世界史講義録
  


第96回  ラテンアメリカの独立

------------------------
ラテンアメリカの住民構成
------------------------
 ラテンアメリカとは、何処のことかわかりますか。
 ラテン系民族の国家であるスペインとポルトガルの植民地になったアメリカ大陸の地域をいいます。具体的には、中南米とカリブ海地域。要するに現在のアメリカ合衆国とカナダ以外の地域です。この地域が、1810年代以降、次々と独立を達成していきます。今回はその様子を見てみましょう。


 まず、住民構成を確認しておきます。
 スペインの植民地の場合。支配者はスペイン人ですが、これは二つのグループに分かれます。ひとつはスペイン本国人です。現在は植民地に来ているが、スペイン本国で生まれ、いずれは本国に帰国するだろう人々は本国人。もうひとつは、植民地で生まれ育ったスペイン人でクリオーリョといいます。スペイン本国政府からみれば植民地は本国を豊かにするための領土ですから、重商主義政策によってその富を吸い上げようとします。だから、植民地生まれのクリオーリョは経済的には本国政府に不満がでてくる。こういう構造は、イギリスと北米13植民地の関係と同じです。(本国人とクリオーリョの比率について、参考までに1646年のメキシコの数字をあげておくと、本国人1万3800人、クリオーリョ16万9千人。)

 次に先住民がいます。いわゆるインディオです。北米と違って、中南米にはアステカ帝国、インカ帝国など高度な文明国があったから、メキシコ、ペルーでは先住民の人口も多い。(メキシコ中央高原の先住民推定人口は、1518年で2520万人。インカ帝国の人口推計は、400万~1500万の幅がある。)少数のスペイン人が直接統治するのは不可能で、先住民の首長層を利用して間接支配を行いました。また、スペイン国王は理論上は先住民をスペイン人と同様に臣民としていました。このあたりは、イギリス人が先住民を単なる邪魔者として、その存在を無視した態度と大きく異なるところです。
 先住民は、スペイン人が持ち込んだ各種伝染病に対して免疫がなかったため、17世紀前半まで極端な人口減少がつづきましたが、その後は人口増加に転じます。
 また、先住民とスペイン人の混血の人々も多く、これをメスティーソと呼びます。分類としては先住民に入れて考えます。(インカ帝国を滅ぼしたピサロはインカ皇帝一族の娘たちとの間に複数の子供をつくり、子供の一人はピサロの遺産を相続しています。)
 労働力不足を補うためにアフリカ大陸からつれてこられた奴隷、及びその子孫の黒人もカリブ海地域やブラジルでは大きな比重を占めました。黒人とスペイン人の混血の人々は特にムラートと呼ばれました。

------------
ハイチの独立
------------
 18世紀後半に、イギリスの13植民地でアメリカ独立革命が起きても、ラテンアメリカの植民地では独立への動きはありませんでした。ラテンアメリカで独立へ向けた具体的な動きは、フランス革命とナポレオン戦争というヨーロッパの大変動の影響によって始まりました。

 ラテンアメリカの独立はハイチに始まります。ハイチは、西インド諸島イスパニョーラ島の西側にあるフランスの植民地です。この島はハイチ島とかサント・ドミンゴ島とかいろいろな呼ばれ方をしますから要注意。もともと島全体がサント=ドミンゴと呼ばれるスペインの植民地だったのですが、17世紀中頃から島の西部にフランス人がスペインに無断で住み始め、事実上西部を占拠してしまいます。衰退しているスペインはフランス勢力を追い出す力はなく、17世紀末にはフランスの行為を追認し、正式にフランスの植民地サン=ドマングが成立しました。地図を見ると、島の真ん中に直線で国境線が書かれています。ここでフランス人入植者たちは黒人奴隷を使ってサトウキビ栽培で利益をあげていきました。(ハイチの人口構成…白人4万人、黒人奴隷45万人、ムラート及び自由黒人3万人)

 さて、1789年、フランス本国で革命が始まりました。サン=ドマングからも三部会とそれに引きつづく国民議会に議員がおくられました。かれらは、もちろん白人プランテーション経営者の利害を代表していたのですが、フランス革命が進行すると、議会では、彼らの意図に反して、奴隷制廃止や自由黒人とムラートへの参政権付与などが検討されはじめます。それを知ったサン=ドマングでは、1791年に島の北部で黒人奴隷が反乱を起こし、南部ではムラートと白人の対立が激しくなりました。1792年にはフランス本国の国民公会からジャコバン派の政治委員が着任しましたが、奴隷を所有する島の白人は反革命ですから、混乱は増すばかり。おまけに1793年、対仏大同盟が発足し、フランスが周辺諸国と交戦状態になると、イスパニョーラ島東部のスペイン植民地から、スペイン軍とイギリス軍が西部のサン=ドマングに攻めてきました。
 このときに登場するのが黒人奴隷反乱のリーダーの一人だったトゥサン=ルーヴェルチュールです。解放奴隷でかなりの教養があったらしい。彼は、ジャコバン派政府と手を結ぶと、スペイン軍とイギリス軍を撃退し、サン=ドマングの実権を握ってしまった。フランス政府は、サン=ドマングを敵国の侵略から守るためにはトゥサン=ルーヴェルチュールの協力が必要なので、1799年にはサン=ドマングの副総督兼総司令官に任命します。国民公会はすでに1794年に奴隷制廃止を宣言しており、トゥサン=ルーヴェルチュールのもとでサン=ドマングの奴隷制はなくなりました。1801年には、トゥサン=ルーヴェルチュールは独自の憲法を発布してサン=ドマングの終身総督に就任し、事実上の独立に向けて動き出します。

 ところが、1802年、フランスで独裁者となったナポレオンが、アミアンの和約でイギリスと和平を結ぶと、フランス艦隊はイギリス海軍に妨害されず大西洋横断ができるようになりました。ナポレオンはサン=ドマング独立の動きを許さず、2万2千の遠征軍を送ってトゥサンを捕らえ、フランスに送られたトゥサンは1803年に獄中で死んでしまった。しかし、トゥサンの部下の抵抗によってフランス軍はサン=ドマングを制圧に失敗し、1804年にはサン=ドマングは国名をハイチとして独立を宣言しました。世界初の黒人共和国の成立です。アメリカ大陸およびカリブ海地域ではアメリカ合衆国に次ぐ2番目の独立国です。

---------------------
南米スペイン植民地の独立
---------------------

 スペイン領の独立もナポレオンが本国にもたらした変動をきっかけに始まりました。ヨーロッパを支配下においたナポレオンは、1808年、スペインでブルボン家の王を退位させ、自分の兄ジョセフをスペイン王として即位させました。スペイン国民の多くはこれを認めず反乱を起こし、各地に評議会とよばれる自治政府が成立しました。
 アメリカ大陸のスペイン植民地は、いくつかの副王領に分けられ、スペイン国王から任命された副王によって統治されていました。各地の副王は、ナポレオンの兄のスペイン国王を支持すべきか、評議会側つまり前の国王政府を支持すべきか迷う。スペイン本国の混乱で、植民地の支配者当局は、どうしたよいか困ってしまうわけですね。
 植民地当局の動揺は、独立を求めるクリオーリョたちにとっては願ってもないチャンスです。政治的経済的にスペイン本国の植民地政策に不満を持っていたクリオーリョたちが中心になり、1810年には南米各地で自治と独立を求めて評議会が作られていきました。(具体的には、ベネズエラのカラカス、アルゼンチンのブエノスアイレス、チリのサンチャゴ、コロンビアのボゴダ)。

 ただし、これがすぐに独立に結びついたわけではありません。カラカスを中心とするベネズエラでは1811年に独立宣言が出されますが、スペイン軍によってカラカスはすぐに制圧されてしまいます。これに屈せずに、スペインからの独立を目指して戦い続ける人物がカラカス出身のクリオーリョ、シモン=ボリバルです。
 1811年以後、ボリバルはスペイン軍とカラカスの争奪戦を繰り返します。1814年にナポレオンが没落し、復活したブルボン王家が植民地の独立派に対して攻勢をかけるようになると、追いつめられてイギリス領のジャマイカに亡命します。しかし、その後も、黒人共和国のハイチに支援を求めたりしながら、ねばり強く活動をつづけました。
 ベネズエラでの運動が行きづまったボリバルは、攻撃の矛先をヌエバグラナダ(現コロンビア)の中心都市ボゴダ(現コロンビアの首都)に変え、1819年、スペイン軍を打ち破りボゴダを副王の支配から解放しました。ここから、ボリバルの大活躍が始まります。

 まず、ボリバルは大コロンビアの樹立を宣言します。これはこの時に、コロンブスにちなんでつけられた国名ですが、大コロンビアというのは現在のコロンビアとは違い、現コロンビアにベネズエラ、エクアドル、パナマをあわせたものです。しかし、実際にはこの時点でベネズエラもエクアドルもスペインが支配していますから、ボリバルは大風呂敷を広げたわけです。
 ここで、おもしろいと思うのは、独立派が考えている独立国の範囲、大きさはてんでんバラバラなんですね。ボリバルは南米の植民地をひとつにまとめて独立をしようとしていますが、地域毎の利害関係が異なるために各地のクリオーリョたちは互いに対立していて、それぞれ別個に独立を求めていたりする。でも、この段階では、とりあえずみんな独立軍を率いてスペイン軍と戦っているボリバルに従っておこう、という感じです。
 この後、1820年にスペインで立憲革命が起こり植民地への圧力が弱まると、ボリバルは、21年にカラカスをスペインから奪いベネズエラを解放し、翌22年にはエクアドルの中心都市キトを解放しました。
 ボリバルはさらに南のペルーの攻略を目指します。ペルーはインカ帝国の中心地域だった場所で、副王がおかれたリマは、スペイン本国による南アメリカ支配の拠点でした。リマ副王府の支配は強固で、スペイン本国の政治情勢の変化にも揺らぐことはありませんでした。スペイン本国の情勢の変化によって、植民地の独立運動が左右されてきたことを考えると、大コロンビアの独立を確実なものにするには、情勢が有利なうちにスペイン支配の拠点であるリマおよびペルーの攻略をしておかなければならないと、ボリバルは考えたのです。

 ちょうど、同じ時期に同じようにペルーの攻略が必要だと考えて軍事行動をしている人物がいました。アルゼンチンのサン=マルティンです。
 話はさかのぼりますが、ナポレオン戦争中の1806年、イギリス軍がアルゼンチンのブエノスアイレスを占領したことがありました。このとき、ブエノスアイレスのクリオーリョたちが、スペイン軍の力を借りずにイギリス軍を追い出すことに成功して以来、ブエノスアイレスは独立派が強く、1816年にはリオ・デ・ラプラタ連合州として独立を宣言しました。当時、ブエノスアイレスは、アルゼンチンで成長しはじめた農牧業の皮革輸出港として栄えていましたが、南アメリカ全体からみると、経済的にも政治的にも大きな影響力を持っていませんでした。だから、スペイン本国が立ち直り、ペルーの副王が勢力を盛り返せば、独立はつぶされてしまう可能性が高かったのです。
 そこで、先手を打って、情勢が有利なうちにペルーを攻略しようとしたのが、アルゼンチンの軍人サン=マルティンです。現在のボリビアからペルー方面に攻め込むのが最短距離なのですが、ボリビア方面の副王軍は強力で簡単に攻め込むことができません。そのため、サン=マルティンはアンデスを越えてチリに進出し、チリから海路ペルーに向かうという作戦を立てます。
 1818年、約5000の兵力を率いたサン=マルティンはチリに進入し、スペイン軍を破りチリを解放。チリで艦隊を整えて1820年にはペルーの海岸に上陸し、21年にはリマに入城しペルーの独立を宣言しました。ただ、このときペルー副王軍は戦略的にリマから高原地帯に撤退しただけで、その勢力は依然として優勢で、サン=マルティンはその後の方策に行き詰まってしまいました。
 ちょうどそこに北からボリバル軍が南下してエクアドルを解放したわけです。サン=マルティンはエクアドルのグアヤキルという町に赴き、ボリバルと会見します。このとき何が話し合われたかは不明なのですが、サン=マルティンの援軍要請をボリバルが拒否したということらしい。両雄並びたたず、ですかね。
 このあと、勢力を保てなくなったサン=マルティンはチリに撤退して、かわりにボリバルの軍隊がペルーに進出し1823年には副王軍を破りペルー解放に成功します。25年にはボリバル軍は上ペルーで最後まで残っていたスペイン軍を破り、上ペルーを解放します。このときに上ペルーは、ボリビアとして独立を宣言しました。ちなみに、この国名はボリバルの名からつけられたものです。
 この時期がボリバルの活動の絶頂期です。アルゼンチンとチリをのぞくスペイン領南アメリカをほぼ独力で解放したわけですから。次にボリバルは、これらすべての地域を統合した国家建設を目指しましたが、各地域はボリバルの統制から離れて独自に国家形成をはじめました。ボリバルはこの流れを止めることができず、失意のうちにヨーロッパに去る決意をし、渡欧直前の1830年に持病の結核が悪化して死んでしまいました。
 一方のサン=マルティンは、リマを去った後は、やはり失意のために隠遁生活に入ってしまいます。1824年にはヨーロッパはフランスに渡り、世間からすっかり忘れ去られたまま1850年に世を去りました。
 ボリバルもサン=マルティンも、現在はラテンアメリカ独立の英雄として讃えられていますが、どうも使い捨てられてしまった感じがします。

---------------
メキシコの独立
---------------
 メキシコは、メキシコ市に副王が置かれ、南米のペルーと並んでスペイン植民地の中心のひとつでした。19世紀にはいると、独立を目指すクリオーリョ層の勢力が成長してきますが、それに劣らず副王政府の支配体制も強固でした。
 そんな中で、1810年、ドロレス村の司祭イダルゴ神父の呼びかけで民衆反乱が勃発しました。イダルゴ神父は「グアダルーペの聖母様万歳、悪いスペイン人(本国人)をやっつけろ」というスローガンを唱え、先住民やメスティーソの気持ちをつかみました。あっという間に反乱軍は6万におよぶ勢力にふくれあがり、メキシコ市に向かって進撃を始めました。ちなみにグアダルーペの聖母というのは、キリスト教が先住民の間に浸透する間に信仰されるようになったメキシコの聖母です。
 この反乱は、最も下層の人民からの素朴な独立要求とも言えます。ただ、彼らは、進軍の途中で、白人に対する虐殺を行なったため、独立を求めるクリオーリョ層は、イダルゴの反乱勢力とではなく、副王政府側と協力し反乱鎮圧にまわりました。反乱軍は人数は多いとはいえ、しょせん戦闘の素人、烏合の衆にすぎず、1811年、イダルゴは捕まり処刑されて、反乱は鎮圧されました。
 副王政府は危機を乗り切ったかのように思えたのですが、スペイン立憲革命の翌年の1821年、イダルゴ反乱軍の残党を鎮圧するために出動した副王軍の将軍が、副王政府を裏切って独立宣言を出すという形で、本国から独立してしまいました。あっけないと言えば、あっけない独立で、スペイン政府の権威が地に墜ちていた結果といえるかもしれません。


----------------
ブラジルの独立
----------------
 ポルトガルの植民地だったブラジルは、スペイン領とは違う経過をたどって独立します。
 ポルトガルはイギリスとの関係が深く、ナポレオンに屈服しなかったため、1807年、ナポレオン軍がポルトガルに侵攻すると、政府宮廷がイギリスの艦隊に守られてブラジルに避難しました。植民地が本国になってしまうわけです。宮廷が疎開したリオ・デ・ジャネイロは、この間に整備され、都市として発展します。
 ナポレオン没落後、1822年に国王はポルトガルに帰還するのですが、この時ブラジルに残留した皇太子が、ブラジル帝国の独立を宣言し皇帝に即位して本国から独立しました。

-------------------
独立後の政治と経済
-------------------
 1825年までにスペインから独立した南米諸国は、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイです。しかし、これらの国家建設はなかなか順調に進みませんでした。なぜなら、この独立は、クリオーリョなど植民地人たちの組織的な政治運動の積み重ねの結果勝ち取ったというよりも、ナポレオンに翻弄されたスペイン本国の動揺につけいったものだったこと。しかも、ボリバルとサン=マルティンという突然登場した軍事的天才の活躍に負う所が大きかったこと。彼らがよそからやって来てスペイン軍をやっつけてくれたから独立してしまった、という感じです。この二人が、大活躍しながらも、後にラテンアメリカから去っていかざるを得なかったというのは、彼らにはクリオーリョ層の永続的な分厚い支持がなかったからです。
 つまり、「棚からぼた餅」独立で、独立してみたものの国家構想などは全然できていなかった。だから、どの国も政治体制が安定するまでにかなりの年月と混乱を経なければなりませんでした。
 これは、メキシコも似たようなもので、副王軍の将軍の裏切りで達成した独立なので、この将軍が帝政を布いたり、内乱があったりと、政治的安定はなかなかおとずれませんでした。
 黒人共和国として出発したハイチに対しては、奴隷制度を廃止した国として何となく理想的な政治の実現を想像してしまうのですが、ここでも帝政を布く将軍が登場したり、南北に分裂したりと紆余曲折を経ました。

 こうした政治の不安定さは、独立の過程だけが原因ではなくて、経済的な要因もありました。独立しても経済構造は変わらず、少数のクリオーリョ地主による農業生産が中心で、工業は未発達のままでした。ハイチではプランテーションはなくなり、小規模農民がたくさん生まれたのですが、農業生産性はひどく落ち込んで貧しい島になってしまった。中産階級、中堅市民層がなかなか発展しないのです。

 貿易は、イギリスに従属する形になってしまいます。イギリスから安価な工業製品がドンドン入ってくるので、工業はなかなか発展しない。輸出は、農作物と鉱業生産物が中心にならざるを得ません。
 以前から南米大陸を市場として狙っていたイギリスは、ラテンアメリカ諸国の独立によって、その目的を達成したわけです。

 市場獲得で儲かることになるイギリスはラテンアメリカ諸国の独立を歓迎しましたが、当時ヨーロッパ政界はメッテルニヒが主導するウィーン体制下にあって、自由主義や民族主義運動は抑圧していました。だから、ラテンアメリカ諸国に干渉して、独立を抑え込む可能性もありました。この関連で有名なのが、アメリカ合衆国大統領モンローが1823年に出した「モンロー宣言」です。この中で、モンローは、いままで合衆国はヨーロッパの植民地に干渉したことはないのだから、すでに独立したラテンアメリカ諸国にヨーロッパ諸国も干渉しないでくれ、ということを言っています。アメリカ大陸とヨーロッパ諸国の相互不干渉ということを唱えたわけですが、これは、合衆国が独立したラテンアメリカ諸国を市場として確保したかったというのがその心です。





参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたいときは

書名をクリックすると、インターネット書店「アマゾン」のページに飛んで、本のデータ、書評などを見ることができます。購入も可能です。

世界の歴史18 - ラテンアメリカ文明の興亡 (中公文庫) 高橋 均・ 網野 徹哉著。長い期間をカバーしながらも、内容は豊富。馴染みの薄い地域なので、最初は取っつきにくいかもしれないが、読み込めばかなり勉強になる。
玉石混交のこのシリーズの中で、間違いなく「玉」。今回のネタは、究極的にはこの本。


第96回 ラテンアメリカの独立 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第95回 露土戦争その他

次のページへ
第97回 アメリカ合衆国の発展