世界史講義録
  



第83回  ナポレオン2



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ナポレオンの大陸支配
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 総裁政府を倒したナポレオンは、あらたに統領政府を組織します。
 三人の統領を置いて、これが政務に当たるのですが、ナポレオンは第一統領という地位につく。要するに一番えらい。他の二人の統領は、ナポレオンの言いなりですから、事実上の独裁者です。

 フランスの支配者となったナポレオンは、どのような政治をおこなったか。

 まずは、外交。
 ナポレオンは、まず二回目のイタリア遠征をおこない勝利をおさめる。戦争に勝ってくれれば、国民は喜びます。クーデタで権力を握ろうが、ナポレオンのリーダーシップは強力だし、久々に頼れる政府が出現して、国民はかれを支持する。
 これは、第二回イタリア遠征で、アルプスの峠を越えるナポレオンを描いたダヴィッドの絵です。非常にかっこよく描かれている。なんか、ナポレオンは乗馬が得意みたいに見えますが、実は苦手だったというから、完全な想像図でしょうね。ナポレオンの馬丁たちは、かれの乗る馬を調教するのに非常に苦労したらしい。なにしろ、乗馬が不得意だけれども、みっともないところを見せることはできない。たくさんいる馬のなかから、耳元で銃を撃っても、全く動じないような神経の図太い馬を選りすぐって、ナポレオンに渡したそうです。余談でした。
 さらに、1802年、アミアン条約を結ぶ。これは、イギリスとの和平条約です。この条約で第二回対仏大同盟は解体しました。長年の宿敵であるイギリスとの和平を実現して、外交にも並々ならぬ能力のあるところを示したわけです。フランスに久々に平和がおとずれます。

 内政でも成果をあげます。
 1800年には政府の中央銀行であるフランス銀行を設立。通貨と経済の安定を図り、フランス産業の発展の基礎をつくる。
 1801年には、宗教協約でフランス革命以来、敵対していたローマ教皇と和解します。フランス人のほとんどは、ローマ教会の信者ですから、これは多くの国民の信仰心を満足させた。

 このような成果と、国民の人気を背景に、1802年、ナポレオンは終身統領という地位に就任する。俺は死ぬまでフランスの支配者、ということです。

 ナポレオンは独裁者ではありますが、フランス革命の時にはジャコバン派を支持したこともある人物です。フランス革命の進歩的な理念や理想を理解している。その成果を守ることが、フランスの発展には欠かせないとも考えています。独裁者であることと、「自由・平等」を守るということは、矛盾するのですが、ナポレオンのなかでは、このふたつが平気で両立するのです。このへんが、ナポレオンの面白い所なんですね。
 だから、ナポレオンの、独裁的な政治手法を嫌悪する人も人もいれば、「自由・平等」の実現者として期待する人もいます。

 革命の成果を守るという立場から、ナポレオンは1789年の革命以来のフランス政府が出した法令を集大成します。これが、ナポレオン法典。1804年に制定されます。現在のフランスの法律も元をたどれば、これを基本にしているというくらいのものです。
 のちにナポレオンは言っている。「余の名誉は幾度かの戦勝にあるのではなく、余の法典にある」
 難しい言い方をすると、ナポレオンは、この法典でブルジョアジーの政治・経済の支配権を確定させたのです。
 またまた、ナポレオンの言葉「余はフランス産業を創造した」。「創造した」は、言い過ぎですが、フランス銀行の設立とナポレオン法典によって、フランス産業発展の基礎を固めたのは間違いない。

 さて、ナポレオンの野心はとどまるところがありません。
 1804年、ナポレオンは皇帝になります。皇帝としての呼び名はナポレオン1世。これ以後、1814年までのフランスの政治体制を第一帝政といいます。
 皇帝というのは世襲の地位ですから、いくら何でもフランス革命の民主主義的な理念と矛盾します。だから、ナポレオンは、即位前に国民投票を行う。「俺が皇帝になるのに賛成か、反対か?」と、国民に問うている。結果は圧倒的賛成多数。形式的ですが、革命以来の民主的伝統はかろうじて維持されている、といえなくもない。

 これは、ナポレオンの戴冠式を描いたダヴィッドの絵です。
 右に立っているのがナポレオン、その前にひざまづいているのが、ジョセフィーヌです。ナポレオンが皇帝になることによって、彼女は皇后になるのですね。
 ナポレオンの後ろに座っているのがローマ教皇ピウス7世。カール大帝が、ローマ教皇からローマ帝国の冠を授けられた故事にならってローマから招いたのです。ナポレオンも、ローマ教皇から皇帝の冠を授けてもらう段取りだったのですが、式の直前に気が変わり、自分の手で自分の頭に冠を載せたという。結構有名なエピソードですが、かれ一流のパフォーマンスで、はじめからローマ教皇に冠をかぶせてもらうつもりはなかったらしい。俺のこの地位は、誰の力でもなく、俺自身の実力で勝ち取ったのだ、ということですね。
 ナポレオンの即位は、周辺諸国を刺激します。
 またまた、イギリスの主導で第三回対仏大同盟が結成される。オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに参加します。
 イギリスはアミアン条約を破棄し、再びフランスと諸外国との戦争が再会された。

 フランスの主敵はイギリスですから、まず、ナポレオンはイギリス上陸作戦を実施する。

 1805年10月、33隻のフランス艦隊がスペインのカディス港から、出撃しますが、すぐにイギリス海軍と遭遇して、海戦になります。これが有名なトラファルガーの海戦。イギリス艦隊は27隻で、艦船数でいえば劣勢でしたが、圧倒的な勝利をおさめます。フランス側は、沈没3、捕獲17、逃亡13隻。これに対して、イギリスの喪失船はゼロという結果でした。
 ちなみに、ナポレオンは、パリから指令を出しているだけで、作戦の直接の指揮は執っていません。海軍の指揮は陸とは全く別の世界ですからね。

 イギリス艦隊の司令官はネルソン提督。この人は、戦闘中は常に甲板の上に出て、自分の姿を部下の水兵たちに見せる。そうやって、味方の志気を高めるのです。姿をあらわせば、当然敵から狙い撃ちされるから、非常に危険です。実際、以前の戦いで、右目と右腕を失っています。
 トラファルガーの海戦の時も、部下たちは危険だから甲板に立たないように願うのですが、いつものスタイルを変えずにいた。その結果、海戦では勝ったけれど、自分自身は弾に当たって死んでしまった。
 こんな死に方をして、人気が出ないはずがないです。ネルソンは、イギリスの英雄になる。現在、ロンドンにトラファルガー広場という公園があって、そこにはネルソン提督の像がフランスの方を向いて立っているそうです。

 それはともかく、海軍が大敗したので、ナポレオンはイギリス上陸作戦をあきらめざるをえない。なによりも、戦争で勝ち続けることがナポレオンの人気、権力の根本ですから、何とかこの敗戦を、次の大勝利によって帳消しにしなければならない。ナポレオンはみずから軍隊を率いて、オーストリアに出撃します。海戦は苦手でも、陸の戦いならナポレオンはおてのものです。
 トラファルガーの敗戦の二ヶ月後、1805年12月、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破る。オーストリア・ロシア連合軍の兵力9万。フランスは7万4千という劣勢をはねのけての勝利でした。この戦いには、オーストリアとロシアの皇帝も直接参加していたので、ナポレオンも合わせて三人の皇帝が戦場で相まみえたということで、三帝会戦とも呼ばれています。

 これ以後、ナポレオンはヨーロッパ各地で勝利をおさめつづけ、イギリス、スウェーデン、オスマン帝国以外の地域をほぼ勢力範囲に収めます。そして、フランスの利益にかなうように、国境線を引き直したり、属国を建設したりする。属国にできないような、オーストリアやロシアのような大国は、同盟国としてフランスの影響下に置きました。いわゆるナポレオン帝国がつくられていったのです。

 どの地域がどうなったか、大まかなところだけ見ておきましょう。
 1806年には、神聖ローマ帝国を解体し、ドイツの小国を集めてライン同盟という組織を作りフランスの支配下に置く。名目だけの存在でしたが、千年つづいた神聖ローマ帝国がなくなったということは、中世の封建社会が終わる象徴的な出来事です。これによって、オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の称号を失い、ただのオーストリア皇帝になります。
 最後までナポレオンに抵抗していたプロイセンとロシアも、1807年のティルジット条約でフランスに屈服します。ナポレオンは、プロイセン領土の半分を奪い、ここにワルシャワ大公国を建設し、フランスの属国とします。
 ほかにも、ナポレオンは、自分の兄弟などの身内をオランダやイタリア、スペインの国王に任命したりして、ヨーロッパ大陸をほぼ支配下に収めました。

 この間、1806年、プロイセンに勝利し、首都ベルリンに入城したナポレオンは、ここで非常に重要な命令を出していますので、絶対に覚えておいてください。大陸封鎖令、別名ベルリン勅令、といわれる法律です。ナポレオンの支配下、及び同盟関係の諸国に対して、イギリスとの貿易を禁止する法律です。
 軍事的にイギリスを征服するのをあきらめたナポレオンは、ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを閉め出すことで、経済的にイギリスを追いつめようとしたわけです。これは、ナポレオンの戦争が最終的に何を目標にしていたかを示す大事な法律です。
 イギリスの経済活動を妨害するだけが目的ではありませんよ。イギリスとの貿易を禁止して、「かわりにフランスと取り引きしなさい」というのがナポレオンの意図ですからね。フランス産業の発展が究極の目的です。

 ナポレオンは、こうしてフランス皇帝となり、ヨーロッパ全域を支配下におさめました。すべてを手に入れたように見えるでしょ。ところが、人間の欲望にはきりがない。
 ナポレオンはヨーロッパ最高の権力者になるのですが、言ってみれば「成り上がり者」です。古い伝統と格式を持つヨーロッパ各国の貴族から見れば、コルシカの田舎貴族にすぎない。ナポレオンは伝統と格式を手に入れたいと思った。
 もうひとつ、後継者問題です。皇帝の地位をつがせる男子が欲しかった。ナポレオンとジョセフィーヌとのあいだには子供ができません。子供を産んでくれる若い皇后が欲しい、と考えた。
 このふたつの問題を、一挙に解決するために、1810年、ナポレオンは、オーストリア皇帝の娘、ハプスブルク家の皇女マリー=ルイーズと結婚します。マリー=ルイーズ、18歳。ナポレオン、40歳です。まあ、完全な政略結婚ですね。しかし、ナポレオンには、ジョセフィーヌというれっきとした妻がいます。恋いこがれて結婚した妻ですが、こういうときには、ナポレオンは実にドライです。ジョセフィーヌには因果を含めて、円満に離婚しました。
 マリー=ルイーズにとっては、ナポレオンは、理解不可能な、ただ恐ろしいだけの男だったようで、二人のあいだにどれだけの感情のつながりがあったかはよく分かりません。しかし、彼女は結婚の翌年には、きっちりと男子を出産しました。

 このあたりが、ナポレオンの絶頂期です。

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ナポレオンの歴史的評価
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 すこし理屈っぽいですが、ここで、ナポレオンに対する歴史的な評価を整理しておきます。

 まず、ナポレオンの政治にはふたつの側面があるということ。
 ひとつは、専制君主、軍事独裁者としての側面です。皇帝という特別な地位につくことによって、フランス革命の民主主義的な側面を否定しました。
 ところが、一方でフランス革命の継承者としての側面も持つ。フランス革命からはじまるフランスの政治経済の改革を推し進め、革命の成果を確実にフランスに根付かせました。具体的には、中央集権化、フランス銀行設立、学校教育制度の整備、民法典の整備などの仕事です。

 つぎに、ナポレオンがおこなったヨーロッパ各地での戦争にはどんな意味があったか。
 フランス革命を守るための革命戦争の継続と考えることができる。ナポレオンはフランス軍を解放軍と言っています。ナポレオンは服属した地域に、人民主権、自由、平等といったフランス革命の理念を広げていきます。そして、封建制度を打ち壊していく。こういうのを「革命の輸出」といいます。
 また、時間を長くとってみると、ナポレオンの戦争は、世界各地の植民地と市場をめぐるイギリスとフランスとの抗争の最後の段階と考えることができる。ルイ14世時代の17世紀末から18世紀全体を通じて、フランスとイギリスは断続的に戦争状態がつづいています。ヨーロッパでは、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争と、常にイギリスとフランスは敵対する陣営として争っている。アメリカ大陸やインドでも、対立して戦争をしています。アメリカ独立戦争が、その好例です。1689年のファルツ継承戦争から1815年のナポレオンの最終的な没落までの、イギリスとフランスとの抗争を第二次英仏百年戦争ということもあります。
 そういう意味では、ナポレオンの戦争は、フランスの利益のための戦争です。だから、はじめは、各国の民衆から歓迎されたナポレオンのフランス軍も、しだいに自国の利益のために、他国を抑圧する侵略軍としての側面がはっきりしてくる。ヨーロッパ各地で、フランスの支配に対する抵抗が起きはじめます。それが、ナポレオンが没落していく最大の理由です。

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ナポレオン本人の言葉だから、一番信用できる、というわけではない。自己弁護や、虚飾も多いらしい。しかし、第一級の資料であることに、かわりはありません。
反ナポレオン考―時代と人間朝日選書
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両角 良彦著。「反ナポレオン」という題名は、内容にそぐわないと思った。ナポレオンの周辺の人物から見たナポレオン像を描いている。

第83回 ナポレオン2 おわり

こんな話を授業でした

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