世界史講義録
  



第85回  ナポレオン4

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ロシア遠征
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 1812年5月、ロシア遠征がはじまりました。ナポレオンの兵力は60万。すべてがフランス兵ではありません。24万は、フランスの属国、同盟国から動員した兵で、はじめから士気は高くなかった。

 ナポレオンが率いる大陸軍がニーメン川をわたりロシアの領土に侵入したときの兵力は47万5千。
 ナポレオン軍はロシア軍を捕捉するために猛スピードで走った。一日60キロの距離を、30kgの装備を背負って走った。6月とはいえ、すでに猛暑。この行軍速度についていけない兵士が次々に脱落していきましたが、それは見捨てて走りつづけた。最初の二日間で5万人の兵士が脱落したという。一刻も早くロシア軍に決戦を挑みたかったのでしょう。
 ロシア軍は、いったんは国境近くに兵力を集めますが、ナポレオン軍がせまると退却をはじめた。ロシアの兵力は約20万。倍以上のナポレオン軍に正面から挑んで勝てるわけがない。逃げ出したわけです。だから、ナポレオン軍は、どんどん追いかける。ただ、ロシア軍は退却する際に、畑などを焼き払っていく。ですから、ナポレオン軍は食糧を現地調達できない。また、ロシア農民も、協力的ではない。解放軍ではなく、侵略軍だと見抜かれていますから、以前のイタリア民衆のようにフランス軍に好意的ではない。

 8月、スモレンスクという町に到達したときには、ナポレオン軍の兵力は15万5千になっていた。一度も戦闘らしい戦闘はないのですよ。飢えと疲労と逃亡で激減したのです。
 9月、退却をつづけたロシア軍は、首都モスクワの手前ボロディノで、はじめて本格的な会戦をしました。首都防衛のためです。ところが、あっさり負けて、またもや退却。ついには、モスクワを放棄してさらに東に逃げてしまった。ロシア皇帝をはじめ、モスクワ市民もみんな避難しました。

 9月14日、ナポレオン軍はもぬけの殻となったモスクワに入城します。ナポレオンの兵力は11万になっています。この時、モスクワでは大火がおこり、町の大半は焼けてしまって、フランスの兵士の食糧や宿舎にも苦労する始末でした。
 しかし、敵国ロシアの首都を制圧したことにはかわりはない。ナポレオンにとっては、これは勝利です。さっそく、ナポレオンはモスクワから、北方に逃げ去ったロシア皇帝に降伏勧告の文書を送る。首都を占領したのだから、悪あがきはせずに、早く謝りに来い、というわけです。
 ところが、ロシア皇帝からの返事が待てど暮らせど来ない。外交交渉が全く進展しないまま、モスクワで待機しつづけて、一月が経った10月13日。この日、ナポレオンを驚かせる事件がおこる。

 何か。

 モスクワに初雪が降ったのです。ナポレオンの予想以上にロシアの冬は早かった。初夏に遠征を開始したフランス軍は、冬の装備を持っていません。ただでさえ飢えで苦しんでいるのに、このうえ寒さに襲われては、モスクワ占領は継続できない。即座に、ナポレオンは退却を命令します。何の成果もないまま、ナポレオン軍はもと来た道を、引き返しはじめました。退却時の兵力は10万。モスクワ占領の一ヶ月だけで1万減っています。

 ナポレオン軍が退却を開始すると、どこかに隠れていたロシア軍があらわれて、追撃を開始しました。寒さとロシア軍の攻撃にやられて、ナポレオン軍は激減。11月3日には5万、11月8日、スモレンスクでは、3万7千。ここでは、気温はマイナス26度にまで下がっている。フランス軍の軍服のボタンはスズでできている。スズという金属は、急激な温度低下で粉々に砕けてしまう。だから、フランス軍兵士は、寒さのなか、服のボタンも留められない。想像を超える状態ですね。死んだ仲間の服をはぎ取って身にまとう、死んだ軍馬の肉を、みんなで食らう、味がないので火薬を振りかけて味付けをしたといいます。暖をとるために軍旗を焼く。軍旗というのは、敵に奪われたら指揮官が自殺しかねないほどの、部隊の名誉を象徴する重要なもので、燃やしたりしたら銃殺ものです。それを、焼くのですから、もう軍隊としての規律も崩壊しかけているということです。

 11月26日にはベレジナ川に到達する。この川を渡らないといけないのですが、ここに来て急に寒さがゆるみ、それまで凍結していたベレジナ川が歩いてわたれなくなってしまった。工兵隊が死を決して、氷の浮かぶ川に入り、仮設の橋を架けて、なんとか川を渡った。渡ることができたのは3万名。
 後ろからせまってくるロシア軍をうまく翻弄して、橋を架けるための時間稼ぎをしたので、「ベレジナ渡河作戦」というかっこいい名前で知られていますが、要はただただ必死に逃げているだけです。
 ベレジナ川をわたっている絵がありますが、川を渡る兵士のなかに女性が混じったりしてる。当時、軍隊が遠征するときには、兵士に日用雑貨品を売る商人や、売春婦などもついてまわっていた。戦争の一面が垣間見えて興味深いです。

 12月10日、ニーメン川をこえて、ロシア領から帰還したときの兵数はわずか5千。60万ではじまったロシア遠征軍が5千になっているのです。軍隊が消滅したと言っていい。ナポレオンの権力を支えていた軍隊が消えてしまったのです。
 ロシア遠征は、大失敗に終わりました。

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ナポレオンの最後
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 ナポレオンの支配に不満を持つヨーロッパ諸国にとって、これ以上のチャンスはありません。ヨーロッパ諸国は、反ナポレオンの連合軍を結成し、ナポレオンにとどめを刺す。これがライプツィヒの戦い。別名諸国民戦争。

 連合軍の主力は、ロシア、オーストリア、プロイセンです。兵力は30万。
 対するフランスは18万。ロシア遠征で、軍団が消滅したにもかかわらず、よく集めたともいえますが、急遽召集された兵士たちで訓練も充分ではない。
 実際のところ、フランス国内では厭戦気分が蔓延していて、兵士集めに苦労します。政府が召集した数は42万。しかし、実際に出頭してきた若者は17万5千しかいませんでした。多くの若者が、徴兵命令を無視して、逃げてしまったのですね。上の息子はロシアに駆り出されて帰ってこなかった。なのに、下の息子まで引っ張るのかい!もう、たくさんだ。というのが、フランスのおかあちゃんたちの偽らざる気持ちです。

 ロシア遠征以前の1810年には、すでに徴兵忌避者3万2千、脱走兵3万、という記録がありますから、ナポレオンの栄光とは裏腹に、長びく戦争にうんざりしていたフランス国民がたくさんいたのでしょう。徴兵のがれのために、自分で前歯を折ったり、親指を切断する者が多く出たといいます。当時の銃は、火薬袋を前歯でかみ切って銃に火薬を装填した。だから、前歯がなければ徴兵されないというのです。前歯だけでは心配という者は、親指まで落としてしまった。これでは、銃が握れません。当然徴兵免除ですね。また、妻帯者は徴兵免除されるというので、いそいで結婚する若者も多かった。村の若い娘は引っ張りだこ。若い娘がいないので、60歳の女性と結婚した18歳の若者がいたという記録もある。

 そんな状態で、かき集められたフランス軍は、以前のような優位性がありません。ライプツィヒの戦いで、フランス軍は敗北し、ナポレオンはパリに逃げ帰り、これを追って連合軍もパリに進軍。ナポレオンは最後の抵抗を考えましたが、側近の将軍たちに退位をせまられて、抵抗をあきらめた。ついに1814年3月、パリは連合軍に占領されました。

 降伏したナポレオンはどうなったかというと、島流し。流されたのはエルバ島という地中海に浮かぶ小島。ただし、曲がりなりにも皇帝の地位にあった人物ですから、連合国は、ナポレオンの名誉を重んじて、エルバ島の「皇帝」の称号と、島の統治を許されます。また200フランの年金と1200名の近衛兵もあたえられた。まあまあ、寛大な処置だと思います。

 フランスには、革命で処刑されたルイ16世の弟が、亡命先から帰ってきてルイ18世として即位。ブルボン王朝を復活させました。
 ところが、このルイ18世、すこぶる人気がない。傲慢で頑固なおじいさんだった。ルイ18世に外務大臣として仕えたタレイランはこんなことを書いています。

「ルイ18世はおよそこの世で知る限り、極めつきの嘘つきである。1814年以来、私が王と初対面の折りに感じた失望は、とても口では言い表せない。…私がルイ18世に見たものは、いつもエゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず、といったところだ。」

 大臣からこんなことを言われるのだから、よっぽどだったんでしょう。あまりにも不人気な王、国民の評判も悪い。こんな王ならば、ナポレオンの方がよかった、という声がエルバ島で暮らすナポレオンの耳にも入る。チャンスはまだある、と考えたナポレオンは、1815年2月24日、側近を引き連れて、7隻の舟でエルバ島を脱出しました。向かう先はフランス南海岸。ナポレオン脱出のニュースはすぐにパリに伝えられ、ルイ18世は、上陸するナポレオンを逮捕するために、軍隊を南仏に派遣します。
 軍隊が待ちかまえているなかを、ナポレオンはやってくるのですが、ナポレオンに「栄光あるフランスの兵士諸君、余は帰ってきた。ともに、フランスの栄光を取り戻そう」なんて言われて、逮捕するどころか、ナポレオンの指揮下に入ってしまうのね。この辺は、ナポレオンのカリスマ力爆発です。ルイ18世は、次々と軍隊を差し向けるのですが、ナポレオンは、それを全部自分の味方にしてしまって、パリに向かって進軍します。とうとう、ルイ18世は、恐れをなして逃げだし、3月、ナポレオンはパリに帰還。再び皇帝の座に返り咲きます。

 すぐさま、イギリス、プロイセンなどによって、連合軍が結成され、ナポレオンとの最後の戦いがおこなわれた。これが、ワーテルローの戦いです(1815年6月)。

 ナポレオン率いるフランス軍の兵力は約10万。対する連合国はイギリス軍6万8千とプロイセン軍4万5千。総司令官はイギリスのウェリントン将軍です。
 この最後の決戦で、ナポレオンは負けてしまう。有名な戦いなので、敗北の原因をいろいろな人が研究している。この時、ナポレオンは病気で、判断力が鈍かったとか、前日の豪雨で地面がぬかるみ、得意の砲兵部隊を思うように活用できなかった、とかね。

 ワーテルローでフランス軍とイギリス軍が激突したのが6月18日。実はその二日前、6月16日に、リニーという場所で、フランス軍とプロイセン軍が戦いました。この時は、フランスが勝って、プロイセン軍は麦畑のなかを散り散りになって敗走した。ナポレオンは3万3千の別働隊をグルーシー将軍に指揮させてプロイセン軍を殲滅するため追わせた。一昔前のプロイセン軍ならば、いったん散り散りになったら、兵士はどこかへ逃げてそれっきりです。ところが、プロイセン改革を経て、プロイセン軍は生まれかわっている。逃げた兵士たちは、また指揮官のもとに集結して、整然と退却をはじめた。
 グルーシーはプロイセン軍を捕捉することができないまま、追い続けた。

 6月18日、ワーテルローで、フランス軍主力とイギリス軍が戦闘を開始したとき、グルーシー将軍の別働隊は、まだ帰ってきていない。戦いは、フランス軍優勢で進むのですが、グルーシーの3万3千が、今ここに帰ってくれば一気に決着がつくと、ナポレオンは首を長くして待っている。
 ところが、夕方になって、ワーテルローに現れた軍団は、逃げたはずのプロイセン軍でした。形勢は一気に逆転して、結局フランス軍は負けてしまった。グルーシーの別働隊は、とうとう現れないままでした。

 兵士の士気の高さが、もはやフランス軍の専売特許ではなくなっているのだから、ナポレオンは負けるべくして負けたと言ってよいかもしれない。

 この敗北で、ナポレオンは再び退位して、またもや島流しになる。今度は、簡単に脱出できないように、大西洋の絶海の孤島セント=へレナ島に流された。同行を許されたのは12名の従者のみで、イギリスによる厳重な監視つきです。
 これ以後、ナポレオンは何もすることがないので、一日中島のなかを歩き回ったり、自分の生涯を従者にしゃべって暮らした。島流しのわずか6年後、1821年に52歳で死亡。病死ですが、イギリス人に毒を盛られて死んだという説が有力です。
 死後、従者がナポレオンの回想録を出版する。この回想録がきっかけになって、ナポレオン英雄伝説が広く行き渡るようになりました。

最後に、ナポレオンの発言をいくつか紹介しておこう。

「わが権力は、わが名誉に由来し、名誉は戦勝に由来する。」
戦争に勝ち続けなければ権力を維持できなかったナポレオンの運命を、自分自身、よくわかっていたのですね。

「運命の女神など振り向いてくれなくても、世界を完全に制覇してみせる。」
傲慢といえば、これ以上傲慢な発言はないかもしれない。

「余のごとく戦場で大人になった男には、百万の人命も気にならぬ。」
これもまた、えらく傲慢。これが、戦争指揮官の本音か。

「余の部隊の忠誠と服従に期待している。兵士なくしては余は何もできない。彼らがいなければ、余は普通の人間と少しも変わるところはない。」
これは、うってかわって謙虚。兵士の前での演説か。

「余はフランス産業を創造した。」

「余の名誉は40度の戦勝よりも、法典にある。」

「ジョセフィーヌ!」
これは、死を前にしたナポレオン最後の言葉。やっぱり、一番愛していたのはジョセフィーヌ?

 こんどは、ナポレオンについての発言。同時代の人々が、彼のことをどう考えていたのか。

「ナポレオンが善玉か悪玉かとよく訊かれるが、こうした分類はこの人物には当てはまらない」(メッテルニヒ)

「ナポレオンの人間に対する姿勢は軽蔑であり、人間を従える手段は金銭と栄光である。その人間観は物欲と虚栄に裏打ちされている。」(ルドヴィッヒ)

「彼は一度として思いやりの情を持ったことがない。ために、人付き合いは無愛想であり、友達というものは得られなかったのである。ナポレオンの無感動な性格というものは、その波乱に満ちた生涯のあらゆる時期を通じてきわだった特徴である。」(シャプタル)

「ナポレオンには二つの人間が同居している。一つはすばらしい才能の持ち主だけれども、もう一つは常に人を疑い、そして相手に対する信頼というものを絶対に持たない、認めない人だ。」(マダム・ド・レミューザ)

 最後に、ナポレオンの戦争によるフランスの戦死者数をあげておきます。

1805年~09年 198,000名
1810年~14年 555,000名
1815年     30,000名
1805年からの合計戦死者数 783,000名



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第85回 ナポレオン4 おわり

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