世界史講義録 近代史編

 03 日清戦争・中国分割

 話を元に戻しましょう。壬午軍乱、甲申政変と続いて起こった事件ごとに清朝の軍隊と日本の軍隊が朝鮮半島に出動するという事態が起きています。そして甲申政変の際には天津条約が結ばれて、清国と日本の軍隊は撤退をした。
 この後。10年間は大きな事件はなく推移するのですが、1894年、朝鮮半島で大規模な農民反乱が起こります。甲午農民戦争と呼ばれる。朝鮮が開国して以来、日本との貿易が盛んに行われるわけですが、この時何が売買されていたかというと、米です。日本の商人たちが朝鮮半島に入り大量の米を買って日本に輸入していた。江戸時代に天保の大飢饉とか天明の大飢饉とか、しばしば飢饉が起こって東北地方などでは餓死者が出ていた。明治になってから 大飢饉とか餓死者が出たと言うニュースはなくなります。封建制度の解体による生産量の増大や流通の変化など、その理由は色々あると思いますが、その原因の一つに朝鮮半島から大量に米が入ってきたことがあると私は思っています。
 しかし大量の米を日本が買い付けるということは、朝鮮半島から見れば米が不足するということです。開国して以来、朝鮮では諸物価が高騰し、農民など一般庶民の生活がどんどん苦しくなっていった。この不満が1894年に爆発して大規模な農民反乱となりました。
 この農民反乱の指導者は全?準(チョン・ポンジュン)。反乱の母体になったのは東学という宗教団体です。東は西にたいしての東で、アジアを表す。開国以来朝鮮にやってくるようになったヨーロッパ人に対して、アジアの方が優位であるという立場から、儒教や仏教などを混合して生まれた新興宗教です。排外的な宗教と考えてもよい。そしてこの反乱のスローガンとなったのが「逐洋斥倭(ちくようせきわ)」という言葉です。逐も斥も追い払うとか退けるとかいう意味。洋はヨーロッパ人、倭は日本人ですね。要するにヨーロッパ人や日本人を朝鮮半島から追い払え、というのがこのスローガンの意味。このことを政府に訴えて反乱を起こしたわけです。
 ところが、朝鮮政府の軍隊は相変わらず弱体で、この農民反乱を鎮圧することができない。そこで朝鮮政府は清朝に救援を要請しました。
 こうして清軍が朝鮮半島に出動するのですが、天津条約の取り決めに従い、事前に日本に出兵を通告します。日本は朝鮮政府から出兵要請を受けていたわけではないのですが、清が行くのなら、と朝鮮半島に出兵。こうして清と日本の軍隊によって農民反乱は簡単に鎮圧されてしまった。指導者の全?準が捕まった時の写真が資料集に載っています。朝鮮の人物写真はなかなかないので、貴重です。なかなか引き締まった面構えの人ですね。
 農民反乱は鎮圧されましたが、朝鮮半島には清軍と日本軍が駐屯しています。日本は朝鮮半島を勢力範囲にしたいという野望を持っています。甲申政変の時は天津条約で相互撤退をしましたが、その時から約10年経って、日本軍も十分に戦備を整えている。今なら清朝と戦っても勝てると考えているので、農民戦争を鎮圧した後も日本軍は撤退しない。日本軍が撤退しないので清軍も撤退しない。こうして朝鮮半島で両国軍のにらみ合いが続きついに武力衝突に発展しました。
 これが日清戦争の始まりです。戦いはどちらが優勢になったか。ヨーロッパ人たちは大きな関心を持って戦争を見ているのですが、どうみても小さな日本勝てないだろう、中国が勝つだろうと考えていた。ところがやってみると、あれよあれよと日本軍が優勢になり、朝鮮半島を北上する中国軍を日本軍が追撃し、やがて中国領内でも戦闘が続き、日本が勝ち続ける。海でも黄海海戦がありますが、これも日本側が圧勝します。
 これは日清戦争の戦闘シーンの絵です。日本で書かれたものなので日本軍がすごくかっこよく書かれている。この絵では中国軍兵士の軍服が法被(はっぴ)のように描かれている。日本側が完全にヨーロッパ式の軍服を着ているのとすごく対照的です。この時代にはすでに中国軍も近代化されているので、このような伝統的衣装を着ているのか、ちょっと疑問です。以前に読んだ本で、中国軍の服装が古めかしいのは、日本人が中国を馬鹿にして、わざとおかしな姿で描いているのではないかと書いてありました。裏付けはありませんでしたが、そういう気もします。さすがに清軍はこんな格好していないだろうと思う。日本軍が和服を着て戦っているようなものです。それはないだろうと思う。洋務運動以後ですしね。
 これは黄海海戦での日本海軍の旗艦松島。当時の日本では、まだこんな軍艦を作る技術はない。製鉄所すらない。だからヨーロッパで作った軍艦を買っていました。この松島もフランスから購入した船です。
 一方こちらは、中国海軍の定遠という船の復元写真。中国も自国で軍艦を作る技術はないので、ドイツから買っている。したがって、日本海軍も中国海軍も、船は全てヨーロッパ製で、性能はあまり変わらないはずです。当時、戦闘がある時には第三国の軍人たちが、観戦武官として戦いを観察しています。清国海軍の方が、戦力的には優勢だったのですが、各国の観戦武官が見守る中で、結局日本が勝ちます。何が勝ち負けを分けたかというと、戦闘訓練の練度、もっと大きくは国の仕組みです。
 この人は中国軍の司令官李鴻章です。中国は領土が大きいので南と北で軍団を分けている。南の軍団が南洋軍、北の軍団が北洋軍。日本と戦ったのは北洋軍で、その最高司令官が李鴻章。李鴻章は太平天国鎮圧に活躍し、その後、洋務運動を主導した。そしてこの時は北洋軍の総司令となっている。その李鴻章はこう考えた。
 中国軍と日本軍の装備は大して違わない。だから、真っ正面から日本軍と北洋軍が戦えば、北洋軍が勝つ可能性は十分ある。しかし、勝っても北洋軍のは傷つき、戦力は格段に低下する。それは困る、と李鴻章は思った。
 李鴻章は、洋務運動で手塩にかけて作りあげた北洋軍をそのまま残しておきたい。日本に負けてもいいから、北洋軍を温存しておきたい。日本に勝っても北洋軍が弱体化するのは嫌なのです。
 彼は、当時中国政界で大きな発言力を持っていました。誰もが一目を置く有力な政治家です。なぜ一目置かれるかというと、彼が強大な軍団の司令官だからです。もし戦争に勝っても、この軍団がボロボロになってしまったら、彼の発言力は低下します。彼は中国が勝つよりも自分の軍団の温存、中国政界における自分の発言権の保持を優先します。
 これは国民国家成立以前の発想です。国民が、自分の国のためには頑張らなければならないと考えるのが国民国家です。でも、李鴻章の考えは、それ以前の前近代的は発想です。国よりも自分の地位を優先する。日本はそうではない。ボロボロになっても勝たなくてはいけないと、下は庶民から上は総理大臣まで思っている。そういう団結力があるかないかの違いが、勝敗を分けたのです。
 実は、李鴻章は戦闘が始まると、朝鮮半島にいる軍団に退却命令をだした。日本軍とまともに戦う必要はない、退却せよと。戦力温存が最優先です。だから戦いが始まると清軍は、朝鮮半島を北へ北へと退却して行きます。日本軍はそれを追いかけて攻撃するだけです。こんな簡単な戦いはない。だから連戦連勝です。だから軍事力の差というよりは、政治の差、制度の違いによって日本は勝ったと言えます。
 プリントに戻りましょう。日本の勝利、清の敗因は、統治階級の不一致。支配者たちが一致団結して日本に勝つという強い意志がなかった。
 戦争が終わって、条約が結ばれました。1895年、下関条約です。山口県の下関で条約が結ばれます。下関にやってきた中国の全権大使が李鴻章。日本代表が二人いて伊藤博文と陸奥宗光。日本史で受験するような人は覚えておいた方がいいと思います。 陸奥宗光は外務大臣として活躍する人です。幕末に活躍した人物に坂本龍馬というすごく人気のある人がいます。若き日の陸奥宗光は、龍馬が長崎でつくった海援隊という貿易会社で働いていました。龍馬の部下だったのです。坂本龍馬が死んで、ブラブラしていた時に伊藤博文に拾われて政治の世界に登場する人です。
 条約内容の一つ目。朝鮮の独立を承認。朝鮮はもともと独立国です。なぜあえて独立というのか。これは、清朝が朝鮮半島に対して持っていた宗主権を放棄するということです。もっといえば、日本が朝鮮国にちょっかいを出しても、清朝は介入しませんということ。このことの政治的な表現が「朝鮮の独立」。日本の朝鮮進出を清朝が容認するということを意味しています。
 二つ目。領土を清朝から獲得します。遼東半島、台湾、澎湖諸島の3箇所です。
 三つめ、賠償金2億両を日本が獲得します。戦争で負けた側が勝った側にお金を払うということは、第一次世界大戦以前は一般的でした。日本がこの賠償金を何に使ったかというのは有名な話で、この賠償金を元に北九州に八幡製鉄所を建設しました。日本で初の高炉、本格的な製鉄所です。このときまで、日本は鉄さえ自力で作れなかったということです。まだまだ日本の産業はそのくらいの段階だった。製鉄、つまり重化学工業を発展させるにはものすごくお金がかかるということですよね。戦争で賠償金を獲得して、初めて日本は重化学工業に足を踏み入れた。
 余談ですが、下関で李鴻章や伊藤博文達が交渉した旅館が今でも残っている。春帆楼という。日本史の資料集などを見ると春帆楼で彼らが話し合っている絵が出てくる。現在、春帆楼は見学できて、資料集に載ってる絵のまま、椅子やテーブルが残されています。ちょっと感動します。下関に行くことがあったらぜひ見に行ってください。
 下関条約で日本が獲得した領土は重要なので、資料集の地図でしっかりと場所をチェックしておいてください。 台湾は分かりますね。台湾のすぐ西にちっちゃい諸島があります。これが澎湖諸島。地図で表現できないぐらいに小さい島々です。台湾は大きな島ですが、当時はまだまだ未開の島です。清朝17世紀に中国の領土となり、様々な先住民族のいるところに漢民族が移住し始めているというイメージ。現在の台湾とは全く違う。だからこの島を日本が獲得したからといって、ヨーロッパ列強はあまり関心を示さない。また、澎湖諸島も台湾に付属しているようなちっちゃい島々なので、これもヨーロッパ人は関心を示さない。
 ところが遼東半島はちょっと話が違いました。北京の外港である天津へ向かう航路は遼東半島の南を通っている。この遼東半島最南端に軍事拠点・海軍基地を築けば北京・天津へ通行する海域を睨みを利かすことができる。軍事的に価値がある場所。それを日本が取ってしまった。
 これに反応したのがロシアです。ロシアは南下政策をとっていました。1860年の北京条約でウラジオストックを獲得していました。この港は不凍港とされていますが、太平洋に抜けるには、日本列島のどこかの海峡を通らなければならないので、ちょっと使いづらい 。だから遼東半島に領土的な野心を持っていました。ところが日清戦争で日本が遼東半島を取ってしまった。そこでロシアは日本に圧力をかけます。ぶっちゃけた言い方をすれば、生意気だと。お前みたいな、ぽっと出の国が遼東半島みたいな美味しいところを取るのはどういうことだ、清に返してやれ、ということです。
 ロシアだけではなくフランス・ドイツも加わり、三国が日本に対して遼東半島の返還を要求しました。さすがに日本はこれに抵抗する力はなかったので、いったん獲得した遼東半島を、清に返還しました。この事件を三国干渉と言います。  これ以来、ロシアは日本の仮想敵となります。実際にこの10年後、日露戦争となりました。日本は朝鮮半島を自国の勢力圏しようとしていますが、ロシアも中国東北地方から朝鮮半島にかけてを、自分の勢力範囲にしようと考えていたということです。  最後に、日清戦争の意義です。まずは、清朝の弱体化を暴露したこと。先ほどもいったように、日清戦争でヨーロッパ列強は日本が負けると予想していたのに、日本が勝ってしまった。これにヨーロッパ列強は驚いた。日本の強さに驚いたというよりは、清の弱さに驚いた。広大な領土と多くの人口と資源、長い歴史を持つ中国清朝の、潜在的な力を列強は評価していました。アヘン戦争やアロー戦争で負け続けているけれども、これは清がまだ実力を発揮してないのであり、清が目覚めて本気になったら巨大な力を持っている、と思っていた。この頃の清は「眠れる獅子」と呼ばれていた。
 ところが、その清が日本にあっけなく負けた。これによって列強の清に対する評価は、「眠れる獅子」から「死せる獅子」へと変化しました。もう怖くはない。とっくに死んでいたのだと。アヘン戦争の時にイギリスが中国から奪った領土は香港、非常に小さい島です。アロー戦争の時に奪った領土は九竜半島の南部。これも非常に小さい。ともに、この地図に描けないほどですよね。なぜこんなに小さい領土しか取らなかったのか。中国の潜在的な力を恐れていたからだと言っていい。
 ところが日清戦争で日本が取った領土は、香港に比べれば、台湾も遼東半島の非常に広大です。イギリスの遠慮具合に比べると、日本の獲得ぶりはちょっと違う。だからロシアは生意気だと言ってくるわけです。だけどもう死んでいるライオンならば、遠慮なく領土を奪ってもいいかなという話になる。だから日清戦争の後ヨーロッパ列強はもう遠慮なしです。この結果列強による中国分割ということが起きます。
 日清戦争後、ヨーロッパ列強は清朝に勢力範囲を設定しました。清朝が賠償金支払いのため海関税等を担保に列強に借款を求めたことがきっかけでした。
 例えば、長江流域はイギリスの勢力範囲です。勢力範囲というのは領土ではありません。清朝の領土であることには変わりはない。ただし排他的な権利をイギリスが持つ。イギリスの勢力範囲に、フランスやドイツが鉄道や工場を建設しようとしても、清朝はそれを認めない。イギリスは認められます。それが勢力範囲ということです。
 同様に広西省・広東省・雲南省は、フランスの勢力範囲となる。すでにフランスの植民地となっているベトナムから地続きの中国南部ですね。日本は植民地にした台湾の対岸である福建省を勢力範囲とします。ドイツは山東省、ロシアは長城以北を勢力範囲として清朝に認めさせました。
 また、1898年に、ドイツが宣教師殺害事件をきっかけに山東半島の膠州湾を租借したのを皮切りに、列強は租借地を獲得します。これは事実上、領土獲得ですが、形式的には99年間等の年限を限っての獲得なので、租借地といいます。イギリスは、すでに獲得している香港・九竜半島南部に加えて、威海衛を獲得しました。山東半島の北岸にあります。ここが重要な場所だということは分かりますね。天津への航路に睨みを利かすことができる軍事的な要所です。遼東半島南端と同じ意味合いがある。
 フランスが獲得したのは広州湾。海南島にむかって突き出ている半島にある。阿片戦争の舞台となった広州とは全く違う場所なので混同しないようにしてください。ドイツが獲得したのは山島半島南岸の膠州湾。青島に隣接している。ドイツ人がビール好きなのはご存知の通り。膠州湾がドイツ軍の基地となったので、膠州湾に隣接する青島でビール産業が発達しました。今では青島ビールは有名なブランドです。
 ロシアは日本に返還させた遼東半島の南端に、旅順と大連という二つの港を獲得しました。旅順は軍港、大連は貿易港です。のちの日露戦争で旅順要塞を巡って日本とロシアの激戦がおこなわれることになります。
 こうして中国の地図を見てもらうと、ヨーロッパ列強と日本で中国全域に勢力範囲が設定されたことがわかります。設定されていないのは、価値のない僻地だけです。ここで、注目してほしいのは、アメリカ合衆国がいないことです。アメリカは、ペリーが幕末日本にやってきて、日本を開国させた。アジアに関心がないわけではなかったのですが、その後、東アジアで積極的な活動をしていない。理由は、アメリカの南北戦争です。この内戦でアジアに来る余裕がなくなります。アメリカの歴史のなかで、南北戦争は現在に至るまでもっとも戦死者の多い戦争です。二回の世界大戦、ベトナム戦争などを上回る犠牲者が出た。しかもアメリカ人同士が殺し合っている。戦争が終わっても立ち直るまでに時間がかかり、アジアに進出することができませんでした。ようやくアジアに進出する段になってみると、中国ではすでに列強の勢力範囲がすでに確定していた。アメリカとしては悔しい。そこでアメリカの外交責任者である国務長官のジョン=ヘイが、1899年、「門戸開放・機会均等」を表明した。門戸開放宣言ということが多い。列強の一員としてアメリカにも、中国の門を開け、機械を与えよ、と言ったわけです。

 2022年8月17日

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