時間切れ!倫理

 115 親鸞

 親鸞が開いた宗派は浄土真宗です。現在は西本願寺と東本願寺の二つに分かれていますが、合わせれば多分日本で一番信者の多い宗派です。親鸞が生きていた鎌倉時代にはそれほど信者は多くありませんでしたが、室町時代の中頃から戦国時代にかけて急激に信者が増えていきました。
 親鸞の書いた書物が『教行信証』です。『歎異抄』は有名ですが、これは親鸞の書いたものではなく弟子が親鸞の話をまとめたものです。歎異抄はコンパクトにまとまっていて読んみると非常に面白い。
 親鸞は法然の弟子だったのですが、越前に流刑になった後、法然の教えをさらに極限にまで突き詰めていきました。専修念仏で南無阿弥陀仏と唱えるところは法然と同じです。
 どこが違うか。法然の場合は南無阿弥陀仏と唱えることは修行なのです。しかし親鸞になると修行ですらない。「阿弥陀仏様、救ってくださってありがとうございます」と、ただ感謝しているだけです。法然はまだ修行の感じがあるのですが、親鸞の南無阿弥陀仏はただ単に「阿弥陀仏さま、ありがたや」とひたすらすがっているだけです。戦国時代にやってきたキリスト教の宣教師が、浄土真宗の教えを見て一神教ではないかと思ったくらいです。
 絶対他力とは、人間は完全に無力だという考え方です。自分で自分を救う力などない。修行をするというのは、自分で自分を救う努力です。親鸞は自分にはそんな力はないから、すがるしかないのだと考えます。そこが出発点です。南無阿弥陀仏と唱えることができるのも、自分の力だとは考えない。阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と唱えさせてくれている、と考える。そこまで徹底しています。徹底して自分を駄目なものだと考える。
 自然法爾(じねんほうに)とあります。自らのはからいを捨て、自分が何かできるという思いを完璧に捨てなければならない。その上ですべてを仏の慈悲にゆだねることです。
 ダメな自分だから阿弥陀仏にすがると、いうのが基本。だめじゃない人は、阿弥陀仏にすがらなくても自分で修行して、浄土の世界に行けるかもしれないけれども、自分はダメで自分で何とかすることができないのだからすがるしかないのだ。
 心の底から自分がダメだと思うからこそ、真に「助けてください」とすがることができる。これが悪人です。悪人というのは悪いことをするという人ではなく、自分では何もできない人のことです。くどいようですが、何もできないというのは、自分で自分を救うための修業ができないことです。v  心の底から阿弥陀仏にすがることができるのは、ダメな人間だけなのです。ダメな人間=悪人。だから悪人こそ、阿弥陀仏が救ってくれます、というのが悪人正機説です。悪いことをしている人こそ、何かのきっかけで心が入れ替わって良い人になって救われると考えてる人が多いですが、全然違う。
 引用を読んでおきます。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人でさえ浄土に生まれることができるのに、まして自分の弱さ・罪深さがわかっている者が浄土に生まれないわけがない)「…自力で善をなそうとする人は、ひとすじに他力によりたのむ心がないのだから、弥陀の本願のむねにそうものでない。それでも、自力の心をひるがえして、ひとえに他力をたのむにいたれば実の浄土に往生することを得るであろう」

 自分でなんとかできる人には阿弥陀仏はいらないと言っていますね。完全に頼りなさい、そうすれば往生できますと言っている。
 親鸞は、自分自身を徹底的にダメな人間だと思っています。性欲に勝てないと考える。煩悩を断ち切れない。そういう自分を受け入れます。髪の毛を伸ばします。たぶん僧侶で初めて髪の毛を伸ばした人物です。奥さんももらいます。子供も作ります。「お前なんか僧侶じゃないじゃないか」と言われたら、「そうです」と答えます。「僕は僧侶ではありません、ただのハゲです。」自分のことを愚禿(ぐとく)と言います。ただのバカなハゲですということです。彼はもう自分のことを僧侶とは思っていませんね。徹底的に悪人ですね。
 そんな親鸞にも弟子ができます。しかし「僕はただの馬鹿なハゲだから弟子なんかとりません」といいます。「あなたは弟子ではありません。私の仲間です。同朋です」と言います。自分の周りに集まって教えを乞う人は皆仲間。君たちは弟子なんかではないから。私はただのハゲだから。こういうわけで平等意識が強いです。日本の歴史上でも最もユニークな人物の一人だと思います。
 こんなエピソードがあります。ある信者が親鸞のもとに手紙を書きました。「懸命に南無阿弥陀仏と唱えても、ちっとも救われる気がしない。こんなことで救われるのか、と私の心の中は疑問でいっぱいです。こんな私で良いのでしょうか」という手紙です。
 親鸞の返事はすごい。君の気持ちはよくわかると書いている。私も信じられないと書いている。「私も南無阿弥陀仏と唱えて救われるかどうか信じられないんだ、疑問でいっぱいだ。」という。本当に自分もダメな人間なのだ、と。ところが、ここから理屈が反転して、こんな自分も阿弥陀仏は救ってくださるからありがたいのだ、となる。
 イエスの教えは、戒律を守れないような貧しい者、戒律を破らなければ生きていけないような者こそが、天国に行けるのだと、当時の常識を180度ひっくり返しました。親鸞の教えも、常識を180度ひっくり返して、聴く者の常識を揺さぶる力がある。それまで信じてきた価値観が揺らいだり、転倒したときに、人は深い信仰に入っていくのだろうと思います。

 2023年7月26日

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