世界史講義録
  



第79回  フランス革命2


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ヴェルサイユ行進
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 「封建的特権の廃止宣言」「人権宣言」によって、全国的な農民蜂起はおさまっていきました。ところが、国王ルイ16世は、これらの宣言を承認しなかった。この時点では、まだ、国の主権者は国王ですから、王が承認しなければ正式の法律として効力を持たないのです。承認を渋る国王に対して市民たちのいらだちは高まっていきます。
 また、政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめていて、下層市民には食糧が手に入りにくくなっていた。一家の台所をあずかるパリのおかみさんたちが、きりきりしているところへ流れてくるのが、ヴェルサイユの噂。ヴェルサイユには食糧がたんまりあって、国王や王妃たちは庶民の暮らしなんか気にもせずに、今日もたらふく食べているという。

 10月5日、怒ったパリの女性がパリ市役所前の広場に集まった。人数は7千人ともいいます。彼女たちを組織した者がいたらしいですが、詳しい背景は不明です。彼女たちは、国王と議会に食糧を要求するために、「パンをよこせ!」と叫びながら、ヴェルサイユに向かって行進を始めた。武器をたずさえて、なんと大砲まで引っ張っていきます。
 パリからヴェルサイユまでは25キロほどの距離がある。大砲をひきながら、約6時間歩きつづけた。途中で雨が降ってきて、全員びしょぬれになりながらも、怒りに燃えていた。ヴェルサイユに着いたのが夕方4時ころ。国王は例によって狩りに出かけていたので、彼女たちはさらに4時間待たされた。みんなが興奮しているところに、国王は帰ってきた。国王は彼女たちの代表と会見する。武器を持って集団できているので、怒らせてはどうなるかわからない。王は、彼女たちに丁重に接してパンの配給を約束し、王妃と一緒に宮殿のバルコニーから挨拶するなどのパフォーマンスで、その場を切り抜けようとしましたが、結局、「人権宣言」などを承認させられた。

 さらに、女性たちは国王一家に「一緒にパリに帰ろう」と言い出した。ヴェルサイユのようなところに貴族たちに取り囲まれて暮らしているから、私たち庶民、第三身分の気持ちがわからないんだ。平民の街パリに一緒にいらっしゃい、というわけです。
 パリにも宮殿があるので、そこで暮らすことはできるけれど、平民に囲まれて針のむしろにすわるようなものですから、国王としては嫌だったのですが抵抗しきれず、翌日、国王一家は女性たちに連れられてパリにやって来ました。女性たちのセリフ「私たちはパン屋とおかみと息子を連れてきたよ!」
 この一連の事件を「ヴェルサイユ行進」といいます。

 これ以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に監視されて暮らすようになる。国王と一緒に議会もパリに移動した。

 このあとしばらく政局は安定した状態がつづきました。国民議会は王の抵抗なく憲法制定作業をつづけていきます。
 議会の主導権をにぎっていたのはラファイエットやミラボーなど自由主義貴族といわれる人たちでした。かれらは、アンシャン=レジームを壊して国政を改革しようとしていますが、あくまで国王を中心とした政府を考えていた。イギリス風の立憲君主制です。ラファイエットたちは民衆には人気があるし、名門貴族ということで国王からも信頼されている。これが政局安定の理由です。

 王は表面上は議会に協調するようになる。このまま、何事もなければ、ひょっとしたらフランス革命はここで終了したかも知れない。
 ところが、ここで事件が起きます。事件を起こしたのは国王ルイ16世。

 1791年6月、国王は亡命しようとしたのです。王妃マリー=アントワネットの実家オーストリアへ逃げようというのです。王妃の愛人でフェルゼンというスウェーデンの貴族がいて、かれを中心に亡命計画がたてられた。以前から、国王が国外逃亡を企てているのではないかという噂があったので、宮殿のまわりは警備の兵がつめているのですが、警備担当責任者ラファイエットの粋なはからいで、フェルゼンが王妃の部屋へ出入りする入り口だけは警備兵がいなかったという。
 国王一家はこの出入り口を使って宮殿を抜け出し、用意してあった馬車に乗って国境の町メッツに向かった。メッツには、亡命を手助けする将軍が待っているのです。馬車に乗るのは王、王妃、二人の子供と王の妹、子供の教育係。八頭立ての大きな馬車だったけれど、王としての体面のためだと思うのですが、この馬車にたくさんの荷物を詰め込んだ。王妃の衣装の数々、さらにワインなど。重たくなった馬車は当然スピードが落ちる。
 無事にパリから出たのはよいのですが、そのために予定の時間よりどんどん遅れていくのです。王様の鷹揚さなのか、危機感がなくて、途中で古くからの知り合いの屋敷によったりしながらメッツに向かった。沿道のところどころには軍資金輸送の警備という名目で、亡命を助けるための兵士が警戒にあたっていた。ところが、途中から予定の時間よりかなり遅れたため、警備の兵が引き揚げてしまったり、連絡がうまくつかなくなってくる。
 さらに、ある村にやってきたときに、王が窓から顔を出して、待っていた警備部隊の指揮官に声をかけた。それを、目撃した村人がいたのです。
 王が、こんな所にいるなんておかしい。国外へ逃げようとしているのではないか、というので、知らせを聞いた革命派の軍人が王を追う。軍人にも、王党派といって、王に忠誠心を持っている軍人と、革命に理解をしめす軍人と両方いるわけです。この段階では、多くの指揮官クラスの軍人は王に同情的です。

 王の馬車がヴェレンヌという町に来た。この町で味方が替え馬をつれて待っている段取りになっていた。ところが王の到着が遅くて、もう夜になっている。味方の部隊が見つからない。一行は町に入って、住民をたたき起こして馬の場所をたずねた。間抜けです。
 おかしな連中が町に入ってきたということで、町じゅうが起きだして王の一行を取り囲んだ。追ってきた革命派の軍人も追いついてきた。はじめは、王は自分の身分を隠しているのですが、ついに国王だと認めます。すぐにパリに連絡され、翌日国王一家はパリに連れ戻されました。
 この事件をヴァレンヌ逃亡事件という。

 王に対する国民の信頼はこの事件でいっぺんに吹き飛んでしまった。国を捨てて逃げようというのだから、王にあたいしないというわけです。

 国王ルイ16世の身柄、立場をどうするかが問題になったのですが、とりあえずは、もとのままにします。というのは、国民議会では憲法が出来上がりつつあって、これが立憲君主制なのです。穏健な形で、革命を一段落させようということです。もう一つの理由は、国王に対して過激な処罰などをすると、外国がフランスに攻撃をするかも知れなかったからです。国王をそのままおいておくというのは、フランスを取り囲む諸国に対する人質です。

 ヴァレンヌ逃亡事件のあと、1791年8月には、オーストリアとプロイセンが「ピルニッツ宣言」というのを出している。ルイ16世の地位をもとに戻さないと、フランスに対して戦争をしかけるぞ、という内容です。だから、とりあえずは王をそっとしておこうというのが、国民議会の一応の結論。

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8月10日事件
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 一月後の9月、正式に憲法が制定されました。1791年憲法という。特徴はふたつ。一つは、立憲君主制。もう一つが、制限選挙制です。平民でも一定以上の税金を納めていない者には選挙権はあたえられなかった。革命によって、平民の時代になったが、あくまでも豊かな平民が政権に参加できるだけです。多くの一般民衆は、不満を持っている。
 このころの民衆の生活はどうだったかというと、インフレで苦しんでいた。封建制度はなくなっても生活は苦しいままで、政府に対する不満は大きくなっていた。

 フランス革命のそもそものきっかけは、政府の財政難でしたね。革命後、政府は教会の財産、土地を没収して国有財産にした。そして、この土地を売って財政難を解決しようとしたのですが、土地が思うように売れない。そこで、土地を担保にしてアッシニアという紙幣を発行した。この紙幣、発行しすぎてしまってインフレになります。物価が騰がるから、庶民生活は苦しくなる。

 このころから、フランスから外国へ亡命する貴族が増えてきます。国王が逃亡するくらいですから。政府は亡命した貴族の土地財産も没収していきます。諸外国は、こういうフランスの成りゆきを見ていて、まさしく権力が国王や貴族などから、平民階級に移っていくことを実感する。自分の国でも、このような革命が起きたらとんでもないことになると思うわけです。はやいうちに、フランスの革命政府をつぶしてしまわなければならないという気持ちになる。
 ピルニッツ宣言は、そういう流れのなかで出されたものです。

 1791年10月、憲法にもとづいて制限選挙がおこなわれ、新しい議会が成立しました。これを立法議会という。
 この議会ではふたつの勢力が対立した。フイヤン派とジロンド派です。フイヤン派は、立憲君主主義を守ろうと考える穏健なグループ。ジロンド派は共和主義を主張する。共和主義とは、国王なしの政府のことです。

 さっきも言いましたが、「ピルニッツ宣言」が出され、この段階でフランス政府と諸外国との対立がどんどん激しくなっています。とくに、マリー=アントワネットの実家であるオーストリアとの対立は激しい。
 革命を守るために諸外国と戦争すべきだという世論がもりあがってくる。貧しい市民や農民の暴動がこのころ盛んになります。政府としては、庶民の不満を戦争でそらそうという魂胆がある。
 一方、国王ルイ16世も、戦争に積極的でオーストリアと戦争をしようと言い出す。
 国王は何を考えているかというと、戦争でフランスが負けることを期待している。革命政府がつぶれれば、自分がもとの絶対主義の国王として権力を取り戻せるというわけです。だから、議会で戦争をしようといい、オーストリア皇帝にはこっそり連絡をとって、フランスに攻め込んで革命政府をつぶしてくれと要請しているのです。

 1792年4月、ついに、フランスはオーストリアに対して宣戦布告をし、ベルギー国境でオーストリア軍との戦闘が始まりました。
 戦いはどうだったかというと、フランス軍の連戦連敗で、オーストリア軍、プロイセン軍は国境を越えてフランス領内に進撃してくる。
 フランス軍は滅茶苦茶に弱い。理由は何かというと、まず、指揮官が激減している。何百何千という兵隊を動かすには、それなりの技術と経験が必要です。指揮官クラスの軍人である士官は、皆訓練を受けた貴族だったのですが、革命以来かれらの多くが亡命している。1万2千いた士官の半数が亡命していた。指揮系統ががたがたなわけです。残っている士官も、革命政府に協力的なわけではなく、やる気がない。わざと負けてやろうという指揮官もいる。ルイ16世は、自分に同情的な士官に対して、負けるように指示していたらしい。マリー=アントワネットは敵方に、フランス軍の作戦を漏らしていたとも言う。これで、勝てるわけがない。

 プロイセン軍がパリにせまってくると、政府は「祖国の危機」を全土に訴える。このままでは、革命はつぶされる、フランス国民よ、祖国を守れ、革命を守れ、というわけです。この訴えにこたえて、フランス全土で義勇兵が組織されて、パリに結集した。このとき、マルセイユからやって来た義勇兵が歌っていた歌が「ラ=マルセイエーズ」。のちにフランス国歌となる。

 せまる外国軍、集まる義勇兵。緊張が高まるなかで、敵は外にいるだけか、これだけフランス軍が負けつづけるのは、フランスの内側にも敵がいるからではないか、と誰もが思いはじめた。そういう疑惑は以前からあったのですが、緊張感のなかで、生活難に苦しむ貧しい市民たちの、そういう想いが爆発します。

 1792年8月10日、パリ市民と義勇兵は、王宮を攻撃した。フランスの本当の敵は王に違いないと考えたのです。国王は王権を停止されて、一家は全員タンプル塔に幽閉されてしまった。
 これを8月10日事件という。

 このあと、パリでは市民たちが、裏切り者、反革命分子と思われる人々を虐殺した。多くの人々は、革命を守るための必要悪と考えていたようです。また、前線の指揮官で、国王側に立って政府を裏切っていたものは解任され、多くは亡命した。前線で指揮を執っていたあのラファイエットもこの時亡命します。かれは政府を裏切ったりはしていませんでしたが、王が幽閉されたことを知ると、パリへ進撃して王を救おうとした。しかし、部下の兵士が動かず、王の救出を断念して亡命したのでした。

 入れ替わりに、前線には、義勇兵が向かいます。

 混乱に乗じて、プロイセン軍はさらにパリにせまってくる。このプロイセン軍と義勇兵がはじめて戦ったのがヴァルミーの戦い。プロイセン軍はフランス軍に激しい砲撃をくわえる。今までのフランス軍なら、これですぐに退却をはじめるのですが、義勇兵たちはひるまずに「ラ=マルセイエーズ」を大合唱。
 不気味に感じたプロイセン軍が逆に退却をはじめた。戦闘に負けたのではなく、フランス義勇兵の勢いに負けた。革命を守らなければならないという兵士一人ひとりの志気の高さ。これは、どこの国の軍隊にもないものでした。
 ヴァルミーの戦いにドイツの文豪ゲーテが従軍していた。小説「若きウェルテルの悩み」で有名な作家です。この人は、さすがに作家だけであって感性が鋭い。この戦闘のあとに、こんな言葉を残している。「この日この場所から世界史の新しい時代がはじまる」

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世界の歴史〈10〉フランス革命とナポレオン (中公文庫) 昔の中公の「世界の歴史」シリーズの一冊。「フランス革命とナポレオン」桑原武夫著。熱のこもった叙述で、私はこれでフランス革命の洗礼を受けました。現在品切れ。古本屋にあれば、手に入れるべし。
マリー・アントワネット シュテファン・ツワイク著。古典的名作。マリー・アントワネットを通じて、物語的にフランス革命を理解できる。キンドル版です。

第79回 フランス革命2 おわり

こんな話を授業でした

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