世界史講義録 |
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第88回 産業革命
| しかし、禁止されても綿布の需要はある。輸入が駄目なら、作ればよい。西インド諸島などから原綿を輸入して、イギリス国内で綿布の生産が始まりました。綿布は人気があるので、作る先からどんどん売れる。消費に生産が追いつかない。そこで、大量に生産するための技術の改良がはじまった。これが、産業革命のそもそもの発端です。 産業革命の発明史の中で、最初に登場するのがジョン=ケイ。この人は「飛び杼(とびひ)」を発明した。1733年のことです。布というのは縦糸と横糸が交差して織られます。杼というのは横糸を載せる道具で、これを縦糸のあいだに通して横糸を張ります。織り職人は、機織り機の向こう側に手を伸ばして、右手と左手で杼を受け渡しして横糸を通すわけです。これは時間がかかるし、布の横幅は両手の届く幅より広く作れない。 これを改良し、杼を手で持たず、ひもを引っ張ることで、左右に飛ばすようにしたのが飛び杼です。横糸を通す作業が簡単になり、布を織るのにかかる時間が短縮されました。 画期的な発明ですが、ジョン=ケイは、成功できなかった。当時の発明家は、大体そうなのですが、ひどい目に会う。こんな機械を作られたら仕事がなくなると考える職人たちに恨まれて、生まれ故郷の町に住めなくなる。のちには、使用料を払わずに機械を使う輩があらわれて、使用料の支払いを求める裁判の費用が払えずに最後は破産してしまった。 それはともかく、飛び杼によって、布の生産能率が上がると、今度は糸の生産が追いつかなくなった。製糸は、昔ながらの方法で行われていたからです。 糸は、どうやって作っていたのか、念のために説明しておきましょう。ほぐしてみるとわかりますが、糸というのは、繊維によりをかけて作られているね。昔は、どうやっていたかというと、綿のかたまりから細く繊維を引っぱり出す。これに紡錘という棒状の道具をつけてぶら下げる。ぶら下げた紡錘を手でひねって回転させると、糸がよじれてよりがかかる。ある程度よりがかかったら糸を紡錘に巻き取って、また新たに繊維を繰り出して同じようによりをかける。この繰り返しで、糸を作っていきます。 これが、一番単純な糸の作り方。何の機械もいらない。紡錘一本あればよい。 もう少し進歩したやり方が、糸車を使う方法。糸車を回すと、ベルトでつながっている紡錘が高速で回転する。片手で綿を繰り出し、もう片方の手で糸車を回します。これで、よりをかけたり糸を巻き取ったりする。これが、産業革命前のやり方でした。 ぶら下げた紡錘を回転させるよりは、能率がいいですが、一人に一本しか糸を紡げないから、飛び杼で織布の能率が上がると、糸不足になったのは理解できますね。 というわけで、糸不足を解消するために、紡績機械の発明があいつぎます。 1764年、同時に複数の糸を紡ぐジェニー紡績機が発明された。糸車の回転を複数の紡錘に伝え、レバーで糸と紡錘の角度を変えることによって、よりをかける作業と巻き取り作業を切り替えることができる機械です。発明者はハーグリーブス。ジェニーというのはハーグリーブスの奥さんの名前。 ハーグリーブスのジェニー紡績機は暴徒に破壊されたりして、この人も企業家としては成功しなかったそうです。 次いで、1769年、アークライトの水力紡績機が登場します。綿をローラーで引き延ばしてからよりをかける機械で、人力ではなく水車の力で動かしたので水力紡績機といいます。 アークライトはこの発明で特許を取り、水力紡績機の工場が各地で建設され大成功しました。 1779年には、クロンプトンがミュール紡績機を発明。これは、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を取り入れたもの。ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすい。水力紡績機の糸は、丈夫だが太い。そして、ミュール紡績機の糸は、細くて丈夫。 1785年、カートライトが力織機を発明。ミュール紡績機の登場で、糸の供給は大幅に増加し、今度は逆に、糸の生産に織布が追いつかず、糸がだぶつくようになる。布を織る工程の改良が望まれ、登場したのが力織機です。力織機は織機の動作を自動化して、一人で何台もの織機を操作できるようにした。さらに、動力として蒸気機関を使うという画期的な発明でした。彼の工場は、織布工に襲われて壊されてしまい、事業は失敗してしまいましたが。 1793年、ホイットニーが綿繰り機を発明。この人はアメリカ人。今までの発明家はイギリス人ですよ。綿繰り機は、収穫した綿花から種を取り除く機械。水力を動力として、作業能率がそれまでの50倍にアップしました。 以上、綿工業の技術革新、機械の発明を見てきました。産業革命というのは、この技術革新が、他の産業にもどんどん波及していくのです。たとえば、力織機やミュール紡績機などの機械を作るための機械工業が発達する。また、機械の原料としての製鉄業の技術革新が始まる。大量の綿製品を工場から港に運ぶために、輸送手段でも技術革新が始まる、といった具合です。 その中でも、大事なのが動力。 1710年には、ニューコメンによって蒸気機関は作られていた。これは、炭坑の地下水を排水するためのポンプとして使われていた。ただし、効率の悪いものだったようです。1769年、ワットがこれを改良して、以後、いろいろな機械の動力として利用されていきました。 蒸気機関を輸送手段に応用したの最初の人がトレヴィシック。1804年、蒸気機関車を作ります。ただし、レールが弱く実用化には向かなかった。彼の発明は世間には無視され、不遇のうちに生涯を終えたようです。 (蒸気機関車が発明される前から、イギリスには鉄道馬車が発達していた。レールの上の車両を馬が牽引するものである。トレヴィシックの蒸気機関車は、このレールの上を走ったが、その重量にレールが耐えきれなかった。) 1814年、スティーブンソンの蒸気機関車が登場します。1825年、ストックトン・ダーリントン間の鉄道開通に彼の開発したロコモーション号、1830年のマンチェスター・リヴァプール間の鉄道開通運転ではロケット号が運転され、これ以後、実用化され各地に鉄道が建設されていきます。 蒸気機関車は、まさしく鉄のかたまりです。これ以後、製鉄業など重工業も発達していくことになります。 船では、1807年、アメリカ人のフルトンが、蒸気船をつくっています。この時代には、スクリューは発明されていなくて、船の両脇に大きな水車をつけて、蒸気機関で回転させる。外輪船という。幕末に日本にやってきたペリーの黒船も、この外輪船ですね。 --------------------------------- 資本主義の確立と社会問題の発生 --------------------------------- 産業革命の進展によって、イギリスでは工場制機械工業が産業の中心となります。工場の経営者、産業資本家が社会・経済・政治の主導権を握るようになります。これが、資本主義社会です。前回話した1830年代以降のイギリスの諸改革は、まさに産業資本家たちの主導のもとにおこなわれた改革です。 資本主義社会のもとで、それまでの社会の構造が大きく変わります。 まず、伝統的な手工業が衰退し、没落した手工業者は、工場労働者となる。同時に、このころのイギリスでは、「第二次囲い込み」といわれる地主による経営規模の拡大化がおこなわれていて、多くの農民が農村を離れ、都市に流入していました。かれらも、職を求めて工場労働者になる。 産業革命がすすむにつれて、工場で働き賃金を受け取って生計を立てる賃金労働者、プロレタリアートともいうのですが、が増加します。 資本主義社会では、労働者階級が人口の多数を占めるようになり、産業資本家とならんで、社会を動かす二大階級となります。たとえば、現在のイギリスでは二大政党は、労働党と保守党。それぞれ、労働者階級と産業資本家の利益を代表しています。これが、二大政党制のあるべき姿だと思います。このへんは、アメリカや日本では、はっきりしていませんが。 話を戻します。産業革命が始まった当初は、労働者を保護する法律など全くありません。しかも、資本家は、労働者を安い賃金で長時間働かせたい。そのほうが儲かりますから。だから当時は、資本家のやりたい放題で、19世紀前半イギリスでは労働問題が深刻化し、低賃金、長時間労働、児童労働が社会問題となっていきます。 この絵は、大規模な紡績工場の内部です。紡績機械が奥まで並んでいますが、働いている人はわずか数人ですね。で、よく見てみると、機械の下にもぐり込んで腹ばいになっている人間がいます。この人、身体が小さい。子供なんです。何をしているかというと、糸を紡ぐ際に、膨大なほこりがでます。これを放っておくと、機械にからみついて故障の原因になるので、常に掃除をしなければならない。誰でもできる単純な仕事だし、機械の下にもぐるので、子供の方が都合がいい。 子供は、賃金も安く値切れるし、反抗もしないので、積極的に採用された。これは、マッチ工場で労働者に賃金を支給している絵ですが、労働者はみんな子供ですね。中には、裸足の子もいます。 イギリス政府も、やがて児童労働を問題にしはじめる。1832年イギリス児童労働調査委員会の報告書を資料として載せておきました。児童労働の実態の証言です。 要点だけ挙げておくと、 ・6週間に渡って、少女たちが朝3時から夜10時ないしは10時半まで働かされたこと。 ・5分でも遅刻すると、賃金を4分の1カットされること。 ・事故で指を無くした少女もいたが、その段階で賃金支払いが停止されたこと。 などが書かれています。 また、紡績工場にしろ、マッチ工場にしろ、工場内の空気は汚れているため、幼い頃から長時間働きつづける子供たちは、肺病などで短命になりがちです。 1842年の「平均寿命の比較調査」がありますが、リヴァプールの労働者の平均寿命はなんと15歳。同じリヴァプールの「知識層・ジェントリ地主」は、35歳となっていますから、半分の短さです。 労働者は、平均寿命だけでなく、平均身長もどんどん小さくなっていった。フランス人の平均身長との差がどんどん開いていくのにショックを受けたのが、イギリスの陸軍。小さいということは、肉弾戦になれば負けますからね。政府としても、放ってはおけなくなってくる。 児童労働、長時間労働のひどい実態が明らかになり、多くの社会改良家の運動もあって、1833年工場法が制定されました。繊維工業の工場で9歳以下の少年労働を禁止、13歳未満のものの労働時間を一週間48時間、18歳未満のものは一週間69時間とした。労働時間を制限する法律は、これ以前にもあったのですが、工場法は工場監督官の制度もつくったので、法律が実行されるようになりました。 また、新興工業都市が急速に発達するのですが、そこに職を求めて人口が集中した結果、さまざまな社会問題が生まれます。 人口の急増ぶりはどんなものか。 マンチェスターの人口、1760年3万人、1861年46万人。100年間で15倍の増加。 リヴァプールの人口、1760年4万人、1861年49万4千人。100年間で12倍の増加。 人口増加に住宅建設が追いつかず、上下水道も整備されない中で、住宅問題、衛生問題が発生する。また、低賃金や失業などから極端な貧困生活をおくる人も増えます。犯罪も増える。いわゆるスラム街が、歴史上初めて出現します。 のちに、工業化によって多くの国が、このような都市問題を経験するのですが、なにしろイギリスでは世界初の経験でした。多くの人が、驚きを持って、当時のイギリスの都市の状態を書きしるしています。 さきほどの「平均寿命の比較調査」ですが、農村地帯であるラトランド州では「知識層・ジェントリ地主」は52歳、労働者は38歳、となっていて、どの身分でも都市住民より長命です。都市は大気汚染や伝染病の蔓延など、劣悪な衛生環境だったことが想像できます。 --------------------- 産業革命の波及と世界 --------------------- 労働者に多くの負担を強いながらも、産業革命によりイギリス経済は発展していきます。安い商品を大量生産できるようになったイギリスは、他国よりも優位に立ち、やがて世界経済の覇権を握ることになります。 イギリスの後を追い、他の諸国でも産業革命がはじまります。 ベルギー、フランスは1830年代、ドイツでは1850年代に産業革命がはじまる。一番遅れて産業革命をおこなったのが、ロシアと日本で1890年代。この時期までに、産業革命を経た国は、20世紀初頭には列強として植民地獲得競争に乗り出します。産業革命を経験しなかった国や地域は、植民地、半植民地として資本主義国の利益のために利用され、従属的な位置に押しとどめられることになります。 話を19世紀前半に戻せば、こういうことです。イギリスの綿織物工業では、綿布をじゃんじゃん作る。国内だけでなく、世界各地に売りに出かける。それが、中国やインドです。相手国がイギリス製品を買ってくれないならば、戦争を仕掛けてでも相手国の制度を変えさせる。直接支配した方がてっとり早ければ、そこをイギリスの領土にしてしまって、独占的に販売する。イギリス政府の主導権は、産業資本家が握っているから、自分たちの思うように政府を動かすことができます。 アジア、アフリカ諸国は、こうして世界経済の中で従属地域となっていくのです。 ------------------------------ イギリスで産業革命が起きた理由 ------------------------------ 最後に、なぜイギリスで最初に産業革命が起こったのか。 1,まず、イギリスでは17世紀にピューリタン革命、名誉革命という二つの革命をおこない、封建領主など古い特権をもった勢力がすでにいなくなっていたこと。その結果、自由な生産活動が可能になっていたこと。 2,次に、綿織物工業が発展する以前から、イギリスでは毛織物工業を中心に工場制手工業(マニュファクチュア)が発達していたこと。 3,また、植民地貿易の利益が蓄積されていた(資本の蓄積)。 4,第二次囲い込みにより、多くの農民が、都市へ流入して、これが豊富な労働力の供給源になったこと。 以上を、わかりやすく言うと、 1,工場を作りたい人を邪魔する勢力がいなかった。 2,工場を作るためのノウハウはすでにあったし、 3,工場を作りたい人に、お金を貸せるようなお金持ちもいた。 4,工場で働きたいという人もたくさんいた。 という事ね。 ------------------ おまけ…家族と時間 ------------------ 産業革命が、生活の深いところにもたらした影響を述べておきます。 教科書に、こういう記述があります。 「…家族のあり方にも変化をもたらした。夫の賃金労働が主となり、妻の労働は補助収入のためとみなされ、賃金を得られない家事労働は低く見られるようになった」 さりげなく書かれていますが、実に含蓄のある文章です。 産業革命以前の労働というのは、農業が中心で、家族みんなで働きます。夫も妻も子供も一緒です。誰が何をしているのか、みんなが知っています。 ところが、産業革命後の労働者の家庭では、夫だけが工場に働きに行く。何をやっているのか、妻や子供には見えません。家族のむすびつき方が、それまでとは全く違ったものになった。家事労働が低く見られるようになったということは、女性の地位が低くなったということです。これらは、産業革命以後の変化だといっているのです。 人間の生活が時計によって縛られるようになったのも産業革命以後のことです。 労働者にとって、出勤時間や労働時間など、時間によって一日が区切られ、拘束されるようになる。労働時間は自分の時間ではなく、労働時間が終わって、やっと自分の時間がはじまるように、時間によって生き方が分割されるようになる。 現代に生きるわれわれも、細切れにされた時間の中で生きています。それ以前の人間は、時計などは必要なく、時間を気にせずに毎日を過ごしていたのです。 家族関係や時間意識の変化は、歴史の年表に載るような事件ではないので、あまり意識しません。しかし、当たり前と思っている常識や感覚も歴史の中で作られたものだということを知っておくことは大事でしょう。
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