世界史講義録
  

第51回  西ヨーロッパ世界の膨張

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大開墾時代
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 ヨーロッパは森の世界だったといいます。ヨーロッパ人たちは、広大な森林の周辺を何とか開墾して農地を開き、森で牧畜をした。森の中で豚の放牧をしている絵がありますね。人間はこんなふうに森の恵も受け取ってはいましたが、基本的に森は人間世界の外側にある恐ろしいところでした。
 「赤ずきんちゃん」でも、「ヘンデルとグレーテル」でも、森には危険な狼や不気味な魔女がいる。ヨーロッパ人が森に対して感じていた恐怖がそういう形で描かれているのです。

 森を切り開いての農地の開拓は細々としたものでしたが、11世紀から13世紀にかけて大規模になる。これを大開墾時代という。鉄製農具の普及や、修道院での農業技術の向上が背景にあった。

 特に有名な農業技術が三圃制。耕地を春作地、秋作地、休閑地の三つに分けて順繰りに耕作することで地力を維持したものです。

 11世紀以降、耕地の拡大と農業技術の進歩で収穫量が増大して人口が増加します。やがて西欧のなかで蓄えられたエネルギーが外の世界に向かっていく。外部世界への活動が活発化します。
 外部への活動は三方向へ向かいます。一つはイスラム世界へ。これが十字軍。二つ目は東ヨーロッパへ。三つ目はイベリア半島へ。

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十字軍
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 十字軍については何度か出てきましたが、背景には農業の発展があったのですね。

 イスラムのセルジューク朝が小アジア地方に勢力を伸ばし、領土を奪われたビザンツ帝国皇帝が、西のローマ教皇に救援を要請したのがことの発端でした。
 救援依頼をうけたのがウルバヌス2世。ちょうどグレゴリウス7世の叙任権闘争で教皇権が強まっていたときでしたね。1095年、ウルバヌス2世はクレルモンの公会議で集まったヨーロッパ各地の諸侯たちにビザンツ救援と聖地イェルサレム奪還のための遠征軍を呼びかけます。これをきっかけとして宗教的熱狂の中で十字軍がはじまりました。
 イェルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地でした。ここは長い間イスラム教国の支配下にあったのですが、熱心なキリスト教徒はヨーロッパからも巡礼に出かけていた。ところが、セルジューク朝の支配下に入ってからは巡礼が妨害されている、というのです。これも十字軍呼びかけの理由の一つでした。巡礼が本当に妨害されていたのかどうかはよくわからないのですが。

 十字軍の十字というのはキリスト教のシンボルですね。十字軍の兵士たちは服に十字の印を縫いつけていたのでこう呼ばれたようです。英語ではクルセイダーズです。
 十字軍は何回もおこなわれています。回数は数え方によってかなり変わってきます。大がかりなものだけで7回あります。

 第一回は、1096年から99年にかけておこなわれました。ある意味ではこれが成功した唯一の十字軍です。主力はドイツとフランスの諸侯。ドナウ川を下ってビザンツ帝国に入り、コンスタンティノープルから小アジアに渡り、ここにあったイスラム諸勢力と闘いながら南下、シリアに入りイェルサレムの占領に成功しました。
 十字軍はここにイェルサレム王国という国を建設して、諸侯のひとりを王に推戴しました。
 当時すでにセルジューク朝は衰退していて、イスラム側は地方政権が割拠状態でした。それにいきなりヨーロッパ人が攻めて来たので、不意をつかれて負けてしまったのです。

 十字軍の残虐ぶりは有名で、イェルサレムを占領したときにもイスラム教徒を殺しまくっています。十字軍に同行したフランスの聖職者の残した資料です。「サラセン人(イスラム教徒のこと)が、生きている間にそのいやらしい咽喉の中に呑みこんだ金貨を、腸から取り出そうと、屍の腹を裂いてしらべてまわり…同じ目的で屍を山と積み上げ、これに火をつけて灰になるまで焼き、もっと簡単に金貨をみつけようとした。」十字軍兵士は、宗教的情熱だけではなくて、金銭欲も激しかったようですね。
 イラク人の残した記録です。「住民は、一週間にわたって市街地を略奪してまわるフランク人(十字軍兵士のこと)によって斬り殺された。…エル=アクサ寺院内では7万人以上の人々が殺された。…また、彼らは岩のドームを空にするほどの莫大な戦利品を持ち去った。」
 こういう虐殺を十字軍兵士は、少しも悪いことと思っていないだけではなく、たくさん殺せば殺すほど素晴らしいと思っている節があるのです。宗教的熱狂と戦争が合体すると不気味なことになる典型的な例です。

 イェルサレム王国を建てた十字軍ですが、国を維持するための物資の補給を担当したのがイタリアの商人でした。ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサという商業都市国家がイタリアにはあって、輸送を担当したこれらの町の商人はおおいに儲けた。やがて、イタリア商人たちがのちの十字軍の主導権を握りますから要注目です。

 やがて、はじめのショックから立ち直ったイスラム側が反撃を開始して、イェルサレム王国から領土を奪いはじめた。これに対して第二回十字軍がおこなわれます(1147~49)。ドイツ皇帝、フランス王などが中心でした。第一回と同様のルートでシリアに向かいましたが、ダマスクスで大敗して失敗。

 その後もイェルサレム王国の領土縮小がつづく。エジプトでアイユーブ朝を建てたサラーフ=アッディーンは、イェルサレム王国からイェルサレムを奪回しました。
 これに対しておこなわれたのが第三回十字軍(1189~92)。イギリス王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世という豪華メンバーが参加しました。豪華なことは豪華だったんですが、フリードリヒ1世は目的地に着く前に、行軍中川を渡るときに馬から落ちてそのまま溺れて死んでしまった。鎧が重すぎて泳げなかったんだね。期待はずれの死に様でした。
 残るイギリス王とフランス王は仲が悪くて行軍中ケンカばかりしていた。とうとうフランス王は作戦途中で怒って帰ってしまった。最後はイギリス王だけでサラーフ=アッディーンと戦ったんですが、イェルサレムを奪うことができない。

 この時のサラーフ=アッディーンの態度は十字軍の残虐ぶりとは正反対で寛大。ヨーロッパ人からも賞賛される騎士ぶりだったことで有名。たとえば、サラーフ=アッディーンがキリスト教徒からイェルサレムを奪ったときのこと、キリスト教徒を一人も殺さず、男は金貨10枚、女は5枚、子供は1枚という身代金で身の安全を保障してやる。身代金が払えない貧しいキリスト教徒はどうしたか。なんと、サラーフ=アッディーンがかわりに払ってやったという。

 そんなサラーフ=アッディーンですから、イギリス王が矛を収めてヨーロッパに帰国できるようにメンツを立ててやります。成果もないままではお前も引っ込みがつかないだろうと、キリスト教徒の聖地巡礼を認めるという「おみやげ」をあたえてイギリスに帰しました。第三回十字軍はこれで修了。

 第四回十字軍(1202~04)は、教皇権絶頂期の教皇インノケンティウス3世の時におこなわれましたが、これは本来の目的からはずれた十字軍です。
 フランスの諸侯が主体の十字軍で、兵士たちは海路イスラムへ遠征するつもりでヴェネツィアに集結しました。ところが、お金がなくて船賃が払えない。ヴェネツィア商人たちは宗教的情熱よりも商売が大事ですから、金を払わない客は運ばない。結局船賃代わりに十字軍兵士はヴェネツィアの商売敵コンスタンティノープルを攻撃させられてしまった。
 キリスト教の国であるビザンツ帝国を攻めてしまうという、わけのわからない十字軍です。あげくにコンスタンティノープル攻略に成功して、ここにラテン帝国(1204~61)という国まで建ててしまった。
 これで、一時ビザンツ帝国は各地に亡命政権を作ることになりますが、やがてそのなかの一つニケーア帝国がラテン帝国を滅ぼしてビザンツ帝国を復活させました。
 結局得をしたのは地中海貿易をほぼ独占したヴェネツィア商人だけという結果でした。

 第五回十字軍(1228~29)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がおこないます。この皇帝は異色の人で、母親の出身の関係で、ドイツ皇帝でありながらシチリア生まれのシチリア育ち。宮廷もシチリア島にあった。シチリア島というのは、イスラム教徒のアラブ人によって支配された時期もあり、その後はノルマン人に征服され、いろいろな民族、文化、宗教が同居している島でした。
 フリードリヒ2世の宮廷には、そういういろいろな民族の者が仕えていた。ユダヤ人、アラブ人、イスラム教徒もいた。かれ自身アラビア語がペラペラだったそうです。ヨーロッパ文化とキリスト教が絶対だと信じているような単純な人ではなかったのね。国際的感覚を身につけていたコスモポリタンだった。
 だから、十字軍なんてアホくさいと思っていたみたいですが、政治的な立場から行かざるをえなくなった。そこで、軍隊を率いて現地まで行くのですが、一度もイスラム勢力と戦わず、外交交渉だけでイェルサレムを手に入れて帰ってきた。
 ちょっと当時のヨーロッパ人の水準からかけ離れた人物ですね。

 フリードリヒ2世、多民族が雑居しているシチリア島に育って疑問に思ったことがあった。人は本来何語を話すのだろうか、と。そこで、さっそく実験をした。生まれたばかりの何人もの赤ちゃんを、いっさいの言葉を話しかけずに育てたんです。
 どうなったか。言葉をかけられずに育てられた赤ん坊はみんな死んでしまったんだって。残酷といえば残酷な実験ですが、不思議な、ちょっと考えてしまう結果ですね。
 ともかく、思いついたら実験してみたいという、実証精神のある人だったという逸話です。

 第六回、第七回の十字軍は末期の十字軍で尻すぼみで終わりました。おこなったのはフランス王ルイ9世。まじめな信仰の持ち主だったようですが、第六回十字軍(1248~54)ではエジプトに遠征して捕虜になり、莫大な身代金を払って釈放してもらって終了。第七回十字軍(1270)はエジプトまでも行かずに、フランスの対岸のチュニスを攻撃しますが、病気で死んで終わり。

 以上が一般に認められている十字軍です。

 これ以外に一般民衆が宗教的熱狂からイェルサレムに向かったり、子供たちだけでおこなった少年十字軍とかあります。こういうのは途中で襲われたり、人さらいにあって奴隷に売られたりして、目的地に到着することすらできなかった。

 ほぼ200年にわたっておこなわれた十字軍でしたが、最終的には聖地イェルサレムを維持することはできず、ビザンツ帝国を救うという目的にもはずれてしまい、何のためにやっているのかわからないものになって終わりました。

 十字軍はヨーロッパの歴史にどんな影響を与えたのか。

 1,教皇の呼びかけではじまった十字軍が失敗に終わったので、教皇の権威が衰えた。
 2,従軍した諸侯、騎士は戦費の負担から没落する者が多かった。その結果相対的に各国の王の権力が強化されることになった。
 3,十字軍をきっかけとして西アジアとの貿易、東方貿易といいますが、これが活発化した。東方の産物がイタリア商人によってイタリアに運ばれ、そこからヨーロッパ各地に運ばれた。この結果、商業と都市が発展し、商業をになう新興市民階級が台頭した。
 4,ビザンツ文明、イスラム文明が西欧に伝えられ、ヨーロッパ文化の発展に大きな影響を与えた。

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東方植民運動
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 ドイツのエルベ川より東の地域は、未開の土地が多く残っていました。原住のスラブ人を征服しながら、この土地をドイツの諸侯が積極的に開拓していったのが東方植民運動です。エルベ川以東の領主は有利な条件で農民を誘い、多くの農民が開拓民として移住していきました。十字軍で結成されたドイツ騎士団という武装した修道士の団体も積極的にこの東方植民運動をおこないスラブ人にキリスト教を布教した。
 ヨーロッパの東への拡大運動です。

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レコンキスタ
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 イベリア半島にはイスラム国家がありましたが、北部辺境地帯のキリスト教諸侯がイスラム国家と戦闘を繰り返しながら徐々に領土を拡大していきます。これをレコンキスタという。再征服運動と訳しています。
 有力諸侯を中心にして、イベリア半島北部にレオン、カスティーリャ、ナヴァル、アラゴンなどの王国が建設され、さらにこれらが領土を南に拡大しながら合体してスペイン、ポルトガル両国が成立します。
 ヨーロッパの南への拡大運動です。

 イベリア半島南部に追いつめられた最後のイスラム国家がナスル朝でした。首都はグラナダ。
 スペインがグラナダを占領し、ナスル朝を滅ぼしたのが1492年。この年号は暗記すること。これで、イベリア半島からイスラム勢力は完全に消えて、レコンキスタは終了しました。

 この1492年、もう一つ大きな世界史的事件が起きます。
 コロンブスがアメリカに到達したのです。コロンブスの航海を援助したのがスペインでした。大航海時代というのは、レコンキスタの延長線上にあるのですよ。ヨーロッパの拡大運動はスケールアップしてつづいていきます。

第51回 西ヨーロッパ世界の膨張 おわり

こんな話を授業でした

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