世界史講義録 現代史編

 16-1 イスラーム世界の動き イラン・イラク・アフガニスタン

 中東地域の国の配置わかりますか。 イランとイラクは国境を接していますが東にイラン、西にイラクですよ。イラクより西の中東地域は、概ねアラブ人が住んでいる地域です。
 イランはアラブ人ではなくイラン人の地域。イラン人とは、かつてペルシア人と呼ばれた人々。アケメネス朝ペルシアやササン朝ペルシアは、このペルシア人が作った王朝です。
  一方アラブ人たちが歴史に登場してくるのは、ムハンマドがイスラム教を創設してから以降です。ウマイヤ朝やアッバース朝がありましたね。
 イスラーム世界も19世紀頃から近代ヨーロッパと接触して、伝統社会が変化せざるを得なくなる。サウジアラビアのように近代化西洋化していくことを極端に拒否しているところもあるけれど、一方でイスラームの伝統から脱却し、西洋近代化しようとする国もありました。その代表がトルコ共和国のムスタファ=ケマルでしたね。トルコはアラブ人ではなくトルコ人の国です。彼は非イスラーム化、ヨーロッパ近代化を目指して成功しました。だからイスタンブールなどで行くと、女の人たちもヨーロッパの人達とまったく変わらないファッションをしています。トルコは EU に加盟を申請していたこともありましたからね。しかしこれは EU から「君の国はイスラームだから」ということで拒否されました。
 トルコとおなじように、近代化して国づくりを目指したのがイランです。イランは王朝国家でした。第1次世界大戦まではトルコ系のカージャール朝の支配下にあり、第1次大戦後、カージャール朝が倒されてパフレヴィー朝が成立します(1925年)。パフレヴィー朝初代皇帝がレザー=ハーン。その後を継いだのが息子のパーレビ2世です。イランの近代化を積極的に行ったのが、このパーレビ2世。彼はムスタファ=ケマルのトルコをモデルにしてイランの近代化を進めた。
 ところでイランはイスラム教の中でもシーア派の多い国です。シーア派のイランでは宗教学者ウラマーの権威が非常に高い。ウラマーは一見お坊さんのように見えますが、イスラーム世界には聖職者はいませんから、この人たちはイスラーム法学者です。
 イランのシーア派ウラマーは、イラン人に対して大きな影響力をもっています。以前タバコボイコット運動がありましたね。カージャール朝の王様がタバコの利権をイギリスに売り渡そうとすることに対して、イラン国民が反対運動を展開しギリスの利権獲得を諦めさせた事件がありました。このタバコボイコット運動の時、シーア派のウラマー達が国民を指導しています。
 さて、シーア派のウラマーたちはパーレビ2世が行う近代化を快く思っていません。近代化は成功し産業も発展していきます。これは資本主義化をどんどん進めるということであるので、この結果貧富の差がどんどんと開いていきました。 パーレビ2世はどんどんと開いていく貧富の差を埋めようとする努力はあまりしません。王様の一族だけがどんどんと蓄財をするような形になって国民の反発が高まり、とうとう怒りが爆発して革命となります。
 これが、1979年のイラン革命です。革命を起こした人たちの中には様々な人達がいました。イスラム教のグループをあれば、社会主義を信奉しているグループもあった。他にヨーロッパ的な民主主義政治を求めるグループもいました。
 革命が起きるとパフレヴィー2世はアメリカに亡命しました。こうして王朝は崩壊します。国王の亡命後に、様々な考えの人々が次の国づくりをの話し合いをしている間に、どんどんと地位を高めて国のトップに上り詰めたのが、イランのシーア派法学者の最高指導者であったホメイニ師でした。当時日本でも報道する時には学者なので師という尊称をつけて呼んでいました。
 ホメイニはパフレヴィー2世時代は弾圧を逃れてフランスに亡命していましたが、革命が起きるとイランに帰国して国民に熱狂的に迎えられる。そして権力を掌握したのです。ホメイニはイスラームの教えによる国づくりをめざした。国名も変えて、イラン=イスラーム共和国とした。政教一致国家です。
 パフレヴィー2世時代のイランは、アメリカと非常に仲が良かった。だからアメリカはパフレヴィー2世を追い出したイラン革命を敵視します。新しいイラン=イスラーム共和国に対してアメリカは非常に攻撃的です。しかもその国が、イスラーム教の教えに基づいて国を運営するという。アメリカの自由民主主義、政教分離という考え方からすると、宗教で国を運営するというのはとんでもない話なのです。中世に逆戻りです。(石油利権の問題が一番大きとは思うのですが)そこでアメリカはイランを徹底的に敵視をします。これは今も続いています。
 イラン革命を周りの国がどう見たか。隣のイラク、さらにシリアやヨルダン、クウェート、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、たくさんの国があります。全てイスラーム教の国だから、イスラーム教によるイラン革命を歓迎したかというとそうでもなかった。
 問題はこれらの国々はスンナ派であり、イランはシーア派の国であったということです。 イラクはスンナ派が政権を取っていますが、国民はシーア派とスンナ派が半々ぐらいです。革命を起こしたイランのホメイニ師は、シーア派をさらに周辺の国に広げたいと思っていました。イラン周辺のシーア派の国々はイランによるシーア派の拡大つまり革命の輸出を恐れるようになります。
 またイラン革命は国王を追放しています。イラクはすでに国王はいませんが、ヨルダンもサウジアラビアも、クェートも UAE も王様や族長がいて王政をしいている。自国でイラン革命に呼応して、反王政の動き起きることも心配です。
 こうしてシーア派の拡大を防ぐため、王政を維持するため、イラン革命をつぶしたいと考えた。こういう状況の中で、アメリカはイラクに対して、イランとの戦争をするならば援助する姿勢を示す。武器やお金を渡すということです。そして、イラクとイランの戦争が始まりました。これが1980年に始まるイラン・イラク戦争です。両国の国境紛争が発端だといわれていますが、 大きな構造は今はなしたものです。イラン・イラク戦争は足かけ8年間続きますが、決着がつかずうやむやのうちに終わりました。終結したのは1988年。 勝敗はなし。イランからすると革命政府を防衛したということになる。

 話は飛びますが、イラクはアメリカかの援助を受けながらイランに勝つことができなかった。10年弱にわたるイラン・イラク戦争を通じて、イラクの経済はアメリカの援助に頼る戦争経済になっていた。戦争が終わることによってアメリカからの援助がなくなる。途端にイラクの国家財政は行き詰ってしまった。そこでイラクはクウェート侵攻を企てました。
 クウェートは国土は小さいですが、大きな油田を持つ産油国で、経済的には豊か。王政をしいています。経済難に陥ったイラクはクウェートを占領し、その油田を奪うことによって経済的な苦境を乗り越えようとした。
 こうしてイラクのクウェート侵攻が始まりました。クウェートはあっけなくイラクに占領されてしまう。これは明らかな侵略戦争でありクウェートの油田がイラクに奪われるということは、アラブ産油国の石油に依存している先進国にとっては大きな問題となりました。特にこの地域に様々な利権を持っているアメリカは絶対にこれを許すことができなかった。そこでアメリカはイギリスなど同盟諸国を誘って、イラクに対して戦争を仕掛けました。これが1991年の湾岸戦争です。
 国連軍は組織することはできなかったので、多国籍軍という形でアメリカは戦争を行いました。当時ソ連は崩壊直前の状態。ソ連は戦争にならないようにイラクに外交官を送って仲裁をしようとしましたが、もう局面を打開できるだけの影響力はなく、戦争は始まってしまった。
 湾岸戦争の写真はこんなものです。アメリカの爆撃機が編隊を組んで飛んでいる写真。テレビゲームのように、空に光る砲弾が飛び交っている深夜の画像。こういう写真しかありませんでした。ベトナム戦争に懲りて従軍記者を派遣するようなことはしなかったので、アメリカ軍が提供した戦闘機や戦車部隊の写真など、人が写っていない写真がほとんどです。映像がまるでテレビゲームのようだと当時も言われました。砲弾が撃ち込まれている下で人々がどのように逃げ惑っているかは一切伝わってこなかった。
 壊された油田から原油が海に流れ込んで、鳥が油まみれになってるような写真はありました。これは戦車が破壊された写真ですが、この時アメリカ軍は劣化ウラン弾という砲弾を使った。砲弾にウランが混ぜられていて戦車の厚い鉄板の装甲を貫けた。劣化ウラン弾によってこの地域は放射能によって汚染されたといわれています。
 結局イラクは破れて、クウェートから撤退。クウェートは独立を取り戻しました。イラクのクウェート侵攻以来、アメリカはイランと同じようにイラクも敵視します。アメリカではイスラーム教は危険な宗教だというイメージが作られて 、西欧文明対イスラーム文明のような構図が作られる。

 アメリカでもイスラーム世界から自分たちは恨まれているのだろう、という気持ちはあったんでしょう。湾岸戦争から10年後、2001年アメリカで同時多発テロ事件が発生しますニューヨークのワールドトレードセンタービルに旅客機が2機突っ込んで、ビルが崩壊した映像は皆さんも見たことがあると思います。この時、アメリカ政府はこのテロを起こしたのはイスラームの過激武装組織だと断定します。そしてその組織はアルカイダだと断定し、そのリーダー、オサマ=ビン=ラディンがアフガニスタンに潜伏していると発表します。
 当時アフガニスタンを統治していたのはタリバン政権でした。ソ連軍がアフガニスタンから手を引いた後、アフガニスタンの支配権を握ったのでした。タリバン政権はイスラーム原理主義で、イスラーム教の教えに従って国作りをしようとしていました。アメリカはこういうのが大嫌いです。イラン革命でできたイランもそのような国で、アメリカに嫌われていましたね。
 タリバン政権は大嫌いというのはがともとアメリカにはあって、そこにアルカイダのリーダーが潜伏しているということになり、アフガニスタンのタリバン政権を潰してしまえとアメリカは判断した。ものすごく一飛躍しているのですけれどもアメリカはそう考えた。これが2001年アフガニスタン戦争。
 アメリカ軍とイギリス軍が、対テロを名目にアフガニスタンを攻撃して、タリバン政権を崩壊させました。 この後アメリカ軍がカブールに親アメリカ政権を樹立するのですが、アフガニスタンの人々にすれば、タリバン指示不支持には関係なく、カブールに樹立された政府はアメリカの傀儡政権にしか見えませんよね。
 ソ連軍がアフガニスタンに侵攻してきた時と同じように、カブール以外の各地域では様々な武装勢力が登場し、アメリカを後ろ盾とするカブール政府に対して武装抵抗運動が始まります。アメリカはこれらの武装勢力を鎮圧することができない。カブール政権は、カブール周辺の地域しか実質的に支配できていないのですが、2001年以来20年間、アメリカ軍はアフガニスタンにとどまり続けてカブール政権を支えてきた。しかし結局それもできなくなって、この(2021年)8月にアメリカ軍は撤退。
 途端にカブールの親アメリカ政権は崩壊して、結局元々アフガニスタンを支配していたタリバンが戻ってきて、アフガニスタンに新政権を樹立しようとしています。アメリカは20年間何をやっていたのかという話になる。この間、アメリカの作戦によって多くのアフガニスタン人が殺されている。テロリストがいるという情報に基づいてロケット弾を打ち込んだりするのですが、一般市民がたくさん殺されているのは有名な話です。今回アメリカ軍が撤退する時も誤爆をして、人道支援グループの職員が殺されたことが報道されていました。アフガニスタン人にすれば、アメリカ軍は何をしにアフガニスタンに来ているのかということになる。
 私はアフガニスタン戦争の正当性がよく分かりません。同時多発テロ事件の実行組織が本当にアルカイダだとしても、テロを起こした犯人たちはテロと同時にもう死んでいます。ある組織の構成員が人を殺したとして、その組織のリーダーが処刑される理由になるかどうか。先週日本で暴力団員が人を殺したという理由で暴力団の組長が死刑判決を受けました。これは画期的な判決だと言われていますけれども、少なくとも裁判をしていますよね。同時多発テロ事件の犯人がアルカイダの構成員だとして、本当にオサマ=ビン=ラディンが命令を下したのか、もしそうであっても裁判などをして罪を決めるのが筋だとは思います。しかしこの場合はさらに飛躍していて、テロ組織のリーダーが潜伏しているアフガニスタンの政府を潰せという話になる。ここに何か正当な論理があるとは思えない。
 だからこのアフガニスタン戦争が始まった時に、そんな事やっていいのかと世界中のまともな人は思ったと思います。だけどアメリカのやることだから誰も止めることができない。「あー、やっちゃった」という感じです。ソ連が崩壊して、一人勝ちのアメリカは誰にも遠慮せず何でも好きなことをできるようになった。
 アフガニスタンのタリバン政府を崩壊させたアメリカは、すぐさまイラクも危険だからこの政府も潰そうと、2003年イラク戦争を開始しました。戦争の理由として当時のアメリカのブッシュ大統領が言ったのは、イラク政府が大量破壊兵器を保持しているからという理由でした。大量破壊兵器が何のことをさすのかわからないし、それによってイラクを攻撃するということも論理が全くわかりませんでしたが、結局アメリカはイラクの政府を崩壊させました。そしてどこにも大量破壊兵器はなかった。まったくわけがわからない戦争でした。アメリカが世界を壊しているという印象を私は持ちました。
 ちなみに湾岸戦争を行った時のアメリカの大統領は、共和党のブッシュ大統領。アフガニスタン戦争とイラク戦争を行ったのは、これも共和党のブッシュ大統領ですが、湾岸戦争の時の大統領の息子です。パパ・ブッシュ、子ブッシュと呼んで、区別することが多いです。

 2021年11月22日

次のページへ
前のページへ
目次に戻る