世界史講義録
  



第84回  ナポレオン3


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ナポレオンのフランス軍の強さ
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 ナポレオンの率いるフランス軍がなぜ圧倒的に強かったのか。またたくまにヨーロッパ全域を支配下においた強さの原因を整理しておきます。

 まず、一番大きな原因は、フランス兵の士気の高さです。士気というのは「やる気」です。兵士一人ひとりが戦う自覚を持っていた。なぜかというと、守りたいものがあったからです。それは、抽象的にいえば「革命の成果」。具体的には「土地」です。

 フランス革命によって、封建制度がなくなったフランスでは、ジャコバン派の政策などによって、亡命貴族の領地が政府に没収され、多くの農民たちがこれを手に入れた。フランスが、対仏大同盟に負けるということは、フランスに王政が復活し、亡命貴族たちが戻ってきて、せっかく手に入れた土地が取りあげられるということです。
 革命によって手に入れた土地と自由を失いたくないというのが、フランス人の気持ちであり、兵士の気持ちです。たとえ自分が戦場で命を落としても、我が家の土地を守れるのだと思えば、必死に戦います。これが、フランス軍が強かった最大の理由。だから、たとえナポレオンが登場しなくても、フランス軍は強かったといえる。付け加えれば、当時のフランスは、ロシアを除いて最大の人口がある。当然兵士の数も多い。強くて当たり前です。
 では、他の国はどうだったか。フランス以外の兵士は全然戦う意欲はありません。金で雇われた傭兵であったり、プロイセンのように、農民が無理矢理兵隊にされていたりで、戦争の意義を理解し、自分の意志で戦っているわけではない。
 その差は歴然としている。だから、ヴァルミーの戦いでは、フランス義勇軍の雄叫びを聞いただけで、プロイセン軍は恐れをなして退却しています。

 二つ目の理由として、以前にも触れましたが、フランス軍には、被占領地、被征服地の民衆の協力があったこと。「敵領の民衆を圧政から解放しよう。われわれは革命軍なのだ」と言ったように、ナポレオンは自由・平等の旗をかかげて戦争をおこなう。
 敵国に行っても、敵はその国の支配者階級である封建領主や貴族であって、民衆は味方だったのです。イタリアでナポレオンが歓迎されたように、各地の民衆、つまり平民階級はナポレオンの軍隊が、自分の国に攻めてきて封建制度を打ち倒すことを期待しました。
 これで、戦争に勝てないわけがない。

 有名な例として、ベートーヴェンの話をしておきましょう。「運命」や「歓びのうた」を作曲したあのベートーヴェンです。
 ちょうどベートーヴェンはナポレオンと同じ時代を生きた人です。生まれたのはドイツのボン、1770年です。家は、おじいさんの代からつづく音楽家一家ですが、身分は平民。幼いころから天才ぶりを発揮して、やがてオーストリアの都ウィーンに出て演奏家、作曲家として活躍します。
 ウィーンは今でも音楽の都と言われるくらい、音楽活動の盛んなところですが、どうしてそうなったかというと、かつてオーストリアの貴族たちが、音楽を愛好して音楽家たちのパトロンになっていたからです。
 当時の一流の音楽家は、貴族のために演奏したり作曲して生活していたのです。たとえば、ウィーンに出てきたベートーヴェンは、はじめハイドンの弟子になりますが、このハイドンはハンガリーの大貴族エステルハージ侯爵家の宮廷楽団長だった人です。音楽家は皆、そうやって暮らしていた。だから、言い方は悪いけれど、音楽家は貴族にお愛想して気に入ってもらえなければ、成功できない。ベートーヴェンが、本当に弟子入りしたかったのはモーツァルトだったんですが、モーツァルトは、奇行が多くて、貴族社会に受け入れられず極貧のなかで死んでいます。ベートーヴェンがウィーンに来る直前のことでした。

 自分の才能に自信のあるベートーヴェンは、貴族にヘイコラするのが嫌で嫌でたまらない。かれはこんな言葉を残しています。
 「侯爵なんか偶然の生まれによるもので何千人といるが、ベートーヴェンは、才能によってこの世にただ一人。」
 見方によっては、何とも傲慢な言い方です。しかも、かれはこのセリフを自分を援助している貴族の前で言ったらしい。言われた貴族は、「ハハハ」と笑って聞き流した。

 モーツァルトが、貴族社会から嫌われて死んでいったのに、こんなことを言うベートーヴェンが許されたのはなぜか。
 ひとつは、ベートーヴェンのこういう傲慢な振る舞いが貴族たちから面白がられていたということです。才能が認められていたことは確かですが、人間としては「物笑いの種」として受け入れられていたのではないか。ベートーヴェンを崇拝する人には、怒られそうですが、私はそんな感じを持っています。
 もうひとつの理由として、これが重要なんですが、オーストリアの貴族たちも、時代の変化を感じはじめている。フランスで、平民たちが革命をおこしたように、オーストリアでも革命が起きるかもしれない。だから、貴族階級だからといって、平民を以前のように一方的に見くだして、邪険に扱ってはならない。とくに、ベートーヴェンのように才能のある平民は。こういう意識が生まれはじめている。モーツァルトとベートーヴェンの運命の違いは、この時代の変化にあったのでしょう。

 ちなみにベートーヴェンの先生、ハイドンは、晩年はイギリスに渡り演奏活動をして大成功をおさめます。イギリスでは、市民が入場料を払って演奏会を聞きに来る時代が訪れはじめており、ハイドンは、貴族社会の援助なしに自立した最初の音楽家となったのです。
 ベートーヴェンが活躍した時代は、ヨーロッパが貴族社会から市民社会へと大きく変化する、まさに変わり目だったのです。

 先ほどのセリフでわかるように、ベートーヴェンは、当然、貴族社会なんか早くつぶれてしまえばよいと思っています。だから、ナポレオンが、占領地の封建制度を打ち壊していくのを見て、ものすごく期待する。はやくウィーンも占領してくれないかというのが、ベートーヴェンの本音です。
 ナポレオンに心酔するベートーヴェンは、かれをテーマに交響曲を作曲します。題名は「ボナパルト」。
 この曲が、ちょうど完成したときに、ウィーンにいるベートーヴェンのもとにニュースが届く。ナポレオンが皇帝に即位した、というのです。それを聞いて、ベートーヴェンは激怒します。本心から貴族社会を否定する人間が、皇帝という特別の身分につくはずがありません。ベートーヴェンは、ナポレオンにだまされていたのだと悟った。「あの男も俗物だった!」と叫んで、机の引き出しから、完成したばかりの楽譜を取り出して、題名の「ボナパルト」と書いてあるところを、グワーッとペンで塗りつぶした。それでも、気持ちがおさまらないので、塗りつぶした表紙を、引きちぎって、クシャクシャと丸めてゴミ箱に放り込んだ。
 なぜ、そんなことがわかるかというと、あとで弟子がゴミ箱から表紙を拾って取っておいたのです。それから、残された楽譜の最初のページには、表紙の題名を消したときのペンの跡が残っている。よほどの強い筆圧で、かき消したのでしょう。
 幸いにして、楽譜そのものは捨てられずにすんだので、われわれはこの曲を聴くことができます。ベートーヴェンが、つけなおした題名は、「一偉人の追憶をたたえるための英雄交響曲」。普通には、交響曲第三番「英雄」と呼ばれています。
 出だしの部分だけ、少し聞いてみましょう。最初にフォルテでドン・ドンと鳴ります。私は、自由と平等の旗をかかげて、ウィーンに近づいてくるナポレオンの足音のように感じるのですが、どうでしょうか。
 実際に、のちにナポレオンがウィーンまで攻め込んできます。フランス軍がウィーンにうちこむ砲撃の音がドカンドカンと響く。その時、城壁のそばにある弟の家に逃げ込んでいたベートーヴェンは、枕で頭を抱えて怒鳴りつづけた。「ナポレオンの馬鹿野郎、俺の耳が壊れるじゃないか!」このとき、すでにベートーヴェンの耳はかなり悪くなっていたのです。思想的にも、自分の耳にとっても、ナポレオンはベートーヴェンには許し難い人物になってしまったのですね。

 話が大分それてしまいましたが、当初は、ヨーロッパ中の平民階級、つまりは一般の民衆が、ベートーヴェンと同じように、ナポレオンを応援していたということです。

 ナポレオンの強さの理由、三つ目。
 やはりナポレオンの戦術のうまさを挙げなければならないでしょう。ただし、これも士気の高いフランス兵だからできた部分はある。
 まず、ナポレオンは軍の機動力を重視します。スピードです。常に敵軍よりも早く行軍し、戦場に到着する。敵軍が結集する前に、攻撃を加える。
 たとえば、フランス軍4万、ロシア軍6万の兵力で、戦闘があるとします。兵力ではフランスが劣る。しかし、ロシアは6万といっても、予定戦場に一度に6万人の兵士が到着するわけではない。今のように幅の広い舗装道路があるわけではないですから、軍隊は部隊ごとに多くのルートにわかれて、徐々に終結します。フランス軍は、ロシア軍が終結するより早く、行軍を完了し、まだ敵軍が分散している時に攻撃をしかける。そうすれば、数的な劣勢は充分に補うことができるのです。
 では、フランス軍はなぜ早く移動できるのか。簡単です。兵士が走るのです。フランス兵はやる気がありますから、一所懸命走る。フランス兵のこんな言葉が残されています。
「皇帝はわれわれの足で勝利をかせいだ」。
 また、フランス軍は夜や雨の中でも行軍できる。他国の軍隊は出来ません。夜間行軍をすれば、兵士は逃げていなくなる。雨では、さぼって動こうとしない。
 それから、フランス軍は荷物が少ない。軽装備です。だから走れる。なぜ軽装かというと、現地で必要な物資を調達できるからです。理由は何度も説明しましたね。敵地の民衆の協力があるからです。ロシア軍やオーストリア軍のように何ヶ月分かの食糧を、荷車に積んで、ゴロゴロ引っ張っていく必要がないのです。
 こうして機動力を発揮して、兵力の集中、中央突破、各個撃破で勝利をおさめる。
 さらに、戦術の特徴として、歩兵、騎兵、砲兵を有機的に結合させたといわれます。つまり、砲兵を上手に使ったということですね。

 また、ナポレオンは追撃戦も得意です。会戦でフランス軍が勝てば、敗れた敵軍は退却します。これは、当然。さて、ナポレオン以前の戦争では、敵が退却したら、それで戦いはおわりです。ところが、ナポレオンは、退却する敵を追撃して、徹底的にうち負かす。
 ナポレオン以前は、なぜ追撃しなかったというと、戦争といっても、戦っているのは封建領主同士、貴族同士です。たまたま、属している国が違うだけで、身分としては仲間同士。だから、勝敗がつきさえすれば、深追いしてそれ以上のダメージをあたえることはしなかった。しかし、ナポレオンのフランス軍は、封建領主の軍隊ではないから、お目こぼしはしない。完璧な勝利を追求します。
 また、追撃命令を出すと、部隊は散開して指揮官の目が届かなくなる。封建領主の軍隊では、兵士は逃げたりサボったりするので、したくても追撃を命令できなかった。しかし、フランス兵は、自覚を持って戦うから大丈夫。結局は、フランス兵の士気の高さに、行き着きますね。

 最後に、伝説に属することかもしれませんが、ナポレオンのカリスマ性。これが、フランス兵を奮い立たせたという。同時代人の証言を紹介しておきましょう。

「彼が戦場に姿を現せば兵士4万人分に値する」(英・ウエリントン将軍)
「われわれは一種の光芒に包まれて進軍しているような感じだった。私は50年後の今でさえ、そのぬくもりを感じることができる。」(仏・マルモン元帥)
「望みをかなえようとする時のナポレオンの声には強烈な説得力と魔力があり相手をその気にさせ、自分の欲望どうりに事を運ぶことにかけては、どんな手練れの女性もかなわなかった。」(ナポレオンの侍従長コーランクール)


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没落のはじまり
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 1810年前後が、ナポレオンの絶頂期ですが、やがて、ナポレオンの大陸支配が個人的栄光とフランス産業の利益のためだということがはっきりする。ベートーヴェンがナポレオンを見限ったように、はじめは封建制度を打ち倒すフランス軍を歓迎していた諸国民も、ナポレオンの支配に抵抗をはじめます。自由・平等といっているくせに、フランスとの関係では、自由も平等もないではないか、ということです。ナポレオンが自由・平等という考えを広めた結果、皮肉なことに各国で民族意識が高まってきたのです。
 特に、諸国の反感を買ったのは、大陸封鎖令です。ヨーロッパ諸国は、一番産業の発展しているイギリスに、原材料や食糧を輸出して経済が成り立っていた。それを禁止したのですから、反発は当然です。

 最初にフランスの支配に抵抗をはじめたのはスペインです。ここでは、1808年からフランスに対する反乱が始まっている。ナポレオンの兄がスペイン国王になっていますから、反乱をおこしたのはスペイン軍ではない。一般の市民たちが抵抗闘争をはじめたのです。今でいえば、ゲリラ戦です。ナポレオンは反乱鎮圧のために最終的には30万の軍隊を投入しますが、成果は上がらない。正規軍と決戦をすれば、フランス軍は無敵ですが、スペイン人ゲリラは、どこにいるか分からない。フランス軍の隙をついて襲ってくる。そもそもゲリラと、そうでない市民との区別もつきません。フランス軍は報復のために、怪しいと思った人たちを、どんどん処刑していくしかない。

 ゴヤが描いた「1808年5月3日の処刑」という絵があります。マドリード市民の反乱が題材で、僧侶も含めて一般市民をフランス軍が銃殺しているところです。ゴヤはフランス軍の暴虐を告発するために、この絵を描いた。
 中央で白いシャツを着た男が両手を挙げています。男の右の手のひらをよく見ると、穴があいている。これは、聖痕といって、イエスが磔になったときに、手に釘が打ち付けられた、その傷を象徴しています。今、殺されようとしているこの男の側にこそ、神のご加護がある、そういうメッセージです。フランス兵たちは、やましいので聖痕を持つ男を、まともに見ることができません。顔を上げることができず、うつむいたままで発砲しようとしているのがわかりますか。ゴヤがこの絵にこめたメッセージです。

 こうなると、フランス軍は革命軍でも何でもない。ただの侵略軍です。そして、ナポレオンは最後まで、スペインの反乱を鎮圧することができませんでした。

 ナポレオンによって領土が半分になってしまったプロイセンは、国を挙げて改革に取り組みます。これをプロイセン改革という。
 プロイセンの指導者たちは真剣に考えた。なぜフランス軍に負けたのか、フランス軍との違いはなにか?答えは、簡単です。プロイセンの兵士は、やる気がない。フランス兵のように、兵士としての自覚も戦う意志もない。プロイセン兵は、強制的に集められた農民で、しかも彼らの身分は農奴です。封建領主に経済的にも身分的にも抑圧されている農奴が、封建領主のために戦おうとするわけがないのです。それどころか、ナポレオンに負けることを願っているかもしれない。
 だとすれば、プロイセンを強くするためには、封建制度をなくすしかない。しかし、革命は困る。そこで、支配者側が、自分たちの権力を手放さないようにしながらおこなったのがプロイセン改革です。こういうのを、上からの改革という。

 改革のリーダーになったのは、シュタイン、ハルデンベルグという二人の大臣です。かれらは、農奴制をなくして、農民を自由な身分として解放します。フランス革命のように、農民が土地を手に入れるような、徹底的な改革ではありません。一説によると、ようやくフランス革命前のフランス農民の状態に近づいたくらいだともいわれていましが、それでも大進歩です。
 また、軍制改革をすすめました。軍隊内でのリンチやむち打ち刑を廃止して、兵士の待遇を改善する。さらに、身分に関係なく、能力のあるものは将校に抜擢する。シャルンホルストというプロイセンの将軍は、「兵士は国王の召使いではなく、国家の市民でなければならない」と言っている。素晴らしいセリフですが、かれが民主的な人だから、こんなことを言っているのではない。そうしなければ、フランス軍のように強い軍隊が作れないからです。
 こうして、プロイセンは短期間のうちに、国民皆兵の原則をうち立て、フランス軍に近い国民軍を作り上げることに成功しました。プロイセンの兵士も、ちょっとは国のために頑張ろうか、という気持ちになってくる。こうなると、フランス軍の優位性は揺らいできますね。実際に、のちのワーテルローの戦いで、ナポレオンが敗北したときに、決定的な役割をはたしたのがプロイセン軍でした。

 また、プロイセンでは、哲学者のフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という講演をおこなって、民族意識が高まっていきました。
 次に挙げるのは、あるプロイセン人が少年時代の思い出を描いたものです。かれが、まだ子供でベルリンに住んでいたころ、ナポレオンが自分のアパートの前を通った。かれは、英雄が通る!と、無邪気にはしゃいで、母親に声をかけたのです。

私「窓のところにきてごらん、ナポレオンが通るよ」
母「私は台所に引っ込んでいるよ。何の罪もない貧しい国にずかずか押し入る男なんて見たくもないよ」(ヴィルヘルム・キューゲルンゲンの想いで)

 名もない庶民のお母ちゃんも、こんなふうに考えはじめる。民族意識の高まりとは、こういうことね。

 そして、ロシアです。フランスから一番遠いロシアは、1810年、大陸封鎖令を破って、イギリスとの貿易を再開します。ナポレオンは、大陸封鎖令に従うように警告を繰り返しますが、ロシアは無視する。これを放置しておいては、ナポレオンのメンツは丸つぶれです。ロシアに影響されて、他の諸国まで大陸封鎖令を破り出せば、ナポレオンのヨーロッパ支配は崩れ去る恐れがある。
 1812年5月、ナポレオンは、側近たちの反対を押し切り、ロシア遠征を開始しました。兵力は60万。そして、このロシア遠征が、ナポレオンの没落のはじまりとなったのです。


参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたいときは

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世界軍事史―人間はなぜ戦争をするのか 小沢郁郎著。ナポレオン戦争だけでなく、洋の東西を問わず、古代から19世紀に至るまでの、主要な戦争の軍事技術、戦略を、それを生み出した社会制度から言及した隠れた名著。
著者が高校教師だったためか、かゆいところに手が届くような、教師にとっては「おいしい」本。本当は、誰にも教えたくない私の「ネタ」本。
ちょっと高いですが、世界史教師には充分おつりが来ること請け合い。
ベートーヴェン―運命は扉をたたく (作曲家の物語シリーズ (3)) ひのまどか著。ジュニア向けの本ですが、簡潔にして要を得ており、今回のネタにバッチリ使わせてもらいました。ベートーヴェンが傲慢だったのは、聴覚障害を周囲に悟られまいとした涙ぐましい努力の結果でもあるようです。実は、みんな、気づいているのですが、ベートーヴェンを気遣って知らない振りをする。そのあたりの機微や、ラッパのような巨大な補聴器など、人間ベートーヴェンの息づかいが伝わるようでした。

第84回 ナポレオン3 おわり

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