世界史講義録 近代史編

 2 朝鮮をめぐる東アジア情勢

 次に朝鮮半島です。当時の朝鮮半島の国の国号は朝鮮。新羅、百済、高麗などの王朝が朝鮮半島にありましたが、朝鮮というのも、元来はこれらと同じ王朝名です。王家の名字が李氏なので、李朝ともいった。
 当時朝鮮は鎖国政策をとっていました。日本も中国も朝鮮もベトナムも、アジアの国は皆同じで、西欧諸国と節食する19世紀中ごろまで基本的には鎖国政策をとっていました。鎖国というのは、ヨーロッパとは付き合わないということです。付き合っても限定的に付き合う。日本の場合は、長崎だけ港を開いて貿易相手国をオランダだけに絞っていた。中国、清朝も同じで、国は絞ってないけれども港は広州だけに限定していました。完全に国を閉じるなんていうことはないわけですね。
 朝鮮王国も鎖国体制をとっていました。ただしヨーロッパの国と付き合わないだけなので、中国とは付き合っていた。日本との付き合いもあった。中学校でもやっていたと思いますが、徳川時代に日本と朝鮮は仲が良くて、徳川将軍が代替わりする時には朝鮮国からお祝いの使節がやってきた。これを朝鮮通信使といいます。 朝鮮通信使は正式な外交使節です。正式な外交使節を日本に送り込んでくるくらいなので、仲がいいのです。豊臣秀吉が朝鮮侵略をやってめちゃくちゃにしたのだけれども、家康は幕府を開いた時に、隣国なので関係改善をしなくっちゃね、ということで仲良くなっています。
 ただし、朝鮮にとって中国との関係は日本との関係よりも深いです。宗主国といって中国が朝鮮の保護者のような立場です。朝鮮半島の国は中国と国境を接しているわけです。中国のような大国に攻め込まれたら絶対に負けます。潰されます。だから朝鮮半島にできた国々は伝統的に中国の王朝と仲良くせざるを得なかった。
 単に仲良くするだけではなく朝鮮国は、折々に中国の王朝に貢物を送る。これを朝貢といいます。以前にベトナムに阮朝が出来た時に、中国に朝貢して中国から越南国という名前をつけてもらったという話をしました。越南がベトナムという呼び方の由来だという話もしましたね。こんな感じで、中国周辺の国々は中国に貢物を持って行って、中国の皇帝に認めてもらって国が成り立つ。このような関係における中国の立場を宗主国といいます。中国が朝鮮の宗主国。親分・兄貴分みたいなものです。 だから庇護下の国に何か事件があれば助けに行く。例えばベトナムがフランスに侵略された後、フランスに中国軍がやってきてフランス軍と戦った。清仏戦争がありました。同じような関係が中国と朝鮮にもあった。
 ちょうど明治維新の頃、朝鮮の王様は高宗という人でした。この人はよくわからない人で、あまりリーダーシップを発揮しない人です。悪い人ではないとは思うのだけども、あまり自分が正面に出て仕切ろうとはしない。高宗の先代の王様は、高宗のお父さんではない。先代の王様が死んだ時に、跡継ぎの男子がいなかったので、遠い親戚にあたる高宗が王位を継いだ。元々王様になるような家ではなかったし、皇太子でもなかったわけです。そんな彼が即位したのですが、リーダーシップを発揮するような人ではないので、彼の代わりにその父親が権力を握った。このお父さんは自分が王様になったことはないわけですよね。息子に変わって権力を振ることができたので、きっと楽しかったでしょう。この人が大院君といいます。
 大院君は非常に頑固な鎖国主義者です。ところが明治維新のちょっと後ぐらいに、朝鮮政府内で政権争いがあって、大院君は失脚、高宗の妃である閔妃(ミンピ)とその一族が権力を握った。これを閔妃派という。日本が来る前から朝鮮国内では大院君のグループと閔妃のグループの間の争いがありました。これをちょっと頭に入れておいてください。
 一方日本ですが、明治維新で新しい政府ができました。徳川幕府から明治政府に政府が交代したので、日本は朝鮮政府に使節を送って、このことを告げます。加えて「日本はヨーロッパ式の国になっているのでヨーロッパ式の外交条約を結びましょう」と呼びかけた。友好関係を作りましょうと。中国との間ではすでにこういう条約を結んでいた。中国はすでにアヘン戦争やアロー戦争を経て、ヨーロッパ式の外交ルールを身につけているので、日本の呼びかけに応えて1871年に日清修好条規を結んでいましたよね。同じようなものを結びましょう、と日本は朝鮮に呼びかけたわけです。となりの国だし日本は鎖国をやめたわけだし、朝鮮とガンガンと貿易をやって利益を得たい、と日本は考えた。
 ところが朝鮮政府は条約を結ぶことを断った。なぜならば大院君から閔妃に権力が移ったけれども、基本的には鎖国方針だから。ちょっと待ってよ、何言ってるんですか、と日本は思うわけですね。徳川時代は朝鮮通信使を送ってくれたではないですか。日本とは外交関係を結んでたでしょ。だから今まで通り外交関係を結びましょうと言ったら、朝鮮政府の答えはこうです。「うちはヨーロッパとは付き合わないのですよ。鎖国の意味わかりますか。我が国はイギリスともフランスともアメリカとも付き合ってはいない。かつて徳川幕府と付き合っていたのは、これがヨーロッパ式の国ではないからだ。でも明治維新をやったオタクの政府を見ていると、まるでヨーロッパの国ではないですか。そんな国とは付き合いません」というのがその理由。
 断られたら外交関係がないので、貿易も何もできない。だから、日本は何度も朝鮮政府に外交使節を送って開国を要請したのですが、朝鮮は断り続ける。 すぐ隣の国なのに外交関係がない。これは普通に考えて日本にとってはよくないことです。そこで鎖国政策を取り続ける朝鮮政府を開国させるために知恵を絞ります。その結果「あー、やり方あったあった」と思うの。自分のことを思い出します。日本も鎖国していた。しかしその方針を変えて開国した。なぜ? ペリーが来たから。ペリーが来たらなぜ開国したのか。ペリーのアメリカ海軍の軍事力を見てビビったからです。我が国は軍事的圧力に負けて開国したのだ。同じことをしてやれ。朝鮮政府に軍事的圧力をかければ開国するだろうと考えた。
 それが1875年の江華島事件。プリントには日本による軍事挑発行為と書いてあります。細かい話をするときりがないのですが、当時朝鮮の首都は開城といいます。今のソウルです。そこに仁川という大きな川が流れている。その河口近くの海岸には小さな島がたくさんある。ここは首都を守る重要な地域なので、島々には砲台が築かれていて、外国船が簡単に侵入できないようになっている。そこに日本の海軍の軍艦がわざわざ出かけていく。ヨーロッパ式の軍艦ですよ。朝鮮の守備隊の制止を無視してどんどん近づき、海岸沿いの測量を開始する。「勝手に測量するな、出ていけ」と朝鮮軍は抗議をする。例えていえば大阪湾にいきなり中国かロシアの軍艦が入ってきて、勝手に測量を開始するようなものです。出て行ってくれというのは当然といえば当然。朝鮮軍は日本の軍艦に出て行けと抗議するのですが、出ていきません。だって挑発するのが目的だから。首都防衛の重要拠点に接近する日本の軍艦を見て、朝鮮の守備隊は砲撃をします。
 これを日本は待っていました。打たれたから応戦するという形で、日本の軍隊が砲台のある島々に上陸して制圧しました。そして先に撃ってきたのは朝鮮軍だから責任を取れと朝鮮政府に迫って結ばせたのが、翌年1876年の 日朝修好条規[江華島条約]です。
 内容としては朝鮮国が釜山などの三港を開港する。そして、日本の領事裁判権を認めさせます。だからこれは不平等条約です。いうまでもなく朝鮮が不利なのですよ。今でも日本と韓国との間ではギクシャクしたことがたくさんありますが、最初がこれだったのですね。両国関係はこんな風にして不平等条約から始まった。
 釜山は日本の九州に一番近い港です。ここを開港してどんどんと貿易は発展していきました。日本は朝鮮国から大量にあるものを買いました。何かわかりますか。まだ朝鮮は農業国だから農作物です。人参?あー、朝鮮人参ね。それは貴重なものだ。確かに買ったかもしれないが、希少なものだからそんなにたくさん買えないよね。もっと日常的な品物をいっぱい買ってます。
 そうですねコメです。朝鮮の人たちも日本人と同じ米を食べてます。韓流ドラマをよく見るようになりましたけれども、同じようなもの食べていますね。去年の年末からどこにも行けなくなって Netflix に入って、去年の年末は紅白歌合戦も見ずに、『愛の不時着』を見放し。この夏も韓流ドラマいっぱい見ました。
 韓国料理は日本とも違うもたくさんありますけれども、ご飯、米は同じですよね。江戸時代というのは天明の大飢饉とか天保の大飢饉とか、結構大きな飢饉が起きていてたくさんの人が餓死しています。でも明治時代以降になると冷害による凶作はあっても、多くの人が飢えて死ぬということはなくなる。急に農業の技術が上がったわけでもないのにそれはなぜか。朝鮮半島からたくさんの米を輸入したからです。日本の商人たちが朝鮮半島に渡って、たくさんの米を買い付けて日本に運んだ。逆に朝鮮半島では米が足りなくなるのではないかということが想像できます。これはまた後の話に繋がってきます。
 話を戻します。日本に迫られて開国をしたのは閔妃グループでした。大院君は鎖国にこだわっていたグループなのですが、権力を失った後、閔妃グループが開国をする。大院君のグループはこれに対して激しく非難します。大院君と閔妃派の対立はますます激しくなっていきました。
 これは人間関係による派閥対立、ですがもう一つ政治上の路線についての対立する二つの派閥がありました。ひとつは事大党、これは保守派、外交では清朝・中国に追従しておけばよいというグループ。もうひとつが独立党。日本をモデルに近代化をめざす、若手官僚を中心とするグループです。
 朝鮮は日本によって無理やり開国させられたわけなのですが、朝鮮の政治家の中ではそれによって目が見開かれて世界の流れは日本の方だ、ヨーロッパ式に朝鮮国を改革して、日本の明治維新のようなことをしなければだめだ、と考えるグループが生まれてきた。少数派だけれども、これを独立党という。プリントには日本をモデルに近代化目指すと書いてあります。改革派です。
 これに対してそんなことをする必要はない。今まで通りでいいのだというのが事大党です。保守は昔のままで良いと考える人達です。事大の事という漢字には「つかえる」という意味があります。事大は「大きなものに仕える」。大きなものとはなにか。中国清朝です。朝鮮は中国の宗主権のもとにあるので勝手なことをやったら怒られるかもしれない。中国との関係が悪くなったら国が成り立たないかもしれない、というのが朝鮮の政治家たちの伝統的な考え方なのです。ほとんどの政治家達は事大党です。独立党に属するのは若い官僚、貴族達でした。年寄りの多くは新しいことに取り組もうとはしませんからね。
 そんな中で事件が起きます。ひとつが1882年、壬午軍乱。閔妃政権に対する大院君派軍人のクーデタです。先ほども言ったようにこの段階では閔妃グループが権力を握っている。日本政府は朝鮮政府に接近して影響力を行使したい。そこで日本は朝鮮軍の近代化を朝鮮政府に提案しました。日本が援助をするからヨーロッパ式の軍隊を作ったらどうですかと。こういうことを通じて朝鮮政府内における影響力を大きくしたいわけです。
 政権を握っていた閔妃派はこれを受け入れて、近代化軍の建設に着手します。これを見て守旧派大院君は腹を立てる。この試みを潰したいと思った大院君は、古い軍隊の兵士たちを扇動した。閔妃派が作ろうとしている新しい軍隊が出来上がったら、君たちは皆お払い箱だ、クビになってしまうぞ、いいのか、と言う。クーデタを起こせということです。
 こうして大院君に扇動された旧式軍が、閔妃政権にクーデタを起こした。これが壬午軍乱です。閔妃たちは何とか逃れて、清朝政府に助けを求めました。先ほどいったように中国政府は宗主国として朝鮮国の保護者のような立場にありました。閔妃派の朝鮮政府から救援要請を受けた清朝は、軍隊を朝鮮半島に送ってあっという間に反乱軍を鎮圧しました。大院君は捉えられ、閔妃派は宮廷に戻って政権に復帰します。
 この時の混乱で、ソウルにいた日本の軍事顧問が殺され、在ソウル日本人の生命・財産を守るために日本軍が朝鮮半島に出兵しています。
 事件が一段落した後、日本人の犠牲者が出たために朝鮮政府は謝罪の使節を日本に送りました。この使節の中に独立党のリーダー格の一人金玉均(キムオクキュン)もいました。謝罪使達と接触した日本の政治家たちは独立党のリーダーである金玉均に目をかけます。大隈重信や福沢諭吉などが金玉均を励ましています。君の働きによって朝鮮国を改革し、日本中国とそして朝鮮がヨーロッパの侵略からアジアを守ろうではないかと。金玉均も朝鮮で維新を起こそうというやる気満々で帰国します。
 ところが彼も含めて独立党のグループは若手の官僚ばかりです。権力を握って政策を立案し実行するような高い位置に立っているわけではない。若手の彼らが高い地位に就くためにはあと何十年もかかる。その間に我が国はどんどん世界の流れに取り残されて行ってしまう。早く朝鮮政府の改革を実行しなければならない、と金玉均は焦るわけです。それをみて開城(現ソウル)駐在の日本の外交官が援助を申し出る。日本公使館には警備のために若干の日本兵が駐屯している。この日本兵を貸すから、クーデタを起こして権力を握ったらどうかというわけです。ちょうど清朝はベトナムの支配権をめぐってフランスとベトナムで戦っており(清仏戦争)、朝鮮に駐屯していた清軍が削減されたのも好機と思われたのです。
 うずうずしていた金玉均たち独立党の若手官僚たちはこの誘いに乗った。政府高官を暗殺し、開城の日本公使館にいた日本兵150名を借りて王宮を制圧、逃げ遅れた高宗に強いて、金玉均は自分を総理大臣に任命させ、新政権の樹立を宣言しました。こうして改革に乗り出そうとした。
 ところが、逃げた閔妃はまた清朝に救援を要請。「若手官僚がクーデタを起こしました。助けてください」というわけ。清軍が朝鮮に出兵してくると日本兵は逃げ去り、クーデタは失敗、金玉均は日本に亡命しました。これが甲申政変。1884年、壬午軍乱から2年後のことでした。
 甲申政変で清軍が朝鮮に出兵すると、日本軍も朝鮮半島に出兵しました。壬午軍乱と同じです。朝鮮半島で事件が起きると、日清両国軍が出兵するという構図です。これは何を表しているかというと、朝鮮半島をめぐる縄張り争いです。宗主国である清は朝鮮を自国の縄張りと考えている。そこに日本が入り込んで、朝鮮国における影響力を強めようと思ってるのです。甲申政変後、日清両国軍は朝鮮半島にとどまって、にらみ合い状態になります。下手をすると戦闘状態になるかもしれない。しかしお互いにそれは避けたかった。
 そこで、1885年、日本と清の間で天津条約が結ばれた。日本全権大使は伊藤博文、清の全権は李鴻章。内容は「日清両国軍の朝鮮からの撤兵」「朝鮮派兵の際の事前通告」です。繰り返します。甲申政変を鎮圧したこの段階で、朝鮮半島には日清両国軍が駐留している。お互いに撤兵したいけれど、自分が先に撤兵するのは癪だから、撤兵できない。だから、同時に撤兵しましょう。これが一つ目。二つ目。今後、また朝鮮半島で事件が起きるかもしれない。その際、清軍がまた朝鮮半島に出兵するときには、抜け駆けせず日本に連絡すること、また日本が朝鮮半島に兵を出すときには、抜け駆けせずに清に連絡すること、これを約束しました。
 おまけ。日本に亡命した金玉均のその後です。甲申政変で金玉均グループは政府の高官を大勢暗殺しているので、朝鮮政府にとっては大逆罪の犯罪者です。お尋ね者として追われる身になった。金玉均は、日本に亡命するのですが、クーデタに失敗した金玉均が朝鮮政府で復活することはありえないので、日本政府にとっては価値のない存在になります。日本政府はそんな金玉均を厄介者扱いして、北海道へ追いやったり八丈島に追いやったりする。日本の冷たい対応に失望した金玉均は上海に渡って潜伏生活を続けるのですが、朝鮮政府の警察組織に見つかり、上海で射殺されます。遺体は朝鮮に運ばれ、両手両足、首を切断されてさらされました。これが、さらし首になった写真。「大逆非道玉金」と書いてありますね。これが朝鮮の改革を志した若手官僚のホープの最後でした。改革を志向したその考えは、間違っていなかったかもしれない。しかし、自国の改革に他国の兵力を借りたことが、かれの一番の間違いだったのではないでしょうか。仮に、クーデタが成功したとしても、その後の金玉均は日本に借りがあるので、自由に改革ができただろうか、と思います。

 2022年8月1日

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