世界史講義録
  



第91回  イタリアの統一



 イタリアは、統一国家が形成されずに中世以来分裂状態がつづいていましたが、19世紀になると、イタリア人としての民族意識が高まり、統一運動が活発になっていました。

 以前にも触れましたが、ウィーン体制時代には、カルボナリ党、マッツィーニの青年イタリア党が、独立・統一のための活動をしていました。独立というのは、どういうことかというと、イタリアの小国は神聖ローマ帝国時代以来ドイツの影響下に置かれていた。19世紀になっても、ハプスブルク家のオーストリアに従属している国が多かったのです。ヴェネツィアやミラノにはオーストリア軍が駐屯していて、反オーストリア的な政治運動ににらみをきかせている。自由主義的運動や統一運動が活発化すると、必ずオーストリア軍が出動して弾圧するというパターンがつづいていた。また、フランスもイタリアに大きな政治勢力が出現することを嫌って、イタリアに干渉することが多かった。
 1848年の二月革命の時に、イタリア各地で独立・統一運動が盛り上がるのですが、この時もオーストリアとフランスの干渉で、すべての運動が失敗しています。ローマ共和国が成立したときは、フランスが軍隊を派遣してこれを潰して、以後ローマにはフランス軍が駐屯しました。

 1849年以後、イタリア統一の中心となってくるのが、サルディニア王国です。この国は、フランスと国境を接する半島北西部とサルディニア島を領土に持つ。イタリアの中では比較的大きな国。ナポレオン1世時代にはフランスに支配されて封建的な古い制度はなくなっている。イタリアの中では、最も近代的な国でした。
 1848年にはオーストリア軍と戦い、領土拡大をはかりましたが敗北。しかし、このころからサルディニア王国が中心となってイタリアを統一するのが一番現実的だと多くのイタリア人は考えていた。
 1849年、サルディニア王国に新しい王が即位します。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世という。かれは、自由主義的改革による近代化とイタリア統一をめざします。そのために首相に任命されたのがカヴールという人物。イギリスの議会を見学したこともある自由主義的立場の政治家です。
 カヴールは、イタリアからオーストリア軍を排除しなければ統一は絶対に不可能だと考えました。それは、その通りです。しかし、サルディニア王国の軍事力ではオーストリア軍と戦って勝てる見込みはない。そこで、フランスを味方につけようと考えた。フランスと同盟を結べば、オーストリアに勝てます。そこでカヴールは、あの手この手の外交作戦でフランスに接近する。
 フランスは1849年以降、ルイ=ナポレオンが支配者です。はじめは大統領に当選するのですが、やがて皇帝に即位してナポレオン3世と名のっている。カヴールは、ナポレオン3世の好意を得るために、1853年のクリミア戦争に1万5千のサルディニア軍を派遣した。ナポレオン3世からすれば、サルディニアのような小さな国が援軍を出してくれて、ありがたいです。気にもとめていなかった小国だが、なかなか見どころあるじゃないか、というわけ。当然イギリスもサルディニア王国に好意を持つ。クリミア戦争への参戦は、サルディニア王国にとっては大きな負担でしたが、イギリス・フランスの二大国に接近できたことは、大きな成果でした。カヴールは、クリミア半島での戦争がイタリア統一の第一歩だと激励して、兵士を送り出したそうです。

 クリミア戦争で恩を売ったカヴールは、ついにナポレオン3世と同盟を結ぶ事に成功した。オーストリアと戦争した場合にフランスが援軍をおくることになった。交換条件として、サルディニアはフランス国境に近いサヴォイア、ニースという二つの地方をフランスに割譲するという条件付きですが。

 こういう準備を進めた上で、1859年、サルディニア王国はイタリア統一戦争を開始しました。サルディニア軍は東隣のロンバルディアに攻め込みます。ここにはオーストリア軍が駐屯していて、さらに援軍もおくられてくるので、この戦争は、事実上オーストリアとの戦争です。オーストリア軍22万。対するサルディニア軍は7万、フランス軍は12万8000。フランスの援助がなかったら勝負にならないのがはっきりわかりますね。
 サルディニア・フランス連合軍はオーストリア軍を破り、ロンバルディアはサルディニアに併合されます。これに呼応して、パルマ、モデナ、トスカナ各国で反オーストリアの反乱が起こります。これらの国々では、住民投票によって、サルディニア王国への編入が決まる。
 トントン拍子に、統一がすすむのを見て、ナポレオン3世は、不安になった。こんなに簡単にサルディニア王国が、領土を拡大するとは思っていなかったんですね。フランスの南にいきなり巨大な統一国家ができるのは得策ではない。そう考えたナポレオン3世は、オーストリアと単独で講和条約を結んでイタリアから撤退してしまった。フランスの援助がなければ、戦争は不可能です。ヴェネツィアをのぞく北部イタリアを併合しただけで、サルディニアの統一戦争は中断してしまった。

 ここに登場するのがガリバルディ。青年イタリアのメンバーとして以前から統一運動で活躍していた人物です。この人が、全く個人的に義勇兵約1000人を集めて、2隻の船でサルディニアの港からシチリア島に向けて出発した。1860年5月6日のことです。イタリア半島の南部からローマに向かって進軍しイタリア統一を完成させるのが目的です。かれの部隊は、そのメンバーの数から千人隊、もしくはガリバルディのトレードマークである赤いシャツから赤シャツ隊とよばれています。
 シチリア島はイタリア半島の南半分にあるナポリ王国の領土で、ちょうどこの時ナポリの支配に抵抗する農民反乱が起きていた。シチリアに上陸したガリバルディと千人隊は、農民たちの支援をうけてナポリ王国軍を追い払い、島を占領してしまった。その勢いで、対岸であるイタリア半島先端に上陸、半島を北上し、なんとナポリ王国を滅ぼしてしまった。ガリバルディは、さらに北上しローマ教皇領に攻め込もうとします。

 イタリア半島の真ん中は、フランク王国のピピン以来ローマ教皇領となっていて、特殊な場所です。何しろ教会の領土なので、単純に武力で征服するわけにはいかない。ローマ教会の信者は、イタリア人だけでなく全ヨーロッパにいて、ローマに対しては特別な感情を持っているから、ここを武力征服してローマ教皇を敵に回せば、国際問題に発展しかねない。現に、1860年のこの時点では、フランス軍がローマに駐留している。だからサルディニア王国も、ここには手が出せなかった。教皇領の存在がイタリア統一の大きな障害になっていたのです。

 ガリバルディがローマに進軍して、フランス軍と戦闘になったら困ると考えたのがカヴールです。フランスはイタリア統一戦争から手を引いていますが、ローマで武力衝突すれば、逆に統一をつぶす方向で軍事介入してくるかもしれない。
 カヴールは、サルディニア国王ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世自身に出陣を願い、サルディニア軍を率いてイタリア半島を南下します。ガリバルディを止めるためです。
 10月26日、ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世は、ナポリの北にあるテアーノという場所までやってきてガリバルディと会見します。ガリバルディは、この直前におこなわれた住民投票で、ナポリ王国のサルディニア王国編入が決まったことを王に報告し、自分が占領した土地を王に献上した。言ってみれば、ここでイタリア半島の統一がほぼ完成したわけです。だから、二人の会見は劇的なものとして、いくつかの絵に描かれています。二人が握手していたりする。
 実際には、この場でガリバルディはローマ進撃の許可を得ようとするのですが、王はこれを禁止し、かれの義勇軍をサルディニア正規軍に編入してしまったので、ガリバルディにとっては失意の会見だったらしい。このあとガリバルディは政治の表舞台を去り、カプレラ島という小さな島で畑を耕しながら余生を送った。ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世にとっては、青年イタリア出身で民衆にものすごい人気のあるガリバルディは、危険人物に思えたようです。ああ、青年イタリアは基本的には共和政を目指していましたからね。

 思いもかけないガリバルディの活躍で、ローマ教皇領とオーストリア支配下のヴェネツィアをのぞき、イタリアの大部分がサルディニア王国によって統一された。そこで、ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世は、1861年イタリア王国の成立を宣言し、初代イタリア国王に即位しました。イタリアという国家が生まれたのは、こんなに最近なんです。

 このあと、ヴェネツィアは1866年、教皇領は1870年にイタリア王国の領土に編入された。1870年以降にローマがイタリアの首都となります。ただし、教皇領は完全になくなったわけではなくて、小さいながらも現在もあります。ローマ市内のローマ教皇庁の建物がある場所がそれ。バチカン市国とよばれています。

 イタリアの統一に話を戻すと、ヴェネツィア編入以後もオーストリアとの領土問題は残ります。これを「未回収のイタリア」という。オーストリア領のティロルとトリエステがイタリアの領土であるとして返還を要求しつづけたのです。この問題は第一次世界大戦まで持ち越されます。

 政治的にイタリアは統一されましたが、長い間の分裂で北と南は経済的には大きな格差ができていました。北イタリアは、工業が発展して豊か、南イタリアは農業中心で貧しい農村が多かった。統一後も格差は埋まらず、現在までつづく問題となっています。
 南イタリア、とくにシチリア島からは、たくさんの貧しい農民が豊かな生活にあこがれてアメリカへ渡った。アメリカ映画によく出てくるマフィアというのは、イタリア移民が多い。夢を持ってアメリカに来たが、すでにイギリス系アメリカ人が政治経済の主流であり、英語も満足に話せないイタリア移民は、アメリカ社会の底辺から出発しなければならなかった。そんななかで同郷出身者同士で結束して、犯罪に走ったのがマフィアのもとだそうです。


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結構広い時代をカバーしていますが、ウィーン体制以後のヨーロッパ全体の流れをつかむには適している。


第91回 イタリアの統一 おわり

こんな話を授業でした

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