世界史講義録
  



第93回  ナポレオン3世のフランス



 フランスです。1848年、二月革命で七月王政が倒れて臨時政府が成立した話までしました。1848年の12月、大統領選挙で当選したのがナポレオン1世の甥、ルイ=ナポレオン。これも話した。
 さて、ルイ=ナポレオンですが、ナポレオンの弟の子供です。大統領選挙に出馬するまでは何をやっていたかというと、七月王政時代に陰謀事件を二回くわだてて、ともに失敗。その後は、イギリスで亡命生活を送っていた。叔父さんの栄光にあこがれて、政治的に山ッ気の多い人だったようです。二月革命が起きるとフランスに帰って大統領選挙に出た。


 ルイ=ナポレオンがどんな政治的な信条を持っているのか、どんな政治家なのか、ほとんど知られていなかった。でも、かれが立候補すると、その名前だけで当選してしまったんですね。ナポレオン1世の戦争で多くのフランス人が命を落とした。1世が没落するときは、ほとんどのフランス人がそっぽを向いていました。だけれども、1世の時代からすでに30年以上たっている。戦争で家族を亡くしてつらかった思いも薄れているのですね。ナポレオン1世時代にフランスがヨーロッパ全体に号令した栄光の記憶だけが呼び覚まされた。叔父の名声だけがルイ=ナポレオンが当選した理由です。当選したとき40歳です。

 さて、ルイ=ナポレオンは実にあっけなく当選したのですが、政治家としてはけっこうしたたか。自分が当選した理由も充分わかっている。人気だけが頼りです。逆に言うと、支持基盤があるわけではないから、しがらみなしにいろんな政策を実行できるとも言える。あまり後世の評価は高いとは言えませんが、結局20年以上も権力の座にあったことを思うと、したたかで有能な政治家だったと思います。
 1852年には、叔父さんと同じように国民投票によって皇帝に即位した。皇帝としての名前がナポレオン3世。2世がいるのか、という話ですが、少年時代に死んでしまったナポレオン1世と、ハプスブルク家のマリー=ルイーズとのあいだに生まれた男の子がナポレオン2世です。

 政策は、国内のあらゆる階層から人気を得るために八方美人的です。
 資本家のためには、国内産業の育成に力を入れる。ルイ=ナポレオンの時代に、フランスの製鉄、紡績工業は大きく発展しました。また、その成果を世界に誇示するために1855年と1867年の二回、万国博覧会をパリで開催します。
 労働者、農民むけには公共慈善事業や社会政策をすすめた。病院や孤児院をつくった。
 首都パリを大改造したのも有名。現在のパリの街並みはナポレオン3世によってつくられたものです。それまでのパリは細い路地が入り組んだ迷路のような町で、上下水道も整えられず衛生状態も悪かった。なによりも市民が路地にバリケードを築いて、政府軍を寄せつけず、革命や反乱を起こしやすかったのをなんとかしたかったようです。

 しかし、ナポレオン3世にとって、なにより肝心なことは、フランスの栄光を常に国民に意識させること。これが人気の元ですから。
 万博の開催もその一つですが、一番手っ取り早いのは叔父のナポレオン1世と同様に戦争で勝利することです。ただし、ルイ=ナポレオンは戦争の指揮をするわけではない。そういう能力はかれにはありません。世界の政治情勢をうかがって、チャンスと見れば、つまり勝てそうな戦争があれば軍隊を送り込む。
 具体的には、ロシアと戦ったクリミア戦争(1853~56)。
 中国清朝と戦ったアロー戦争(1856~60)。この二つともイギリスと連合軍をつくっています。
 インドシナ出兵(1858)。これはベトナムを侵略した戦争。
 イタリア統一戦争(1859)。サルディニア王国を助けた戦争ですね。
 メキシコ侵略戦争(1861~67)。これはメキシコの内政に干渉して、自分の傀儡をメキシコ皇帝にしようとしておこなった戦争ですが、これで失敗してルイ=ナポレオンの威信が低下する。
 さらにプロイセンのビスマルクに挑発されて1870年普仏戦争をおこなうのですが、この時に戦場に出向いた結果、逆に捕虜になって退位させられた。この話は前回しました。

 ロシアといい、中国といい、ベトナムといい、誰が見てもフランスよりは弱い。しかもイギリスとの共同作戦ならば勝って当たり前。ようするに後進国をあいてに勝利して点数を稼いでいたわけです。
 当時イギリスもフランスもアジアに勢力を拡大しようとしているときです。清朝が衰えかけているときなので、ちょっとした外交上の不備を突いて、戦争をふっかけて、相手に不平等条約を結ばせる。アロー号戦争はそういう戦争のひとつです。
 この時期の日本にも、イギリス、フランスともにやってきています。黒船による開国、不平等条約の締結、尊皇攘夷運動や討幕運動など騒然としている時期です。英仏とも中国に力を注いでいるので、日本を武力占領するとかそういうことは考えていなかったようですが、日本の混乱を利用して勢力を拡大しようとしている。

 幕末の情勢の中で、イギリスは薩摩と長州が将来の日本を担う勢力だと考えて、軍艦や銃器を売っていく。これと反対に、フランスは徳川幕府との関係を強めて、日本に利権を得ようとします。だから、幕府とフランスは仲がいい。ルイ=ナポレオンは徳川慶喜に、贈り物をしていて、慶喜がルイ=ナポレオンに贈られたフランスの軍服を着ている写真が残っていますね。幕府軍の近代化のためにフランスから軍事顧問団を招いてフランス式の軍事教練をしたり、先ほど話した1867年のパリ万博には徳川幕府も茶店のパビリオンを出している。特に世界に誇る工業製品もないので茶店を建てて着物姿の芸者さんが来館者にお茶を出したそうです。ヨーロッパ人からすると珍無類なエキゾチックさで結構人気があったという話。
 戊辰戦争の時勘定奉行だった小栗上野介は、慶喜にフランスから資金、武器、軍隊までも借りれるものはどんどん借りて、徹底的に薩長と戦うことを訴えた。慶喜に全然抵抗する気がなかったので、すんなり幕府は倒れましたが、もしフランスの援助で戦争をつづけていたらどうなったか。幕府が勝っても、日本はフランスの借金漬けになって、フランスの言うことを聞かざるを得ない半植民地になっていたことはほぼ確実。だいたい、イギリスやフランスは他国の内乱につけ込んで侵略するパターンが多い。まさに、幕末日本もそうなる瀬戸際だったわけだ。これは噂ですが小栗上野介は、フランスの援助と引き換えに日本の領土の一部を割譲すると提案していたという話もある。
 結局、幕府は倒れて薩長主体で明治政府がつくられましたから、フランスは日本に大きな足がかりを作れませんでしたが、ひょっとしたらナポレオン3世によるフランスの栄光のなかに日本占領が加えられていたかもしれなかったわけです。
 ちなみに、ペリーを派遣して日本を開国させたアメリカ合衆国は、南北戦争という内乱が起きてしまって、日本にかまっている余裕はなくなっていました。

 話を戻しましょう。
 ナポレオン3世が、セダンの戦いで捕虜になり退位したあと、1870年9月フランス臨時政府が成立します。政府首班はティエール。首班というのはリーダーもしくは代表者と考えて下さい。
 怒濤の勢いで進撃してくるドイツ=プロイセン軍に勝てる見込みはないと判断した臨時政府は、翌1871年2月にドイツと仮講和を結んで降伏しました。ドイツ皇帝の戴冠式がヴェルサイユ宮殿でおこなわれたのがこの前月1月でしたね。

 これで話が終われば簡単なのですが、この直後にヨーロッパ中が注目する大事件が発生した。それがパリ=コミューンです。
 パリの市民たちは、臨時政府が降伏したのが気にくわない。ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式をするような屈辱が我慢できない。アルザス・ロレーヌの割譲も50億フランの賠償金も講和の条件のすべてが屈辱。俺たちフランスはもっと戦える。そう考えたパリ市民が1871年3月、臨時政府に反乱を起こしたのです。パリ市民はパリに新たに政府を作った。これがパリ=コミューンです。ティエールをはじめとする臨時政府はパリから脱出しヴェルサイユに遷った。
 だから、これでフランスに二つの政府ができてしまった。臨時政府とパリ=コミューン。パリ=コミューンは労働者の政府で政策も急進的、選出された議員には社会主義者が多く、政府の機構や政策から、史上初の社会主義政権という評価もある。政府といっても、パリの町を支配しているだけですが、人口160万のフランスの首都です。
 ドイツは臨時政府に「どないすんねん」と圧力をかける。対ドイツ徹底抗戦を叫ぶパリ=コミューンに対して臨時政府はどう対処するのですか、ということです。臨時政府としてはパリ=コミューンを鎮圧するしかないが、兵力がない。そこでドイツ軍の捕虜になっていたフランス兵を返してもらって、13万の兵力でパリを包囲し、5月にはパリに突入、パリを守るコミューンの兵士、ということはつまりパリ市民なのですが、との市街戦になってしまった。同じフランス人同士の戦いです。さらに、市街戦がおこなわれているパリの周囲にはドイツ軍が陣取り、戦いの成り行きを見ているという状況です。
 結局、装備で勝る臨時政府側がパリ=コミューンを鎮圧してパリ=コミューンは崩壊しました。コミューン側の死者3万。何とも後味の悪い結末です。
 この後、臨時政府はドイツと正式な講和条約を結び、ドイツ軍はフランスから撤兵していきました。

 わずか72日間で潰れてしまったのですが、パリ=コミューンは当時ヨーロッパですごく注目を集めた。それは、この政府が、労働者によってつくられたからです。労働者と反対の立場の人も含めて、この政府がどうなるか固唾をのんで見守っている感じです。
 崩壊後も、社会主義を実現させたものとして、多くの政治学者の研究対象になっています。以前に紹介したマルクスなどはパリ=コミューンを高く評価していることで有名。

 パリ=コミューンを鎮圧した臨時政府ですが、この後ティエールが大統領となり政治を運営します。しかし王党派と共和派の対立などがつづき、1875年ようやく新しい憲法が制定された。これを第三共和国憲法といいます。ナポレオン3世退位後のフランスの政体は共和政。フランス史上三回目の共和政なので第三共和政。だから憲法も第三共和国憲法。
 第三共和国発足後のフランス政局は、小党分立状態がつづき安定しない。クーデタ事件も起きる。しかし、一方では海外に植民地を獲得し資本主義はますます発展していきました。結局第三共和政は、1940年、第二次世界大戦でドイツに敗れるまでつづくことになります。





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結構広い時代をカバーしていますが、ウィーン体制以後のヨーロッパ全体の流れをつかむには適している。


第93回 ナポレオン3世のフランス おわり

こんな話を授業でした

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