世界史講義録
  



第74回  清

--------
清の成立
--------
 明の末期に中国東北地方で女真族が勢力を回復してくる。女真族は、12世紀から13世紀にかけて中国北部に金をいう国を建てたこともありましたが、モンゴルに滅ぼされて以来、元、明に服属していた。しかし、明が朝鮮に侵入した秀吉の日本軍に勢力を注いでいるすきに、再び力をつけてくるわけです。

 女真族の諸部族を統一したのがヌルハチ(1559~1626)。かれは、1616年、明から自立して、後金国を建国した。


 あとを継いだのが、息子のホンタイジ(位1626~43)。
 かれは、モンゴル高原を勢力下においた。このときに、モンゴル有力氏族に代々伝えられていた元朝玉璽、つまり元朝皇帝の印章、を手に入れます。これ以来、ホンタイジは女真族のハーンであると同時に、モンゴル人の大ハーンの地位を兼ねることになった。
 また、後金国の本拠地中国東北地方には、女真族の何倍もの漢民族が住んでいました。だから、ホンタイジは女真族、モンゴル族、漢族を支配することになった。

 1636年には、国名を清と改めます。ホンタイジ自身もあらためて皇帝に即位する。中国風の国号を採用することで、多くの民族を支配する中華帝国の支配者となることを宣言したのです。
 このあと、ホンタイジは中国本土への侵入を企てて、万里の長城を境として明との戦いがつづきます。

 清の軍制が八旗。女真族を八つの集団に編成して、そこから兵士を出させる制度で、清朝の正規軍となった。それぞれシンボルの旗があるので八旗という。ホンタイジ時代にはモンゴル人、漢民族にも八旗を編成させ、蒙古八旗、漢軍八旗ができます。八旗は、ちょうど同時代の徳川幕府の旗本のようなものです。建国初期には大活躍するが、特権的地位に安住して、のちにはすっかり軍隊として使いものにならなくなったところもそっくりです。
 これ以外にも、のちに緑営という軍制度がつくられます。これは、明の衛所制を引き継いだもので、主に地方の治安維持を担当した。

 女真族のあいだには文殊菩薩信仰があって、文殊の音マンジュをとって、女真族を満州族という言い方があるのですが、ホンタイジの時代に、この表現が定着するようです。また、中国東北地方を満州という地名で呼ぶようにもなる。これ以後、満州族という表現を使いますから注意してください。

--------
明の滅亡
--------
 宦官の横暴や党派闘争による政治の乱れ、増税などで明の国内では反乱が続発するようになる。その代表が李自成の乱です。1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団がたくさん生まれるのですが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。流賊は都市を攻略して、略奪する。明の正規軍が出てくると、さっと退却して今度は全然別の地方にあらわれて都市の略奪を繰り返す。馬で移動して行動範囲がひろいので、流賊と呼ばれました。

 李自成の反乱軍は、最初の頃は略奪集団とかわらないのですが、集団が大きくなると儒学者のブレーンがついて、李自成に新しい王朝を建てるようにすすめるようになる。李自成もその気になった。略奪ばかりやっていると、王朝建設には逆効果。むやみな殺人や略奪はひかえて、貧民に施したり、評判をあげようとコマーシャルソングを作ったりもする。

殺牛羊
備酒漿
開了城門迎闖王
闖王来時不納糧

(訳)
牛と羊を殺せ(さあ、ごちそうだ)
お酒の用意をしよう
城門を開いて闖王(李自成)を迎えよう
闖王が来たら税金を取られないぞ
(『中国の大盗賊』高島俊男、講談社現代新書)

 こういう歌を、配下のものに歌わせて流行させたといいます。だんだん、民衆にも人気が出てくる。

 明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば、多分できた。ところが、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入できなかった。理由は、北の清軍に備えて国境を防衛するのに必死だったからです。明の精鋭部隊は万里の長城の最東端、山海関に貼りついて離れることができなかった。

 このすきに勢力を増した李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領してしまった。明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山に登って首をつって死んでしまった。あっけない明の滅亡でした。
 李自成は、明にかわって新しい王朝を建国し、皇帝になります。まだ混乱の中ですが、、明の行政機構を掌握して、即位式の準備もはじめた。

 山海関を守っていた明軍の司令官が呉三桂という将軍でした。清軍と戦っていたら、北京からニュースが来て、明が滅んだという。呉三桂、びっくりします。かれは明に仕える将軍ですから、身の振り方に困ってしまう。引きつづき、李自成からの手紙も来た。明は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引きつづき山海関を守れ、と。
 呉三桂は、成り上がり者で流賊出身の李自成に仕える気にはなれなかった。そこで、なんと清側に寝返ってしまったのです。清朝のもとでの高位高官を交換条件にしたのでしょう。山海関を開いて、清軍を中国本土に導き入れた。清軍は呉三桂を先導役にして北京に向かって進撃します。

 李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破されてしまった。かなわないと悟った李自成は、あわただしく皇帝の即位式だけ済まして北京を脱出。かわりに、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日。わずか、一月半の李自成の天下でした。
 このあと、李自成は西安に逃れ、翌年、さらに落ちのびる途中、山の中で地元の武装勢力に殺されてしまった。

 明から清への王朝交替というのは、単なる皇帝家の交替ではない。清は満州族の国ですから、漢民族が異民族の支配を受けることになったわけです。だから、この事件のキーパーソンである呉三桂の行動というのはいろいろ論議をよんだ。なぜ、かれが李自成ではなくて、清に味方したのか。いろいろな話があります。
 俗に言われているのが「女性問題」説。呉三桂将軍には陳円円という滅茶苦茶に美しい愛人がいた。彼女は北京の呉三桂邸に住んでいて、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれなわけです。
 李自成が北京を占領したときに、呉三桂が一番気にしたのが、陳円円の安否。部下を北京に派遣して様子を探らせたら、李自成は評判の美女陳円円をすでに自分の宮殿に連れ込んでいた。怒り狂って呉三桂は、清側についたというのです。講談などでおもしろおかしく話された作り話でしょうね。

 この前年にホンタイジは死んで、6歳の息子が清の皇帝になった。順治帝という。実権を握っているのは摂政のドルゴン。ホンタイジの弟です。
 ドルゴンの指揮のもとで、清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。ただし、当時の満州族の人口は60万、兵力は15万。これだけの軍事力で中国全土を支配するのは、物理的に無理があったので、清朝は投降してきた明の漢民族の将軍たちを積極的に利用します。呉三桂がその代表です。
 統一後は、漢民族の将軍たちを藩王として中国南部地方の支配をまかせました。呉三桂は雲南地方の藩王となりました。

 ところで、北京入城前後の清軍と行動をともにした日本人がいます。1644年4月に越前三国を出港したあと、漂流して満州に漂着した日本船がある。乗組員は満州人に助けられ、かれらと一緒に11月に北京に入っている。その日本の漂流民が清朝の印象を書き残しています。
「御法度、万事の作法は、ことのほか明らかで正しくみえる。上下ともに慈悲深く、正直である。嘘をいうことは一切ない。金銀がそこらにちらかしてあっても、盗み取るものはない、という。これにくらべて北京の方が風紀が悪い」
 満州族がもっている素朴さ、朴訥さを誉めていますね。

----------
清の全盛期
----------
 順治帝を継いだのが、康煕帝(位1661~1722)。そのあとつづく雍正帝(位1722~35)、乾隆帝(位1735~95)の三代が清朝の最盛期。中国の長い歴史の中でも、平和で繁栄した時代です。

 まずは康煕帝の話から。
 康煕帝が即位したときには、まだ清朝の中国支配は不安定な面があった。

 1673~81年に三藩の乱がおきる。呉三桂ら、藩王に封ぜられていた漢民族の将軍の反乱です。呉三桂のほかに二名の藩王が反乱したのでこの名前がある。
 清朝の支配が安定するに従って、大きな領土を持ちなかば独立国のような藩王の存在は邪魔になってきた。そこで、清朝は呉三桂らの領土や権限を取りあげようとした。これが反乱の原因です。呉三桂らは、「満州族の支配に反対する。滅んだ明朝を復活させるための戦いだ」と宣伝して、自分の反乱を正当化したけれど、清が中国を支配したのはかれの寝返りのせいだから、今さらそんな大義名分をいっても、世論は支持しなかった。反乱軍は中国西南部を制圧して、一時は清朝に脅威を与えましたが、結局鎮圧されました。反乱が終わってみれば、清朝の支配はより強固になっていた。

 1683年には鄭成功の台湾政権を滅ぼして、台湾を中国の領土に編入しました。
 実は、清朝が北京に入城したとき、中国南部には明朝の皇族を擁立した地方政権がいくつかできます。清の中国支配に反対しますが、どの政権もそれほど大きな勢力にはならず、すぐに清朝に滅ぼされていきます。そのなかで最後まで明朝の復活を唱えて清朝に反抗しつづけたのが鄭成功です。この人の父親は鄭芝龍といって、密貿易に従事して日本にも来ていた。平戸の日本人女性とのあいだに産まれたのが鄭成功。明が滅ぶと、海上から沿岸各地を攻撃して清に抵抗した。清朝は鄭成功勢力を孤立させるために、1661年遷界令をだして、沿岸住民を強制的に内陸部に移住させました。こんな対策をとるということは、いかに鄭成功に手を焼いていたかということです。
 ちなみに、鄭成功は徳川幕府に何度も使者を送って、援軍を要請しています。幕府は、清朝側が優勢なのを見て、援軍を送らないのですが、明朝に忠節をつくして清に抵抗をつづける鄭成功は、母親が日本人だということもあって、日本では有名になる。近松門左衛門の『国姓爺合戦』という人形浄瑠璃があるのですが、鄭成功が主人公です。
 遷界令がでると、鄭成功は拠点を台湾に移します。当時台湾にはオランダ人がゼーランディア城という要塞を築いていた。鄭成功は2万5千の兵力でゼーランディアを攻略して、オランダ人を追い払い、ここに独自の政権をつくった。鄭成功の台湾政権です。翌年、鄭成功自身は死んでしまうのですが、その後20年間、台湾政権は大陸の清朝に攻撃をくわえつづけていたのです。清朝は、はじめは海軍力がなかったので、なかなか台湾を攻略できなかったのです。
 この台湾政権を滅ぼして、台湾島を併合したのが、1683年、康煕帝の時だったわけです。

 これで、中国国内に、清朝に抵抗する勢力はなくなりました。

 対外的には、1689年、ロシアとのあいだにネルチンスク条約を結ぶ。対等な条約で国境線を確定しました。
 さらに、中央アジアに大きな勢力を持っていた遊牧国家ジュンガルと戦い外モンゴリア地方を領土にくわえた。

 康煕帝は、自分でこれらの反乱鎮圧などを指導しています。指導力は抜群にあった。それだけでなく理想の皇帝になろうと、常に努力していたことで有名です。早起きで、早朝の4時か5時頃には、政務を取り始める。午前中に政務を終えて、午後からは勉強です。儒学だけでなく、イエズス会の宣教師から、天文学、数学なども学んだ。この肖像画は、普段着を着て、書斎で読書をしているところです。後ろにずらっと並んでいるのが中国の書物です。勉強中の肖像画というのも康煕帝らしい。
 康煕帝が勉強を必死にしたのは、かれが好奇心旺盛だったこともありますが、中国人たちに、満州族の皇帝だからとバカにされ、軽く見られないように、という意識もあったようです。
 かれの姿をイエズス会の宣教師ブーヴェが次のように描いています。
「康煕帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典もあらかた暗唱されております。…皇帝はシナの古代大家の教説に対する尊敬を示されようとして親しく序文を執筆されて、注釈書の巻頭に掲げられ、御名をもってこの書を印刷せしめられたのであります。(ブーヴェ『康煕伝』より)」
 この本は、ブーヴェがルイ14世に献上したものです。ルイ14世に、理想の君主像として康煕帝をお手本にして欲しいと思ったのでした。努力のかいあって、かれは理想的皇帝と評価されたわけです。中国歴代皇帝の中でも、指折りの名君という評価です。漢の武帝、唐の太宗、とならんでベスト3に入れる人もいます。

 康煕帝を継いだのが息子の雍正帝。康煕帝の四番目の子供で、あまり目立たない人だった。
 康煕帝の跡継ぎ問題はごたごたがあって、康煕帝臨終の時に次期皇帝に指名したのが雍正帝だったというのですが、この辺の事情は謎に包まれている。ともかく、即位した雍正帝は、後継者問題で今後混乱がないように「皇帝密建の法」というものを定めた。これは、はやく皇太子を決めてしまうと、他の皇子たちが陰謀などをめぐらすので、皇帝は後継者を決めても公表せずに紙に書いて秘密の箱に入れておく。皇帝が死んで、はじめて箱が開かれ次の皇帝が発表されるというもの。だから、皇帝は息子たちの日頃のおこないを見て、一度決めた皇太子の名前を書き換えることもできる。誰にも発表しないのだから、書き換えが政治的な混乱や陰謀を生むこともないです。長男があとを継ぐという原則もないから、優秀な息子を指名できる。だから、清朝の皇帝はこのあとも比較的優秀なものがつづきます。

 雍正帝は父親の康煕帝のような華やかさはない人でしたが、実に真面目に皇帝としての職務をつとめ、清朝の支配体制を引き締めた。雍正帝の仕事ぶりを見ていると、皇帝というのも楽じゃないな、と思うよ。自分のプライベートタイムはほとんどない。

 清朝の地方長官たちは、行政組織を通さずに手紙を直接皇帝に送ることができました。雍正帝は地方情勢全般について皇帝に手紙で報告するようにさせた。毎日、全国から手紙がどんどん届く。どこが日照りで農作物が不作だとか、洪水が起きて何万人が被災したとか、米の価格が上がったとか下がったとか。雍正帝は、この地方からの報告を全部読んで、そのすべてに返事を書くのです。こうしなさい、ああしなさい、と指示事項まで付け加えて。これは、すごい労力ですよ。こんなことを、即位してから、死ぬまで毎日つづけた。地方の役人たちも、きちんと報告を送らないとサボっていると思われますから、真面目に働かざるを得ないわけです。

 どこまで本当かわかりませんが、こんな話もある。ある時、大臣が四人集まって麻雀をした。雍正帝は官僚には賭事を禁じていたのですが、やっぱりやめられない。徹夜で、ジャラジャラやっていたら、牌が一枚無くなった。いくらさがしても、出てこないので、大臣たちは、そこでお開きにしました。
 翌日、大臣のひとりが雍正帝の前にでて、一通り政務の話を終わったあと、雍正帝がたずねた。「昨晩、おまえは何をしていた」大臣は、皇帝に嘘をつくことができず、正直に賭け麻雀をしていたと告白した。そうしたら、雍正帝は袂から麻雀パイを一枚とりだし、それを大臣に渡して、「以後、気をつけよ」と言った。見てみると、それは無くなった牌だったという。怖いですね。大臣の家に仕えている召使いの誰かが、皇帝のスパイなのです。この手の話はかなりあって、官僚たちがピリピリしながら、政治をしている雰囲気が伝わってきます。

 雍正帝時代の政治的出来事をいくつかあげておきます。

 軍機処の設置。
 雍正帝時代に、軍事機密を扱う機関として設置されたのが軍機処です。やがて内閣に代わって軍事・行政の最高機関になりました。軍機処の長官を軍機大臣という。のちには総理大臣のような役割をするようになっていきます。ちなみに清は明の政治機構を受け継いで、皇帝独裁政治です。だから、軍機大臣はあくまでも皇帝の補佐役です。

 文字の獄。
 思想統制です。康煕帝もおこなっていますが、雍正帝が特に有名。清朝の皇帝を批判するような文章はいっさい許さない。
 科挙の試験問題に「維民所止」という一節があった。これを見て雍正帝は出題した学者を処刑した。なぜか。「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」になる。つまり、この一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いている、というわけです。あきらかに、イチャモンですが、当時は立派に反逆罪になった。
 清朝は満州族の王朝なので、こういう弾圧は厳しかった。漢民族の儒学者になめられてはいかんと考えていたようです。

 地丁銀の全国実施。
 地丁銀は税制です。明の一条鞭法をさらに簡素化したもの。成年男子にかかる丁銀という税金を、土地にかかる税にくみいれて一本化した。その結果、税の銀納化が一段と進んだ。

 キャフタ条約(1727)。
 モンゴル北部で未確定だったロシアとの国境線を確定。

 即位したときにすでに45歳だった雍正帝は、清の政治を引き締め在位14年で亡くなる。
 あとを継いだのが乾隆帝です。
 乾隆帝は、雍正帝がしっかり固めた土台の上で、対外関係に力を注いだ。各地に遠征しますが、重要なのは、チベットと、東トルキスタンを領土にくわえたことです。この時代に、中国の領土は史上最大になる。現在の中華人民共和国の領域の原型がつくられた。当時の方が現在よりも広いですが。
 ヨーロッパとの貿易は盛んにおこなわれていますが、乾隆帝は貿易の管理と治安の維持を目的として、貿易港を広州のみに限定しました。これは、自由に貿易をおこないたいイギリスを刺激して、のちのち外交問題になっていくので注意しておいてください。


第74回 清 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第73回 明中期以降・朝鮮

次のページへ
第75回 清の政治・明清の社会