世界史講義録
  


第99回  オスマン・イラク・中央アジア


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オスマン帝国の改革
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 前回述べたように、オスマン帝国は、18世紀後半以降、北西のオーストリアや北のロシアから徐々に領土を奪われ、各地で在地勢力が自立化し、それに対して有効な手だてが打てません。じり貧です。改革の必要性は、統治者であるオスマン朝の上層部もわかっていました。
 1826年には、皇帝マフムト2世により、イエニチェリが廃止されます。
 1839年には、アブデュル=メジト1世がギュルハネ勅令を発布し、タンジマートの開始を発令しました。タンジマートとは、西欧化のための改革のことで、皇帝による上からの改革なので「恩恵改革」と訳されています。行政、法制度、教育などあらゆる分野で西欧化がすすめられました。改革は「イスラム・非イスラムを問わず全臣民の法の前の平等」をうたっていたのですから、その発想はかなり進歩的ですね。ただし、オスマン帝国の隅々まで改革が実現されていたわけではなく、また、独立を求めるバルカン半島の諸民族にとっては、タンジマートは満足できるゴールではありませんでした。



 西欧化をすすめれば、必然的に西欧の論理に従わざるを得なくなります。クリミア戦争で、英仏の援助を受けて勝利したオスマン帝国は、その英仏の要請で、非ムスリムの政治的権利の尊重を約束します。また、外債受け入れ(英仏から借金をすること)、鉄道建設、イギリス資本によるオスマン銀行設立などの事業をすすめることになりました。
 1838年のトルコ=イギリス通商条約以来、ヨーロッパの工業製品の輸入が急増し、国内の産業が衰退した結果、オスマン帝国の財政は逼迫していたのです。そこに、借金や鉄道建設をおこなったため、1875年に、国家財政は破綻してしまいました。
 結局、タンジマートは、西欧諸国が経済進出しやすいように制度を整備し、その結果西欧諸国に食い物にされてしまったという結果をまねいたのです。

 経済的には、植民地化していったオスマン帝国ですが、教育の西欧化などで、新しい考え方を身につけた改革派の官僚や軍人が育ち、さらなる制度改革がはじまります。それが、1876年に発布されたミドハト憲法です。立憲君主制を定めたこの憲法は、改革派の宰相ミドハト=パシャが、新皇帝アブデュル=ハミト2世を擁立して発布したもので、アジア初の憲法制定です。この憲法にのっとって、国会も開設されました。
 しかし、翌1877年、露土戦争がはじまると、皇帝アブデュル=ハミト2世は、戦争を理由に憲法を停止し、国会を解散、ミドハト=パシャを国外追放します。こうして、アブデュル=ハミト2世は、専制政治を復活させました。
 しかし、このあとも、官僚や軍人の中に、専制政治に反対し立憲政治復活をめざす「青年トルコ」と呼ばれるグループが作られ、立憲革命のチャンスをうかがいつづけていきます。
 先走っていうと、オスマン帝国では、西欧化=立憲政治をめざす勢力と、専制政治を維持しようとする勢力のせめぎ合いがこのあとつづき、第一次大戦後、西欧化勢力が政権を握り、現在のトルコ共和国が成立します。他のイスラム諸国とちがい、オスマン帝国=トルコで、これだけ早い時期から、西欧化の試みがつづいたのは、ロシアやオーストリアと国境を接していたことが大きいでしょう。とくに、オスマン帝国はロシアに負けつづけ、領土をどんどん削られつづけている。戦争に勝つためには、西欧化しかないというのが、軍人たちの実感ではないでしょうか。青年トルコでは、軍人たちが、その中心メンバーになっていますし、第一次大戦後トルコ共和国を建国したケマル=パシャも軍人です。現在のトルコでも、イスラム政党が力をつけてくると、これに対抗して政治の世俗主義(非イスラム)を守ろうとするのは軍部です。軍人は、一般的に保守的・反動的と思われがちですが、トルコでは必ずしも簡単に割り切れないです。


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イラン
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 オスマン帝国の東に接するイラン高原は、どうなっていたのでしょうか。
 ちょっと、復習がてら、古代からイラン(ペルシア)について確認しておきましょう。
 最初に登場するのが、アケメネス朝ペルシア。BC550年からBC330年まで。オリエント地方を大統一しました。ギリシアに侵攻したペルシア戦争が有名でしたね。アレクサンドロス大王に滅ぼされ、いったんは、ギリシア人の支配下に入りますが、BC248年から226年までは、パルチアが成立。これは、ペルシア人の国でした。西のローマ帝国と対立していました。パルチアが滅ぶと、こんどはササン朝ペルシアが成立(226~651)。ゾロアスター教を国教にしました。この王朝で作られた美術工芸品が、シルクロードを通って日本にもたらされ、現在も正倉院に残されています。
 ササン朝は、イスラム教を奉じるアラブ人によって滅ぼされ、以後、この地域はイスラム化すると同時に、ペルシア人ではない異民族によって支配されます。ウマイヤ朝、アッバース朝、イル=ハン国、ティムール帝国などです。
 他民族の支配下に入るものの、高い文化と伝統を持つペルシア人からは有能な人材が多くでて、各王朝で官僚として活躍し、宰相になったりしています。

 1501年、サファヴィー朝が成立します。ササン朝以来のイラン民族王朝の復活です。サファヴィー朝はシーア派を国教にして、西のオスマン帝国と対抗します。サファヴィー朝の支配のもとで、イラン人の民族意識が芽生えたと言われています。

 サファヴィー朝が衰えたあと、18世紀末にイランを支配したのがトルコ系の王朝カージャール朝です。イラン人の多くはシーア派ですが、カージャール朝の支配者はスンナ派です。
 カージャール朝は南下政策をとるロシアに圧迫され、1828年、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をロシアと結び、アルメニア地方をロシアに割譲し、治外法権を認めました。1841年には、イギリスとも不平等条約を結び、以後、北のロシア、南のイギリスに、徐々に従属していきました。
 植民地化に抵抗するイラン人の運動として、1848年から50年にかけて起きたバーブ教徒の乱が有名です。バーブ教は、イスラム・シーア派から派生した新興宗教で、ヨーロッパ人に従属する中で、混乱をつづける社会を改革し理想社会を作るため反乱を起こしました。創始者バーブは、政府に逮捕され1850年に処刑されました。その後も、バーブ教は反政府運動をつづけますが、激しい弾圧でやがて勢力を失っていきました。
 不平等条約で庶民生活が困窮するなかで、民族主義や外国人排斥、政治改革を訴える新興宗教が勢力を拡大して、反乱をおこすというパターンは、バーブ教の反乱だけではありません。あとで触れる中国の太平天国の乱や、朝鮮の東学党の乱(甲午農民戦争)と、同一のパターンです。西欧諸国から圧迫をうけたアジア民族の典型的な反応です。
 イラン政府(カージャール朝)は、この後も、さまざまな利権をイギリスなどに与えていきます。

 1891年におきたタバコ=ボイコット運動は、政府がイギリスにタバコの製造販売の利権をあたえたことに抗議しておこった国民的大衆運動です。ウラマーと呼ばれる宗教指導者たちが先頭に立って民衆を組織し、反政府・反英運動をくりひろげ、利権をなくさせることに成功しました。イランでは、宗教指導者が強い影響力を持っていて、今から約30年前にも、ホメイニ師という宗教指導者のもと、革命が成功して国王を追放しました。1978年のイラン革命です。みなさんが生まれる前のことですが、私などには非常に印象的な事件でした。現在のイランも、大統領がいますが、宗教指導者の支持がないと権力を維持できないようです。

 1906年には、専制政治に反対してイラン立憲革命が成功し、議会が開設されますが、ロシアの圧迫によって、議会は閉鎖されました。ロシアやイギリスにとっては、弱体化したカージャール朝による専制政治のほうが、コントロールしやすく都合が良かったのです。
 この後、1925年まで、カージャール朝はつづきました。

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アフガニスタン・中央アジア
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 アフガニスタンには、パシュトゥーン人をはじめとする多くの民族が住み、ひとつの国としてまとまるようになったのは、18世紀の半ばです。1747年、パシュトゥーン人のアフマド=シャー=ドゥッラニーという軍人がイランから独立してドゥッラニー朝を建てたのが、現在のアフガニスタンの始まりです。
 このアフガニスタンの北、中央アジアでは、ロシアが勢力をのばし領土を拡大していました。アフガニスタンの南東インドを支配したイギリスは、ロシア勢力の南下を阻止するため、アフガニスタンを勢力範囲にしようと考え、19世紀以降、インドからアフガニスタンに侵入し、イギリス・アフガニスタン戦争をおこしました。
 ところが、現在でも大国の支配をなかなか受けつけないアフガニスタンです。イギリス軍は、地方に強い影響力をもつ部族勢力のゲリラ活動に悩まされ、アフガニスタンを完全に支配することはできませんでした。1879年に、どうにかアフガニスタンの外交権を獲得し、間接的にロシアの南下をおさえることになりました。

 アフガニスタンの北からアラル海にかけての中央アジアの地域には、トルコ系のウズベク人が、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を建てていました。これらは、1860年代から70年代にかけて、ロシアの保護国になるか滅ぼされるかしていきました。

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アフガーニー
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 いままで見てきたように、北アフリカから西アジア、中央アジアのイスラム諸地域は、西欧諸国の植民地もしくは半植民地の地位に落ち込んでいくのですが、このような状況に危機感を覚え、反西欧の主張をかかげて、イスラムの連帯と改革を訴えた人物がアフガーニー(1838~97)です。反イギリス、反帝国主義の運動をするために、イスラム世界の各地を旅して、イスラムの連帯を訴えました。アフガニスタンから、イラン各地、イスタンブール、カイロ、さらに、ロンドン、パリ、モスクワなど世界各地を訪れ、出版物を出したり、政治結社をつくったり、西欧に抵抗するためのネットワークづくりをおこないました。エジプトのウラービー=パシャの革命運動や、イランのタバコ=ボイコットに大きな影響を与えたといわれています。
 以前は、教科書には載っていなかった人物ですが、現代、イスラム社会に焦点があたり、研究がすすむなかで、もっともはやく西欧と対抗してパン=イスラム主義を唱えた人物として注目されています。


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世界の歴史〈20〉近代イスラームの挑戦 (中公文庫) ヨーロッパ史や中国史のように、人物伝や小説などで物語的ななじみがあると、歴史書を読んでも、理解しやすいのだが、いかんせんイスラム史は(特に近代)は、とっつきにくい。この本もそうなのですが、それは、本の責任ではない。敬遠せずに、しっかり読み込んでいくことが、勉強だし、そこから徐々に面白さがわかってくるというものです。


第99回 オスマン・イラク・中央アジア おわり

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