世界史講義録
  

第68回  ヨーロッパ人とアジア貿易

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ポルトガル人の進出とアジア貿易
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 ポルトガルはインド航路にどのように進出していったのか。
 ポルトガル人が進出する前から、インド洋には海上交易ネットワークがありました。インド商人、イスラム商人が活躍していたのですが、特にエジプトのマムルーク朝が海上貿易に積極的で、アジアとヨーロッパをむすぶ中継貿易で利益を得ていた。ポルトガルの進出は、そこに割り込むことになる。ポルトガルは、ライバルとなるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保します。
 当時、アジアでは、ポルトガル人の持っていた大砲と鉄砲の威力は抜群で、ポルトガルはインド洋沿岸各地を占領して要塞を作った。プリントに「インド洋のポルトガル要塞」という地図がありますね。ずらりとポルトガルの要塞が並ぶ。

 アフリカ東海岸には、マリンディ、キルワ、モザンビーク。
 アラビア半島の沖合のソコトラ島、ペルシア湾岸のホルムズ。
 インド西海岸には、ディウ、ダマン、バセイン、チャウル、ゴア、アンジェディヴァ、オノール、マンガロール、カナノール、カリカット、コーチン。
 セイロン島にコロンボ
ポルトガルがこうして香辛料貿易を独占しようとしたということを、実感してくれたらよいです。

 ところで、香辛料貿易がどれくらいもうかったか。これは、1506年のリスボンでの値段。香辛料1キンタル(50.8キログラム)あたりの、輸送料を含めての原価と、販売価格です。
 コショウが原価6.08クルザード、販売価格22クルザード。利益率262%。クローヴが原価10.58クルザード、販売価格60から65クルザード、利益率467から514%。ナツメグ、これは原価7.08クルザード、販売価格300クルザード、利益率4137%。要するに滅茶苦茶もうかったわけだ。だから、要塞を各地に作ってインド航路を独占しようとしたわけです。独占すれば値段はさらにつり上げられますからね。

 ポルトガルがアジア貿易にはいりこんでいく様子を見てみよう。
 インドの重要な拠点ゴアを占領するのが1510年。
 翌年の1511年にはマレー半島のマラッカを占領しています。マラッカは香辛料の原産地モルッカ諸島とインドの中間点。狭いマラッカ海峡をおさえる重要な中継地点です。
 1517年には中国の広州で中国貿易もはじめる。中国の当時の王朝は明です。ポルトガルは、明の倭寇退治に協力して、1557年にはマカオに居住権を得ています。
 ポルトガル人がはじめて日本にやってきたのが1543年。火縄銃を種子島に伝えたのが最初といわれています。その後ポルトガル人は九州各地にやってきて貿易を行った。日本史では南蛮貿易ですね。

 しかし、このポルトガルのアジア貿易独占は長くつづかなかった。16世紀後半からポルトガル勢力は衰退していく。理由はオランダとイギリスの参入です。オランダ、イギリスと対抗するために軍事費がかさんで、この負担に耐えられなかったようです。そもそも、ポルトガルの当時の人口は150万人。この中でアジア貿易に出かけられる成年男子となるともっと数が少なくなる。国の人口規模に比較してあまりにも広い交易圏を独占しようとしすぎたともいわれています。

 ポルトガルがひとり勝ちしていたときでも、その香辛料の取引量は全体の14%しかなかったという計算もある。どういうことかというと、在来のインド商人、ムスリム商人がポルトガルを避けながら、交易をつづけていたのです。
 たとえば、この時期に、スマトラ島の西端にアチェー王国、ジャワ島の西にバンテン王国、中部にマタラム王国が発展してきますが、これらは、ポルトガルをさけて開発された航路沿いに発達した国々です。

 ところで、16世紀から17世紀前半の東南アジア海域は「商業の時代」といわれるくらいに貿易が活発におこなわれていました。
 とにかく、中国明朝の経済発展が著しい。中国貿易が活発になるのは当然の成り行きです。ポルトガルも中国貿易をしますが、1571年にはスペインもフィリピンにマニラを建設して、アジア貿易にのりだします。スペインは、ポルトガルとは逆回りのアメリカ大陸経由でアジアにやってきますから注意しておいてください。
 堺など日本の商人が積極的に海外に出かけていくのもこの時期です。イエズス会のフランシスコ=ザビエルがインドで日本人に出会ったのも、そういう例の一つです。ほかにもタイのアユタヤ朝で活躍した山田長政なども有名ですね。

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オランダの進出
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 オランダは、1602年に東インド会社を設立しました。そして、ポルトガルを追い落としながら、積極的に植民地経営とアジア貿易の独占をめざしていきます。東南アジアの各地に商館を建設しましたが、その中心になったのが、ジャワ島中部に建設されたバタヴィア。現在のインドネシアの首都ジャカルタです。
 オランダは、さらに東のモルッカ諸島にも根拠地を建設します。このモルッカ諸島が、香辛料の特産地でしたね。

 イギリスも香辛料貿易に参入してきます。しかし、当時はオランダの方が強い。遅れてやってきたイギリス勢力を、東南アジアから追い払おうとして起きたのが、1623年のアンボイナ事件です。

 モルッカ諸島のアンボイナというところに、オランダの商館がありました。商館というよりは、要塞にちかいものですが、1623年2月のある日、この要塞の中に、日本人が入り込んで何かを調べていた。この日本人はイギリス人に雇われた傭兵だった。日本では応仁の乱以来、戦国の世が長くつづいていましたから、戦士として有能で、アジア各地で傭兵として活躍していたんです。当然、オランダ側は不審に思う。そこで、イギリス商人たちを捕らえて尋問した。実際は拷問をくわえたみたいで、苦痛に耐えかねたイギリス商人たちは、オランダ商館襲撃計画を白状したんだ。その結果、オランダはイギリス商人とその仲間を処刑した。これが、アンボイナ事件です。処刑されたのはイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人という。イギリス人はわずか10人で、少ない気もしますが、本国から遠く離れたアジアで活動していたのは、このくらいだったのですね。
 この事件で、イギリス勢力はモルッカ諸島から撤退することになった。同じ年に、イギリスは日本にあった平戸商館を閉鎖していますから、かなりのダメージだったんですね。
 結局、オランダによる香料貿易の独占が実現するのです。

 翌1624年、オランダは台湾の南部を占領し、現在の台南の近くにゼーランディア城を建設する。ゼーランディアは、中国と日本に対しての貿易拠点としてつくられたものです。ちなみに、当時の台湾は、どこの国の領土でもなかったのです。
 このあと、オランダは日本との貿易も着々とのばしていく。徳川幕府が徐々に鎖国の方針を固めていく時期で、ポルトガル、スペインは日本から撤退していくのですが、オランダだけはうまく幕府に取り入って、ずっと日本と貿易をつづけることができました。
 たとえば、1637、38年、島原の乱が起きています。キリシタンの反乱ですが、このときオランダはキリスト教国にも関わらず、幕府を援助して海上から原城跡に立てこもった反乱軍に砲撃をくわえている。ポルトガル船が日本への来航を禁止されて、オランダによる日本貿易独占がはじまるのが、島原の乱鎮定後の1639年です。

 オランダは、1641年ポルトガルからマラッカを奪い、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を建設した。ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な中継地点ですね。
 こうして、オランダはアジア航路を確保し、アジア内貿易蓄積した富をヨーロッパに送るという体制を作り上げました。

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「商業の時代」から植民地経営へ
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 16世紀から17世紀前半まで、アジアは活気にあふれた「商業の時代」でした。ところが、17世紀後半から長い不況に入ります。
 原因はいくつかありますが、日本の鎖国もその一つです。しかしもっと大きかったのは中国の政変です。中国では1644年、明が滅亡し、かわって満州から侵入してきた女真族の清朝が成立します。ところが明の復活をはかる勢力が、台湾を根拠地にして清朝に抵抗した。この指導者が鄭成功です。この人については、またあとで触れますが、鄭成功たちは中国沿岸地域で軍事活動を展開した。清朝は、これに対抗するために、1655年以降「海禁政策」をとります。海外貿易禁止ということです。貿易が鄭成功勢力の資金源になっていたからです。さらに、1661年には「遷界令(せんかいれい)」という命令を出した。福建省・広東省などの海岸から20キロまでの住民を強制的に内陸部に移住させて、鄭成功たちを孤立させようというものです。「遷界令」は二十年近くおこなわれた。やることが徹底している。
 中国は巨大市場だし、陶磁器や絹など多くの特産品がある。この中国が国際交易から完全に消えるのだから、不況になって当たり前ですね。

 さらに、同じ時期にヨーロッパでコショウの大暴落がおきて、香料貿易で以前のような利益を生めなくなったことも大きな原因です。

 そこで、オランダは商業活動から植民地経営へと政策を転換した。商品を運んで稼ぐのではなくて、商品を生産しようと考えたわけだ。そこで、領有地を拡大し、プランテーションをつくり、コーヒーなどを栽培する。そして、それをヨーロッパに輸出するのです。
 商館を中心とした点の支配から、面の支配にかわる。当然、人も支配するようになる。それが植民地経営です。その結果、ジャワ島ではバンテン王国、マタラム王国といった国々を圧迫していくことになりました。

第68回 ヨーロッパ人とアジア貿易 おわり

こんな話を授業でした

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