世界史講義録
  



第82回  ナポレオン1

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ナポレオンの登場
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 ナポレオンの名前は誰でも知っていますが、どんなふうにしてフランスの皇帝になったのか、案外知らない人が多い。
 この人が、どんなふうに登場してきたか、生い立ちを簡単に見ておきます。

 ナポレオン=ボナパルトは、1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれた。
 コルシカ島といわれて、場所がすぐに思い浮かびますか。ここですね。イタリア半島の西にふたつ大きな島が浮かんでいます。北側の小さい方がコルシカ島です。
 今でこそ、フランスの領土になっていますが、以前は、イタリアのピサやジェノバの領土だったこともある。ナポレオンが生まれる直前に、ジェノバ領からフランス領になったので、フランスの領土としての歴史は比較的新しい。コルシカの人々は、フランス領になってからも独立運動をやっていたくらいですから、ナポレオンの生きていた時代、フランス人としての自覚はない。ナポレオン本人も、フランス人としての自覚はあまりなかったと思います。そういう人物が、のちにフランスの皇帝になってしまうから、歴史は面白いです。

 ナポレオン、たまたまコルシカ島がフランス領になるので、法律上フランス人になります。貧乏貴族が出世する近道は、軍人になることでした。そこで、少年ナポレオンは首都パリに出て士官学校に入学する。

 ちなみに、軍隊というのは二種類の人間で構成されています。武器を持って敵軍の正面に出て戦うのは「兵」。
 その「兵」を指揮し、作戦を立て、命令をするのが「将」。将校とか、士官とか、いろいろな言い方がある。「兵」は、命令されて動くだけだから、体力さえあればよい。誰でもなれます。しかし、将校は、戦術、用兵など知識や技能、経験を身につけなければならない。専門教育が必要です。将校を養成するのが教育機関が士官学校です。ナポレオンは、ここに入学するわけだ。

 当時は、まだフランス革命勃発前です。アンシャン=レジームのフランスです。将校になれるのは貴族だけ、平民は兵士と決まっていた。つまり、士官学校に入学できるのも貴族の子弟だけです。ナポレオンはコルシカ出身ではあるが、貴族だったので、この士官学校に入れたわけです。

 学校でのナポレオンは、暗くて目立たない年だった。無口で友人もできない。どうも、ぱっとしなかったようです。
 無口だったのは、ナポレオンが傲慢な性格で他のクラスメートを馬鹿にしていたからとも、訛りがひどくて、しゃべるとみんなに笑われたからだとも、いろいろ言われている。多分、両方でしょうね。
 成績も士官学校卒業時の席次が58人中42番というから、全然優秀じゃない。学校の成績が社会に出てからの成功とあんまり関係がないという見本みたいな人です。励まされるでしょ。

 当時の士官学校には、3つの科があった。騎兵科、歩兵科、砲兵科です。
 一番華やかで人気があるのが騎兵、次が歩兵、一番人気のないのが砲兵です。砲兵科は出来て間もない学科で、重たい大砲をごろごろと戦場まで引っ張って弾を撃つだけだから、あまり格好よくないわけです。ナポレオンが学んだのは、この砲兵科でした。のちにナポレオンは大砲を上手に戦術に取り入れて、勝利を重ねることになります。裏街道から、いきなり大逆転という感じです。

 1784年、ナポレオンは士官学校を卒業し、フランス王国の将校としての履歴をスタートさせます。このときの年齢が16歳というから、ちょっと今の常識から考えると驚くべき若さだね。貴族出身、士官学校出身というだけで、16歳でも部隊を指揮する資格をあたえられるわけで、アンシャン=レジーム下での貴族の特権というのを考えさせられますね。

 ナポレオンが軍人となって6年目、1789年、フランス革命が始まります。革命の進行にしたがって、フランスを捨てて国外に亡命する貴族たちは増えます。

 先ほども説明したように、軍隊の将校はすべて貴族階級ですから、亡命者のなかには軍の将校もいる。また、革命に非協力的な指揮官は、軍務をはずされたり処刑される。将校が少なくなってくるわけだから、革命政府に忠実で、まじめに励む将校には出世のチャンスです。しかも、ジャコバン派独裁の時期には、身分に関係なく能力本位で将校の抜擢もはじまる。

 ナポレオンは、このチャンスを逃さない。出世のための努力を開始します。
 何をしたかというと、まずは、ジャコバン派の独裁を支持する内容のパンフレットを自費出版する。これで、ジャコバン派に近づき、ロベスピエールの弟と知り合いになって、自分を売り込むのです。
 さらには、ツーロンという港町を占領していたイギリス軍と王党派の反乱を撃退するという功績をあげ、25歳で少将に昇進です。革命の混乱期でなければ、あり得ないような出世です。少将というのは、ランクとしては、上の方ですからね。ついでだから、軍隊の階級を上から並べておこうか。大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、ここまでが、一般的な将官の階級です。
 トントン拍子に出世をつづけるナポレオンですが、落とし穴が待っていた。テルミドールのクーデタです。ロベスピエールのグループが処刑され、ジャコバン派の独裁が終わってしまった。それだけでなく、ナポレオン自身も、ジャコバン派ということで逮捕されてしまいました。すぐに釈放されますが、軍務をはずされて左遷状態に置かれる。
 この不遇の時に、ナポレオンは復活のチャンスをつかもうとコネを求めて、有力者のサロンをあちこち訪れる。いわゆる社交界に出入りするわけです。そこでナポレオンが一目惚れした相手がジョセフィーヌという女性です。
 彼女は、貴族出身の未亡人。ナポレオンより6歳年上。夫はジャコバン派独裁で処刑されたという身の上。死んだ夫とのあいだに二人の子供がいる。しかも、ナポレオンと知り合った当時は、バラスという愛人がいた。
 ナポレオンは、そんなことは一切気にせず彼女に夢中になるのです。
 ジョセフィーヌの愛人バラスという人物は、大物政治家で、のちに総裁政府で総裁になるという実力者です。このバラスが、ナポレオンのツーロン反乱鎮圧の活躍を覚えていて、彼にチャンスを与えるのです。

 1795年10月、ヴァンデミエール反乱という事件が起きる。これは、王党派がパリの中心部でおこした武装蜂起で、街のど真ん中でおきた反乱だけに、政府も鎮圧に手間取った。このときに、バラスがナポレオンに鎮圧を命じるわけです。
 ナポレオンは、バラスに大砲を使ってよいかとたずねた。都会の真ん中で大砲をぶっ放すなんていうことは、誰も思いつかなかった、というか、そんなことをしたら無関係の市民に死傷者が出るかもしれないし、被害の予想がつかないから、誰もやろうとしなかった。
 結局、使用許可をもらい、ナポレオンは大砲を使って、見事に反乱を鎮圧します。

 この功績で、ナポレオンは国内軍司令官に就任。見事に復活を遂げます。このとき26歳。

 1795年10月、総裁政府が成立します。ナポレオンがヴァンデミエール反乱を鎮圧した直後です。バラスが、この時に5人の総裁の一人となったことは、先ほど説明したとおりです。
 翌年1796年、ナポレオンはイタリア方面軍司令官に任命されます。第一回対仏大同盟との戦争はまだつづいていて、イタリア経由でフランスに向かってくるオーストリア軍をたたくのがナポレオンにあたえられた任務です。

 ナポレオンの大活躍はここから始まります。

 ちなみに、イタリア遠征に出発する直前に、ナポレオンはジョセフィーヌにプロポーズ。急いで結婚してから、遠征に出かけた。イタリアに行ったら、なかなか会えないから、結婚によってジョセフィーヌをしっかり捕まえておこうとしたんだね。ジョセフィーヌの方は、結構迷ったらしいが、バラスにすすめられて求婚を受けた。このへんのバラスの神経はよくわかりません。

 さて、ナポレオン軍はイタリアで、連戦連勝。
 ナポレオンの軍隊が滅茶苦茶強かったのは、なぜか。あとで、詳しく説明しますが、簡単に、ひとつだけ言っておきましょう。
 ナポレオンは、遠征軍の兵士に向かってこんな演説をしています。

「攻勢に出よう。武器も食糧も敵地にある。敵領の民衆を圧政から解放しよう!われわれは革命軍なのだ」

 ナポレオンは、イタリアの封建制度をぶっ潰して、イタリアの民衆に、フランスと同じような「自由」「平等」をあたえてやろう、と言っているのです。
 確認しておきますが、この当時、ヨーロッパでフランスだけが、革命によって封建制度、身分制度がなくなっている。市民による政府が成立している。しかし、イタリアも含めて、それ以外の地域では、封建制度がつづいていて、平民階級、つまり農民や市民は、貴族・領主によって政治的にも経済的にも抑圧されているのです。
 フランスと同じように、イタリアの平民も、封建制度はいやです。貴族や領主の支配をひっくり返したいと思っている。だけど、イタリアの封建領主階級の力はまだまだ強いし、さらにそのバックにはオーストリア軍がひかえている。自分たちの力だけでは、革命をおこすことは不可能に近い。
 そこに、ナポレオン軍がやってきて、オーストリア軍と戦ってくれる。そして、フランス軍が占領した地域の封建制をなくしてくれるという。「敵領の民衆を圧政から解放しよう」というのは、そういうことです。ナポレオンは、フランス革命をイタリアでもやってやろう、というわけです。
 だから、イタリアの民衆は、喜んでフランス軍を歓迎します。
 そういう意味では、イタリアは「敵地」ではない。逆にイタリアを押さえつけているオーストリア軍はイタリア人からは憎まれている。地の利はフランス、ナポレオンにあります。遠征地の住民の協力があるので、兵士や馬の食糧も、簡単に現地で調達できる。「武器も食糧も敵地にある」は、そのことを指しています。物資を現地調達できるから、部隊の荷物は、オーストリア軍に比べて軽装ですむ。荷物が軽いということは、移動速度が速いということです。ナポレオン軍は、オーストリア軍の予想を超えたスピードで部隊を集結させて、打撃をあたえることが出来たのです。

 話を元に戻しますが、最終的に、ナポレオンが率いるイタリア遠征軍に敗北したオーストリアは、フランスと和約を結び、これによって、第一回対仏大同盟は崩壊しました。

 フランスではナポレオン人気は急上昇。ちょっとしたヒーローになる。ナポレオン自身も自分の軍事的、政治的な才能に自信を持ちはじめる。
 フランスに戻ったナポレオンは、今度は自分から、新しい軍事作戦を提案します。それが、エジプト遠征です。

 フランスの国境近くに迫ってくる外国軍と戦争をするのならわかるのですが、なぜエジプトなのか。フランスとは全然関係ないじゃないですか。総裁政府の指導者たちも、なんでエジプト?と思ったようです。
 これに対して、ナポレオンは言う。「フランスの敵は常にイギリスである。第一回対仏大同盟もイギリスの主導で結成された。イギリスに打撃をあたえなければ、フランスの安定と発展はない。そのイギリスは植民地インドとの交易で利益をあげている。エジプトはイギリスとインドをつなぐ中継地である。したがって、エジプトをフランスの支配下に置くことで、イギリスに打撃をあたえることができる。」
 現実には、フランスがエジプトをおさえても、イギリスがどれだけのダメージを受けるか、はっきりしないのですが、とにかくナポレオンは、反対論を押し切ってエジプト遠征を認めさせてしまった。兵力は5万8千。

 ナポレオンの主張は、やっぱり屁理屈で、エジプト遠征は結局のところ、ナポレオンの名誉欲、功名心から計画されたような気がします。ナポレオンは、このころすでに自分自身を英雄だと信じて、古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王と自分を重ねていたようです。アレクサンドロスも東方遠征をおこなって、エジプトを征服しているでしょ。それを、自分もやりたかったのではないか。アレクサンドロスは東方遠征の時に、学者を大勢引き連れていくのですが、ナポレオンもそれにならって、考古学者など165人を連れていきます。当時、ヨーロッパでは、ちょっとしたオリエントブームで、エジプトに対する関心も高まっていたようです。
 ナポレオンが連れていった学者たちが、エジプトでロゼッタ=ストーンを発見したのは有名な話。ロゼッタ=ストーンの碑文から古代エジプトの神聖文字が解読された話は、以前にしましたね。

 フランス軍は、エジプトでもピラミッドの戦いと呼ばれる会戦で勝利をおさめている。この戦いの前にナポレオンは兵士に演説している。
「ピラミッドの上から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」
 要所要所で、決めゼリフを吐いて、兵士の心を燃え立たせるのが上手ですね。

 参考までに、言っておくと、この時期のエジプトはオスマン帝国の領土です。エジプトでフランス軍と戦ったのはマムルークとよばれる将軍たちでした。

 さて、イギリスですが、陸軍の戦いでは、フランス軍に太刀打ちできませんが、海軍は強い。イギリス海軍は、エジプトのアブキール湾にいたフランス海軍を攻撃して、これを撃滅させた。舟がなければ、フランスに帰ることもできない。ナポレオンのフランス軍は、エジプトに孤立することになります。
 さらに、イギリスは、オーストリア、ロシア、オスマン帝国などに呼びかけて、再び対仏大同盟を結成します(第二回対仏大同盟)。

 この結果、再び諸外国の軍隊がフランス国境にせまり、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗北します。危機のなかで、総裁政府と議会の対立は激しくなり、フランスの政情は不安定になる。もともと、総裁政府は強い指導力を持っていなくて、頻繁に政変が起きていましたから、不安定な政情のなかで、強力なリーダーシップを持った指導者を求める気運が高まってきます。

 エジプトで孤立しながらも戦いつづけていたナポレオンのもとに、フランス国内の情勢が伝えられると、かれは、わずかな側近だけを引き連れてエジプトを脱出してフランスに向かいます。政府が、ナポレオンに帰還命令を出したわけでも何でもない。ナポレオンの勝手な行動で、明らかな軍紀違反です。自分の指揮する部隊を、放り出していくわけですから、責任ある軍人としては、あり得ない。
 ナポレオンは、軍人としてではなく、政治家として行動した。このチャンスに自分が権力を握ろうと決断したのです。

 この時、ちょうど都合の良いことに、ナポレオンの弟が議会の議長をしていた。1799年11月、パリに戻ったナポレオンは、弟の協力を得て、合法的に権力を掌握しようとしますが、うまくいかない。結局、軍の力を背景に、総裁政府を倒して権力を握りました。この事件をブリュメール18日のクーデタという。
 これ以後、1814年まで、ナポレオンがフランスの独裁者として君臨することになります。

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第82回 ナポレオン1 おわり

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