時間切れ!倫理

 138 啓蒙思想 福沢諭吉2

 福沢は、青年期になると、学問で身を立てることにして蘭学の勉強をします。幕末期に蘭学・医学の塾として有名だったのが、大坂にあった緒方洪庵の適塾です。幕末モノのドラマなどを見ていると時々出てきます。少し前のテレビドラマの『仁』にもチラッと出てきました。適塾の建物は今でも大阪の北浜に残っています。行ったことがありますけれども、それほど大きな建物ではない、ちょっと大きな民家のような感じですか。  福沢諭吉は、頭も良く語学のセンスもあったので適塾の塾頭となります。オランダ語を覚えて出世の糸口をつかむつもりでした。
 やがてペリーがやってきて日本は開国し、日米修好通商条約で横浜などが開港されます。横浜には外国商人の店が並ぶようになる。福沢諭吉は自分の語学力を試すために横浜に行ってみた。横文字の看板が立ち並んでいるわけですが、その看板の文字を福沢諭吉は読めない。「なんでや!」諭吉ショックです。
 調べてみると、来ている外国商人の多くはイギリス商人なのです。英語なのです。諭吉が学んだ言語はオランダ語だから、英語は読めない。ここで福沢諭吉は気づいた。俺たちは蘭学こそがヨーロッパの学問と思っていたがそうではないのだ。オランダは既にヨーロッパでは二流国で、今ではイギリスがヨーロッパを仕切っているのだと。そこでスパッと頭を切り替えて英語の学習を始めます。
 もともと語学のセンスはあるしオランダ語と英語はかけ離れた離れた言語ではない。いち早く英語の重要性に気づいた福沢諭吉は、あっという間に日本で一番英語のできる人間になる。幕府に雇われてその翻訳の仕事もするようになる。
 1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するために幕府は初めて日本人だけで蒸気船を仕立ててアメリカに派遣します。咸臨丸です。勝海舟が船長となり、日本の全権大使が批准書を持って乗り込む。そこに福沢諭吉は通訳として同行しました。アメリカに行ったわけです。そこで様々な本を買い込みます。文明論や政治学の本、それからWebsterというアメリカで最も権威ある英語辞典を購入して帰る。これらがこの後の福沢諭吉の大きな財産となりました。
 アメリカでいかにも福沢諭吉らしいエピソードがあって、船がサンフランシスコに着くと乗組員たちは皆上陸してあちこちに行くわけですが、福沢諭吉は単独行動で街を散策します。街をぶらぶらしていたら写真館があったので、記念写真を撮ろうと思ってそこに入った。その写真館には10代後半ぐらいの娘がいた。皆さんぐらいの年齢かな。福沢諭吉はその娘さんに声をかけた。一緒に写真を撮ろうよ。彼女はOKした。
 こうして、諭吉と白人少女のツーショット写真が撮られました。有名な写真だからネットを検索したらすぐ出てくると思います。ちょんまげ姿の福沢諭吉の横に白人の娘さんが立っている。福沢諭吉は帰りの船で、他の日本人の乗組員にこの写真を見せびらかす。乗組員の中でこんな写真を撮ってる奴はいない。大騒ぎになります。日本人男性でアメリカ人女性とツーショットの写真を撮った第1号だと思います。この写真一枚を見るだけで、彼のある種の「やんちゃぶり」、いかに同時代の日本人の感性から自立して自由だったかが、感じ取れるような気がします。この後、福沢諭吉は欧米の啓蒙思想を日本に紹介して活躍するわけですが、この人だからこそ誰よりも啓蒙思想を自分自身のものとして内面化して、いきいきと紹介できたのだろうと思います。

 2024年2月20日

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