世界史講義録
  



第75回  清の政治・明清の社会

--------
清の政治
--------
 満州族王朝の清が、多くの人口と独自の伝統文化を持つ漢民族を支配するには、それなりの工夫が必要でした。

 まずは、漢民族に受け入れられなければならない。具体的には、オピニオンリーダーである、儒学者たちに受け入れられればよい。
 そのために、大規模な編纂事業をして、儒学者を優遇します。永楽帝が、儒学者のご機嫌をとるために『永楽大典』を編纂させたのに似ています。
 康煕帝時代におこなわれたのが、『康熙字典』『古今図書集成』の編纂です。
 『康熙字典』は漢字辞典です。漢字の数なんて異体字を含めるといくらでもある。それを集大成した。「へん」「つくり」で漢字を分類する方法も『康熙字典』から確定します。現在日本でつくられているすべての漢和辞典の種本です。内容的にも現在まで価値が衰えていない、そういう仕事を学者にさせていたのです。

 行政機構では、漢民族を差別せずに満州族と同様に扱いました。「満漢併用制」といって、役所の長官など満州族と漢民族を同数配置した。科挙は明代に引きつづきおこなわれています。

 以上のような優遇制度をとる反面で、しめるところはビシビシ締めた。前回話した文字の獄もそうですし、反清的な書物は禁書にします。清の統治の初期は、明を懐かしがって清に抵抗する学者も結構いたのです。

 清は中国を支配すると、清を認めるかどうかの踏み絵として漢民族に弁髪を強制した。弁髪というのは、満州族のヘアースタイルで頭頂部を残して頭を剃ります。残した部分を長くのばして三つ編みにする。むかしの漫画「キン肉マン」に出てきたラーメンマンの頭です。
 漢民族の伝統的なヘアースタイルは総髪。どこも剃らずに伸ばして結います。だいたい、モンゴル人、満州人、日本人と、中国周辺の民族はこの時代、剃っている。サムライも額から頭頂部まで剃っていますね。漢民族から見ると、野蛮人の風俗なのです。それを強制される。
 清は「頭を残すか、髪を残すか」と漢民族に迫りました。髪を剃らなければ、死刑ということです。結局漢民族は弁髪を受け入れざるを得なかった。

 広大な領土の支配。
 清朝は支配地域を直轄地と藩部の二つに分けます。
 直轄地は、満州、中国本土、台湾。ここには官僚を派遣して中央集権的支配をおこなった。
 藩部は、モンゴル、青海、東トルキスタン、チベット。ここは間接統治で、各民族の伝統的な支配にまかせる。清朝は、理藩院という役所を設置して、藩部の統治を監視する。
 これ以外に、清の宗主権を認めた国がある。朝鮮、ヴェトナム、シャム(タイ)、ビルマです。これらの国は独立国ですが、理念的には清の属国です。

-----------
明清の社会
-----------
 明清の時代は、王朝は交代しますが、社会・経済・文化はひとつづきのものとして発展していきます。特徴的なことを何点かみていきます。

 蘇州、杭州など、特に長江下流地域に商工業都市が発展します。工業では綿織物、絹織物工業が発展。宋代からはじまる景徳鎮の窯業も盛んです。

 米の主産地は、長江下流域から中流域に移動します。この時代は「湖広熟すれば天下足る」といわれる。湖広とは湖北、湖南、江西省の長江中流域のことです。

 商業も盛んで、山西商人、新安商人などによる遠隔地交易が盛んになる。山西商人は山西省、新安商人は安徽省徽州府出身の商人で、同郷者どうし協力しあい、ネットワークをつくって中国全土を舞台に活躍した。各地に「会館」「公所」と呼ばれる自分たちの宿泊施設や、商品の倉庫をつくりました。会館という名前は、日本語にもなっていますね。

 銀の大量流入。
 明清時代に中国国内に大量の銀が入ってきます。これは、海外貿易で中国からの輸出品の代金として支払われたものです。当時、アジア地域の国際貿易は銀で決済していたのです。なぜかというと、大量の銀があったから。出所は、日本とメキシコ。戦国時代から江戸時代の半ばにかけての日本は、世界的にみても大量の銀が採掘されていたのです。代表的な銀山が兵庫県の生野銀山。これが、オランダなどを通じて中国に流れる。メキシコからはスペインが大量の銀をアジアに運んだのです。
 大量の銀が中国国内に流通するようになるので、明の一条鞭法や、清の地丁銀など税の銀納化がすすんだのです。戦国時代や江戸時代の日本の農民が、年貢を銀で支払う、なんていうことを想像できますか。できないでしょ。そう考えると、いかに明清時代の中国で貨幣経済が発展していたかということがわかるとおもう。

 地域社会で指導的な役割を持ったのが「郷紳」と呼ばれる人々です。かれらは郷村社会の指導者であると同時に、科挙官僚もしくはその予備軍でもある。経済的には地主階級です。宋の時代に「士大夫」と呼ばれていた人たちとほぼ同じです。ただ、郷紳と呼ぶようになったのは、地域社会で彼らの存在が大きくなってきたことのあらわれのようです。

----------
明清の文化
----------
 学問では陽明学が重要。
 明代の儒者王陽明がはじめた一派で、宋代に生まれた朱子学を批判します。王陽明は官僚。有能な地方官で、何度か反乱鎮圧にも活躍して軍事的才能もあった。ある時、宦官に憎まれて左遷される。このときに、儒学に悟りを開いて陽明学をたてた。
 王陽明は、朱子の「性即理」に対して「心即理」説を唱える。朱子は書物を読んで物の「理」を研究する必要性を説いたのですが、王陽明は「理」は自分の心の中にあるはずだと言うのです。その結果、こんなことを言う。

「わが心に問うてみて納得できぬことは、たとい孔子の言でも肯定しない」

 過激でしょ。このほか「知行合一」説というのも有名。非常に哲学的で難しい内容なので、名前を覚えるだけでよい。ただ、普通理解されているような「正しいと思ったら行動をしなければならない」という意味では全然ない。そこだけ注意してください。

 陽明学派には過激な思想家がたくさん出ますが、その代表格が李卓吾。李贄(りし)ともいう。かれの説はあまりにも過激なので最後は牢屋に入れられて、そこで死んでしまった。儒学者でありながら、すごいことを言う。「論語は偽善者の養成所」だって。
 幕末の吉田松陰が、かれらの影響を強く受けたのも理解できる気がしますね。

 考証学。
 明末清初の王朝交代期には、儒学者たちは身の処し方に悩みます。「忠」という儒教道徳からすれば、明に仕えていたのなら、清の支配を認めてはならないはずですから。
 顧炎武、黄宗義という学者は明末清初の学者で、清に仕えることを潔しとしなかった人たちです。彼らがはじめたのが考証学。彼らは明があっけなく滅んでしまったのは、明の時代の学問が現実の問題に役に立たなかったからだと考えた。そこで、実地検証にもとづいた実践的な学問をしようとした。これが考証学。
 考証学は、実証的な学問方法として発展していった。現在の近代的学問方法とほとんど同じで、歴史研究では多くの成果を挙げました。特に清代の考証学者銭大昕(せんたいきん)は有名。

 庶民文化の活況。
 明代に「四大奇書」が成立している。
 『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』です。宋や元の時代から、講談やお芝居で演じられてきたものが、現在に伝わる小説の形になった。江戸時代の日本文学にも大きな影響をあたえている。 有名な怪談『牡丹灯籠』の原作『牡丹亭還魂記』もこの時代のものです。
 清代では『紅楼夢』という小説が有名。作者は曹雪斤。この人は、満州八旗の名門貴族出身。おじいさんは康煕帝のお気に入りの家臣で、政府が南京で経営する織物工場の長官をしていた。康煕帝が、南京に行幸したときにはかれの家に宿泊しているから、すごいお屋敷に住んでいたのでしょう。ただ、かれの時代には没落していて貧しい暮らしをしていたらしい。自分の家をモデルにして、満州貴族の繁栄と没落を描いた作品です。

 実学の発達
 明代の文化の特徴に実学の書物が多く出たことがある。
 李時珍『本草綱目』、薬草の百科事典。
 宋応星『天工開物』、工業技術の解説書。
 徐光啓『農政全書』、農業の解説書。
 実際に役に立つ学問は庶民が必要としているものです。上の小説類も庶民が楽しむものでした。そろばんが流行、普及したのも明の時代だったことも覚えておきましょう。

 ヨーロッパ人宣教師の来航
 明の時代の後半から、ヨーロッパ人宣教師が中国にやってきます。宣教師たちは、まず西洋の科学技術を売り物に、中国の支配者階級に取り入ろうと考えた。中国の皇帝たちは、西洋の技術を珍重して、宣教師たちを迎え入れますが、キリスト教に入信することはありませんでした。これは、清の時代になっても同じです。

 代表的な宣教師と、かれらが中国に伝えたものをみていきます。

 マテオ=リッチ。中国名は利瑪竇(りまとう)。郷に入れば郷に従えで、宣教師たちは中国名をつけて活動しました。
 かれはイエズス会士です。中国布教の先駆者で、1601年、はじめて明の万暦帝から中国での伝道許可を得た。このとき、マテオ=リッチが万暦帝に献上した品物は、キリストとマリアの像、バイブル、ロザリオ、台つきの時計、万国図誌。万暦帝の気に入ったのが台つき時計。この時計が故障したときに、マテオ=リッチが実に手際よく修理して、皇帝に気に入られたという。こういう事情で布教の許可がでたので、皇帝は宗教そのものに関心があったわけではありません。
 それでも、マテオ=リッチの持つ科学技術が中国で尊敬の的になったので、以後、中国にやってくる宣教師は、科学技術の知識をそなえた者が多くなった。
 マテオ=リッチが1602年に出版した世界地図が『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』。
 『農政全書』を出した徐光啓は、マテオ=リッチに会って、キリスト教に入信しています。徐光啓は明朝の中枢で大臣として活躍した大物官僚ですから、かれの入信はマテオ=リッチの大金星でした。ただ、当時の信者は北京で300人くらい。爆発的に信者が増えるということにはならなかった。
 マテオ=リッチと徐光啓が共同であらわした数学の本が『幾何原本』。

 アダム=シャール。中国名、湯若望(とうじゃくぼう)。明の末期に徐光啓に呼ばれて、西洋の天文学をもとに暦の改変をおこないます。かれがあらわした西洋天文学の本が『崇禎暦書』。大砲の製造技術も伝授した。明は中国本土に侵入しようとする清軍を山海関でくい止めていましたが、かれの造った大砲はそこで大活躍していた。呉三桂が寝返るときの清軍への最大のおみやげが大砲でした。
 明が滅んだあとは、清に仕えて天文台の長官をしていた。ところが、康煕帝の時に、キリスト教に反感を持つ中国人官僚に糾弾されて、逮捕投獄、最後は獄死しています。

 フェルビースト。中国名、南懐仁(なんかいじん)。アダム=シャール亡きあと、中国の伝統的な暦法よりも西洋の暦法の方が正しいことを証明して、康煕帝の信頼を得る。天文台の長官になりました。三藩の乱がおきた時には、康煕帝のために大砲440門を造っている。

 ブーヴェ。中国名、白進(はくしん)。康煕帝に気に入られて、そばに仕えた。勉強好きな康煕帝は、数学や天文学など、疑問があったらすぐにブーヴェにたずねたという。ブーヴェは中国全土の測量作業を手がけて、中国の地図を完成させます。これが、『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』。

 カスティリオーネ。中国名、郎世寧(ろうせいねい)。康煕、雍正、乾隆の三代に仕える。宮廷画家として活躍します。円明園という皇帝の別荘の設計もしている。ヴェルサイユ宮殿をモデルにしたものです。1860年にイギリス・フランス連合軍に破壊されて、現在は廃墟が残っています。

 以上の宣教師はすべてイエズス会士です。歴代皇帝たちは利用できるなら、宣教師でも何でも利用しましょう、という態度。イエズス会の側も、まずは中国社会に入り込むことが第一と考えて、中国の伝統文化に妥協します。具体的にいうと、キリスト教に入信した中国人が、孔子を拝んだり、祖先の霊をまつるのを認めた。ちなみに康煕帝の時代に、中国全土に30の教会があったといいます。
 ところが、イエズス会に遅れて中国に布教にやってきたドミニコ修道会、フランチェスコ修道会が、イエズス会の足を引っ張ろうというライバル意識もあったようで、イエズス会の布教の仕方が間違っていると言いだした。中国人に対してどのように布教すべきかということが、ローマ教会の論争になります。
 これを典礼問題という。
 北京の宮廷に出入りする宣教師たちが皇帝の前で、お互いの非難をはじめる。清朝の皇帝にとって、典礼問題はローマ教会内の問題で、自分たちにとっては何の関係もない。ところが、典礼問題は、ローマ教皇と中国皇帝とどちらが偉いかというような論争に発展してくる。やがて、ローマ教皇が、中国人の信者に孔子や祖先を祭ることを禁止する命令を出すと、康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止した。次の雍正帝はキリスト教の布教を全面禁止しました。ただ、布教が禁止されただけなので、イエズス会宣教師が宮廷に仕えるのは以前同様でした。

 結局の所、この時期のキリスト教は、西洋の技術や文物を伝えただけで、中国の文化に大きな影響を与えるということはありませんでした。

第75回 清の政治・明清の社会 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第74回 清

次のページへ
第76回 北アメリカの植民地化