世界史講義録
  



第94回  19世紀後半のイギリス

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ヴィクトリア時代のイギリス
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 イギリスが19世紀前半から自由主義的改革をおこなった話は既にしました。議会を通じて徐々に改革を進めていくのがイギリス政治の特徴になっています。何しろ、17世紀にピューリタン革命とクロムウェルの独裁、名誉革命という大変革を経験済み。フランスに当てはめれば、ピューリタン革命はフランス革命、クロムウェルの独裁はナポレオンの第一帝政、名誉革命は二月革命になぞらえることができる。そう考えれば、イギリスはフランスよりも100年以上先をいっているわけで、ヨーロッパ諸国が革命運動や統一運動で激動している19世紀は、イギリスにとっては安定と発展の時代でした。

 そのイギリスの繁栄を象徴するのがヴィクトリア女王です。1837年に18歳で即位して、1901年まで在位した。彼女の在位期間は、まさにイギリスの繁栄の時代だった。
 即位したときの肖像画があります。ぽっちゃりとして可愛いですね。もう一枚の肖像画は、晩年のものです。当たり前ですが、おばあさんになっちゃってます。こんなに変わってしまうんですね。年をとっただけではなくて、おばあさんのヴィクトリアはうつろな目をしている。ぼうっとしてるでしょ。そして、真っ黒い服を着ている。これは喪服です。ヴィクトリア女王は21歳の時に、ドイツ出身のいとこのアルバートと結婚する。二人は本当に愛し合っていて、9人も子供を作ります。このあたりはエリザベス1世とは全然違う。アルバートは何の肩書きもなく、女王の夫にすぎないのですが、ヴィクトリアのよき相談相手だったそうです。ところが1861年、42歳の時にアルバートが病気で死んでしまう。ヴィクトリアは、それ以来ずっと悲しみに沈んで、いつも喪服を着て悲しい顔をしていた。一時は、完全に引きこもってしまって女王の職務さえ果たさなかった時期もあったようです。
 それはともかく、おしどり夫婦とたくさんの子供たちという女王一家の暮らしぶりが、理想の家族の典型として、イギリス人のモデルになった。そういう意味でも、イギリスの繁栄を象徴する女王です。

 ナポレオン3世がパリで万博を開いた話をしましたが、第一回万国博覧会が開かれたのが1851年ロンドンです。最大の呼び物がクリスタルパレス。これは、鉄骨とガラスで建設した大パビリオンで、建設地に生えていたニレの巨木を伐採せずにそのままクリスタルパレスの中に入れてしまった。ガラスでできた建物ですから、太陽光線はあたるので木は枯れないわけ。こんな建築物さえ出来るというイギリスの工業技術力を世界に見せつけたのです。クリスタルパレスの中には、ニレの木が生えているだけではなくて、産業革命でつくられたさまざまな工業製品が展示されていた。
 このロンドン万博の開会式で、ヴィクトリア女王は「わが生涯で最も光栄ある日のひとつ」とスピーチをした。まさしくその通りでしょう。
 5ヶ月間の開催期間中の延べ入場者は600万人。トマス=クックという人が団体割引で入場者を集める旅行代理店業をしたのも有名。

 イギリス国王は「君臨すれども統治せず」が原則ですから、ヴィクトリア女王が、直接政治運営にタッチしていたわけではない。19世紀後半のイギリスを動かした二人の政治家がとりわけ有名。
 自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリです。この二人は、政権交代で交互に首相となった。
 グラッドストンは自由主義的政策をおしすすめたことで有名。敬虔なクリスチャンでキリスト教的人道主義の立場から戦争をあまり好まなかった。ディズレーリは逆に、帝国主義的な政策を進めた人で、侵略戦争に積極的。アジア・アフリカで植民地を拡大していきます。ディズレーリは、おじいさんの代にイタリアからイギリスに渡ってきたユダヤ系の人物。こういう出身でも首相になれるということを考えると、日本人とヨーロッパ人では国籍とか民族というものの感覚が違うような気がします。ディズレーリは、いつも原色のけばけばしい服に、レースの縁取りをあしらい、香水のにおいをプンプンさせていて、かなり奇抜な感じだったらしい。グラッドストンのほうはイギリス人がイメージする予言者のような風貌で、ディズレーリとは正反対の雰囲気の持ち主で国民には人気があった。
 ヴィクトリア女王は、ディズレーリがお気に入りだったという。夫アルバートと死別して、引きこもっていた女王をなだめすかしご機嫌をとって、公式の場に出てくるようにしたのはディズレーリでした。
 政党も個性も違うグラッドストンとディズレーリが、交互に政権交代をしたということは、時代や状況の変化に応じて柔軟に政策を転換していったということです。教科書にある「議会政治の定着」とは、こういうこと。

 この時代のイギリスの政治の特徴をいくつかみておきます。

 選挙権の拡大。19世紀後半に進展します。
 1867年、第二次選挙法改正。都市労働者に選挙権があたえられ、有権者数は106万人から200万人に増加。
 1884年には、第三次選挙法改正。農業労働者と鉱山労働者に選挙権付与。有権者数は440万人となりました。
 選挙というと、投票用紙に名前を書いて投票箱に入れる。誰に投票したかは他人にわからないようにする秘密投票が今では当たり前ですが、1872年までは、イギリスでも秘密投票ではなかった。有権者はひとりひとり役人の前で、「わたしは誰々さんに投票します」と順番に言っていったんです。ビックリしますね。選挙権を持っているのが一握りの大金持ちの地主ばかりだった時代は、みんな仲間同士、クラブのようなもので、秘密にする必要もなかったのでしょうが、有権者が増えて労働者や農民も参加すれば、当然利害の対立も激しくなる。圧力もかかる。公正な選挙にするため、秘密にする必要が生まれてきたのでしょう。

 労働・社会立法
 1870年、教育法成立。8歳から13歳までの義務教育が実施されます。19世紀前半までは、教育は上流階級の独占物で、庶民に教育など必要はないと考えられていた。1843年の数字ですが、男子の32%、女子の49%が自分の名前が書けなかった。しかし、これではこまる。こんな露骨な発言があります。「農民の子でも職人の子でも、あらかじめ産業制度用にそだてられれば、あとの仕込みの手間が大幅に省ける。すなわち公共教育こそ、産業社会には不可欠である。」(社会学者、アンドリュー・ウールの発言)
 それから、もともと選挙権は「教養と財産を持つ者」の権利と考えられていたので、有権者が無学では困るという発想もあったのでしょう。これらが、教育を権利として要求する労働者側の要求と一致して、教育法は制定された。

 1871年、労働組合法成立。これで、労働組合の法的地位が認められた。
 社会主義運動では、1884年フェビアン協会が結成されます。著名な知識人が多く、マルクス主義とは違う立場から社会主義を唱えます。また、労働運動を積極的に支援した。労働組合運動とフェビアン協会などの活動が、のちの労働党の結成に結びついていきます。

 海外発展。
 なんといっても、イギリスの海外での活動は、世界の上では一番重要。主なものだけ挙げます。
 中国に対しては、1840年から42年にかけてのアヘン戦争と、1856年から60年のアロー号戦争をおこない、中国を半植民地化していきます。
 インドでは、18世紀後半からイギリス東インド会社が領土を拡大していたのですが、インド人の大反乱を鎮圧したのち、1877年インド帝国をつくりヴィクトリア女王が、インド帝国皇帝となる。簡単に言えば、全インドを支配下に入れたということです。
 エジプトでは、エジプトの財政難につけ込んで、スエズ運河を買収。スエズ運河はエジプト領内にあるのですが、運河はイギリスのものになる。やがて、イギリスはスエズ運河の警備という名目で、軍隊をエジプトに駐屯させ、エジプトを事実上支配するようになります。
 ほかにも、たくさんの地域に侵略行為をおこなっていますが、大きな所だけ紹介しました。
 これ以外に、自治領が成立します。イギリス人が移住した地域です。カナダ連邦(1867)、オーストラリア(1901)、南アフリカ連邦(1910)がこれです(カッコは自治領となった年)。イギリス人が原住民を押しのけて住み着いて生活基盤をつくった場所で、まさしく植民地です。イギリスは、これらを全部含んで、大英帝国とよばれるわけです。

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アイルランド問題
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 海外に植民地をたくさん持つイギリスですが、最初の植民地といえるのがアイルランド。16世紀からイギリスに侵略され、ピューリタン革命の時にはクロムウェルによって土地を没収され、アイルランド人農民はイギリス人に搾取される小作人になってしまった。
 アイルランド人は、民族的にはゲルマン人よりも古くからヨーロッパに住んでいたケルト人。言語もアイルランド語で英語ではありません。また、宗教はカトリックが圧倒的。こういう違いは、われわれ日本人からはわかりにくいですが、イギリス人にとっては大きな違いで、アイルランド人を差別しつづけていました。
 イギリスに征服されたあとも、アイルランドには形だけの議会があったのですが、これが1801年にイギリス議会に併合されます。これ以降、イギリスの正式国名は、グレート・ブリテン・アンド・アイルランド連合王国という。略して連合王国。ユナイテッド・キングダム。U.K.です。
 併合されたからといって、アイルランドがイングランドと平等になったわけではなくて、アイルランド人小作農への迫害はつづきました。そういうなかで、以前紹介したオコンネルらの運動によって1829年にはカトリック教徒解放法が制定されて、カトリックがほとんどだったアイルランド人に対する宗教上の差別は法律上は廃止された。ただ、生活状態は改善されません。

 そういうなか、1840年代にジャガイモ飢饉という大規模な飢饉がアイルランドを襲います。アイルランド人の主食はジャガイモでした。ジャガイモの別名を知っていますか?「貧者のパン」という。やせた土地でも栽培できて、収穫も簡単、脱穀や製粉をせずにそのままゆでてすぐに食べることが出来る。もともとはアメリカ大陸原産ですが、16世紀末にアイルランドに伝わると、すぐに全土に広がって主食になった。
 ところが、このジャガイモの伝染病が大流行して収穫が激減、それがジャガイモ飢饉です。1845年から数年間に100万人が餓死。80万人が飢えから逃れて北アメリカに移住しました。飢饉前のアイルランド人口は850万人ほどですから、ものすごい被害ですね。
 35代アメリカ大統領のケネディは、ひいおじいさんがジャガイモ飢饉から逃れてアメリカに渡ってきたことは有名。ミッキー・マウスの生みの親、ウォルト・ディズニーもひいおじいさんの代に、ジャガイモ飢饉を逃れてアメリカに渡っている。ディズニーのつくったネズミのキャラクターの名前ミッキーというのは、アイルランド人によくある名前マイケルの愛称です。ちなみに、アメリカでは、20世紀前半までは貧しいアイルランド系移民をバカにするときもミッキーと言っていたけれど、ミッキー・マウスが人気者になってからバカにするニュアンスはなくなったそうです。

 その後もアイルランド人農民の一揆、自治や独立を求める運動は活発化します。有名なのがボイコット運動。ボイコットというのは、イギリス人地主に雇われていた実在の土地管理人の名前。このボイコットさんが法外な小作料を取り立てようとしたのにおこった小作人たちが、ボイコットさんの家に配達される郵便物や食料品を実力行使でストップさせて困らせた。これが、アイルランド全土に、小作人の闘争方法として広がったものです。不買運動や集会などへの不参加運動という意味で現在も使われますね。
 イギリス側も、アイルランド人の反イギリス闘争が過激にならないように、1870年アイルランド土地法などで、アイルランド人小作人の生活安定化をめざします。
 アイルランド側の政治運動としては、1905年に結成されたシン=フェイン党が有名。この政党は急進的独立運動をすすめていきました。




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結構広い時代をカバーしていますが、ウィーン体制以後のヨーロッパ全体の流れをつかむには適している。


第94回 19世紀後半のイギリス おわり

こんな話を授業でした

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