世界史講義録
  


第97回  アメリカ合衆国の発展



-------------
領土の拡大
-------------
 1783年、パリ条約で独立を達成したアメリカ合衆国ですが、独立時の領土は大西洋岸からミシシッピ川まででした。それが、この後、急速に領土を拡大していきます。
 1803年には、フランスからルイジアナ西部を買収します。ミシシッピ川からロッキー山脈までの地域です。これで、領土は倍増します。ちょうど、フランスはナポレオンがヨーロッパ制覇に乗り出している時期で、ナポレオンとしては、たいして利益のあがらない北米大陸から撤退して、ヨーロッパ経営に集中しようとしたのでしょう。合衆国はフランスに1500万ドルを支払いましたが、これが高いのか安いのか、よくわかりませんね。


 1818年には、イギリス領カナダとの国境線を確定します。カナダと合衆国の国境線を見ると真っ直ぐ直線になっていますね。あれです。

 1846年にはテキサスを併合します。テキサスはもともとメキシコ領だったのですが、合衆国からの移住者が増えた結果、1836年にメキシコから独立してテキサス共和国となった上で、合衆国に併合されたものです。合衆国は、さらにメキシコからの領土獲得をねらっていたため(テキサス共和国は、メキシコ領だったカリフォルニアとニュー=メキシコに対する領有権を主張していた)、両国間で戦争となりました。これが、アメリカ=メキシコ戦争。1848年までつづくこの戦争は合衆国の圧勝で、一時はメキシコの首都メキシコ=シティを米軍が占領するほどでした。この結果、合衆国はカリフォルニアとニュー=メキシコを領土に加えました。

 カリフォルニアの北オレゴンは、1846年イギリスより併合しています。
 これで、合衆国は現在我々が地図で見るあの形になったわけです。まだ、アラスカとハワイは併合されていませんが。

 西へ西へと領土を拡大していくことを、アメリカ人は「明白な運命(マニフェスト・デスティニー)」と考えていました。ここでいうアメリカ人とは、アングロ=サクソン(イギリス)系の、つまり白人のアメリカ人ですよ。かれらは、農地を切実に求めていたのです。新しい領土はフロンティア(辺境)と呼ばれ、豊かな生活を求める農民たちが移住、開拓していきました。

 辺境開拓の歴史の中で、有名なトピックが1848年、カリフォルニアでの金鉱発見です。アメリカン川で金が発見されると、ニュースはまたたくまに広まり、一攫千金を夢見てカリフォルニアに移住者が殺到しました。ゴールドラッシュという。中華鍋のような器で、川底の砂利をすくい上げて、米を研ぐみたいにジャラジャラとまわしていくと、金の粒が拾えた。でも、こんなやり方で金を見つけることのできたのは、最初の頃のラッキーな人だけで、すぐに川底の金などは取り尽くされてしまい、金鉱山での採石が主になります。
 しかし、このおかげでカリフォルニアは人口が急増する。とくに、48年の金鉱発見のニュースを聞いて、人がどっとやってきたのが翌49年。そのため、49's(フォーティーナイナーズ)というのが、カリフォルニア人の通称になっているといいます。アメフトのチーム名にもなっていますね。

 西部辺境へどんどん人が移動し、新しい町が生まれていくのに、行政機構の整備が追いつかない。なかでも、治安維持体制が万全でない中で、自衛の為に銃を持つことが当然とされました。これが伝統となって、現在でも合衆国では簡単に銃を手に入れることができます。先進国としては、異常な慣習ですが、歴史的な背景がそれなりにあるということです。

------
政治
------
 このかん、合衆国の政治にどのような事が起こっていたのか見てみます。
 ルイジアナ西部をフランスから買収したのが、ワシントン、アダムズにつづいて第三代大統領になったジェファーソン(職1801~09)です。独立宣言の起草をおこなった人物でしたね。
 教科書には、この大統領就任について、民主主義の発展と書いてあります。どういうことかというと、ジェファーソンは初代大統領ワシントンのもとで国務長官をしていて、同じくこの時副大統領だったアダムズと政治方針で対立していた。やがて、アダムズはフェデラリスト党、ジェファーソンはリカブリカン党の中心となります。アダムズは、第2代大統領に当選すると、フェデラリスト党で政府を固めて、リカブリカン党を弾圧しました。ところが、第三代にはリカブリカン党のジェファーソンが選ばれた。つまり、対立する党派間であっても、政権交代がスムーズにおこなわれたということで、民主主義の発展、という教科書の文言になったというわけ。
 ジェファーソン大統領については、これだけです。

 このかん、ヨーロッパではフランス革命、そしてナポレオン戦争と、激動がつづいていて、大西洋をはさんだ合衆国にも影響を与えます。イギリスはフランスの貿易に打撃をあたえるためにヨーロッパに向かう合衆国の商船を拿捕して、通商を妨害するようになる。合衆国はヨーロッパの戦争に対しては中立を宣言しているのにもかかわらず、です。そこで、合衆国はイギリスに宣戦布告した。これが、米英戦争(1812~14)。
 北米大陸でちょっとした戦闘がありましたが、アメリカとイギリスが雌雄を決するような戦いはありませんでした。合衆国はイギリスに攻め込む戦力はないし、イギリスはそんな合衆国をほとんど相手にしない。だから、ナポレオンの没落とともに、勝ち負けなく戦争は終わります。ただ、この戦争によって、イギリスからの輸入が途絶えたため、合衆国内で綿工業が発達した。イギリスからの経済的自立が達成されたというので、この戦争を第二次独立戦争と言うこともあります。

 ナポレオンが没落し、ヨーロッパの秩序がウィーン体制で再編成されると、1823年、合衆国第五代大統領モンローが、いわゆる「モンロー宣言」を出します。これは、ナポレオン戦争のどさくさに、独立を達成した中南米諸国を、スペインが再び植民地化しないように訴えたものです。ヨーロッパ諸国がヨーロッパで何をしようと、合衆国はちょっかいを出さない、反対に、ヨーロッパ諸国は新大陸にちょっかいを出さないでくれ、と、そういう内容です。
 中南米諸国を市場にしようと考えていたイギリスが、モンロー宣言に同調したため、スペインなど神聖同盟諸国は干渉をあきらめました。
 モンロー宣言は、中南米諸国の独立を支援するためのものだったのですが、やがて、合衆国は中南米諸国を自国の縄張りだと考えるようになっていきます。これは、今もそうです。注意しておいてください。

 西部開拓と関連して重要なのが第七代大統領ジャクソン(職1829~37)です。東部の名門出身者が大統領に選ばれてきた中で、初の西部出身の大統領ということで有名。西部出身の粗野な荒くれ男というイメージが、彼の「売り」です。大統領になってから、いろいろな書類を決裁するときに「All Correct」(承認)の略でACと書くべき所を、ジャクソンはつづりを知らなかったため、OKと書いてしまった。しかし、大統領の無学を指摘することもはばかられるので、そのままOKを使いつづけ、いつの間にか、普通の言葉になってしまったという逸話があります。これは、決して、ジャクソンを馬鹿にしている逸話ではなくて、逆にみんなが彼に親しみを抱くプラスのエピソードだったのだと思います。
 お高く止まったエリートではなく、西部出身の庶民の味方ということで、彼の人気は高かった。西部の小農民や南部の奴隷所有の農園主が熱烈にジャクソンを支持しました。彼の時代に、普通選挙制度が各地に広がったので、民主主義の発展した時代として、ジャクソニアン・デモクラシーと呼びます。

 ジャクソンは大統領になる前から、米英戦争で活躍した軍人として人気があったのですが、その「活躍」の中身は、先住民(インディアン)に対する迫害でした。土地を求める白人地主・農民のために、邪魔な先住民を追い払う。そういう「実績」で人気があった。
 大統領になってからは、これを合法的に大々的に実施しました。先住民に対する強制移住政策です。豊かな土地で農業をしていた先住民の部族から、無理矢理に移住の同意を取り付け、わずかばかりの補償金と引き替えに、西部の不毛な土地に移住させました。チェロキー族は移住の途中で多くの死者を出し、その旅路は「涙の道」と呼ばれています。
 新しい土地に移住させられ、先住民はどうやって生活していったのか。生活基盤を破壊され、先住民の人口は激減していきます。推計ですが、1845年には100万人以上あった人口は、1870年には2万5千人です。農地を奪われても、従来ならバッファローを狩ることで先住民は生活を維持できたのですが、そのバッファローも白人の乱獲によって激減します。1865年の1500万頭が、1880年には数千頭に減ります。

 ケビン・コスナーが主演した「ダンス・ウィズ・ウルブス」という映画があります。ケビン・コスナー演じる白人兵士が徐々に先住民と心を通じ合わせ、最後には追われゆく先住民と行動をともにしていく姿を描いている映画です。「ダンス・ウィズ・ウルブス」というのは、先住民がケビン・コスナーにつけたあだ名。彼が、なぜか狼と踊るからです。この映画にこんな場面がある。夜、ケビン・コスナーが寝ていると、ゴーッという地響きが聞こえてくる。そこへ、先住民の少年が飛び込んできて、「すごい、バッファローの大群だ。こんな大群を見たことがない。すぐに、狩りに行こう」と誘う。それだけなんですが、先住民の置かれた状況、激減するバッファローの知識があれば、少年の喜びの背景がわかるというものです。

--------------
南北の対立
--------------
 西部開拓が進展し、西部に新たな州が誕生していくなかで、北部諸州と南部諸州の対立が激しくなっていきました。
 対立の原因は、両地方の産業の違いです。北部では商工業が発展しつつあった。南部では、奴隷を使った大規模農場プランテーションが産業の中心です。

 工業が発展しつつある北部の工場経営者にとって、ライバルはイギリス製品です。安くて質のよい綿織物などの工業製品が、イギリスからどんどん輸入されては、自分たちの製品が売れない。そこで、イギリスからの輸入品に高い関税をかけて、北部の工業を保護するように政府に求めました。関税というのは、輸入する国が輸入品にかける税金です。こういう政策を保護貿易主義といいます。
 貿易というのは、相手あってのことだから、もし、合衆国が関税を引き上げれば、それに対抗してイギリスも関税を引き上げます。オタクがウチからの輸入を制限するなら、ウチもオタクからの輸入を制限しますよ、ということになるわけです。

 もし、そんなことになっては困るのが南部です。南部では、綿花などの農産物をイギリスに輸出してもうけていた。当然、イギリスが高い関税をかけては困ります。税金で価格があがっては、売り上げが落ちますからね。だから、南部は、保護貿易主義には反対。関税をできるだけ低くする自由貿易主義を主張しました。

 この貿易をめぐる南北の対立を、激しくしたのが西部開拓でした。
 フランスやスペインから獲得した新領土は、特定の地域が、人口が増加し一定の条件を満たすと、あらたな州に昇格することになっていました。この時に、その新しい州に奴隷制度を認めるかどうかが大きな問題になってきたのです。
 奴隷制度を認める州を奴隷州、認めない州を自由州といいます。南部は奴隷州、北部は自由州です。1819年までに、22の州があって、奴隷州11、自由州11と、両者は同数だった。1820年に、ミズーリが州に昇格することになると、北部と南部がもめにもめます。
 ポイントは、上院議員の数です。合衆国の上院は、各州から2名づつ選出されます。だから、ミズーリ州が奴隷州になるか、自由州になるかで、北部南部のどちらが国政の主導権を握るかということになってくるわけです。
 このときは、南北間で妥協が図られ、ミズーリ州は奴隷州となりましたが、東部の自由州を分割して自由州もひとつ増やして決着。今後については、新しい州ができた場合、北緯36度30分より北は自由州、南は奴隷州にするというミズーリ協定がつくられました。

 ところが、これも紆余曲折があって、ミズーリ協定は破棄され、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、州の住民投票で奴隷州か自由州かを決めることになった。こうなって、何が起こったかというと、昇格直前の州に、奴隷州・自由州それぞれから移住者がどんどんやってきて、多数派をとろうとする。住民どうしが武力抗争を繰り返す。ジョン=ブラウンという奴隷制度反対論者は、奴隷制論者を5人殺して北部で英雄になる(1856年)。殺人で英雄になるというのは、すでに異様な状態で、これまでのような、妥協で南北の対立を先送りすることは限界に近づいていきました。

--------------------
奴隷制度への批判
--------------------
 南北の対立は、経済的な理由だけではありません。みなさんご存じのとおり、南部でおこなわれている奴隷制度も、対立の大きな原因でした。どう考えても、「すべての人は平等につくられ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され…」とうたった独立宣言と奴隷制度が相容れるはずはありません。そのことは、当時のアメリカ人も当然わかっていました。

 奴隷制度反対の世論を一気に盛り上げたのは、ストウ夫人の小説『アンクル・トムズ・ケビン』(1852)でした。昔は、子供向けの読み物として『トムおじさんの小屋』なんていう題名で図書館や本屋に並んでいました。今は、どうかな。
 簡単にストーリーを紹介しておきましょう。

『アンクル・トムズ・ケビン』
 主人公トムは黒人奴隷で、さるプランテーションで働いています。働き者で正直で、熱心なクリスチャンで、白人から見たら理想的な奴隷です。で、農場主である主人も、まあそれなりに良心的な男で、トムは妻子(もちろん奴隷)をもち、農場の中の小屋に家族と共に生活している。奴隷ながらも、幸せにやっているという風情です。
 農場主には男の子がいて、この少年が奴隷のトムおじさんが大好き。いつもトムの小屋に遊びに行っている。トムも、この少年を可愛がっている。
 ところが、農場主が事業に失敗、借金を抱えて農場を手放すことになるんですね。農場で働いていた奴隷たちも、売られていくことになった。トムのように、家族のいる奴隷にとっては、これは悲惨なことで、妻も子どもも、バラバラに引き裂かれて売られていくことになる。トムが売られていくときに、農場主の息子の少年が、トムに約束する。ぼくが大きくなったら、農場を取り戻し、トムを買い戻すから、と。
 物語は、ここからトムの人生をたどります。ここは、略しますが、トムはさまざまな白人に転売され、いろいろな主人に仕えることになる。いい目にも遭うが、ひどい目にも遭う。要するに、いくら正直者のトムでも、主人次第でその運命はどうなるかわからない。読者は、「なんとかしてやれないのか」ともどかしい思いで、トムの運命を読みすすむわけです。
 トムが最後に売られた先が、サディストの白人農場主。奴隷に暴力を振るうのを楽しみにしているような人物です。そこでも主人には逆らわないトムなんですが、ある日、主人が、女奴隷に暴行しようとするのを思わず邪魔してしまう。怒り狂った主人が、トムに無茶苦茶な暴行を加える。虫の息になったトムがなにやらブツブツ言っているので、何を言っているか聞いてみたら、「この人も神様が救ってくださいますように」というようなことを言っている。自分に暴行を加える主人のために祈ってるんですよ。それを知って、主人はさらに逆上して、暴行は加速。「重傷」だったトムは「重体」状態に。瀕死で馬小屋かどこかに放り込まれる。
 そこに、最初の農場の少年が成長して登場です。すっかり大人になった少年は、農場を再興して、約束どおりトムを探していた。ついに探して当ててみると、トムはまさに死ぬところです。「見つけるのが遅くてゴメン」と懺悔する少年が見守るなかで、トムは死んでいく。少年は、ここではたと悟る。トムを見つけて、買い戻せば良いと思っていたけれど、それは間違いだ。奴隷制度が問題なんだ。僕は故郷に帰ったら、農場の奴隷たちをみんな解放しよう、と誓う。

 ちょっと脚色したかもしれませんが、大体こんな内容です。読んでみると、ラストシーンなんか、目頭熱くなります。ひどいじゃないか、奴隷制度!という気分になる。
 当時の北部の白人たちも、そう思ったのです。南部の人々は、こんな事あるはずない。何も知らない北部人の作り話だと反発した。
 熱を帯びてくる奴隷制度反対論は、新たな州は奴隷州か自由州かという問題、南北対立とが深く結びついていたのです。

 こういうなかで、奴隷制度の拡大に反対する共和党が結成されます。1860年の大統領選挙で、それまでつづいていた民主党に替わって、初めて共和党のリンカンが当選し、南北はついに内戦に突入します。

--------------
南北戦争
--------------
 共和党のリンカンが当選すると、奴隷州の南部11州はジェファソン=デヴィスという人物を大統領に、アメリカ連合国を結成しました。合衆国から分離し別の国をつくったわけです。
 1861年、リンカンは大統領に就任すると南部諸州の離脱を許さず、ここに南北戦争がはじまりました。この段階で、リンカンは奴隷制度をなくすとは言っていません。戦争目的は、南部の分離独立の阻止です。

 1858年、大統領に当選する前のリンカンはこんな演説をしています。

「私は過去においても白人黒人両人種の社会的政治的平等を実現することに賛成したことはないし、今日でも同様である。また黒人に投票権を与えることや陪審員にすること、役人に任命する資格を与えることや白人との結婚に賛成したこともないし、今日も賛成しない。またさらに私は白人黒人の間には身体的相違があり、その相違ゆえに社会的政治的平等の条件の下で両人種が共に生活することは永遠に無理なことだと考える。」
 リンカンが奴隷解放をした人だと知って、これを読むとびっくりするでしょ。選挙前の演説だから、多くの人の支持を集めるためにしゃべっているので、どこまでが彼の本音かわかりませんが、人種差別反対の旗を高く掲げていた人ではなかったんですね。

 南北戦争がはじまったのち、1862年の演説も見ておきましょう。
「この戦争での私の最高の目的は、連邦を救うことにあるのであって、奴隷制度を救うことでもなければ、また破壊することでもない。もしも私が、ひとりの奴隷を解放しなくても連邦を救えるものなら私はそうするだろう。また、もしも私が、すべての奴隷を解放することによって連邦を救えるものなら、私はそうするだろう。」

 この連邦というのは、合衆国のことです。救うというのは、分裂させないということだね。
 実際に、このあとリンカンは、南部に勝つためには奴隷を解放することが必要だと考えるのです。
 北部の人口2200万、南部は人口950万、しかもその内350万は黒人奴隷。工業力も北部が上。だから、北軍(合衆国政府軍)が強いはずなんですが、実際には、南軍は北軍を圧倒する粘りを見せ激戦がつづきました。勝利と奴隷制度廃止を切り離すことができないと考えたリンカンは、1862年に初めて黒人兵を18万人採用し、1863年には、奴隷解放宣言を出しました。

 南北戦争の勝敗を決定づけたのが、1863年のゲティスバーグの戦いです。北軍8万7千、南軍7万5千が戦い、合計4万5千人が戦死するという激戦でした。
 南北戦争と日本では言いますが、アメリカでは「Civil War」、つまり内戦と呼びます。同じアメリカ人どうしが殺し合っているわけです。戦闘が終わったゲティスバーグには、敵味方入り乱れて4万5千人の死体が転がっているわけです。戦死した兵士の家族が、息子や夫の死体を探しに来ます。数万の死体ですから、そう簡単に見つかるものではない。しかも、日がたつにつれ、死体は鳥につつかれ、野豚に食べられ、悲惨な状態になってきます。地獄絵図です。
 これは、放っておけないということになり、政府が戦場跡を整備して、戦闘の4ヶ月後、戦死者追悼集会が開かれました。ここでリンカンは「人民の人民による人民のための政府」という有名な言葉を含むスピーチをおこなったのでした。ちなみに、今では、民主政治の核心をつかんだ名言として有名な言葉ですが、発言現場では全然話題にならず、失敗したスピーチと思われたようです。

 それはともかく、ゲティスバーグで勝利した北軍は、以後優勢に戦いをすすめ、1865年には南軍が降伏して、戦争は終わりました。両軍死者、61万8千人。この戦死者数は第二次大戦での合衆国の戦死者31万8千人をも上まわるものです。南北戦争が、合衆国にとっていかに大きな事件だったかということを、理解しておいてください。
 この後、合衆国は北部の商工業を基礎に発展していくことになります。

 合衆国の分裂を回避し、奴隷解放をしたリンカンですが、勝利の5日後に暗殺されます。犯人は南部出身の奴隷制支持者でした。

 日本との関連を少々。
 合衆国の海軍提督ペリーが4隻の艦隊を率いて、日本の浦賀に現れたのが1853年。『アンクル・トムズ・ケビン』出版の翌年。
 日米和親条約が結ばれた1854年に、共和党が結成。
 日米修好通商条約が結ばれた1858年、リンカンは大統領選挙に向けて活動中。
 鎖国の日本を、武力で脅して無理矢理開国させた合衆国が、これ以後、幕末日本に登場しなくなるのは、南北戦争で、日本どころではなかったわけです。幕末の日本と、南北戦争はほとんど同時期ということです。
 それにしても、明治維新の直前まで、合衆国に奴隷制度があったということが、そもそも驚きです。南北戦争という大きな犠牲を払ってでも、奴隷制度をなくすのは歴史の必然でしょう。



第97回 アメリカ合衆国の発展 おわり

こんな話を授業でした

トップページに戻る

前のページへ
第96回 ラテンアメリカの独立

次のページへ
第98回 エジプトの自立