世界史講義録 近代史編

 07 日露戦争

 義和団・清朝と8カ国連合軍の戦いは終わり、北京議定書を結んで各国の軍隊は撤退していきました。遠征軍を外国に送ること自体お金がかかりますから、戦争が終われば帰るものです。ところが、8カ国のうち7か国の軍隊は撤兵しましたが、ロシア軍だけは中国東北地方の奉天という町に留まって帰らない。事実上この地域を占領しました。清朝政府の要請を無視して居座ったまま。イギリスや日本も帰還することを要請しますがロシア軍は言うことを聞かない。
 目的ははっきりしています。義和団事件という機会を利用して、奉天に留まって中国東北地方を占領してしまおうという考えです。これが1901年から2年にかけて起きたことです。
 以前に話をしましたが、山東半島の北岸に威海衛というイギリスの租借地・基地があった。南アフリカ戦争で兵力が不足したのでイギリスは威海衛のイギリス兵も南アフリカに呼んだ。その時に、ロシアを警戒していたと話しましたが、それがこのロシア軍です。奉天にロシア軍がいるのです。
 これを牽制する威海衛のイギリス兵力が減ったら、ロシア軍が次に何をするかわからない。そこで日英同盟を結び、日本にロシアを牽制させようということになる。日本も、朝鮮半島から中国東北地方にかけて勢力範囲にしたいと思っているわけです。しかしロシアが居座っていたらここを勢力範囲できないし、ロシアが中国東北地方からさらに朝鮮半島まで狙っているのは明らかですから、日本もこれを警戒します。
 日英同盟を結んでもロシアは帰らないので、とうとう日本はロシアとの戦争に踏み切った。日本にはイギリスの後ろ盾があるのだからいける、と考えた。これが日露戦争の始まりです。
 始まった年は1904年、終わったのが1905年。ともにしっかりと覚えておいてください。日露戦争の日本の目的ははっきりしています。奉天に居座っているロシア軍を撤退させること。太平洋戦争で日本はアメリカと戦争しますが、日本の目標がよくわからない。目的がはっきりしない。だからずるずると負け続けてもやめることができなかった。目標が分からないので、どこであきらめていいのかわからないのは当然です。これに比べると日露戦争の目標は明確です。
 最初の大きな戦いが旅順要塞の攻防戦です。奉天にいるロシア軍を追い払うのが目的なのですが 、単純に日本軍が奉天に向かうと、旅順要塞にいるロシア軍が出てきて、日本軍が奉天のロシア軍と挟み撃ちになる可能性がある。これはすごく危険なので、奉天に向かう前にまず旅順のロシア軍要塞を陥落させなければならない。そこで起きたのが旅順要塞の戦いです。
 港から攻め込んでもなかなか旅順を落とせないので、旅順要塞を見下ろす位置にある203高地から攻撃しようとした。これは標高が203メートルだったのでついた名前です。これが現在の203高地の写真。向こうに見えるのが旅順の街です。この高地を取れば 旅順要塞に大砲を打ち込めるわけですね。
 ロシア側も、203高地が 重要なことは分かっているので、先にここに陣地を作っている。ロシアの陣地を攻略するのに日本は無謀な突撃を繰り返し、多数の死傷者を出しました。このため、旅順要塞の戦いは、日本軍が多くの犠牲者を出したことで有名になりました。  そしてこれです。与謝野晶子は弟がいて、旅順の戦いに出征していた。旅順の戦いでたくさんの犠牲者が出ているということを知った与謝野晶子が弟の事を歌った歌。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

死んではダメだと言っています。末っ子に生まれたあなただから、親は一番あなたを可愛がってきましたよ。可愛がって育ててきたあなたに、刃物を持たせて、こうやって人を殺すのですと教えたことがありましたか、 反語ですよね。人を殺して、お前も立派に死んでこいと24歳まで育てたのではありません、とうたう。

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ

与謝野晶子の家は商家なんです堺東駅から230 M ほど海側に寄ったところに家があったらしい。堺の旧家の商人の跡取り息子なのだから、あなたは死んじゃだめだ。

旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたもうことなかれ

旅順の要塞が陥落しようと陥落しまいと、そんなことどうでもいいから。そんなことは、あなたが継ぐはずの商人の家訓にはないのだから、どうでもいい。死ぬな。

すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね(以下略)

天皇陛下は戦いの現場に自らは出てこないよと、ここまで言うか、ということまで言っている。
 日露戦争で日本中が「頑張れ、負けるな」と言っている時に、こんな歌を発表するわけですから、よくぞ言ってくれたと思った人もいると思うけれども、 水差すようなことを言って何だ、という意見もあった。そっちの方が多い。 すごく非難されます。与謝野晶子は空気を読まない。そこが偉い。 だからこそ芸術家なのだと思います。世間から叩かれるのですが、それに対して彼女はこんな反論をしています。

 「少女と申すもの戦争嫌いにて候」「 当節のように死ねよ死ねよと申し候ことこの方かえって危険と申す者にも候はずや」

 お前の歌は危険だと言われるけれども、戦争を礼賛しているほうが危険ではないですか。

 「歌はまことの心を歌うもの」

 これが本質をずばりと突いている。心に思ったことをそのまま歌にしなかったならば、どこに芸術の価値があるだろうか。与謝野晶子は若い頃に『みだれ髪』という歌集で注目されます。これはあけすけに自分の恋愛感情を歌っています。今から100年前に、よくこんな歌を発表したなあというぐらいスキャンダラスな内容ですよ。まことの心を歌わなければ何の意味があるのかと、恋愛でもそうだったし、戦争でも同じ姿勢が貫かれている。ぶれることなくまことの心を歌っているから、この人は100年経っても未だに名前が衰えない。
 ちなみに、日露戦争に反対した有名な日本人が三人います。与謝野晶子、平民新聞を出していた幸徳秋水、キリスト者の内村鑑三です。日本史では重要な人々です。
 話がそれましたが、最終的には日本軍は旅順要塞を落とすことができました。155日間の戦闘で、日本兵13万人のうち5万9千人が死んだ戦いでした。
 旅順を陥落させた日本軍は奉天に向かいます。ここにロシア軍本隊がいる。1905年3月、奉天会戦です。日本兵25万、ロシア兵32万、両軍の死者16万人の激戦でした。この戦いでも日本軍は勝利し、ロシア軍は退却していったのですが、実はこの段階で日本軍にはロシア軍を追撃する余力は残っていませんでした。弾薬が底をついていたのです。のちに起きる第一次世界大戦は消耗戦として有名ですが、日露戦争はその「さきがけ」という面があります。奉天会戦24日間の戦闘で、2156万発の銃弾を使用した。戦争には武器弾薬が必要ですが、それを買うには資金が必要です。日露戦争では戦費を補うために増税されますが、それでは足りず、政府はイギリス、アメリカから借金をしつつ戦費を賄っていました。個別の戦闘には勝利を収めてはいましたが、日本は戦費の面で戦争の継続がだんだんと困難になっていました。
 1905年5月には日本海海戦があり、ここでも日本が勝利をおさめます。この海戦の経緯を話しておきます。旅順要塞陥落の前ですが、旅順のロシア艦隊を補強するために、ロシアはバルト海にあるロシア海軍の主力バルチック艦隊を極東に向かわせます。その途上で旅順が陥落したため、目的地をウラジオストクにかえます。日本にとって、この艦隊がウラジオストクに入港し、船を整備して日本海にでてくると、大陸と日本列島の連絡を絶たれる可能性があります。
 そこで日本海軍は、バルチック艦隊が長い航海で、船の整備が十分でなく、船員も疲弊し訓練不十分の段階で勝負をつけようと、ウラジオストクに向かうバルチック艦隊を待ち構えていました。バルチック艦隊が、どの航路でウラジオストクを目指すのかは不明だったのですが、一か八かで対馬沖で待ち構えていたところ、予測が当たった。ここで日本海軍は勝利を収めた。
 日本は、資金不足で困っていたと話しましたが、ロシアは戦争による国民生活の窮乏がきっかけとなって、首都ペテルブルクで民衆のデモがおきます。これに軍隊が発砲し1000人以上の死傷者が出る「血の日曜日事件」となった。
 この段階で、ロシアには憲法も国会もありません。皇帝の専制政治が続いていた。そして戦争による生活苦、そこに起きた「血の日曜日事件」がきっかけとなり、第一次ロシア革命がはじまりました。ロシアも戦争継続がむつかしい状況になっていた。
 ここで、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領が日露両国の仲裁に入ります。両国とも、異存はありません。こうして、アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれることになりました。
 ポーツマス条約の内容は以下の通り。1,日本は韓国に対する監督権を獲得。つまり、今後ロシアは韓国に対して何の権利も主張しない。韓国は日本に譲るということです。2,日本はロシアから南樺太を獲得。3,日本はロシアから遼東半島南部と東清鉄道南満州支線の権利を獲得。いわゆる満州鉄道です。遼東半島南部とは旅順、大連を含む部分です。
 ただし、この条約で日本はロシアから賠償金を取れませんでした。 
 この講和会議の日本の全権大使は小村寿太郎。彼がこの条約を結ぶため日本を発つときに、「俺は日本に帰ってきたら殺されるなあ」と言っていたそうです。なぜかというと、日本の新聞は「勝った、勝った。奉天会戦に勝った、日本海海戦に勝った」と書き続けています。だから日本人のほとんどは、日本の大勝利だからこの条約で賠償金をたくさん取ることができると信じていた。
 戦争中の日本は資金が足りなくなったでしょ。イギリスやアメリカから借金をしていたといったけれども、借金をする前に当然のように国民から増税をしている。国民は戦争だから仕方がない、負けては元も子もないと思って我慢しています。日本政府は、増税するけども戦争に勝ったら賠償金をたくさんとって、税を元に戻すだろう、だから今だけ我慢しようと国民は思っている。だからこそ日本国民は条約を結ぶ小村寿太郎に期待している。
 しかし小村寿太郎は、日本の金欠をロシアが見抜いているから、日本の思うように賠償金を取ることができないということは分かっている。だから帰ってきたら、賠償金取れなかったことを恨まれて、殺されることもあるかもしれないと覚悟していた。
 やはりこの条約で、日本は一銭もロシアから賠償金を取れていない。賠償金を取って、それでアメリカやイギリスへの借金を返すつもりだった。しかしそれはできない。だから日本はアメリカやイギリスの借金を返済するために、戦争が終わってからも減税することはできない。国民の怒りが爆発します。この条約の内容を知って、東京では暴動が起きています。この戦争は勝利したものの、何か中途半端な勝利でした。
 一方で、視野を広げて見ると、日露戦争はアジア人とヨーロッパ人との戦争という側面がありました。アジア人である日本が勝ったというのは、ものすごく大きな衝撃をアジア各地に与えました。植民地、あるいは半植民地化されている地域の人々にとって、アジア人がヨーロッパ人に勝てたという実例は、大きな勇気を与えたのです。この話はまた後でやります。

 2023年03月23日

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