世界史講義録『セントアンナの奇跡』特別編 金岡新

『セントアンナの奇跡』の舞台となっているのは第二次大戦中のイタリアです。アメリカ兵、ドイツ兵、パルチザン、ファシスト、様々な立場の人物が登場します。ここでは、映画の世界をより深く楽しむために、映画の時点、1944年秋に至るまでの歴史的背景を解説したいと思います。

あらすじ

 まず、おおまかに、話の筋を見ておきましょう。

 冒頭、ニューヨークの郵便局で働く初老の局員ヘクターが、切手を買いに来た客をカウンター越しに射殺するところから話は始まります。なぜ、郵便局員は殺人事件を起こしたのか。その理由は、第二次大戦中の事件にさかのぼります。
ヘクターはアメリカ軍の黒人兵士だけで構成される歩兵師団の一員としてイタリア戦線で戦っていました。イタリア北部トスカーナ地方のとある場所でドイツ軍との戦闘ののち、作戦どおりに渡河に成功したのはヘクターを含む4人の兵士のみで、味方の部隊とはぐれてしまいます。やがて4人は、ドイツ軍の砲撃で負傷した少年を発見し保護します。孤立した4人は、少年の治療と自分たちの宿泊のため山あいの村の家に強引に入り込み、やっかいになることにします。村にドイツ軍はいませんでしたが、この直前には食糧の徴発に来ており、近くで作戦を展開しているはずでした。また、ドイツ軍やファシストと戦うパルチザン部隊も近くの山で活動をしているという状況です。

その家には、ファシストの老主人とその娘レナータが暮らしていました。迷惑とは感じながらも、少年を看護する必要はあったし、無理矢理4人の兵士を追い出すこともできませんでした。少年は、黒人兵の一人トレインになつき、トレインも少年から離れようとしなかったのです。

 少年はどこから来たか謎で、村人も少年を知りません。誰にも見えない幻といつも話しています。また、アメリカ兵の壊れた無線機を念力(?)で直すような、不思議な力をもっています。

 やがて、パルチザン部隊が食糧の補給に村を訪れます。かれらは捕虜のドイツ兵を1人連れていました。パルチザンの1人とこのドイツ兵が謎の少年に関わっているのですが、そこは映画を見てください。パルチザン部隊とアメリカ兵4人は、互いに警戒しながらもその存在を認め、しばし村で共存することになります。ドイツ兵を捕虜として確保するよう命令を受けているアメリカ兵たちは、パルチザンによる尋問終了後、ドイツ兵の身柄を譲り受けることに決めたのですが…。

 アメリカ兵、パルチザン部隊、それぞれのなかでの人間ドラマが展開するのですが、やがてドイツ軍による村への攻撃がはじまり物語はクライマックスを迎えます。それぞれの登場人物にどんな運命が訪れるのか、見てのお楽しみです。

 老婆心ながら、まだ映画を見られていない方にアドバイス。郵便局で殺される人物の顔をしっかり瞳に焼き付けておくと、第二次大戦中の物語がわかりやすくなると思います。アメリカ兵も最初は誰が誰なのかとまどうと思いますが、ここはあまり気にしなくてもいいかもしれません。

イタリアの民家での会話

 さあ、『セントアンナの奇跡』の歴史的背景に移りましょう。

 そのために、まず村の家の場面をとりあげましょう。アメリカ兵と少年がやってくる直前、家の主人の老人と娘のレナータ、近所の女性達が集まっていました。この家の中の会話に、当時のイタリアの状況が浮き彫りになっています。

 こんな場面でした。家では女達が占いをしています。出征した夫の安否を占っているようで、お皿に浮かべた油を真剣に見つめています。ところが、老人がテーブルを揺らして邪魔をしたため、怒った彼女たちが「ファシスト党員だからって傍若無人に」と非難します。

 娘レナータにうながされ、老人が自室に入ると、その壁にはムッソリーニの写真が掲げてあります(のちにパルチザンのペッピはこの写真に唾を吐きかけていました)。レナータは父と女たちを取りなそうとして、父に「ファシストはやめたといって」と願います。

 老人「ムッソリーニはイタリアを大国にした。ヒットラーと組んだのが間違いだ」
 レナータ「イタリアを裏切ったわ。どうなるか分かるでしょ」

 父娘の一連の会話の終わりに、レナータは「(死んだ母親が)黒シャツは悪事を隠すって言ってたっけ」とも言っていました。


 この一連の会話を念頭に置いて、まずは第一次大戦後からのイタリアから話を始めましょう。

ムッソリーニの登場

 映画の時点からさかのぼること約30年前、1914年から18年にかけて第一次世界大戦がありました。ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の戦いです。連合国側が勝利しますが、総力戦・消耗戦の末、敗戦国はもちろん戦勝国も、大きなダメージを受け、各国の国力は疲弊していました。大戦中ロシアでは、食糧・物資の欠乏から戦争続行に反対する民衆の不満が爆発し、社会主義革命によって世界初の社会主義国ソビエト連邦が成立したほどです。

 イタリアは、連合国側に立って参戦し戦勝国となりました。しかし、戦後の講和会議で期待していた領土の獲得ができず、国民の多くに不満が残りました。その結果、右翼的民族主義運動が盛り上がりました。

 一方で、戦争による経済の悪化はインフレ(物価上昇)と失業の増大をうみ、国民の多くは生活の不安にさらされ、左翼的政治活動が活発化しました。ロシアの社会主義革命にも影響され、労働運動、貧農による土地配分運動が盛り上がります。社会主義革命をめざす社会党は、1919年の総選挙で第一党となり、1920年夏には北イタリアで50万人の労働者が工場を占拠し革命前夜の様相を呈しました。
 
 しかし、中道自由主義者からなるイタリア政府は、騒然とする社会情勢を前に有効な政策を打ち出せず、政治の安定を求める資本家や地主など資産をもつ人びとはいらだちをつのらせていました。

 こうしたなかで、登場したのがムッソリーニでした。ムッソリーニは、もともと社会党の機関誌の編集長でしたが、第一次大戦中に国家主義に転向した人物です。

 かれは、1919年「戦闘ファッショ」という組織を結成、ストライキを指導する社会党幹部の事務所を焼き討ちして、その活動を開始しました。ムッソリーニに賛同し行動をともにする人びとはファシストと呼ばれました。

ファシストの暴力

 20年秋からファシストによるテロが横行しはじめました。黒シャツ隊(黒いシャツが彼らのユニフォームでした)とよばれたテロ部隊は、拳銃や棍棒などの武器を持って社会党が政権を握る地方自治体にのりこみ、暴力で町を制圧し、労働組合や農民組合の事務所や指導者を襲い、最後に市長に辞職を迫りました。抵抗した場合は家族を誘拐したり本人を殺害することもありました。こうしたむきだしの暴力(「懲罰遠征」と呼ばれました)で、ファシストは地方の支配権を握っていき、その活動範囲も広がっていきました。

 ファシストの暴力はあまりにも露骨でしたが、その直線的な行動力に惹かれ支持する人々も増えていきました。国家主義的な考えの人たちはもちろん、イタリア政治の現状に不満を持つ地主や資本家はこの運動を支援し、警察もファシストの暴力行為を黙認しました。「(死んだ母親が)黒シャツは悪事を隠すって言ってたっけ」というセリフは、まさしくこのことを言っていたのです。

 1921年、ムッソリーニは「戦闘ファッショ」を「ファシスト党」に改組し自ら統領の地位につきました。政権奪取をめざすムッソリーニは、1922年10月、2万6千の武装したファシスト党員にローマに向かって進軍を指示し、最終的に4万のファシストがローマに終結しました。この「ローマ進軍」で、内乱を恐れた国王は、ムッソリーニを首相に任命し、ファシスト政権が誕生しました。

ファシスト政権とムッソリーニの独裁

 ムッソリーニのファシスト政権によって、1926年、ファシスト党以外の政党は禁止され、一党独裁が始まり、1928年にはファシスト党の機関であるファシスト大評議会が国家の最高機関となりました。

 ムッソリーニは大衆の人気を獲得する術を心得ていました。民主主義を抑圧する一方で、1924年にユーゴスラヴィアとの間で領有権を争っていたフィウメ市を併合、27年にはアルバニアを保護国化して、領土拡大によって大衆を満足させました。

 こうしてムッソリーニのファシスト政権は、独裁政治ながらイタリア政治に安定をもたらして、20年間イタリアを統治して第二次大戦を迎えることになりました。

 村の老人はムッソリーニの写真を掲げるファシスト党員ですから、本心からこのような政治体制を支持していたのでしょう。

 女性たちに老人が「ファシスト党員だからって傍若無人に」と言われていたことからも推測されますが、ファシストだった老人は、村の中でやりたい放題やっても誰にも咎められることがなかったのでしょう。

 しかし、娘のレナータに「ファシストはやめたといって」と諫められていたことからもわかるように、実は、この時点ではムッソリーニの独裁政権は崩壊しているのです。

 この間の事情を、次に説明しましょう。

第二次大戦とイタリア

 第二次大戦は、ドイツ・イタリア・日本の同盟国と、イギリス・フランス・ソ連・中国・アメリカなどの連合国の戦いでした(1939~45年)。劇中、イタリアの村で、掲示板に貼られたポスターをアメリカ兵が必死にはがすシーンがあります。そのポスターには、イタリアの敵国であるイギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ローズヴェルトの風刺画が書かれていました。

 ムッソリーニは、第二次大戦がはじまるとドイツ側に立って参戦したのですが、結果的にはこれが、ムッソリーニ政権の命取りとなります。

 第二次大戦は、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により始まります。ところがイタリアはこの段階で参戦していません。ムッソリーニは様子見をしているのです。イタリアとドイツは、日独伊防共協定(1937年締結)を結ぶなど、友好関係にありましたが、実際のところムッソリーニとドイツの指導者ヒトラーは強い絆で結ばれているわけではありませんでした。

 ムッソリーニは、ドイツの独裁者ヒトラーの先輩格にあたります。ヒトラーが権力を握るにあたって参考にしたのがムッソリーニのファシズム運動だったのです。ところが、イタリアとドイツを比べれば、政治的・経済的・軍事的に圧倒的にドイツが優勢です。ムッソリーニからすれば、自分をまねして権力を握ったヒトラーが、ドイツの国力を背景にイタリアより上位に立つのが腹立たしい。ヒトラーはヒトラーで、ムッソリーニを見下げていました。もともとはお互いに軽蔑しあっていたのですが、独裁と侵略主義的傾向で国際社会から孤立した結果、徐々に結びついていったというわけです(ここに中国侵略で孤立していた日本も加わります)。

 そんな事情もあって、イタリアとドイツは必ずしも一枚岩ではありませんでした。そこで、ドイツが戦争をはじめても、ムッソリーニは様子を見ているのです。そして、開戦から半年後、ドイツ軍がフランスに侵攻し、圧倒的な力でフランス軍を蹴散らしてパリに進撃するのを見て、ムッソリーニはようやくドイツの勝利を確信し参戦しました(40年6月10日)。日独伊三国軍事同盟が結ばれたのは、さらにこのあとの9月のことです。

 ドイツがトントン拍子で戦争に勝ってしまえば、ムッソリーニも勝利の美酒の相伴にあずかれたのですが、そう簡単にはいきませんでした。


 ドイツは、フランスを降伏させましたが、イギリスを降伏させることはできず(イギリスはチャーチル首相の指導のもとドイツ空軍の空襲に耐えぬきました)、1941年6月には、矛先を東に転じてソ連領に攻め込みました(独ソ戦)。当初はモスクワに迫る快進撃だったのですが、42年になり、ソ連が体勢を立て直してくると戦線は膠着します。翌43年2月、ドイツ軍はスターリングラードの戦いで敗れ、9万人の将兵がソ連軍に降伏します。この大敗のあとは、ドイツ軍は劣勢に転じ、徐々にソ連領から後退をはじめました。

弱いイタリア軍

 こういう状況のなか、イタリア軍はどこで戦っていたかというと、バルカン半島、および北アフリカでドイツ軍と共同作戦を展開していました。共同作戦とはいうものの、北アフリカではイタリア軍が弱すぎるためにドイツ軍が助けに入ったようなものでした。北アフリカに限らず、イタリア軍は全般的に弱体で、ドイツ軍は戦力として頼りにしていませんでした。

 1943年5月、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が連合国に降伏し、7月10日には、シチリア島に連合国軍が上陸しました。イタリア本土への上陸は時間の問題です。ドイツ軍はソ連で苦戦しており、勝敗の帰趨がしだいにはっきりしてきました。

 もともと、イタリアにとって参戦する必要性があったわけではなく、イタリア国民のあいだには、この戦争はイタリアの戦争ではなく「ムッソリーニの戦争」だという想いがありましたから、このような戦争に国民を引きずり込んだムッソリーニへの批判が高まってきました。

 映画での老人のセリフ「ムッソリーニはイタリアを大国にした。ヒットラーと組んだのが間違いだ」は、この間のイタリア人の心情をズバリ言い表しているわけです。

 「ムッソリーニの戦争」への批判は、軍の首脳陣やファシストの一部にも共有され、ムッソリーニから権力を奪って戦争をやめてしまおうという流れが生まれます。

ムッソリーニの失脚とドイツのイタリア占領

 1943年7月24日、ローマでファシスト大評議会が開催され、ムッソリーニから統帥権(軍隊の指揮権)を剥奪することが決定されました。ムッソリーニの後継者と目されていた娘婿チアーノさえ追い落としに加わるほどムッソリーニは孤立していました。翌日には、国王の命令でムッソリーニは逮捕監禁され、バドリオ元帥が後継首相に任命されました。バドリオ新政権の使命は戦争をやめることです。バドリオ政権は水面下で連合国側と交渉したのち、9月8日には休戦を宣言しました。事実上の連合国への降伏です。このニュースを知ったイタリア国民は大喜びしたのですが、一方では、手放しでは喜べない状況がありました。

 なぜなら、イタリアの降伏と戦線離脱を同盟国ドイツが黙って認めるはずがありません。イタリアに連合国軍が進駐すれば、ドイツは南から直接攻撃を受けることになるわけですから。この9月の時点で、イタリアにはドイツ軍約15師団、20万の兵力が駐屯していました。バドリオ政権が降伏すれば、連合国軍が進駐する前にドイツ軍がイタリアを占領支配することは誰の目にも明らかだったのです。

 ですから、バドリオ首相は、休戦を宣言した直後に、国王をともない首都ローマから脱出し、南イタリアのブリンディシへ避難しました。数日後にはローマがドイツ軍の占領下におかれることが確実だったからです。実際に、ヒトラーはこのあと、新たに八個師団のイタリア派兵を命じ、ローマは9月12日にはドイツ軍に占領されました。

イタリア人の抵抗-パルチザン

 一方で、こうしたドイツ軍による占領を見越して、ドイツ及びファシストに対抗しようとするイタリア人の自発的な動きも生まれていました。バドリオ政権が休戦を発表した段階で、各政党指導者達が集まってローマで国民解放委員会を結成しています。この組織は、バドリオ政権逃亡後、ドイツ軍への抵抗運動を組織していきました。また、イタリア軍の兵士の中には、休戦のニュースを知った段階で、ドイツ軍と戦うために部隊を離脱し、武器を持ったまま山中にはいる者が少なからずいました。武器を持ちドイツ軍とファシスト勢力に対して武装闘争をおこなう人々をパルチザンといいます。元兵士以外にもパルチザンに加わる人々は多く、その数はドイツ軍の敗北までどんどん増えつづけていったのです。

 パルチザンの多くは、ファシスト政権下で弾圧されていた様々な政党の影響のもとに組織されていました。社会党系のマッテオッティ旅団、行動党系の「自由と正義」旅団、共産党系のグラムシ旅団、ガリバルディ旅団などがありました。都市ゲリラ専門の部隊もありました。

 パルチザンの攻撃に対するドイツ軍の報復は凄まじいものでした。たとえば、44年3月、ローマ市内でドイツ兵33名が仕掛けられた爆弾で殺されると、反ドイツ、反ファシズムの政治犯やユダヤ人など330人が報復として処刑されました(アルテアティーネの虐殺)。ドイツ兵の死者1名に対して10倍の報復として330人が殺されたのです。この事件以外にも、ドイツ軍が見せしめや報復として一般民衆を処刑する事件は数多く起きました。映画の背景となったセント=アンナ虐殺事件もその一つです。

ムッソリーニの「イタリア社会共和国」

 ところで、国王の命令で逮捕されたムッソリーニは、1943年9月には、幽閉先のアペニン山中からドイツ軍特殊部隊に救出されました。その後、ムッソリーニは、ドイツの後ろ盾によってイタリア北部に建てられた「イタリア社会共和国」の首班となりますが、この政府はドイツの傀儡政権で、ムッソリーニはドイツの命令にしたがうだけでした。43年7月の失脚以来、政治家、指導者としては完全に過去でした。

 レナータが「(ムッソリーニは)イタリアを裏切ったわ。どうなるか分かるでしょ」と言っていたのは、ドイツの操り人形になってしまったムッソリーニを非難しているのです。

連合国軍の北上

 1943年後半以降、連合国軍はイタリア半島に上陸し、ドイツ軍と戦いながら北上しました。連合国軍の主力はアメリカ軍です。ドイツ軍は何重にも防衛ラインを構築し、連合国軍の北上阻止を図りましたが、じりじりと後退していきました。

 連合国軍は、44年6月には退却するドイツ軍に入れ替わってローマに入城しました。

 一方、ドイツ軍占領下の都市や山岳地帯では、パルチザンが一般民衆と連携しながら活動を活発化させます。かれらは、連合国の北上によるイタリアの解放を待つのではなく、自らの手でドイツ軍とファシストからイタリアを取り戻そうとしたのです。

 さて、主人公の一人、トレイン上等兵が大事に抱えていた彫像の頭部はフィレンツェのサンタ・トリニータ橋を飾っていたという設定ですが、フィレンツェ市では、44年8月上旬、パルチザンと市民が、ドイツ軍・ファシストに対して一斉蜂起しました。この時、ドイツ軍はパルチザンの活動を妨害するために市内に流れるアルノ川にかかる十以上の橋を爆破したのです。しかし、結局は市街戦のすえドイツ軍はフィレンツェを放棄、撤退しました。そのあとで、連合国軍はフィレンツェに入城したので、トレイン上等兵は、その時に彫像を拾ったのでしょう。そして、映画冒頭の戦闘は、フィレンツェから撤退したドイツ軍を追って、展開されたのだと思われます。

大統領夫人の黒人兵

 現在、アメリカでは法的に人種差別はなくなっていますが(初の黒人大統領が登場するほどです)、1960年代の公民権運動と呼ばれるアフリカ系アメリカ人による地位向上運動以前は、有色人種に対する隔離や差別が認められていました。映画の時点である第二次大戦時は、露骨な差別が日常的だった時代です。
バッファロー・ソルジャーと呼ばれる部隊の黒人兵がこの映画の主人公なわけですが、当時アメリカ軍では黒人と白人の混成部隊はありませんでした。黒人部隊はありましたが、その大部分は戦闘部隊ではなく、道路や空港建設、武器弾薬輸送などの後方支援部隊でした。わずかに存在した黒人兵の戦闘部隊のひとつが、ここに登場する第92師団です。

 しかし、黒人が自分たちと同じように活躍するのを快く思わない白人はたくさんいました。とくに、かつて奴隷制度があった南部諸州では、黒人への差別意識が強く、黒人部隊は「誰かの横やり」で作らされたのだ、という噂が流れました。人々の批判の標的となる、その「誰か」にされたのが大統領夫人だったエレノア・ローズヴェルトです。黒人部隊とエレノアとは、全く関係がなく、根も葉もない噂なのですが、劇中にも、「黒人歩兵師団は実験なんだ。大統領夫人の黒人兵だ。我々のじゃない」(アーモンド少将)というセリフが出てきます。このセリフは、彼が南部出身であることや、黒人部隊に対するスタンスを表しているのです。


 ちなみに、黒人部隊は南北戦争(1860年代)に始めて組織され、そのころからバッファロー・ソルジャーと呼ばれていたようですが、その呼称の由来は不明です。

映画の中でのパルチザン

 ドイツ軍に対してゲリラ活動を展開するパルチザンは、連合国軍にとっては味方のはずです。

 ところが、「セントアンナの奇跡」中では、連合国軍=アメリカ軍とパルチザンとの関係が距離をもって描かれています。連隊本部のアーモンド少将は、ドイツ軍の動向に関するパルチザンの情報に対して「連中は信用ならん」と言っていました。また、村の中で、パルチザンと4人のアメリカ兵が村で鉢合わせした時も、互いに銃を構えて今にも撃ち合いになりそうでした。

 これはどういうわけでしょう。

 私にも、理由はわからないのですが、可能性として考えられるのは、アーモンド少将がパルチザンを共産主義者だと考えていたということです。

 45年4月、イタリアが完全に解放された時点で、パルチザンの40%が、共産党系でした。イタリア共産党は、ファシズム政権を激しく批判し、そのリーダーであるグラムシは、ムッソリーニ政権下で獄中死しています。それだけ反ファシズムの主張をはっきりと掲げていた政党であり、ファシズムを憎む多くの人びとの支持を集めていたのです(ちなみに、ユーゴスラヴィアでパルチザンのリーダーだったチトーは共産主義者であり、第二次大戦後は国民的英雄として社会主義政権を樹立しています)。

 ところがアメリカは資本主義の国であり、共産主義に対して偏見を持つ人は多いのです。アーモンド少将は、パルチザン=共産主義者=「信用できない」という発想をしていたのかもしれません。

 実際のパルチザンは共産党系は赤いマフラー、それ以外は青いマフラーをしていたそうですが、映画のパルチザンはマフラーなしですから、判断不能です。

 また、パルチザンのリーダーであるペッピが仲間のロドルフォと語り合う場面で、ペッピが「神の御前にもし行けたとしたら、党員証の有無を聞かれるかな」と言う所があります。共産党の党員証かとも思うのですが、「マルコ帰れ、ファシストは入れない」とのセリフがつづくので、ファシスト党の党員証かもしれません。私が見た限りでは、何系のパルチザンかは分かりませんでした。


 パルチザンの描写の理由として考えられるもうひとつの可能性は、この映画のテーマに関わっているのではないかということです。ネタバレ的なので、映画をご覧になっていない方は、あとで読んだ方が良いかも知れません。


 映画を貫いているテーマの一つが、味方の中に敵はいるし、敵の中にも味方がいる、という思想です。四人の黒人兵も、それぞれ異なる思想を持っていました。合衆国における黒人の地位と将来について、希望を持ち愛国心を語る兵士もいれば、何も信じず快楽だけを求める兵士もいます。黒人部隊のメンバーだからといって同じ考えを持っているわけではありません。同じアメリカ軍なのに、黒人部隊の無線連絡を信用せず、味方の部隊に砲弾を撃ち込む白人指揮官もいます。味方を裏切るパルチザンもいました。イタリアの村人を虐殺をするドイツ兵もいましたし、助けるドイツ兵もいました。戦場となった村で起きる最後の出来事を確かめてください。私はまさに「奇跡」だと思いました。

 "本当の敵は誰で、本当の味方はどこにいるのか?"


 こういう構造を持った映画ですから、「パルチザン=連合国軍の味方」という単純な構図を描くことははじめから不可能ではなかったのか、と想像されます。史実よりも優先される表現があるのが映画の面白さでもあるのでしょう(この映画が史実を無視しているわけではありません。ギリギリの所で絶妙に描いていると感じました)。

□参考図書□


「誰がムッソリーニを処刑したか イタリア・パルティザン秘史」木村裕主、講談社、1992
「アメリカ黒人の歴史」ベンジャミン・クォールズ、明石書店、1994
「よくわかる高校世界史の基本と流れ」浅野典夫、秀和システム、2005