世界史講義録
  


第81回  フランス革命4

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ジャコバン派独裁
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 1793年6月、ジャコバン派は、武装したパリ市民の力を背景に、ジロンド派のおもだった幹部を、国民公会から追放しました。
 これ以降、約一年間、ジャコバン派独裁という。

 政治の中心となったのは、ロベスピエール。6歳で母親を亡くし、10歳の時には父親が蒸発。きょうだいたちの面倒を見るために、苦学して法律を学んび、弁護士となった苦労人です。もともと正義感が強かったんだろう。弁護士として、貧しい庶民の弁護を多く引き受けて有名になる。愛読書はルソー。三部会が開かれたときに、議員に選ばれ、パリに出て政治活動を開始します。

 ひとことで言って、滅茶苦茶まじめな男です。自分の理論を信じ、それにしたがって自分の行動を律することができる人物。しかも堅い。結構いい男ですが、女性には見向きもしなかった。生涯独身、というか、女性との深いつきあいは死ぬまでなかったらしい。ロベスピエールが女性と関係したことがあるかどうかという研究まであるらしいが、結論は「なし」。
 金銭にも潔癖だったそうです。かれは、パリでは指物(さしもの)職人の家に下宿暮らしです。今でいえば、総理大臣のような高い地位になっても、自分の屋敷などを持とうとしなかった。革命にすべてをささげた人物だったのです。

 このロベスピエールを中心に、ジャコバン派独裁がおこなわれた。だから、独裁をやっている側としては、権力を握って甘い汁を吸ってやろうという気はさらさらない。あくまでも、フランス革命と共和国を守るための非常手段と考えていた。
 組織としては、公安委員会というのが政府の中枢です。これは、国民公会に設置された委員会で、ロベスピエールたちは、この公安委員会に権力を集中し、革命を推進していきます。

 ジャコバン派がこの間におこなった主な政策は、次のようなものです。
・封建的特権の無償廃止。1789年8月に、国民議会が封建的特権の廃止を宣言していますが、そのときは「有償」。今回は「無償」です。お金を払って、権利を買い取らなくてもよい。さらに、亡命貴族の土地を小分けして農民に売却した。しかも、10年間支払を猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れることができました。
・最高価格令。インフレを抑制するために、政府が強制的に商品の最高価格を決定した。
・徴兵制の採用など軍政改革。義勇軍と正規軍を統合したり、軍隊内の体刑を廃止したりする。これによって、フランス軍は、国境にせまる諸外国軍を打ち破る力を持つ軍隊に成長していきます。
・革命暦の制定。グレゴリウス暦はキリスト教と結びついているということで、新しい暦をつくった。季節に応じて月の呼び方も変えます。ブリュメールとかテルミドールとか、フランス革命期の事件の名前で出てくるのが、この革命暦の月の名前です。
・メートル法の採用。度量衡の統一と、基準の客観化をおこなった。
・最高存在の祭典。革命のモラルを高めるために「最高存在」をまつる大イベントを実施した。最高存在というのは、理性と考えていいと思います。ロベスピエールは、キリスト教そのものを否定していたわけではないようですが、それに替わる崇拝の対象を求めたのです。この祭典は、これっきりで後世には全然影響力を持ちません。
・ジャコバン憲法(93年憲法)の制定。男子普通選挙などを含む民主的内容の憲法ですが、未実施に終わります。

 そして、ジャコバン派独裁の最大の特徴が「恐怖政治」です。この時期に、反革命罪で非常に多くの人たちが処刑されたので恐怖政治という。
 ジャコバン派独裁が始まったころは、国内各地で反革命の反乱が起きていたので、革命政府を守るためには、きびしい処分で反対派を押さえ込む必要があった。
 また、最高価格令など、下層市民にとってはありがたい法律ですが、商工業者など上層・中層市民にとっては、値上げが出来なくて迷惑このうえない。だから、最高価格令を守らせるためには、強引な手段が必要です。そのため、充分な裁判もないまま死刑が乱発されたのです。

 この時期に処刑された人数を見ておきましょう。パリに革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までの処刑が1251人。一月平均130人前後。一日に直すと4.5人。現在日本で一年間で死刑執行される数がこれくらいですか。しかも、この数字はパリだけですからね。94年6月11日からは裁判が簡略されて、処刑が激増します。7月27日までの47日間に1376人。一日平均29人。昼間の8時間に死刑執行がおこなわれるとすると、一時間平均3.6人。だいたい15分ごとに首が落ちている計算になる。当然、無実の罪で処刑されたものも多かったはずで、ロベスピエールに冷酷な悪魔のようなイメージを持っている人がいるのも、これが原因です。

 ジャコバン派独裁の末期になると、ロベスピエールは同じジャコバン派の政治家たちも処刑しはじめます。
 なぜかというと、ジャコバン派のなかにも考え方の違いが生まれてくるのです。下層民の支持を背景に、もっと過激に革命をすすめようとする左派グループと、上層市民に近い立場から穏健な政策を求める右派グループです。
 ロベスピエールのグループは中間派で、自分たちの路線を守るために、左派、右派共に政敵として処刑します。1794年3月には、下層市民に人気のあった左派のエベールとそのグループを処刑。4月には、右派のダントンとそのグループを処刑。
 ダントンは、ロベスピエールと並んで、かつてはジャコバン派のリーダーの一人だったのですが、金銭スキャンダルが絶えず、上層市民に近い立場をとっていたために、処刑されたのです。例の画家ダヴィッドが、やはり処刑場に連行されるダントンのスケッチを残しています。傲然としてなかなか迫力ある表情です。自分をスケッチするダヴィッドを見て、ダントンは「この下司野郎!」、さらに、ロベスピエールの下宿の前を通ったときには、2階を見上げながら、「ロベスピエール、次はおまえの番だ」と叫んだといいます。最後まで個性的で激しい男でした。

 こうなってくると国民公会の議員たちは、みんな「次は俺がやられるのではないか」と、不安になってくる。国民公会には、ジャコバン派以外に平原派とよばれる一団の議員たちがいた。かれらは、ジロンド派の追放とジャコバン派独裁を黙ってみていた事なかれ主義のグループです。その平原派が、恐怖政治の行き過ぎ、ロベスピエールの独裁に不安を持ち、反ロベスピエールで結束します。
 ジャコバン派のなかでも、「やりすぎた」ロベスピエールは孤立します。

 1794年7月、ついに国民公会で、ロベスピエールの逮捕が決議され、ロベスピエールはパリ市庁舎に逃げ込む。武装したパリ市民を味方に付けて、国民公会に反撃しようと考えたのです。
 市庁舎の一室で、パリ市民への指令書を書いていると、そこに国民公会から差し向けられた兵士が踏み込んできた。ロベスピエールは机の中からピストルをつかみだし、振り向いて反撃をしようとしますが、逆に兵士の撃った弾で顎をうち砕かれてしまった。ロベスピエールの顎から、ボタボタボタと血が滴り落ちた。
 この時の、血染めの命令書が現存します。これがそう。コピーですけど。下の黒いシミがロベスピエールの血痕です。署名の「Ro」の字まで書かれている。ロベスピエールの「Ro」(ロ)です。ここまで書いたところで、撃たれたんだね。
ロベスピエール最後の指令書
ロベスピエール最後の指令書
下の黒いシミが血痕、Roのサインはその右上に小さくある



 それはともかく、ロベスピエールは逮捕され、サン=ジュストらとともに翌日には処刑された。ロベスピエールのグループとして処刑された人数は108人。
 例によって、ダヴィッドが、処刑場にひかれていくロベスピエールをスケッチしている。銃で撃ち抜かれた顎をハンカチで縛って、ささえています。ハンカチが黒く描いてあるのは、血で赤く染まっているためでしょうね。

 ロベスピエールの逮捕と処刑で、ジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わりました。この事件を「テルミドールの反動」という。テルミドールは革命暦で7月のこと。

 あっけなく、ジャコバン派独裁が終わってしまった背景として、次のことを頭に入れておいてください。
 ジャコバン派独裁が始まったときは、外国軍の侵攻、内乱や経済危機があり、この危機を乗り切るためには独裁政治しかない、という意識が国民にはあったのです。でも、1794年にはいると、戦況は好転、物価も安定して、危機は山場を越えていく。ジャコバン派独裁の恐怖政治を、もう我慢する必要がなくなったと国民は感じはじめていたのです。

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革命の終幕
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 多くの歴史学者は、1789年に始まったフランス革命は、「テルミドールの反動」で終わると考えています。
 確かに、「テルミドールの反動」以降は、民衆が政治の前面に登場することはなくなります。武装した下層市民の政治運動は下火になる。運動の指導者がみんな処刑されてしまったから、当然といえば当然。ジャコバン派独裁で、フランス革命の政治的試みは、行き着くところまで行ってしまったわけで、今度は、ジロンド派が国民公会に戻ってくる。ふたたび、上層市民が政治の主導権を取り戻します。

 1795年には新しい憲法が制定され、下層民を排除した制限選挙によって新しい政府がつくられました。これが、総裁政府。 この政府は、富裕市民、土地所有農民の利益を代表している。財産を持っている人のための政治をするわけです。
 5人の総裁が行政を担当する。独裁をさけるために5人の総裁を置いたのですが、逆に指導力の弱い政府になってしまったことが、総裁政府の弱点。また、恐怖政治が終わり、政治的な緊張がゆるむ一方で、政府転覆の策謀が繰り返され、政局は非常に不安定になる。

 ひとつは、王党派の策謀。王党派というのは、王による政治と貴族社会を復活させようとするグループです。総裁政府は、ジャコバン派のように過激ではないが、フランス革命の成果を引き継いでいますからね、王党派は許すことの出来ない敵です。

 また、バブーフという人物は、下層市民の立場から政府転覆を企てた。事前に計画が漏れて反乱は失敗しますが、一種の共産主義社会をめざしていた点で、思想的に重要視されているようです。また、バブーフは、ごく少数のメンバーでの武装蜂起を計画していた。ベルサイユ行進や8月10日事件のように、市民大衆の直接行動が政治を動かす時代は、もう終わっていたのです。

 恐怖政治も困るが、弱体な政府も不安です。総裁政府のもとで、国民は強力な指導者を求めはじめます。そこに登場するのがナポレオンです。


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後半のフランス革命からナポレオンの記述は、従来の概説書に較べて、事件の因果関係がすっきりと整理されて、非常に参考になりました。

第81回 フランス革命4 おわり

こんな話を授業でした

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