世界史講義録
  



第87回  ウィーン体制2


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革命の第二波(1830年の諸革命)
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 ウィーン体制のもとで、ヨーロッパ中の自由主義は、押さえつけられたのですが、革命の本家本元フランスはどうなっていたのか。

 ナポレオンがワーテルローで敗れ、セント=へレナ島に流されたあと、ブルボン家のルイ18世が、再び王位につきます。しかし、ブルボン朝が復活したからといって、すべてをフランス革命の前の状態に戻すのは不可能です。革命やナポレオン時代を経て、フランスの経済も人々の意識も大きく変化していますからね。
 ルイ18世のもとでの政治形態は立憲王政。革命の成果である法の前の平等や所有権の不可侵という原則は、そのまま認められました。とはいっても、この時期おこなわれた制限選挙では、有権者数は人口3千万人のうち9万人。人口のわずか0.3%にすぎませんでした。広い土地を持つ貴族と、ほんの一握りの上層市民による政治がおこなわれていたのです。



 やがて、ルイ18世が死亡して、1824年、王の弟が即位した。シャルル10世といいます。この人は、極端に反動的な思想の持ち主で、有権者の数をもっと減らし、アンシャン=レジームを復活させようと考えていた。「イギリス王と同じ条件で王になるくらいなら、森のなかで木を挽いている方がましだ。」などと言っている男。

 シャルル10世の反動的な政治は、自由主義者との対立を激しくさせ、さらに、経済不況や凶作が重なって、民衆の暴動が頻発するようになった。緊張が高まるなかで、1830年、シャルル10世は、議会を解散し、言論統制の強化、選挙権制限を企てます。これに対して、7月、パリの民衆が武装蜂起をしました。民衆を鎮圧するはずの軍隊の一部が、民衆側に寝返ってしまうほど、王に対する反感は強かったようです。
 このなかで、シャルル10世は退位に追い込まれた。ウィーン体制後、はじめて市民の革命運動が成功したのです。この革命を七月革命という。

 さて、シャルル10世が退位したあと、フランスの政治をどうするのか。
 上層市民階級は、フランス革命の時のように、下層市民が権力を握り恐怖政治がおこなわれるのを恐れた。上層市民というのは、銀行家など莫大な財産を持つ市民たちです。かれらは、シャルル10世の政治には反対だが、徹底的な革命ものぞまない。自分たちだけが権力を握って革命を終わらせようと考えた。
 共和政を求める市民たちはたくさんいましたが、組織されていなかったので、七月革命の流動的な政治状況のなかで、次の政権のリーダーシップをとれませんでした。
 そこで、上層市民階級は、自分たちの権力を認めてくれる新しい王を即位させて、革命を終わらせてしまった。

 王になったのが、オルレアン家のルイ=フィリップという男。

 オルレアン家は、ルイ14世の弟からはじまるブルボン家の分家です。王族なんですが、変わった家風の家で、代々自由主義に理解があった。ルイ=フィリップの父親などは、フランス革命の時、国民公会の議員としてルイ16世の処刑に賛成しているんですよ。まあ、チャンスがあれば自分が王位につけると考えていたのでしょうが。
 ルイ=フィリップも、ジャコバン派に所属していた経歴の持ち主で、自由主義に理解があった。シャルル10世を批判する自由主義者たちの集会に、自分の屋敷の庭園を開放したりして、王族ではあるが、自由主義者に人気があったのです。

 上層市民階級は、この人物を王としてかつぎだしたわけだ。ルイ=フィリップの方も、オルレアン家が長年望んでいた王位が手にはいるわけですから、喜んで王位についた。

 七月革命で成立したフランスの政治体制を「七月王政」といいます。

 まとめ。七月革命は、シャルル10世を退位させることには成功しましたが、新しい王を即位させて終わりました。上層市民階級が権力を握ったことが、この革命の成果です。有権者の数は、9万人から17万に増えた。増えてはいるけれど、国民全体から見れば、まだ、ごくわずかです。大多数の国民のあいだに、不満がくすぶっていることに注意してください。

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七月革命の影響
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 フランスの七月革命の成功は、ウィーン体制のもとで抑圧されていたヨーロッパ各国の自由主義運動に影響をあたえて、各地で革命運動が起こりました。

 1831年、ウィーン会議の結果、オランダに併合されていたベルギーで独立運動がおこり、フランスやイギリスの支持を受けて独立達成。

 同じく1831年、ポーランドで独立運動がおこります。これは、ロシア軍の出動で鎮圧されて失敗に終わった。
 ポーランド出身の作曲家ショパンは、このとき二十歳。音楽活動のためウィーンに滞在していた。独立運動のニュースを聞き、自分も運動に参加したいと考えたのですが、「おまえは音楽に専念しろ、独立運動は俺たちにまかせろ」という父親の手紙で、帰国を思いとどまります。その後、ショパンはパリに向かうのですが、旅の途中のシュツットガルトで、ワルシャワがロシア軍によって陥落したというニュースを知る。自分の友人たちが革命運動に参加して、ロシア軍に殺されたかもしれないと考えると、居ても立ってもいられない気持ちになった。怒りと、絶望と、悲しみと、後悔のないまぜになった感情のまま、パリについて作曲したのが、エチュード「革命」と伝えられています。ちょっとピアノを習った人なら弾けるんじゃないかな。聞いてみましょう。ショパンの想いが感じられるかな。

 同年、ドイツとイタリアで立憲政治運動がおこりますが、これもオーストリアの鎮圧で失敗。

 イタリアでは、もうひとつ、マッツィーニという人物を指導者に「青年イタリア」という政治結社が作られました。この組織は、イタリア統一をめざして、この後長く活動をつづけることになります。
 この時期のイタリアは、まだ中世さながらに小国に分裂したままです。「青年イタリア」の活動で、イタリアに統一国家、国民国家を作ろうと運動が、だんだん本格化していきます。
 この統一運動を妨害しつづけるのがオーストリア。イタリアを自国の影響下に置いておきたいオーストリアは、イタリアが小国分裂状態のままのほうが都合がよいのです。このため、統一イタリアの誕生は、まだまだあとのこととなります。


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イギリスの諸改革
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 イギリスの政治状況はどうだったか。名誉革命後のイギリスは、急激な政治の変化を避け、法律の改正によって徐々に変化していくところに特徴があります。ヨーロッパ諸国とは、別格のようなイギリスですが、やはり七月革命の影響を受けています。

 まず、宗教の自由化です。これは、七月革命以前からはじまっていました。
 1828年には審査法が廃止されています。これは、国教会の信者でなければ官職に就けないという法律でしたね。チャールズ2世が、カトリック信者を官僚に採用し、絶対主義をおこなおうとしたのに対抗して、1673年に制定された法律です。それから、150年たち、時代に合わなくなっていたわけです。ただし、審査法の廃止によって、カルヴァン派などは官職につくことができましたが、カトリックだけは、まだ差別されていました。
 そこで、翌1829年には、カトリック教徒解放法という法律がつくられ、カトリック信者も他の宗派と同じように、官職につくことが可能になり、宗教上の差別がなくなりました。

 カトリック教徒解放法に関連して、オコンネルという人物を覚えておいてください。
 カトリック教徒の差別の問題は、実はアイルランド問題です。ここは、ちょっとややこしいかもしれませんが、頭の隅に入れて置いても損はない。
 ピューリタン革命の時に、イギリスはアイルランドを植民地にしました。それ以来、アイルランド人はイギリスにより、搾取され差別されつづけてきた。このアイルランド人の宗教がカトリックなのです。だから、カトリックを差別する法律は、事実上はアイルランド人に対する差別なのでした。
 政治的には無権利状態に置かれたアイルランド人のなかから、オコンネルという人物が登場します。この人は、アイルランド人のスーパースターです。若いころにフランスに渡り勉学したのち、ロンドンで弁護士資格を獲得し、その後はアイルランド人の弁護に大活躍して、有名になります。
 やがて、オコンネルは、ひとつひとつの裁判でアイルランド人を守るよりも、政治家としてアイルランド人の地位向上をめざしたいと考えて、1828年下院選挙に出馬、当選します。ところが、オコンネルはカトリック教徒なので、当選しても官職である議員になることができないのです。
 これまで、オコンネルは、あくまでも合法的に、ねばり強く運動をしてきました。これを、「カトリックだからダメ」では、オコンネルを支持するアイルランド人の反乱がおきるのではないか、と恐れたイギリス政府が、ついに宗教の自由化に踏み切ったというのが、ことの流れです。

 七月革命の影響を受けて、イギリスでおこなわれたのが第一次選挙法改正です。
 イギリスでは、古くから選挙がおこなわれていましたが、選挙区の区割りが産業革命以前の古い時代に作られたもので、産業革命後の人口の変化が全然反映されていなかった。たとえば、マンチェスターやバーミンガムのような新興都市は、10万人以上の人口があっても、全く議員が選出されなかった。
 逆に、ほとんど人がいなくなってしまった農村の選挙区から、議員が選ばれたりする。極端な話、全く人がいなくなってしまった土地から、議員が選ばれたりした。こういう場合は、その土地の地主が議員になるわけです。こういう選挙区を腐敗選挙区という。
 古い選挙区割りで得をするのは、貴族やジェントリなどの地主です。逆に、都市で経済力をつけてきた産業資本家、商工業者と言ってもいいし、市民階級と言ってもいいですが、こういう人たちは、議員を選べないし、なれなかったわけです。

 七月革命で、フランスの市民階級が政権に参加したのを見て、イギリスでも都市商工業者が、腐敗選挙区をなくし、意見を国政に反映させようとした。

 その結果、1832年、第一次選挙法改正がおこなわれる。都市の富裕な市民階級にも選挙権があたえられた。ただし、女性、工場労働者や農業労働者には選挙権はあたえられなくて、有権者は全人口の4.6%にすぎません。それでも、産業資本家層が、直接議員として国政に参加するようになった。その結果、政党が再編され、地主の利益を代表する保守党、商工業者の利益を代表する自由党という、ふたつの政党によって政策が争われるようになります。大きなながれとしては、自由党が主導権を握り、産業資本家に有利な法律が制定されていきます。

 産業資本家は、自分たちの作った商品をどんどん海外に売って儲けたい。貴族やジェントリが持っている特権をなくして、誰でも自由に好きなところで商売をできるようにしたい。簡単に言うと、自由貿易を求めていた。
 この要求に応えて、1833年、東インド会社の中国貿易独占が廃止されます。それまでは、東インド会社しか中国貿易が許されていなかったのです。

 1846年には、穀物法が廃止された。穀物法というのは、イギリス国内の地主を守るために、外国産穀物の輸入を制限していた法律です。都市に住んでいる産業資本家にとって、国産だろうと外国産だろうと、安い小麦が買えればよい。自由貿易の方が、彼らにとっては理想的なわけです。穀物法廃止に活躍した二人の政治家も覚えておこう。コブデン、ブライトです。二人とも産業資本家で反穀物法同盟を結成し精力的に活動しました。

 1849年には、航海法が廃止。これは、1651年クロムウェルの時に作られた法律でしたね。当時ライバルであったオランダ商船を排除するために、イギリス船でなければ輸入を認めないというものでした。これも、とっくに時代遅れの法律でした。

 このように、1830年代以降、イギリスでは産業資本家が政治の主導権を握って、自由主義的な改革を次々におこなっていきました。


第87回 ウィーン体制2 おわり

こんな話を授業でした

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