世界史講義録
  



第89回  二月革命


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労働運動の形成
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 産業革命の進展と共に、労働者階級が増大し自覚も高まってくると、労働者自身による権利獲得の運動がおこってきます。そのひとつが労働組合運動です。イギリスでは、19世紀の前半までは労働者の団結が禁止されていましたが、やがて労働組合は社会的にも認知され、労働条件の改善や政治改革をめざすようになります。

 イギリスでの、労働者階級の最初の政治運動がチャーチスト運動です。1832年の第1回選挙法改正で、労働者階級の参政権が認められなかった。そこでかれらは、1838年、「人民憲章」を作成し、これを採用するように政府に迫りました。この運動をチャーチスト運動といいます。「人民憲章」は「People’s Charter(ピープルズ・チャーター)」なので、チャーチスト運動です。
 「人民憲章」には、男子普通選挙や、議員の財産資格廃止などがうたわれていました。スローガンは「土地をすべての人民に、すべての人に家を、すべての人に選挙権を」。「すべての人に家を」というのが、当時の労働者の状態を想像させて、リアルですね。
 この運動は、集会を開いたり、署名を集めて議会に請願を繰り返すという、どちらかといえば穏健な運動でした。1848年くらいまで、運動は継続しますが、議会はこれを受け入れず、チャーチスト運動は成果無く終わります。

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社会主義思想
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 一方で、労働者階級の貧困を解決しようとする思想も生まれてきました。これを社会主義思想という。
 代表的な社会主義思想家を見ておきます。

 まずは、イギリスのロバート=オーウェン(1771~1858)。
 この人は、工場経営者です。スコットランドのニューラナークというところで紡績工場を経営していた。経営者は利益をあげるために、できるだけ賃金を低く抑えるのが普通です。ところがオーウェンは、人道主義的な立場から、労働者の貧困生活を何とか救いたいと考えた。そして、経営者としてはとんでもないことをはじめる。
 まずは、自分の工場の労働者の賃金を引き上げます。さらに、労働者のひどい住宅環境を改善するため社宅を建設して労働者を住まわせる。工場内に給品所をつくり、日用雑貨・食料品などを安く労働者に販売する。おまけに、親が工場で働いているあいだ、ほったらかしにされている小さい子供たちのために幼稚園までつくります。これが、世界最初の幼稚園だといわれています。オーウェンの工場の労働者にしてみれば、至れり尽くせりですね。
 しかし、こんな事をすれば、経費がかさむわけで、当然経営を圧迫する。経費を製品の販売価格に上乗せすれば、よその工場との価格競争に負けるはずです。だから、ほかの工場経営者仲間は、オーウェンの試みをたしなめます。「そんなことしたら、工場潰れるからやめておけよ」っていうわけです。

 ところが、これを実行してみたら、オーウェンの工場の売り上げが伸びたんですよ。
 なぜか。
 一言でいえば、労働生産性があがった。つまり、労働者がオーウェンの待遇改善に感激して、はりきって働いた。当時の労働者は、普通は一所懸命働かない。監督に見張られていない限りは、だらだらしている。首にならない程度に、できるだけさぼるというのが、あたりまえでした。でも、オーウェンのところでは、労働者がちょっと頑張ってくれたんですね。
 経営的にも成功しながら、しかも労働問題も解決できるとあって、かれの工場は評判となり、見学者も続々訪れるようになりました。

 ただ、この成功は長くはつづかなかった。オーウェンのやり方に感激してよく働いていた労働者も、しばらくするうちに、その待遇の良さに慣れてくる。当たり前のように思ってきます。素晴らしいことも、日常になってしまえば感激はなくなる。やがて、オーウェンの工場の労働生産性も他の工場とかわらなくなり、福利厚生に出費している分だけ不利になり、かれの工場は潰れてしまいました。
 オーウェンは、失敗の原因は、他の業者との競争があるからだと考えた。だったら、競争のない所でやったらどうかということで、北アメリカに、自給自足をめざした農場や工場のある共同体を建設しますが、これも失敗。
 最後的には失敗に終わるのですが、かれのユニークな試みは、今でも我々の気持ちを引きつける何かがありますね。また、オーウェンは、工場法制定のために活動をしたことでも有名です。

 オーウェンの試みは、資本家個人の努力で問題を解決しようというものでしたが、社会を変えることで労働者の状態を改善しようという思想も生まれます。
 フランスのサン=シモン(1760~1825)やフーリエ(1772~1837)などがそうです。
 フーリエは少年時代にマルセイユの米穀問屋に奉公していたことがあった。その時に、主人の命令で、腐った米を海に捨てさせられた。なぜ、米が腐ったかというと、値上がりするのを待って倉庫にしまっておいたのですね。食べられるものを、儲けのために売らずに、挙げ句の果ては、腐らせて捨てる。こういう利潤追求に必然的につきまとう不合理に疑問を持ったのが、かれが社会問題に目を向けたきっかけとなった。非常によくわかります。
 フーリエは、雇う者も雇われる者もなく、競争もない社会をつくるためには、自給自足の共同体しかないと考えた。共同体をめざすところは、オーウェンと似てきますね。

 ルイ=ブラン(フランス・1811~1882)は、同じ社会主義でありながら、フーリエなどとは、ちがう発想をします。不合理な競争をなくし、労働者を保護するためには、国家が生産を統制すればよいと考えた。国が工場を経営すれば、競争に巻き込まれることもなく、労働者を搾取する必要がなくなると考えたのでした。あとで話しますが、ルイ=ブランは、フランスの大臣となってこの政策を実行します。いろいろな状況のためにうまくいきませんでしたが。

 プルードン(フランス・1809~65)は、これまた逆で、国家なんかなくしてしまえ、と言う。無政府主義です。政府はしょせん権力者である金持ちの味方なのだ。そんな政府はなくしてしまっても、協同組合が生産を管理すれば社会は成り立っていけると考えた。この人の有名な言葉で「財産とは何か?窃盗である。」というのがあります。金持ちが金を持っているのは、労働者階級から盗んだからだという。搾取の結果蓄えた私有財産を否定する。けっこう過激です。
 こんな過激な発想が生まれるのは何故かというと、私たちは、当たり前のこととして受け入れていますが、このころの社会主義者たちは、貧富の差が生じること自体がそもそも間違っていると考えているのです。働いている労働者が貧しく、働かない資本家が豊かなのはおかしいというわけです。

 理想社会の追究は、オーウェンのような資本家個人の良心の問題から出発して、経済問題、そして国家のあり方の問題へと、より広く深くなっていきます。

 社会主義思想の最高峰に立つのが、マルクス(1818~83)とエンゲルス(1820~95)です。ともにドイツ出身ですが、活動したのは主にロンドン。二人はセットで覚えて下さい。マルクスが主で、エンゲルスが従ですが、主著は二人の共同作業です。『共産党宣言』『資本論』は必ず覚えること。『共産党宣言』の最後の言葉、「万国の労働者、団結せよ!」は、あまりにも有名。今でも、北京天安門広場前の紫禁城の城壁には、このスローガンが毛沢東の肖像とともにかかっています。
 かれらは、資本主義経済の分析からはじまって、国家論、歴史、哲学などを含む膨大な思想体系を作り上げた。これをマルクス主義という。マルクス主義が、後世の人文社会科学全般にあたえた影響ははかりしれないものがあります。私の大学時代は、かれらの本を読んでいなかったら、学生としては半人前扱いでした。
 なぜ、大きな影響力を持ったかというと、1917年、ロシアのレーニンがマルクス主義思想にもとづいて革命を成功させ、ソビエト社会主義共和国連邦を建設したからです。その後、東欧・アジアなど世界各地で社会主義国家が誕生した。これらの国も、マルクス主義を国づくりの理論に使ったのです。そういう意味では、歴史を作った思想です。
 ソ連をはじめとして、ほとんどの社会主義国が崩壊してしまった現在、マルクス主義は過去のものとされつつあるようです。それでも、かれらの本は古典として残るでしょうね。

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二月革命
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 労働者階級と社会主義思想が発展しつつあるというのに、19世紀前半のヨーロッパの政治状況は貴族階級による反動的政治がつづいています。ウィーン体制でしたね。ところが、フランスでまた革命が起きる。これが、1848年の二月革命です。

 フランスでは、1830年の七月革命以後、銀行家などの少数の大資本家と国王ルイ=フィリップによる七月王政がつづいていました。有権者は人口の1%で、資本家の大多数である中小資本家は政権に参加することができず、労働者も当然参政権はなく、当初から政府に対する不満は大きかった。1846年には凶作、1847年には不況と、国民生活が悪化する中で、参政権拡大を要求する運動も活発化するのですが、これに対して、首相ギゾーは、「働け、そして金持ちになれ。そうすれば有権者になれるだろう。」などと言う。火に油を注ぐわけだ。
 ついに、1848年2月、パリ市民が武装蜂起し、国王ルイ=フィリップは退位、亡命しました。これが二月革命。

 国王亡命後、臨時政府が組織されます。この政府は、名前のとおり、ホントに臨時の政府です。政府の中核は、参政権拡大を求めていた資本家層ですが、二月革命を成功に導いた民衆・労働者階級の勢力も無視できないので、社会主義者のルイ=ブランを政府に参加させるなど、労働者階級に対する配慮もする。革命直後は、どのグループが政府の主導権を握るか流動的だったので、寄り合い所帯の政府がつくられたのです。
 ただ、もやは、国王は不要であるという点では、意見は一致します。二月革命以後のフランスの政治体制が、第二共和政です。

 臨時政府は、自由主義的政策をおしすすめました。男子普通選挙、出版言論の自由を認めます。ルイ=ブランが中心になって、10時間労働制を制定し労働時間の短縮もおこなった。
 臨時政府の施策の中で、最も有名なのが、国立作業所の設立です。ルイ=ブランが国立工場の経営というプランを持っていたのは、先ほど話しましたが、これを具体化したわけです。
 ところが、いきなり工場を建設できるわけはないので、国立作業所では、登録した労働者に公共土木作業をさせて賃金を支払った。現実には、失業対策事業になってしまいました。失業者のあいだで、国立作業所に登録すれば仕事がもらえるという評判が広がり、登録者はどんどん増えた。3月には1500人、4月には6万6000人、5月には10万人にまで膨れ上がってしまった。10万人も労働者が集まっても、そんなに仕事はないわけですが、政府は仕事がなくても登録者には、賃金を支払った。当然、これは政府の財政を圧迫した。 6月、臨時政府は国立作業所の廃止を決定します。このころには、ルイ=ブランは政府の中で完全に孤立していました。いよいよ臨時政府での中で、資本家が主導権を握ることがはっきりしてきた。
 労働者の要求を切り捨てる臨時政府の方針に反対して、パリ民衆が武装蜂起を起こした。これを六月蜂起という。臨時政府は、軍隊を出動させて、徹底的にこれを鎮圧した。死者、逮捕者ともに1万人以上という。ルイ=ブランはイギリスに亡命し、10時間労働制も廃止されてしまった。

 労働者の政治的要求はつぶされましたが、フランスは、二月革命によって、貴族の時代が完全に終わりを告げ、産業資本家など中産市民階級を中心とする政治体制が定着していきます。

 このあと、12月に大統領選挙がおこなわれ、臨時政府はその役割を終えました。この大統領選挙で当選した人物が、ルイ=ナポレオン。名前を見てわかると思いますが、あのナポレオン1世の親族です。甥に当たる人物。この人の話は、またいずれしますが、ルイ=ナポレオンは1848年12月に大統領に当選して以後、1870年までフランスを支配することになります。

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諸国民の春
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 フランスで成功した二月革命は、ヨーロッパ各地の自由主義運動、民族主義運動を刺激し、革命運動の連鎖がはじまりました。これを「諸国民の春」という。

 1848年3月、オーストリアのウィーンで民衆が蜂起。「ウィーン三月革命」です。ウィーン体制の大立て者メッテルニヒがロンドンに亡命して、ウィーン体制は崩壊。オーストリアの農奴制は廃止。
 同じく、3月、プロイセンで「ベルリン三月革命」。プロイセン国王は、国民に憲法制定を約束し、自由主義内閣が成立しました。
 オーストリアの支配下にあったハンガリーでは、コシュートら民族主義者の指導で独立運動が展開する。
 同じく、オーストリア支配下のベーメンでは、チェク人が自治権獲得に成功。
 ポーランドでも独立運動が活発化します。
 イギリスでは、チャーチスト運動が盛り上がり、500万人分の署名を議会に提出した。
 中世以来分裂状態がつづいていたイタリアでは、サルディニア王国がイタリア統一運動に乗り出します。これとは別に、青年イタリアのマッツィーニは、統一をめざしローマ共和国を樹立する。
 同じく領邦に分裂していたドイツでも統一への気運が盛り上がり、各領邦の代表がフランクフルトに集まり国民議会を開いた(フランクフルト国民議会)。ここでは、ドイツの統一と憲法制定について討議されました。

 こうしてみてみると、ヨーロッパじゅうで、自由主義、民族主義の運動で激動しているのがわかります。これが1848年。
 ただ、フランスで労働者による六月蜂起が鎮圧されたのと歩調を合わせるように、各国の運動も徐々に後退していきました。
 ハンガリーとポーランドの独立運動はロシアの出兵で失敗。
 サルディニア王国のイタリア統一運動は、オーストリアの介入で失敗。ローマ共和国の試みもフランスの介入で失敗。
 チャーチスト運動も、政府の圧力によって失敗。
 フランクフルト国民議会も成果なく解散します。
 失敗する運動もありますが、1848年の「諸国民の春」によって、ウィーン体制は過去のものとなったのです。

 これらの運動の中で、フランクフルト国民議会について、すこし細かく見てみます。
 ドイツでは、1815年、ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されます。これは、統一国家ではなく、35の領邦国家と4つの都市による連邦で、事実上ドイツは分裂状態です。
 当時、イギリス、フランスは、中央集権的な国家体制を作り上げて、政治経済両面で発展をしている。分裂状態のままでは、ますますドイツは遅れをとることは、わかりきっている。だから、ドイツ民族による統一ドイツを建設したいということは、多くのドイツの知識人の共通理解でした。ですから、1848年3月、ドイツ各地で自由主義民族主義運動が盛り上がる中で、各領邦の代表がフランクフルトに集まり、統一についての議会が開かれたわけです。
 グリム童話で有名なグリム兄弟の兄、ヤコブ=グリムも、議員に選出されてフランクフルトに来ています。みなさんは、グリム童話をただの子供向けのお話と思っているかもしれないけれど、グリム兄弟には別の動機があったのです。グリム兄弟は、政治的には分裂しているけれどドイツ民族はひとつであるということを訴えたかったのです。だから、ドイツ各地の民話を集めて、民族の財産として出版した。かれらのこころざしは、ドイツじゅうが知っているから、グリム兄は議員になっている。ちなみに、かれらの本業は大学教授です。

 さて、ドイツを統一するのに一番単純簡単な方法は、ドイツ連邦の中で有力な領邦の君主をドイツ皇帝に推戴して、そのもとにドイツをひとつにまとめることです。
 統一ドイツの中心になることのできる候補の領邦国家が二つあった。ひとつがオーストリア。もうひとつがプロイセン。オーストリア中心の統一ドイツをめざすのが大ドイツ主義、プロイセン中心を小ドイツ主義といって、この二つがフランクフルト国民議会では対立した。
 オーストリアは確かに大国で、ハプスブルグ家は、かつて神聖ローマ皇帝でもあった名門中の名門です。ただ、問題点がある。オーストリアの領土は広大で、ハンガリーやベーメンなど、ドイツ人以外の民族の住む地域も支配しています。これらの地域は、ドイツ連邦の領域には含まれていないのです。オーストリアは多民族国家になっていて、ドイツ連邦に含まれている部分と、そうでない部分がある。だから、ドイツ民族国家を建設するには、オーストリアを中心にするには無理があった。

 結局、小ドイツ主義が勝利して、フランクフルト国民議会は、プロイセン国王をドイツ皇帝に推戴した。ところが、プロイセン王は、これを断ったのです。自由主義者が集まった議会の推戴などで、皇帝にはなりたくない、というのです。皇帝になっても、国民議会の制約を受ける。そんな皇帝は、プロイセン王にとっては何の魅力もないわけです。
 こうして、プロイセン国王に拒否され、フランクフルト国民議会は解散したのです。そして、プロイセンはこれから約20年後、軍事力によってドイツを統一することになります。




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結構広い時代をカバーしていますが、ウィーン体制以後のヨーロッパ全体の流れをつかむには適している。


第89回 二月革命 おわり

こんな話を授業でした

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