世界史講義録 現代史編

 04 南アジア・東南アジアの独立

インドの独立と分裂

 第二次世界大戦後の世界の枠組みをきめる構造の一つが、前回話した冷戦、米ソ対立です。さらにもうひとつ大きな潮流が生まれます。植民地の独立です。 各地の植民地の独立運動は、第一次世界大戦後から大きなうねりになっていましたが、本国はまだ植民地を押さえつける力があった。しかし、第二次世界大戦後になると、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の衰えは一層はっきりします。独立を求める植民地の勢いを止めることはむつかしくなる。
 こうして、植民地が次々と独立していきます。まずはインドから見ていきましょう。

 インドは第二次世界大戦中はイギリス本国に協力します。インド国民会議派のガンディーらの対英協力方針に反対し、に日本に協力することで早期独立を図ろうとするチャンドラ=ボースのようなもいましたが、少数派でした。
 大戦後、1947年、ついにイギリスは インド独立法でインドの独立を認めます。この結果、インド連邦(のちインド共和国)とパキスタンが誕生します。インド連邦はヒンドゥー教徒主体。初代首相はネル−。パキスタンは、インドから分離独立したイスラーム教国、国家元首にあたる総督はジンナー。
 第一次世界大戦後にインド独立運動が盛んになった時、二つの政治勢力がありました。ひとつがインド国民会議派。結成当時はイギリスに協力的だったのですが、日露戦争後に反英的になった。有名なガンディーはここで活躍していましたね。ネルーも同じ国民会議派のリーダーです。
 国民会議派がインド独立運動の指導的組織として力を発揮してくると、国民会議派にぶつけるために、イギリスは全インドムスリム連盟というものを作らせた。インドのイスラム教徒、 つまりムスリムに作らせた政治組織です。国民会議派にイスラム教徒が参加していけないわけではない。実際にムスリムも参加しています。しかしインド人が集まれば、自然とヒンドゥー教徒が多くなる。だからイギリスは、インド国民会議派はヒンドゥー教徒中心じゃないか、これで任せておいたらムスリムの権利が侵害されるぞ、ヒンドゥー教徒だけに政治をリードさせていいのか、とムスリムたちに呼びかけてインドムスリム連盟を作らせたわけです。
 そうすると、自然と二つの組織はいがみ合ってしまうわけです。 イギリスの目的はいがみあわせることです。インド人の本当の敵はイギリスです。しかしインド人を宗教で分割していがみ合わせることで、彼らの怒りのエネルギーがイギリスに向かないようにする。これを分割統治といいましたね。
 インド国民会議派と全インドムスリム連盟は、常にいがみ合っているわけではなく独立運動が盛り上がる時には協力することもありました。しかし微妙な緊張関係はありました。
 そしてイギリスがインドを独立させる時に、全インドムスリム連盟は自分たちイスラム教徒の国を作らせるように要求しました。イギリスとしては独立した後も、二つの国ができたて、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がいがみあった方が、南アジア地域に影響力を残しやすいと考えた。そこで二つの国に分けることを認めたわけです。
 インドがパキスタンとインド連邦に分離独立する時に、それぞれの地域に住んでいるムスリムとヒンドゥー教徒が必死になって移動しました。大民族移動です。その間に多くの暴力事件も生まれ、百万人単位で人が死んだといわれています。戦争といってもいいくらいの大混乱の末、二つの国に分かれて独立しました。
 勘違いしないで欲しいのですが、だからといって現在のインドにムスリムがいないというわけではありません。全てのムスリムがパキスタンに移動できたわけではないので、多くのムスリムが今でもインドには住んでいます。 人口の2割ぐらいといわれています。同様にパキスタンにもヒンドゥー教徒は残っています。
 独立当時、パキスタンは東パキスタンと西パキスタンという二つの地域に分かれていました。両方合わせてパキスタンという国です。首都イスラマバードは西パキスタンにあります。首都が西にあるのでどうしても、西パキスタンが政治の中心になります。東パキスタンは遠く離れているので、蚊帳の外に置かれているような感じになっていく。そこで東パキスタンは別の国を作ることになった。1971年にパキスタンから分離して、バングラデシュという国となりました。ここはかつてベンガル地方。カルカッタがあったところ。バングラデシュというのはベンガル人の国という意味です。インド独立の時にはまだバングラデシュはありませんからね。
 それからセイロン島もインドから別れて別の国になります(1948年)。現在はスリランカと呼ばれています。
 ジンナーは、全インドムスリム連盟の指導者でした。ネルーは先ほど触れたようにインド国民会議派のリーダー。 ケンブリッジ大学をでた弁護士、英語をペラペラ喋るエリートです。普通の格好していますね。ガンディーのように裸にいる人はごく例外です。ネルーはこのあと第三世界のリーダーの一人として、世界政治の中で大きな発言力を持ちます。 インドの指導者が世界政治に対して発言するということ自体が、世界が大きく変化していることを感じさせる時代でした。
 ちなみにガンディーは「一つのインド、両教徒の協調」主張し、パキスタンがインドから 分離して独立することに猛反対をしていました。彼の考えはこの時代には少数派でした。両国が分離して独立した後も、分離独立に反対して全国を行脚してました。彼の考えはムスリムに対して宥和的であるということで、 1948年熱狂的なヒンドゥー教徒によって暗殺されています。

ベトナムの動き

 ベトナムは第二次世界大戦中に日本軍によって占領されています。それ以前はフランス領インドシナ連邦という形で、フランスの植民地でしたね。
 1945年8月、日本が負けて日本軍が消えてなくなる。フランスはまだ帰ってこない。権力の空白が生じます。ここでホー=チ=ミン(ベトナム独立同盟指導者)がベトナム民主共和国の独立を宣言しました。
 ところがフランスは再びベトナムに帰ってきます。ホー=チ=ミンが独立だといっているが、これを認めないフランスは、再植民地化をめざし軍隊を送ってきました。これが1946年から54年まで続くインドシナ戦争です。フランス軍とベトナムの戦争です。
 これは、フランスと戦争している時のホー=チ=ミンの写真です。ホー=チ=ミンはベトナム独立運動の中でダントツのナンバーワン指導者です。強力なリーダーシップを持っていて、後のベトナム戦争が終わる前に亡くなってしまいました。現在でもすごく敬愛されている英雄じゃないかな。今ホー=チ=ミン市という、彼の名前を付けた都市があります。ベトナム戦争以前はサイゴン市といっていました。
 ホー=チ=ミンは社会主義者です。フランス留学時にフランス共産党の結党に参加し、コミンテルンの活動家でもありました。ホー=チ=ミンが独立運動のリーダーとして国を作れば、その国は社会主義の国になる。ベトナム人が社会主義の国が良いと思ったかどうかわかりません。しかしベトナム人の見方は、ホー=チ=ミンが独立運動の指導者、民族運動の指導者だということです。多分ベトナム人にとって社会主義かどうかは二の次であり、フランスから独立させてくれるリーダーはホー=チ=ミンしかいないということで、 人々の支持を集めたのだと思います。
 ベトナムにはろくな武器はないし、強い軍隊はない。 軍事的にはフランスが強いに決まっている。ということで、フランスはベトナムをなめていましたね。簡単に制圧できると思っていた。しかしベトナム人達は粘り強い戦いを繰り広げます。
 そして、1954年 ディエンビエンフーの戦いでベトナム軍はフランス軍に大勝利を収めます。これをきっかけに、フランス軍はベトナムから撤退し、独立を認めることにしました。
 ただし、この時にベトナム全土を一つの国として独立を認めるのではなく、ベトナムの南半分に、資本主義の国であるベトナム国を成立させました。北はホー=チ=ミンが率いるベトナム民主共和国です。これを取り決めたのが1954年のジュネーブ協定です。南のベトナム国と北ベトナム民主共和国を分けるのが、北緯17°線。つまりこれによって、ベトナムはドイツと同じ分断国家となったわけです。
 南に作られたベトナム国の指導者がバオダイという人です。ベトナム国の国家元首という地位ですが、この人は何者かというと、阮朝の最後の王様です。能力が高いわけではない。フランスによってこの地位につけられた。
 ホー=チ=ミンはなぜ、ベトナムを南北に分けることに同意したのか。実は、ジュネーブ協定ではベトナムを南北二つに割りますが、とりあえずです。3年後には統一選挙の実施が約束されていました。
 この3年後に、統一選挙が実施されたかというと、されませんでした。フランス軍が撤退したのち、3年後に選挙をすれば、多分ベトナム人達はホー=チ=ミン率いるベトナム民主共和国を選ぶに違いなかったのです。そうすればベトナム全体が社会主義になる。
 そう考えたアメリカがベトナムの政治に介入します。封じ込め政策をやっているアメリカは、これ以上社会主義国の領域が広がるのは阻止したい。そこで選挙の前に、アメリカは南のベトナム国の軍人ゴ=ディン=ジェムにクーデターを起こさせて、統一選挙を行わせませんでした。能力のないバオダイから権力を奪ってたゴ=ディン=ジェムはアメリカの支援のもと、大統領に就任し、独裁政治を行うようになりました。
 このようにしてベトナムの分断は固定化されました。ジュネーブ協定が反故にされたことに、南北ベトナムの人々は怒る。また、この独裁者ゴ=ディン=ジェム政権の政治腐敗は、はなはだしかった。南ベトナムではこの独裁者に対して、武装抵抗運動が起こり、これがベトナム戦争に発展します。これはまた、のちほど話をします。

『ガンディー 平和を紡ぐ人 』(岩波新書)、竹中千春著

 2021年06月25日

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