ウィーン会議は、結局翌年の6月までつづいた。ナポレオンがエルバ島を脱出したときも、ウィーン会議はやっていたわけだね。
会議の中心となったのは、主催者であるオーストリアのメッテルニヒ。フランスの代表タレーラン、ロシアは皇帝アレクサンドル1世直々の参加、イギリス代表カスルレー。
メッテルニヒは、オーストリアの名門貴族です。超保守的な考えの持ち主で、フランス革命や、革命がめざした自由や平等が大嫌い。フランス革命からナポレオンの時代にかけて、ヨーロッパ全体に広がった自由主義的な考えを徹底的に押さえつけ、ヨーロッパ全体を、貴族階級が権力を握る昔の体制に戻そうと考えていた。
ロシア皇帝アレクサンドル1世は、英雄扱いでした。なにしろ、ロシア遠征の失敗でナポレオンは没落していったのですから。実際には、冬の寒さに敗れたのであって、アレクサンドル1世が、大活躍をしたわけではないのですが。
会議のなかで、一番立場が悪いのがフランスです。ヨーロッパを大混乱させたのはフランスだ、責任をとれ、と言われたら、返す言葉がない。フランスの領土をよこせ、多額の賠償金を支払え、と各国から要求されても文句を言えない立場です。
フランス代表タレーランですが、この男は、非常に賢い。政治的能力は抜群です。名門貴族出身。フランス革命期には、三部会や国民議会の議員だった。ナポレオン時代には外務大臣です。そして、ナポレオン没落後は、ルイ18世のもとで、フランス代表としてウィーン会議に出席している。政治体制が変わっても、それにうまく順応して、つねに政治の中枢に居つづけた人物です。ある意味では節操がない。「変節と嘘と汚職の天才」「冷徹で偉大な現実主義政治家」などと呼ばれている。でも、これは、外交官としては褒め言葉といえるかもしれない。
このタレーラン、フランスを守るために「正統主義」という理屈を持ち出してきた。フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」、つまり正しい状態である。だから、すべてを革命前の状態に戻そうという主張です。だから、国境線も、革命前の状態に戻す。つまり、フランスの領土は減らさない。賠償金も支払わない、という。
フランスは、他のヨーロッパ諸国に多くの被害を与えたのに、責任をとらないのはおかしいじゃないか、という主張に対して、タレーランはこう答える。
「フランスも被害者です。悪いのはフランスではなくて、革命なのです。革命によって、国王ルイ16世一家は殺されました。私たち、フランス貴族も特権を奪われ、多くの土地や財産を奪われました。皆さん方と同じ、被害者なんですよ。悪いのは、あくまでも革命であり、市民階級の連中なのです。」
なかなか、うまい理論構成ですね。他国の代表者たちも、タレーランの「正統主義」を受け入れます。
フランス、オーストリア、ロシア等々、国家間の利害の対立はあるのですが、ウィーン会議の出席者たちは、「ヨーロッパ全体の貴族階級」と「ヨーロッパ全体の市民階級」の対立の方を、より重大な問題として受け止めたわけです。
フランス革命のような革命が、再びヨーロッパのどこかで起きたら困る。国家間の利害の対立をこえて、市民階級を押さえつけるために、貴族階級全体で協力し合おうということです。こういう考え方に立てば、タレーランの言う「フランスも被害者」という主張も受け入れられるわけです。
ウィーン会議の基本原則は「正統主義」と教科書に書いてあるのは、こういうことです。
タレーランは、うまい具合に、フランスを守ることに成功した。
「正統主義」とならんで、大国による「勢力均衡」が、ウィーン会議のもうひとつの基本原則になりました。オーストリア、ロシア、プロイセンなどの大国の利益が優先され、小国の領土が分割された。その際に、突出した力を持つ国が出現しないように大国間の「勢力均衡」がはかられた。要するに、「正統主義」という原則の一方で、結局は、強い国が得をした、弱い国が損をしたということです。
会議の主な決定事項を見ておきます。
フランスでは、「正統主義」の立場から、ブルボン王朝の復活が認められ、ルイ16世の弟、ルイ18世が即位した。
ドイツでは、ナポレオンによってつくられたライン同盟が解体され、あらたにドイツ連邦が結成された。35の君主国と4つの自由市から構成される連邦で、統一国家ではありません。プロイセン、オーストリアという大国も、ドイツ連邦に含まれています。
ロシアは、ポーランドとフィンランドを事実上支配して、勢力を拡大した。
オーストリアは北イタリアに領土を拡大した。
イギリスは、セイロン島とケープ植民地の領有を認められた。セイロン島はインドの東に浮かぶ島。ケープ植民地は、アフリカ大陸の最南端。ともに、ヨーロッパではありません。イギリスは、ヨーロッパで勢力を拡大することよりも、アジアやアフリカに目を向けていることがわかる。ヨーロッパ諸国よりも、一歩先に進んでいるわけだ。
以上のような新たな国際関係がつくられた上に、これを維持するための同盟が結ばれます。
ひとつが、神聖同盟。ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成されたもので、正確には国家間の同盟ではなくて、各国君主どうしの盟約です。君主どうし協力し合って、革命を防ごう、というものです。
もうひとつが、四国同盟。イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアのあいだで結ばれた軍事同盟です。のちにフランスも加わって、五国同盟となります。
軍事同盟というのは、必ず仮想敵を設定します。四国同盟の仮想敵は、どこか。
仮想敵は、全ヨーロッパの市民階級です。そして、市民階級の求める自由主義。これ以後、ヨーロッパのどこかで革命運動や自由主義の運動が起こると、四国同盟が軍隊を出動させて弾圧するということになりました。
以上、ウィーン会議の結果できあがった新しいヨーロッパの国際秩序を、ウィーン体制といいます。
ウィーン体制の特徴をまとめます。
ウィーン体制は、1,特権階級が平民階級を抑圧する体制、2,大国が小国を抑圧する体制、3,保守主義が、自由主義を抑圧する体制、ということになります。
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革命の第一波(1820年代の革命)
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ナポレオンは没落したものの、ヨーロッパの人々は、かれによって一度は自由を味わってしまった。ウィーン体制は、それを力で押さえつけようというのですから、当然、ウィーン体制に反発して、自由や民族独立を求める運動が起こってきます。
まず、1820年代を中心に自由主義運動の大きな波があります。
最も早い時期に起きたのが、1817年のドイツのブルシェンシャフト運動。ドイツ各地の大学生たちが組合を作って、自由とドイツの統一を求めた運動です。オーストリアのメッテルニヒが中心となって、この運動は弾圧された。
1820年にはスペイン立憲革命が起きる。これは、ナポレオンからの独立戦争を戦っていた自由主義者たちが、反動的な政策をとるスペイン王に反対して、自由主義的憲法を認めさせた事件です。しかし、国王が神聖同盟に援軍を要請して、出動してきたフランス軍によってつぶされました。
同じく1820年、イタリアではカルボナリの反乱が起きる。カルボナリは「炭焼き党」と訳されますが、意味はよくわかりません。イタリアの自由主義者の秘密結社と覚えておけばよい。このカルボナリが、政治的自由を要求して反乱をおこした。スペイン立憲革命に刺激されて、一時期ナポリで自由主義的革命政府をつくることに成功しますが、オーストリア軍の介入によってつぶされました。
1825年、ロシアでデカブリストの乱。これは、ロシア軍の自由主義的将校による反乱です。ロシアの将校は、みんな貴族階級です。なぜ、これが自由主義者なのか。貴族階級は自由主義に反対するのが普通ですから、ちょっと変なんです。
これは、かれらが軍隊を率いる将校だったということに理由がある。ロシア軍は、ナポレオンとの戦争で、常に敗北していた。ナポレオンのロシア遠征では最後には勝ちましたが、実際には、ロシア軍は侵入してきたナポレオン軍から逃げていただけで、冬の寒さと飢えがナポレオン軍を負かしたのでしたね。
自分の軍隊が弱い、いつも負けていた、というのは、将校としては非常に悔しいわけで、一部の貴族将校たちは、ロシア軍を強くするためにはどうしたらよいか真剣に考えた。お手本になったのがプロイセンで、ここはプロイセン改革によって、プロイセン軍はわずかの時間で見違えるように近代化され強くなった。農奴に自由を与えて、兵士に愛国心を持たせなければ軍隊は強くできないというのが、かれらの結論でした。そのためには、ロシアの政治に自由主義を取り入れ、立憲政治をおこない、農奴を解放すべきだ、と考えた。しかし、ロシアの政治は皇帝による専制政治ですから、自分たちの考えを実行するには反乱しかなかったのです。
この反乱は、すぐに別の部隊によって鎮圧されてしまった。デカブリストの乱を描いた絵がありますが、反乱軍が広場で鎮圧されている。それを、民衆が野次馬になって遠くから見物している。他人事なわけ。反乱をおこした貴族将校たちの考えは、全然市民には理解されていなかったのです。失敗して当然ですね。
こうして、1820年代の自由主義的運動はすべて失敗に終わるのですが、ひとつだけ成功した運動があります。
地理的には飛ぶのですが、ギリシアの独立運動です。ギリシアはオスマン帝国の支配下にあったのですが、ここで民族独立運動が起きる。オスマン帝国に対して利権獲得や領土的野心をもつイギリス、フランス、ロシアが援助して、ギリシアの独立運動は成功しました。でも、これは、ウィーン体制の本筋とはちょっとはずれる事件。ギリシアといえば、ヨーロッパ文明の源流なので、当時のヨーロッパでこの事件は、大層関心を集めたようです。
第86回 ウィーン体制 おわり