世界史講義録
  



第73回  明朝中期以降・朝鮮

--------
北虜南倭
--------
 15世紀中頃から、「北虜南倭」といわれる事態が、明朝に大きな被害と、軍事支出の増大による財政圧迫を招きます。

 北虜とは、北から攻めてくるモンゴル系遊牧民族のことです。モンゴル高原に退去したモンゴル族は、チンギス=ハーン直系の勢力をタタール、傍系で新しく勢力を伸ばしてきたグループをオイラートと呼ぶようになっています。
 15世紀中頃には、オイラートにエセン=ハンという有能なリーダーが出て、勢力を伸ばした。エセン=ハンは、西のティムール帝国と東の明朝とをつなぐ交易路をおさえ、さらに明と朝貢貿易をおこなって莫大な利益をえていたのですが、明が貿易を制限しはじめると、貿易拡大を要求して攻め込んできた。1449年のことです。このときの皇帝が正統帝。よせばよいのに、宦官の口車に乗せられて、自ら軍隊を率いて出撃したのですが、北京の北方の土木堡という場所で、モンゴル側の捕虜になってしまった。これを、土木の変といいます。エセン=ハンは中国との貿易拡大が目的だったので、明を滅ぼすということはありませんでしたが、皇帝が捕虜になるとは大失態でした。

 エセン=ハンの死後、オイラートは衰退しますが、16世紀後半になるとタタールがモンゴル高原を統一する。リーダーがアルタン=ハンです。アルタン=ハンも、中国との貿易を求めて、中国北部に侵入を繰り返した。1542年の侵入では、男女20万人を殺し、家畜200万を奪い、莫大な衣糧金銭をかすめとった、と記録されている。毎年のように、こういう被害が出るわけで明朝側も国防に必死です。
 北方遊牧民の侵入を防ぐために、国防費は増加します。現在残っている万里の長城は、この時代に建設されたものです。

 南倭はおもに中国南岸地方で活動した日本の海賊。これは、前期倭寇(14世紀)と後期倭寇(16世紀)にわかれます。
 倭寇は、日本では足利幕府の時代です。足利幕府は、三代将軍義満の時までは非常に不安定な政権でした。南北朝の政治的混乱がつづき、地方は事実上の無政府状態で、小領主が好き勝手なことをやっていました。幕府は地方のすみずみまで統制する力はなかった。こういうなかで、五島列島などの貧しい漁民たちが、倭寇になった。また、明は海禁政策をとっていて、民間人に海外貿易を許可していなかったので、中国貿易を求める商人たちが海賊行為をしたともいう。これが、前期倭寇です。
 だから、この時期の倭寇は、足利幕府が安定し、明とのあいだに勘合船貿易がはじまるとおさまりました。

 応仁の乱後、足利幕府の統制が乱れてくると、再び倭寇が活動をはじめます。これが、後期倭寇。中国南岸の港にやってきて、貿易が思うようにできないと、海賊に変身して略奪をおこなう。沿岸地方だけでなく、河川をさかのぼって、都市を攻略して略奪をするのです。海上で、他の船を襲うのではないですよ。
 「倭人の至る所、人民一空す」といわれて、人間までさらっていく。後期倭寇の被害に明は苦しむのですが、この時期の倭寇の構成員は、ほとんどが中国人で、日本人は一割から三割だったといいます。ただし、われわれが考えるような国境や国籍は当時の人たちには関係ないわけで、たとえば、後期倭寇の大親分で王直という中国人がいるのですが、かれの本拠地は五島列島だった。当人たちは、海の世界に暮らす者どうし仲間意識はあっても、日本人だ、中国人だという意識はなかったかもしれない。

------
張居正
------
 北慮南倭の対策で、国防費が増加し、国家財政は大赤字になる。永楽帝以来、明の皇帝は凡人か放蕩児がつづいて、宦官の横暴がまかり通っています。この状態を一時立て直したのが張居正。10歳で即位した万暦帝(位1572~1620)の後見人として政治を担当した大臣です。非常に剛胆な性格で、正しいと思ったことは、反対があってもどんどん実施した。また、滅茶苦茶だった綱紀を粛正した。税金はびしびし取り立て、浪費をいましめ、官僚組織を引き締めた。この結果、税の滞納率20%、年間100万両以上の赤字だったものが、1576年には390万両の黒字になったという。

 また、一条鞭法という新しい徴税方法がこの時期、全国に広がった。さまざまな徴税項目があり非常に煩雑だった租税と力役を、それぞれ銀納化した制度です。徴税事務が簡素化され、里長クラスの農民の負担が軽くなった。

 また、タタールとのあいだにも和平を実現しました。

 張居正が政権を担当している時期に、こんなことがあった。かれの父親が死んだのです。父が亡くなれば、当然喪に服して仕事を休むことになる。中国は儒教の本場です。官僚は儒教道徳のお手本ですから、親が死んだら一年や二年は田舎に帰って喪に服し、仕事から離れるのが常識でした。ところが、張居正は、皇帝に頼んで、「父の喪に服さず、正常の勤務をつづけよ」と命令を自分に出させる。そして、政務をつづけたのです。儒教道徳から見れば、とんでもない行動です。それくらいがんばって、明朝の政治を引き締めた人物でした。

 張居正が約10年間ワンマン宰相として政治をしているあいだは、張居正を批判できる人は誰もいなかった。実績もあげていたしね。しかし、死んだあとは、特に父親の喪に服さなかったことなどが批判されて、かれの残された家族は弾圧されました。また、張居正が生きていたあいだは、真面目にしていた万暦帝も、急に政務に対して熱意を失って堕落した生活を送るようになりました。

-------------
明末期の政治
-------------
 張居正が建て直した明の財政でしたが、その後、急速に悪化します。軍事費負担が増大する。

 1592年から98年まで、豊臣秀吉が朝鮮を侵略します。日本では、文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれています。
 秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けた理由は、いろいろあるようですが、どうも、この時期の秀吉は誇大妄想にとりつかれていたようで、中国を征服しようと真剣に考えたらしい。それで、中国への道筋にある朝鮮に協力を命じた。朝鮮は、明朝の冊封国の立場ですから、秀吉の命令などきくはずがない。そこで、秀吉は朝鮮を懲らしめるという名目で、諸大名に命じて朝鮮侵略戦争を開始した。日本の軍隊は、戦国時代を経験していますから戦争慣れしていて強かった。また、鉄砲をたくさん持っていて、朝鮮軍よりも武器で優れていた。
 朝鮮の正規軍は、当初日本軍に連戦連敗して、明に救援を求めた。朝鮮国は明の冊封体制に組み込まれていて、形式上、朝鮮国王は明国皇帝に対して臣下の礼をとっている。朝鮮国の上に立つ明としては、助けを求められたら、これに応えなければ面目がありません。明の大軍が朝鮮半島に遠征し、ここで日本軍と戦争をしたのです。
 結局、秀吉が死んで日本軍は撤退するのですが、明はこの戦争で10万の戦死者と1000万両の出費をした。

 さらに、同時期に南方では少数民族であるミャオ族の反乱、北の国境の町、寧夏ではモンゴル人将軍ボバイの乱など、戦争があいつぎます。

 また、中国東北部にいた女真族にも動きがおきる。かれらは明に服属していたのですが、日本軍の侵入で明軍が朝鮮半島にはりついているすきに、部族を統一して急速に力をつけてきます。1616年には女真族は後金国を建国して、明朝と対立します。

 明の皇帝は、財政赤字を埋めるために、正規の政府機関を使わず、私的に宦官を地方に派遣して、いろいろな名目の新税を徴収した。宦官たちは、かなり強引な方法で税金を集めたので、各地で混乱や、騒動がおこりました。

 さらに官僚の中にも派閥対立が生まれてくる。宦官が政治に関わる現状に批判的で、清廉潔白な政治を実現しようとする官僚たちが東林党というグループを作った。一方で、宦官と仲良くして出世しようという現実的な官僚たちもいて、このグループを非東林党という。東林党の人たちの志は立派だったのですが、宦官たちに弾圧されたり、非東林党との派閥争いに巻き込まれて、結果的に明の政治はさらに乱れていった。

 一方、農村や都市には、宦官たちがやって来て、正規の税以外にいろいろ取り立てるので、各地で徴税に反対する運動が起きる。
 都市での商工業者の抵抗を民変、農村での抵抗を抗糧闘争という。小作料支払いを拒否する抗租闘争も活発になります。
 中央政界だけでなく、地方社会も、騒然とした雰囲気に包まれてくるのです。
--------
朝鮮半島
--------
 一時、モンゴル帝国に服属していた高麗は、中国に明朝が成立すると、明の冊封国となりました。冊封というのは、中国の王朝と周辺国との関係で、冊封国は中国に対して、臣下の礼をとり、出兵の要請に応じたり、朝貢するなどの義務を負う。そのかわり、中国の保護を受けることができるというものです。

 高麗は倭寇の侵入で衰退し、倭寇撃退に活躍した将軍李成桂が高麗を倒して新しい王朝を建てた。これが朝鮮(1392~1910)です。李氏の王朝なので李朝とよんだり、地名と区別するために李氏朝鮮ともよびます。
 首都は漢城。現在のソウルです。
 政治は中央集権的。中国を真似て科挙もおこなう。ただ、政治の中枢は両班(ヤンパン)という貴族階級がにぎっていた。
 外交的には明の冊封国となります。のちに明が滅ぶと清の冊封をうける。
 儒学の中でも朱子学が奨励されて、国教的な扱いを受ける。朱子学的な倫理、行動が何よりも重んぜられる国になります。

 李氏朝鮮成立前後の倭寇の被害はかなり激しいものがある。明の北虜南倭のところでも少し話しましたが、朝鮮ではどんなふうだったのか紹介しておこう。
 1397年に慶尚南道晋州を襲った倭寇は、騎馬700、歩兵2000という規模。海賊というようなものではない。軍隊そのものです。九州あたりの守護大名クラスの連中がやっているのかもしれない。
 朝鮮と足利幕府には外交関係があって、朝鮮から通信使という使節が何度か日本にやってきます。プリントに載せてあるのは、1429年に来日した朝鮮通信使・朴瑞生の帰国報告です。
「倭賊嘗て我が国を侵略し我が人民を虜し、以て奴婢と為し、或いは遠国に転売し、永く還らざらしむ。其の父兄子弟、痛心切歯するも、未だ讐に報いることを得ざる者、幾何人か。臣等の行くや、船を泊する処毎に、被虜の人争いて逃げ来たらんと欲すれども、其の主の枷鎖堅囚するを以て未だ果たせず。誠に愍れむべきなり。日本は人多く食少なく、多く奴婢を売り、或いは人の子弟を竊みて之を売る。滔々として皆是なり。(『世宗実録11、12乙亥』より)」
 日本に行ってみたら、倭寇にさらわれ奴隷にされた朝鮮人がたくさんいて驚いているのです。通信使をみて、助けを求めているんだけれど、みんな鎖につながれて逃げることもできない、とある。人身売買で生計を立てている日本人がたくさんいたのですね。余談になりますが、この時代のもう少しあと、戦国時代には、戦国大名どうしで敵の領地から人をさらってきて奴隷として売るということを日常的にやっています。奴隷は海外にも輸出されていて、南蛮貿易でポルトガル商人が日本で買いつける重要商品のひとつでした。秀吉の朝鮮侵略でも多くの朝鮮人を奴隷として連れてきていますね。

 李氏朝鮮の王様で、重要な人が世宗(位1418~50)。セジョンと発音する。世宗は「訓民正音」を制定した。ハングルのことです。それまで、朝鮮半島では文字は漢字だけです。民族の言語を表す文字はなかったのです。ハングルは非常に合理的につくられた文字で、発音するときの舌の形で子音をあらわしていたりする。
 ただ、朝鮮では中国文化の影響力は圧倒的で、訓民正音制定後も公式文書は漢文でした。ハングルが一般に広まるのは19世紀の末です。ハングル、というのは「偉大な文字」という意味で、こう呼ばれるようになるのは朝鮮が日本の植民地になって以降です。民族の誇りを守るためについた名前ですね。

 15世紀以降の朝鮮は、両班(ヤンパン)の党派闘争がつづくようになります。朝鮮の政治を見ていると、政治闘争が朱子学の倫理とからんで展開するので非常にわかりにくい。党派党争があってもダイナミックな動きはあまりありません。

 16世紀末には豊臣秀吉の侵略をうけた。壬辰・丁酉の倭乱です。
 劣勢に立たされた朝鮮は明軍の救援を求めましたが、大活躍した朝鮮人将軍もいます。水軍を率いた李舜臣(イスンシン)です。亀甲船という船で、日本海軍に連勝した。亀甲船は船の上を亀の甲羅みたいに板で覆っている。これは日本兵の斬り込みを防ぐためです。そして、側面の隙間から大砲を撃って攻撃した。
 海を渡って兵士に糧食を補給しなければならない日本側は、李舜臣率いる亀甲船の水軍におおいに苦しめられたのでした。

第73回 明中期以降・朝鮮 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第72回 明帝国

次のページへ
第74回 清