世界史講義録 近代史編

 06 中国・変法運動、義和団事件

 中国は大きな国なので、たとえ半植民地化されていても、その動向は世界を左右します。現在の中国は、巨大な領土と人口を持つ上に、経済的にも軍事的にも非常に力をつけてきているので、ちょっとした動向が世界にすごく影響を与えます。この頃は経済的な地位は高くありませんが、やはりその動向は見逃せません。
 以前に日清戦争の話をしました。日清戦争で中国が日本のような小さい国に負けてしまったことで世界中が驚く。日本の強さに驚くというよりは中国の弱さに驚いた。その結果、列強は中国に勢力範囲を設定し租借地という名前の事実上の占領地を中国から獲得しました。こういう状態のことを半植民地といいます。政府はあるのだけれどもヨーロッパ列強にやられっぱなしです。
 さすがに中国の官僚・知識人達もこれではダメだと思う。日清戦争の後、知識人が何を考えたかというと、以前に話した朝鮮のキム・オッキュン(金玉均)と同じ。「日本はこんなに強くなっている、これを見習わなくてはだめだ、日本の明治維新のような改革を中国でもしなければいけない」と、こう考える人が出てくる。
 これが康有為、梁啓超などのグループです。中心メンバーは科挙の試験にちゃんと受かった高級官僚です。ただし若い。この若い人たちは日清戦争の敗北にすごくショックを受けて、日本に学ばなくてはならないと思う。そのための改革を訴えた。この人達の改革は過激な政治改革です。日本の明治維新は、幕府を壊して徹底的に日本という国を作り変えた。そのくらいのことをやらなくては駄目だということで、彼らは国のしくみ・制度を変えようと考えた。こういう主張および運動を変法運動という。
 変法の「法」は、制度・仕組みと考えてください。制度そのものを変える徹底的な改革を目指します。中国の最初の改革運動は洋務運動でしたね。ヨーロッパの科学技術がすごいことは誰でも分かるから、これを取り入れようと考えた。科学技術だけです。制度は取り入れない。制度は中国の方が優れているから、それは取り入れなくてもいいと考えた。これが洋務運動でした。中心人物は李鴻章。何回も出てきた人ですね。太平天国で活躍して、その後で中国政府の中で出世をする。洋務運動によって作り上げた北洋軍の司令官。日清戦争の最高司令官でした。李鴻章は自分がせっかく作り上げた北洋軍がボロボロになるのは嫌だから、ガチンコで日本と戦うことを避けて退却命令を出し、日清戦争で負けたという話もしました。要するに戦争で勝つか負けるかは軍事力の差ではない。中国も日本と同じくらいの軍事力はあった。しかし制度の違いが勝敗を分けた。中国の制度がダメなのでだから負けたのだ。だから日本の明治維新のような改革を中国でもするべきだね、と変法運動のグループは盛んに訴えました。
 変法運動の人々は皆若い。30代ぐらい。若いので北京の中央官庁で働くことはまずない。最初は地方の県知事や府知事をやって、徐々に実績をあげて北京に呼ばれ国政を動かす。 変法運動の人々はまだ若いので、みんな地方にいます。キム・オクキュンと同じですよ。国を動かしたい、改革をしたいと、うずうずしているのにその立場にはいない。だから同じような考えの仲間たちと一緒に結社を作って雑誌を発行したりして、自分たちの意見を訴え続けた。いつか皇帝の耳に自分たちの意見が届いたらいいなと思いながら。普通はこんな下っ端の官僚の意見は皇帝には届きません。
 ところが時代の波に乗って、彼らの声が皇帝の耳に届いた。この皇帝が光緒帝。この時は二十歳かな。すごく若い。もっと幼い時に即位していたのですが、子供時代は、この皇帝の前の前の皇帝の奥さんだった人、西太后という人が政治を仕切っていた。西太后という人は人々の気持ちを掴む手練手管にはものすごく優れていた。だから自分の夫の皇帝が死んだ後、事実上宮廷を仕切って政治を動かしていた。幼い光緒帝を皇帝に指名したのも西太后でした。
 やがて光緒帝が二十歳になる。そこでさすがの西太后も、「あなたは二十歳になったから、これからは好きにおやりなさい」 と実権を譲って政治から退きました。こうして親政を開始した光緒帝は、若いからやる気満々だし、発想が柔軟だから変法派の主張に共鳴した。歳をとると改革などやろうと思わないわけですよ。
光緒帝は康有為たちの主張を聞いてめちゃくちゃやる気になった。 そしてまだ若い康有為たちをいきなり総理大臣レベルの重職に抜擢した。みんな驚きます。こんな若い連中に、重要な仕事を任せてもいいのかと。
 しかし康有為たちは光緒帝の支持をバックに改革に着手しました。この改革運動を戊戌の変法といいます。今でいえば、例えば地方都市の市民課のなんとか課長みたいな人が、いきなり東京に呼ばれて総理大臣に任命されるようなものです。めちゃくちゃな大抜擢なわけです。だから周りのみんなが驚く。そんなキャリアでできるのか、君は経験あるのか、という感じです。しかし皇帝の命令だから、こんなやり方に反対な人も、従わざるを得ない。
 しかしやはり経験不足で頭でっかちなところがあったので、変法グループのアイデアは現実には実行できないことも多かったようです。それでも新たな法律案をどんどん作ってそれを実行に移そうとした。
 ところが問題は西太后でした。西太后は政治を光緒帝に任せて退いたはずなのに、やはりちょっと権力欲が残っている。しかも面白くない。何が面白くないかというと、あなたの自由にやりなさいといった途端に、光緒帝は今までのやり方を変えて改革を始めた。西太后からすれば否定されている感じですよね。 私のやり方が悪いのか、と感じたのではないか。西太后はもうだいぶ歳をとっていますし頭が古い。昔のやり方、自分の夫であった皇帝やその先代たち康煕帝、雍正帝、乾隆帝、嘉慶帝、がやっていたやり方が一番いいと考えている。それを変えるなんてとんでもないと思っているので、光緒帝が改革を進めるのはすごく気に食わなかった。教科書・資料集に写真がありますね。若い頃はすごく美人だったと思います。この人は、本当は皇帝になりたかったのではないかという話もある。しかし女なので皇帝にはなれない。だから皇帝たちを操る立場で政治を動かした。彼女は、自分の侍女や宦官、役人たちに自分のことを「おじい様」と呼ばせていました。男として皇帝になりたかったのかなとちょっと思います。こんな感じで西太后は改革に対して反感を持ちました。ここから先は私の勝手な推測ですが、光緒帝は筋を通したら、うまくいったのではないかという気がちょっとする。皇帝になっていきなり改革を始めるでしょう。そうではなくて、改革を始める前に、後宮にいる西太后のところに挨拶に行って、実は私はこんな改革をしようと思っているのですが、決して西太后様の顔を潰すつもりはありません、若いのでやってみたいのです、やらせてください、みたいに顔をたてていれば、「よしよし、やってみなされ」と言ってくれたかもしれない。何も話を通さずに改革を始めるのでカチンとくる。しかもやっている中身も気に食わない。そういうことで西太后は戊戌の変法に反感を持つ。
 同じように反感を持つベテランの官僚たちがたくさんいます。キャリアを重ねて出世してきたのにいきなり地位を追われて地方公務員の課長みたいなやつが大臣に抜擢されたら、それは面白くありません。なんだ、あいつらと思います。古い考えの官僚や軍人達の思いは西太后と同じです。西太后は宮廷の陰の実力者。光緒帝は皇帝といってもまだ二十歳の若輩者です。やはり西太后の方が政治界では重みがある。
 西太后と保守派の官僚・軍人たちが結託し、最終的には西太后の後押しを受けた軍人たち、中心は袁世凱という将軍、がクーデターをおこし、変法グループを捕らえ弾圧・処刑する事件が起きました。この事件を戊戌の政変という。戊戌の変法と名前が似ていますから、混同しないでくださいね。改革を行ったのが戊戌の変法、改革を潰したのが戊戌の政変です。
 変法運動のリーダーだった康有為や梁啓超は日本に亡命しました。逃げ遅れて捕らえられ処刑された彼らの仲間もいます。これで改革は失敗。改革を目指す可能性はこの事件で全て潰れました。これ以降清朝には改革のチャンスはなくなって、後は滅んでいくだけになりました。
 問題は光緒帝です。変法グループは皇帝の命令で改革に着手しただけで、改革のトップは光緒帝なのです。さすがに皇帝を処刑するわけにはいかないし、退位させるわけにもいかない。どうなったかというと、戊戌の政変後、西太后が再び権力を握り、光緒帝は皇帝のまま幽閉されます。死ぬまで幽閉。北京の宮殿は紫禁城という。昔この宮殿の横に大きな人工の湖があって、その真ん中に島が作ってあった。そこに牢獄が作られて光緒帝はそこに幽閉されました。西太后は自分が気に食わないと思った相手は、いじめていじめていじめぬく。朝、島の牢獄にいる光緒帝の元に朝ごはんが届けられる。半ば腐った食事です。光緒帝は食べられるとこだけ食べて残りは突き返す。昼ご飯の時になると、朝つき返した食事がそのまま届けられてくる。朝に比べて腐敗が進んでいますが、お腹が減っているので我慢してちょっと食べて、もういいと言って突き返します。もう分かるでしょ。夜には昼間に突き返したご飯がまた来るわけです。なんとか食べて返す。翌朝新たな食事が来るのですが、多分それは前の晩に西太后が食べた食べ残しなのじゃないかな。ヨーロッパの新聞に「世界で一番惨めな皇帝」と紹介されたくらい可哀想な人になった。
西太后の方が光緒帝よりも随分年上です。 四十歳ぐらいは上じゃないかな。普通に考えれば西太后が先に死ぬはずです。光緒帝を幽閉しているのは西太后だから、常識的に考えれば、西太后が死ねば皇帝は解放されて宮廷に戻ってきて、自らの政治を再開するはずでしょ。でも西太后は絶対に光緒帝に政治権力を握らせたくなかったようです。 西太后が老衰で死ぬ前日に、光緒帝は死んでいる。絶対に偶然ではない。死期が近づいてきたと悟った西太后が光緒帝に毒を盛らせたに違いありません。証拠はないけれど、そうとしか考えられません。光緒帝が亡くなりました、という連絡を受けたその日に、安心して、たぶんね、西太后は世を去るのです。
 光緒帝に子供はいません。そこで西太后は死ぬ直前に、次の皇帝を指名しました。指名されたのが皇帝一族の3歳くらいの幼児です。これが宣統帝溥儀。この人が清朝最後の皇帝。ということは秦の始皇帝が最初の皇帝になって以降2000年間ずっと続く皇帝の歴史の、最後の皇帝でもあります。。6歳ぐらいの時に辛亥革命で清朝が滅亡し、退位することになります。今からだいぶ前になりますが『ラストエンペラー』という映画がある。ベルトリッチ監督。宣統帝溥儀が主人公です。すごく面白いから一度見てみてください。西太后が亡くなる直前から映画は始まります。西太后が溥儀を次の皇帝に指名して、彼の家に八旗の将校(多分)が迎えに来る。紫禁城に連れてこられた溥儀が、死にかけている西太后の横をチョコチョコ走り回っているシーンもありました。日本の俳優もたくさん出ているので機会があったら見てみてください。宮廷のシーンを見るだけでも価値がある。
 また雑談ですけども、変法グループは本当に明治維新を目標にしていたようです。伊藤博文を北京に呼んでいます。どうやって改革をしたらいいかレクチャーを受けています。伊藤博文は光緒帝の前でも話をしています。何を話したかは分かりません。皇帝が日本の伊藤博文を呼んで話をしているというニュースが保守派の官僚たちの間に伝わる。すると「光緒帝が日本の伊藤博文を清朝の総理大臣にするらしい」という噂があっという間に広まったそうです。それは絶対ダメだと思ったのでしょうね、伊藤博文が宮廷に呼ばれた翌日にクーデターは起こっています。色々なことが絡んでいる事件でした。

 改革が潰れた後の事件です。
 1900年、義和団事件が起きます。中国の山東省はドイツの勢力範囲となっていました。ここで事件が始まります。ドイツの勢力範囲となっていた山東省にはドイツ人がたくさん来ます。そのなかには宣教師もいる。治外法権の特権を持つドイツ人宣教師のもとで、信者となった中国人信者たちがその庇護を受けながら悪さをする。相手をだまして土地を奪ったり、借金を返さなかったり、また法外な利息を取り立てたり、詐欺のようなことをたくさんやる。騙された人が騙した中国人信者に訴えを起こしたりしても、公正な裁判はおこなわれない。被害者等は泣き寝入りです。そういうことが山東省で起きていた。
 この時に現れたのは義和団です。山東省には少林寺拳法の流れを汲んでいる義和拳と呼ばれる拳法がありました。道場に集まって体を鍛えている。腕力自慢です。気持ちとしては正義の味方。ドイツ人の教会に通っている信者達に、一般の人々がひどい目にあって泣き寝入りしているという話を聞くと、義和団の人達は、悪を懲らしめる感覚で、中国人信者や教会を襲撃します。外国人の圧迫を苦々しく思っていた一般民衆は拍手喝采。義和拳を習いたい若者もどんどん増えて、義和団の勢力が大きくなる。こうなってくると義和団の活動はさらにスケールアップして、天津の港から北京に向かう鉄道を破壊する。北京に入って外国大使館街を包囲して、外国人に攻撃を加える。
  諸外国は清朝政府に対して義和団の取り締まりを要請します。清朝政府は当初はそれに応じているのですが、義和団のスローガンが「扶清滅洋」なのです。扶は助けるです。洋はヨーロッパ。清を助けて外国をやっつけよう、といっている。義和団は民衆反乱のようなものなのですが、中国2500年の歴史の中で、民衆反乱は常に政府に悪性に反対し、政府と戦うものだったのですが、それとは全く違う。義和団は政府を助けようと言っている。こんなことは今までない。清朝政府を仕切っている西太后は、すっかりうれしくなります。清の軍隊と義和団が同盟して外国軍と戦ったなら勝てる、と西太后は思った。そして清朝は諸外国に宣戦布告をしました。
 こうなると戦争です。諸外国は8カ国連合軍を結成して北京に攻め込んできました。教科書にも資料集にも写真があります。8カ国連合軍の兵士達が記念写真を撮っています。背の順に並ぶと日本兵はすごく小さいですね。各国はとりわけ背の高い兵士を集めたと思いますけれどもね。イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、そして日本。 この連合軍がやってきて義和団及び清朝と戦います。
 外国軍が来れば義和団は絶対に負けます。義和団員の写真が資料集についています。ドテラというか法被のような服を着ていますね。槍を持っている。こんな格好で近代的な軍隊に突っ込んでいくのですから勝つわけがない。義和拳を習得していれば弾丸にあたらないといわれていたといいますが、そんなはずはない。ボコボコにやられる。清軍も敗北して、中国は降伏します。
 こうして結ばれたのが1901年の北京議定書です。中身は巨額賠償金、外国軍の北京駐屯承認など。義和団は北京にまで攻め込んで外国人を襲っているので、諸外国の人達に結構な被害者が出ている。外国から見れば北京は中国の首都なのに、そこの大使館に住んでいる人が襲われて殺される。中国政府の治安維持は信用できない。だから北京に我が国の軍隊を置かせろと要求する。清朝はそれを認めざるを得ず、諸外国は自国の部隊を北京周辺に置くことを認められました。まさしく半植民地ですね。日本でいえば東京の周辺にロシア、韓国、中国などの基地が並んでいる感じです。

 2022年02月09日

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