こう答えた。「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からないことは自分が一番よくわかっている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。
 馬皇后は、夫の残虐なおこないをたしなめることができる唯一の人でした。こんな人柄だから、朱元璋が人気がない反面で、みんなから敬愛されたようです。

 話を戻します。朱元璋は全国を統一したあとも、本拠地を変えず、現在の南京を首都としました。当時の呼び名は金陵。
 統一王朝で、首都を中国南部にしたのは、明がはじめてです。

 朱元璋=洪武帝の政策をみていきます。

 まず、皇帝独裁を強化します。
 具体的にいうと、中書省を廃止して、六部と軍を皇帝直属にしました。唐の時代と比較してください。唐代は皇帝の下に中書省、門下省、尚書省とあって、その下に六部がありましたが、明代には最後に残っていた中書省もなくした。皇帝の権限が強化されたということです。皇帝の権限を制約する機関は存在しません。こういう統治機構を中国史では皇帝独裁という。

 一世一元の制をはじめた。
 洪武帝の時代の年号は洪武。洪武何年という。同一皇帝の時代は改元しない。これを一世一元の制という。日本では明治時代からこれを取り入れました。

 兵制は衛所制。
 兵士を出す家を軍戸として、一般人の民戸と区別して戸籍をつくる。そして、軍戸から軍を編成する制度を衛所制という。言葉だけで結構です。

 村落行政。
 村落行政に関しては、元朝時代に放任だったのを引き締めるために、隣組制度を作る。これを里甲制という。110戸を里という単位に編成して、その中から裕福な農民が輪番で里長として、行政の末端を担わされます。細かいことは、お上を煩わせずに自分たちで解決しろということです。
 里長に任された仕事で一番大変なのが、戸籍と租税台帳の作成。台帳のことを賦役黄冊(ふえきこうさつ)という。さらに、税の取り立ても里長の責任。決められた税額より少ないと、里長は自腹を切らなければならなかったから大変だった。それ以外に、治安維持などの仕事もありました。

 全国的な土地台帳もつくられた。魚鱗図冊という。これは、土地の形が魚の鱗みたいに描かれている所から付いた名前です。資料集をみたら、なるほどというネーミングですね。

 明の時代は、元代にないがしろになっていた伝統的中国的秩序を回復しようという意識が相当あったみたいです。里甲制もその一つですが、さらに、朱元璋は『六諭』というものを発布している。これは、法律というよりは、道徳の教科書ですね。親には孝行しろ、目上の者を尊敬しろ、村の仲間は仲良くしろ、というような儒教的な道徳を六つならべたものです。これを、月に何回か村々の老人たちに、みんなの前で読ませた。
 皇帝が直接、こんな形で、民衆にお説教をするというのは、それまでの時代にはなかったことでした。
 これを、明治時代に日本が真似た。教育勅語がそれです。500年後の日本が朱元璋の政治から影響されているというのは、興味深い。

 法律では唐の律令を意識して、大明律令というのを編纂します。これも中国的秩序回復の一環。

------
永楽帝
------
 1398年明朝初代皇帝朱元璋=洪武帝が死に、第二代皇帝に即位したのが建文帝(位1398~1402)。この人は、朱元璋の孫にあたります。皇太子だった長男が早死にしたので、その息子が即位した。まだ、16歳でした。

 朱元璋には、死んだ長男以外にも息子が何人かいた。朱元璋は皇太子以外の息子たちを国境防衛の軍司令官として各地に駐屯させていた。現在の北京に軍司令官として駐屯していたのが朱元璋の四男、燕王(えんおう)。ここは、モンゴル人の勢力と接する最前線基地だった。
 元は明に滅ぼされたのではなく、モンゴル高原で存続しているのです。この時代のモンゴル人の政権を北元(ほくげん)といいます。のちに、タタールと呼ぶようになるが、同じ国を指しています。モンゴル人たちは、いつまた中国に侵入してくるかわからない。
 国境防衛の一番重要な場所が、北京だったわけで、そこの司令官を任されている燕王はそれだけの能力があったのでしょう。かれの率いる軍隊も強かった。なかにはモンゴル系の兵士も多くいたようです。

 さて、建文帝からみると、強大な軍事力を持つ実力者燕王は不気味な存在です。自分の地位をおびやかすかもしれない。そこで、建文帝は燕王の権限を奪おうと計画する。両者の緊張が高まって、ついに燕王は建文帝に対して反乱をおこした。これを「靖難の変(せいなんのへん)」(1399~1402)という。帝位をめぐる一族の争いですね。

 建文帝、いくら若いといっても首都をおさえる皇帝です。官僚、軍隊、ほとんどすべてが皇帝側なので、燕王が有能な指導者で強力な軍団を率いていても簡単には勝てない。結局4年越しの戦争になりますが、最後は燕王軍が皇帝の本拠地南京を一気に突く作戦で勝利した。建文帝は混乱のなかで死んだとされています。
 勝った燕王は、皇帝になった。これが、永楽帝(位1402~24)です。

 永楽帝の政策を見ていきます。
 永楽帝は、はじめは官僚たちに人気がない。官僚たちは永楽帝に殺された建文帝に仕えていたわけで、かれらから見れば、永楽帝は反逆者そのものです。だから、永楽帝にとっては、官僚たちとの関係はしっくりこなかったし、南京の町そのものが居心地が悪かった。
 そこで、首都をもともとの自分の本拠地である北京に遷した。これ以来、北京が中国の首都となります。首都を遷したもう一つの理由は、北方の遊牧民族の来襲に備えるには、南京よりも北京の方が都合がよいということもありました。
 当時の北京は人口の三分の一がモンゴル人だったといいます。元代以来定住したモンゴル人がかなりいたんだね。現在北京の横町のことを胡同(フートン)というのですが、これはモンゴル語がなまったものです。

 内閣の設置。
 朱元璋=洪武帝の時から六部を皇帝直属にして皇帝の独裁政治がすすんだ、といいました。しかし、実際には、皇帝がひとりでできる仕事には限界があるので、皇帝の補佐役、秘書役が必要になる。それが内閣です。中身は違いますが、用語だけは現在の日本に引き継がれていますね。

 儒学の奨励、大規模な編纂事業。
 反乱によって帝位についた永楽帝は官僚、学者に人気があまりなかった。注意しておきますが、儒学をおさめたものが学者ですよ。そして、儒学をマスターしなければ科挙の試験に合格しませんから、官僚も学者です。
 人気がないのは、やはりやりにくい。首都を北京に遷しても、官僚を動かさなければ帝国を治めることはできないですから。そこで、学者の人気取りのために、儒学を奨励した。さらに、大規模な編纂事業をした。国家事業として大百科事典をつくるのです。百科事典をつくるというのは大仕事で、たくさんの学者を必要とします。学者先生は、国家事業に携われて、大事にされて、給料ももらえるわけだ。人気取りには、いいですね。
 永楽帝時代に編纂された本が、『永楽大典』、『四書大全』、『五経大全』。儒学関係の百科事典だと考えておけばよいです。

 ただ、こういう学者優遇をしますが、永楽帝は官僚、学者を信頼しきれなかったようで、宦官をつかって政治をおこなうことが多かった。宦官を秘密警察にして、官僚の動向をスパイさせたりする。宦官というのは、皇帝個人の使用人です。身分は低いし、学問もない。男でもなければ女でもない。だから、政治の表面に出てくることは、本来あってはならないことなのですが、これ以来、明の政治は、宦官の横暴による混乱がしばしばおこります。

 遠征事業。
 鄭和の南海遠征。1405年以来七回にわたって、南シナ海、インド洋の国々に大艦隊を派遣します。これを鄭和の南海遠征という。
 この遠征はスケールが大きい。第一回の時は、62隻の大船団で行く。総員2万7千人。一番大きな船は、長さ137メートル、幅56メートル。マストは9本あった。コロンブスのサンタ・マリア号が23メートルだから、その6倍ある。驚異的な大きさだ。
 遠征の目的は、明帝国の偉大さを諸国に知らしめて、朝貢させようということだったらしい。もうひとつ、裏の目的として建文帝の捜索があったといわれています。靖難の変で敗れた建文帝は南京で死んだといわれていたのですが、実は死体が確認されていない。だから、どこかに落ちのびて生きているのではないかという噂が常にあった。そこに、ヴェトナム方面で建文帝が活動しているという情報がはいった。生きているなら、草の根を分けてでも探し出して殺せ、という密命が遠征隊にあたえられていたのではないか。この辺は、憶測にすぎないのですが。

 艦隊の指揮官に任命されたのが鄭和。この人は、宦官です。永楽帝が宦官を使った一例です。鄭和は面白い生い立ちで、かれの家は、モンゴル時代に中央アジア方面から雲南省に移住してきたようです。雲南省はラオス、ビルマと国境を接する中国南部の辺境です。ここが、明朝の支配下に入ったとき、鄭和は明軍に捕らえられて、南京に連行され去勢されてしまった。12歳の時です。そして、即位する前の永楽帝、燕王に宦官として仕えることになった。靖難の変の時には燕王を助けて活躍したという。即位後も永楽帝に宦官として仕えていた。
 鄭和は大男で、身長180センチ、腰回り100センチあったというから、プロレスラーみたいな体格です。性格も剛胆だったので、永楽帝はかれを武将として使っていた。
 興味深いのは、鄭和がイスラム教徒だったことです。鄭和のもともとの姓は馬という。馬という姓はイスラム教徒に多い姓です。ムハンマドのムの音を漢字表記したものらしい。鄭和のひいおじいさんの名前が、馬拝顔(バヤン)。バヤンという名は漢民族ではない。またおじいさんは、馬哈只(ハッジ)と呼ばれていた。ハッジというのは、メッカに巡礼したことのある人に対する尊称です。
 だから、鄭和はイスラム教徒のネットワークや、出身民族の横のつながりで、いろいろな情報網をもっていた可能性がある。そこで、南海遠征の司令官に任命されたのだとおもう。インド洋を航海するときに、星で緯度を測定するのですが、アラビア式測定器「カマール」というものを使っている。また、高度の単位として「イスバ」「ザム」というアラビア語を使ったという。鄭和の背景を想像させますね。
 鄭和の艦隊は、アフリカ東岸にまで出かけています。第七回遠征では、メッカにも行っている。スケール大きいですね。

 モンゴル遠征。
 永楽帝は、モンゴル遠征を五回おこなっている。モンゴル人を服属させることはできなかったですが、漢民族皇帝みずからモンゴル方面に遠征するのは前漢の劉邦以来です。そういう意味では、気宇壮大な皇帝だね。五回目の遠征が65歳の時で、帰る途中に死んでしまった。戦争で即位して、戦争で死んだ皇帝でした。


第72回 明帝国 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第71回 サファヴィー朝・ムガル帝国

次のページへ
第73回 明中期以降・朝鮮