世界史講義録

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2011年度 世界史B 解答番号1~4

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解答番号1
 エジプトについて、「a アレクサンドリアが建設された。」「b アラブ人によって征服された。」「c プトレマイオス朝が滅亡した。」を古い順から並べる問題です。
 まず、aのアレクサンドリア。これは、誰が建設しましたか。名前からすぐにわかりますね。アレクサンドロス大王です。この人はいつ頃の人か?紀元前だよなー、くらいの見当はつけてください。マケドニアの王として、マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東方遠征を行った。戦った相手は、アケメネス朝ペルシア。いくつかの戦いがありますが、私もその年を暗記しているわけではありません。BC330くらいだったなあというレベルです。アケメネス朝ペルシアは、アッシリアに続いてオリエント全域を支配した大帝国でした。エジプトもその支配下にあったが、アレクサンドロスによってアケメネス朝支配から解放され、アレクサンドロスはエジプトにもアレクサンドリアと呼ばれる都市を建設しました。
 さて、アレクサンドロスはアケメネス朝を滅ぼし、その領域を支配したのですが、すぐに死んでしまう。子供はいなかったため、その跡目を巡って彼の武将たちが争った。その結果、旧アレクサンドロスの帝国は大きく三つに分裂した。マケドニア・ギリシアを支配するアンティゴノス朝、シリアを支配したセレウコス朝、そしてエジプトを支配したプトレマイオス朝でした。ナントカ朝のナントカとは、その国を支配した武将の家名です。
 ここで、プトレマイオス朝がでました。だから、プトレマイオス朝が滅亡したのは、当然アレクサンドリア建設の後になります。
 プトレマイオス朝を滅ぼしたのは、どの国ですか。ローマです。ローマのオクタヴィアヌス、彼は後にローマの初代皇帝アウグストゥスとなる。彼に倒されたプトレマイオス朝最後の王がクレオパトラ。彼女はオクタヴィアヌスの養父カエサルの愛人だった。地中海世界をつぎつぎと征服しつつあるローマを前に、クレオパトラは、ローマ最大の実力者であるカエサルに取り入り、その愛人となってエジプトの独立を保ったのですが、その後継者となったオクタヴィアヌスに倒されてしまった。このときに、クレオパトラとともに倒されたのが、オクタヴィアヌスのライバルであったローマの将軍アントニウスでした。このあたりの話は、スーパースター競演という感じで、ものすごく有名なので当然知っておくべきでしょう。
 カエサルからアウグストゥス(オクタヴィアヌス)時代は、ローマが共和政から帝政に移る移行期です。年代的にはアウグストゥス時代は紀元前後です。細かい年代は暗記できなくても、紀元前後の時期だということは頭に入れておいてください。紀元前後ということは、イエスが活動した時期とほぼ重なるということです。イエスはローマ帝国の支配下のパレスチナ地方で生きたのです。だから、イエスの死後キリスト教がローマ帝国内に広がっていった。
 そこでbです。アラブ人の征服という文で、即これはイスラーム教の初期の拡大のことだなと、ピンときて欲しい。イスラーム教とキリスト教徒どちらが先か?イスラームはユダヤ教とキリスト教の影響を受けて誕生したのでしたから、bが最後にきます。
 というわけで、答えはa→c→bとなります。

解答番号2
 ローマの「共和制末期から帝政初期にかけては、大量の(ア)を使役したラティフンディアが盛ん」とある。(ア)は奴隷。これは問題ないでしょう。この時期のローマは地中海世界を征服し領土を拡大し続けています。先のカエサルはガリア、いまのフランスにあたりますが、を征服したし、アウグストゥスはエジプトを併合した。征服戦争が続き、敵の捕虜などが奴隷としてどんどんローマ本土に連れてこられた。この奴隷を労働力として働かせた大農場がラティフンディアでした。ラティフンディアの所有者は貴族です。
 「のちには、それに代わって、(イ)に土地を貸す小作制がしだいに広まっていった。」答えはコロヌスですが、流れを確認しておきましょう。ローマの領土拡大が続いていた時期には、奴隷がどんどんと供給されました。ひどい扱いをして、死んでもかまわない。奴隷はいくらでも入手できた。ところが、五賢帝のトラヤヌス時代が領土最大となりますから、それ以後は領土拡大が止まり、ローマが周辺諸民族との戦いにおいて守勢に回るわけです。戦争捕虜が無尽蔵に奴隷として供給されなくなる。そこで、奴隷に家族を持たせて子供を作らせるようにする。つまり労働力を再生産させるわけです。その際に彼らの身分を奴隷から上昇させてやり、小作人とする。これがコロヌス。コロヌスになったのは身分上昇した奴隷だけでなく、没落したローマ人農民もいました。
 ついでに覚えておくといいのが、コンスタンティヌス帝。ローマ帝国末期のこの皇帝は、三つの仕事をした。ミラノ勅令でキリスト教を公認したこと。首都をコンスタンティノープル(旧名ビザンティン)に遷したこと。そして、コロヌス制を確立したこと。
 コロヌス制の確立とはどういうことか。大土地所有者にとって、労働力確保のために奴隷をコロヌスにしてやったが、彼らに逃げられてはたまらない。そこで、コンスタンティヌス帝はコロヌスの移動を禁止した。これがコロヌス制の確立です。
 ちなみに、選択肢にはヨーマン、ユンカーという単語がでています。この問題には無関係ですが、すべて農業に関わる身分の呼称として重要なものなのですから、この際に覚えておきましょう。ヨーマンは中世末期に登場するイギリスの農民。この時期に、イギリスやフランスでは商業の発展や黒死病の流行などで社会が大きく変動し、それまで領主に隷属していた農奴の身分が上昇してきます。この農民をイギリスではヨーマンという。日本語に訳して独立自営農民。こういう力をつけてきた農民たちが、百年戦争による重税に反発して反乱を起こす。イギリスではワット=タイラーの乱、フランスではジャックリーの乱。ともに14世紀の出来事です。同じ頃にイギリスで力をつけてきた貴族身分ではない地主のことをジェントリ(郷紳)といいます。これもついでに覚えておこう。
 ユンカーはプロイセンの地主貴族。18世紀、プロイセンが国力を伸ばす時期に軍人や官僚として国家を担う人材を出したのが、このユンカーです。フリードリヒ2世の記述と一緒に出てきます。19世紀にはプロイセンが中心となってドイツを統一し、ドイツ帝国を建設するのですが、ここでも国家を支えたのはユンカー達でした。ドイツ帝国建国の立役者、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクもユンカーだったことは有名です。
 農民の呼称では、中国の宋代以降に登場する小作人を佃戸といいます。地主は形勢戸。中国の貴族階級は唐末に消滅します。宋代の形勢戸は貴族ではない地主です。そういう意味ではイギリスのジェントリと似ている。

解答番号3
 2世紀段階で、存在していなかった書物は何かという質問で、答えは①の『神の国』。著者のアウグスティヌスはローマ帝国末期の教父。教父というのはキリスト教の理論家のことです。キリスト教会では、イエスを直接知っている弟子(死後復活したイエスにあったという人も含みます)のことを使徒といい、教父はそのあとの段階に登場する人たちです。アウグスティヌスは、北アフリカ出身で一時期マニ教に入信したこともあったが、のちにキリスト教に改宗し、『告白』『神の国』を著しました。『神の国』は永遠の都と謳われたローマ市がゲルマン人の一派西ゴート人の侵入を受けて、徹底的に破壊略奪されたという知らせを聞いて書いたといわれます。ローマ帝国は地上の国、永遠と思われても必ず滅びる。これに対して教会は神の国であって、永遠ですよという本です。これを知っていれば、答えはすぐにわかるわけです。2世紀はローマは五賢帝時代。ローマ市がゲルマン人に占領されるわけがないのです。
 ②のヘロドトスは古代ギリシアの歴史家。最古の歴史家として歴史の父と呼ばれることもある。『歴史』は、リアルタイムでペルシア戦争のことを書いた本です。紀元前5世紀の話。ついでに、古代ギリシアにもう一人『歴史』という本を書いた人がいます。トゥキディデスです。かれは、やはりリアルタイムでペロポネソス戦争のことを記録した。ペルシア戦争が終わったあと、デロス同盟の盟主として全ギリシアに号令をかけ始めたアテネにスパルタが反発して、スパルタ率いるペロポネソス同盟とデロス同盟が戦ったのがペロポネソス戦争でした。これも紀元前5世紀ですが、前後関係では、ヘロドトスの『歴史』のあととなる。
 ③のホメロスは伝説の人物。紀元前8世紀の人とされていますが、実在したのか疑問です。彼の『イーリアス』『オデュッセイア』 は、半ば神話であるトロヤ戦争をうたった叙事詩。日本でいえば『平家物語』。吟遊詩人、琵琶法師、講談師みたいな人たちが、語り継ぐうちに徐々に現在の形に整えられたのだと思います。とにかく、ホメロスはこの選択肢の中では、実在が疑われるほど古い、一番過去の人ですから、2世紀には『イーリアス』は存在する。
 ④ポリビオスは『歴史(ローマ史)』と選択肢にあるので、引っかけられやすい。ポリビオスはローマで活動して『歴史』を書きましたが、ギリシア人です。ローマがギリシアを支配下に置くなかで、ポリビオスは奴隷となる。正確には人質のようなものだったらしいですが、便宜上奴隷と考えた方がすっきりするでしょう。奴隷というと、ラティフンディウムで鞭で打たれながら肉体労働をしているようなイメージがあるかもしれませんが、ギリシアの知識人も奴隷になる。彼らはローマ人よりも賢かったりするので、ローマ貴族の家政を掌ったり、ローマ人子弟の家庭教師をしたりしました。ポリビオスは、小スキピオというローマ人将軍に仕えた。小スキピオは、第二回ポエニ戦争でハンニバルを破った名将スキピオの孫に当たる。この小スキピオが第三回ポエニ戦争で遂にカルタゴを滅ぼすのですが、ポリビオスは彼に仕えていたのだから、リアルタイムでポエニ戦争です。地中海世界に覇を称え発展しつつあるローマの歴史を書きました。紀元前2世紀のこと。またポリビオスは政体循環史観という歴史理論を唱えています。歴史は王政、貴族政、民主政、衆愚政という政体を繰り返すという。ギリシアの歴史をそのまま言っただけです。
 古代の歴史家としては、中国前漢の司馬遷『史記』、後漢の班固『漢書』も思い出しておいてください。『史記』の特徴紀伝体も忘れずに。

解答番号4
 16世紀の出来事として、適当なものを選べという問題。選択肢を見ると、時代云々以前に書いてあることがおかしい選択肢が①と②。この文章がおかしいとわかれば、時代がわからなくても、③か④の二択になります。
 ①では、エルベ川以東のヨーロッパで、農場領主制(グーツヘルシャフト)が広まったとありますが、農場領主制は、エルベ川以東の東ヨーロッパで広まったものです。教科書では、商業革命・価格革命の項目で出てくる。大航海時代を経て、ヨーロッパの遠隔地貿易の中心が地中海から大西洋岸にうつる商業革命、アメリカ大陸から大量の銀がヨーロッパにもたらされることによる物価騰貴が価格革命。これによって、西ヨーロッパでは農民の地位が向上し商工業が発展するのですが、東ヨーロッパでは西ヨーロッパ向けの輸出用穀物生産が盛んになる。低価格の穀物を生産するために、東ヨーロッパの領主たちは農奴を抑えつけるようになる。西ヨーロッパのように農民の地位は向上しない。こういう東ヨーロッパの農場を農場領主制(グーツヘルシャフト)というのです。フランスやイギリスで農民の地位が向上していったことを理解していれば、農場領主制を知らなくても、領主制という言葉だけで、「それは違うな」と感じるはずですね。こうして①は排除。
 ②「イギリスで、放牛のための第一次囲い込みが進展した」。放牛ってなんですか?普通はこれで変だと思う。イングランドの西、海をまたいだ対岸をフランドル地方といいます。現在のオランダ、ベルギー、フランスの一部を含む地名です。ここが毛織物工業の盛んな場所だったことを覚えていますか。毛織物とは羊毛の織物ですね。毛織物の原料である羊毛をフランドル地方に運べばどんどん売れるので、イングランドで第一次囲い込みが行われたのが16世紀。時期は合っていますが、囲い込みで放牧したのは牛ではなく羊。穀物などを作っていた小作人を追い払って、広大な牧草地を作り、柵で囲ったので囲い込みと言います。
 ③は正解。
 ④は、文章そのものは誤りではないが、時代が違う。ロシアの農奴解放令は、1861年。1853年~56年のクリミア戦争で、ロシア軍はイギリス・フランス軍に完敗。この結果を受けて、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ロシアの後進性をはっきりと認識し、政治改革に取り組みました。そのひとつが、1861年の農奴解放令。年代を覚えるのはなかなか難しいが、1860年代は各国の大変革期なので、その一環として覚えておくとよいです。
 1861年にはロシアの農奴解放令と、イタリア王国の成立がある。ばらばらだったイタリアがサルデーニャ王国を中心にようやく統一された。さらに、この年にはアメリカで南北戦争が起きている。戦争中の1863年にはリンカン大統領による奴隷解放宣言が出された。1868年は日本で明治維新。ドイツでは、1870年からはじまるプロイセン=フランス戦争を経て、1871年にドイツ帝国が成立した。ドイツもイタリア同様に小国分立状態だったのですが、プロイセンを中心としてようやく統一がなったのです。イギリス・フランスのあとを追い、1860年代に古い政治体制から脱却することに成功したこれらの国々は、のちに帝国主義列強の仲間入りをします。この時期に、近代国家を形成できなかった民族・国家は、植民地・半植民地・従属国になっていくのです。
(2012.5.22記)

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